表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

第1話 落命

 

 悪とは常に平凡で、人間的なものだ。

 我々と寝床を共にし、我々と共に食事をとっている。

     ――――ウェスタン・ヒュー・オーディン


 魂の地獄。それは良心に苛まれ続けること。

     ――――ジャン・カルヴァン



 そもそも『刑事収容施設及び被収容者等の電子的処遇に関わる特別措置法』なる長たらしい正式名称の法律が制定されたのは、あの頃の日本がどうしようもない程のストレス社会だった上に、極端な労働人口の不足に悩まされていたからだと聞いている。

 略称『収電特措法』と呼ばれる、この法律の実態を理解している一般人は、恐らくいないだろうし、私もそうした一人だった。

 何故、そんな法案が提出されたのか、それがどんな内容であるかも、知らなかったし、興味もなかった。

 自分自身に適用される事になるまでは……。


 私は有名国立大学とは云えぬまでも、その系統だった研究方針とあまたの有名諸先輩を輩出した事で知られる私立大学の生物学教授だった。私の専門分野は昆虫類であり、近年、温暖化調査の指標の一つとして昆虫生態学が持て囃されてからは、それに絡めた数冊の専門書や入門書を出版しており、それを切っ掛けとしてファミリー向け動物番組の解説役やニュース番組のコメンテーターなどもこなしていた事から、学会にも一般にも、それなりに知られた存在だ。

 元々、一年の三分の一は海外で昆虫の生態や分布調査に出掛ける身であり、日本にいる間は論文執筆と研究員への指導に学生への講義と忙しい日々を送っていたのだが、それに加えてTV出演の機会が増えたのだ。

 自然、私は昼夜を問わず仕事に追われ、家に帰る機会は激減していった。当然、家族との距離は離れる。だが、幸いにも私の伴侶も、そして息子も、そんな私を理解してくれていたし、許してくれてもいた。眠る間もない程に忙しく動き回り、家庭を疎かにする私を、家族はいつも優しく微笑んで、待っていてくれた。その微笑みをもっと見たくて、たまの休みには疲れた身体が悲鳴を上げるのをねじ伏せて家族サービスに命を燃やす事も出来た。

 しかし、そんな愛する家族の無邪気な微笑みを、私は次第に重みと感じ、疎ましくなっていったようだ。

 そのことに、家族は気付いていたらしい。

 同僚も、部下の研究員や学生達も、そして上司も――――。

 だが、彼らはどうする事も出来ず、見て見ぬふり、気付かぬふりを続けるしか無かったのだろう。彼らを傷つけてしまったこと、それへの悔恨はつきない。

 恒常的なストレスが、胃や十二指腸だけでなく、精神を蝕み始めた時、私は徐々に壊れていった。そして私が壊れるのと比例して、私の中に別人格が生まれ落ち、醜悪なる成長を続け、それに伴い、私の存在は薄れていった。


 収電特措法――――。

 私が、その法律の適用者である事を知ったのは、無機質な法廷において判事が主文を読み上げている時だった。伸び放題の髪、近付く事も憚られる様な汗と汚物の入り混じった饐えた体臭、既に二週間以上も着っ放しの薄汚れた拘束着……。

 速記官の走らせるペンと記録紙が奏でる軽やかな擦過音だけが奇妙に大きく聞える。私は、ぼんやりと判事の言葉を聞き続けた。淡々とした口調で判決文を読み上げる、誠実そうな初老の判事の顔には、その時「またか……」という表情がありありと浮かんでいた。

 私には何故、判事がそんな顔をするのか分らなかった。


 「人間には魂がある」

 法的には、これを人格、というらしい。

 人格の定義がはっきりしてくるとともに、個々の人格にも人権がある、という議論が盛んになされ、その理論は次第に一般化し、社会一般のコンセンサスとして成立していったのは、いつの事だっただろう。

 そして私が適用されることになった『収電特措法』というのは簡単に言えば、この社会的コンセンサスに基づいて肉体から、この人格を取り出す事なのだ。肉体から人格を取り出し、電気信号としてそれを保管する技術が生まれて、既に十年以上が経っている。

 昔、私がまだまともだった頃、新聞に「ノーベル賞級の発明」と激賞されていたのを微かに覚えている。

 私は、私の別人格が犯した罪を償う必要はない。人格それぞれに人権がある、という理論からだ。

 私の別人格が、私の肉体を使って犯した罪、考えるだけでもおぞましい。だが、私に罪は無い。

 『収電特措法』によって、私の肉体から凶暴な別人格を取り除けば、それで全てが終わる。犯罪者を収監し、無為に過ごさせるよりも、早期に社会復帰させ、貴重な労働力の減少を少しでも補完する事を目的とした『収電特措法』により、別人格を駆逐した私は晴れて釈放される事になるだろう。

 無論、仕事は無いし、収入も途絶えたが、この国は総じて極端な人口減少がもたらした労働者不足によって深刻な状況だったし、学会でも世間的にも知られた研究者である私ならば、さほど就職先に困る事などないだろうし、危険人格を取り除いた私を、全くもって「安全な」人物として、社会は喜んで受け入れてくれる筈だ。

 それに、慌てて就職先を探す必要もないと聞いている。罪のない私に対して不当な拘束を行い、苦痛を与えた警察や検察に対する損害賠償を請求すれば、当面の生活費には困らないだろうと、担当の国選弁護人がそっと教えてくれたからだ。

 家に帰りたい――――。

私は心の底から、そう思い、願った。もう、そこには生涯の伴侶も、最愛の息子も既にいないが、二人との幸せな想い出は残っている。

 壁と床、一面の血痕となって……。


 判決から1週間が過ぎた頃、天井も壁も白一面の部屋で、私は「装置」に横たわる。間もなく、私の身体は、私だけのものとなる。別人格が必死に抵抗しようとしているのを、胸の奥で微かに感じる。

 憎んでも憎み切れない、私の中の私ではないモノ。

 私から、家族や、尊敬すべき上司も、愛する部下も、笑いあえる仲間も全て奪い、彼らや彼女の人生を、そして私の人生を狂わせた別人格。

 お前とも、今日でお別れだ。微かに笑いが込み上げてくる。名も知らない、話した事もない君。

 さようなら。


 白衣姿にマスクを着用した担当医師らしき女性を筆頭に、数名の看護士や技術者が予備検査結果の記されたファイルを手にしながら、装置の設定を行っている。実に手慣れて事務的なプロを感じさせる動きだ。

 私から取り除かれた別人格は、この先、どうなるのだろうか? 電気信号として保管される事は知っている。だが、電気信号とはどういう意味なのだろう? 専門外の私には今ひとつ、ピンとこない。

 そんな考えが不安気な表情となって顔に出ていたのだろうか。豊かな黒髪が魅力的な女性医師がニッコリと微笑み、問い掛けてくる。

 「心配いりませんよ、佐藤さん」

 「ああ、いえ……」

 そう答えたものの、私は装置を設定するまで、まだ大分、時間がありそうに見えたので、機器操作を行う女性医師の手を止める事を憚りつつも、聞いてみたいと思った。

 「先生、あの……取り除かれた人格は、どうなるのでしょうか?」

 「佐藤さんは、お優しい方なんですね」

 どうやら、女性医師は勘違いしたらしい。私は別人格を憎みこそすれ、その行く末を案じている訳ではない。だが、誰から見ても魅力的に見える妙齢の女性医師――マスクをしていても、そのハッキリとした目鼻立ちからかなりの美人と思われる――に優しいと言われて、正直、悪い気はしない。私は、すこしだけ微笑む。

 「これ、本当は内緒なんですけどね……まぁ、佐藤さんには、あらかじめ教えておきます。取り出された人格は、オンラインゲームのキャラクターに払い下げられるんですよ」

 「キャラクター? ゲーム?」

 彼女の言葉に少しだけ、引っ掛かるものを感じつつ、私は問い返す。

 「ええ。本当は、収容所のコンピュータに保存されて、半永久的にハードディスクの中で無期禁固刑に服する……っていう事になっているんですが、戻れる肉体がある訳ではないでしょう? だから、こっそりオンラインゲームにデータ化して払い下げるんです。結構、いい値段で売れるんですよ。人工知能と違って、プレイヤーの予想外の動きをするらしくて」

 「それって適法なんですか?」

 女性医師は答えない。

 「非合法……なんですね?」

 繰り返し問い掛けてみたが、女性医師は微笑んだまま、何も答えようとしない。面白い話を聞いた……私はただ単に、そう思った。

 「そろそろ、始めて宜しいですか?」

 女性医師は装置を操作する手を止め、私に問い掛ける。

 「……はい、お願いします」

 私は、瞼を閉じる。闇に閉ざされつつも、女性医師が顔を近付いてくるのを、空気の動きから感じる。微かに彼女の身体から白檀の香りが流れてくることに気が付く。

 細く柔らかな彼女の手によって、酸素マスクが軽く押し当てられた途端、急激に麻酔が効き始めたらしく、激しい睡魔が私を別世界へと誘い始める。

 「佐藤さん、私のフィアンセ、山田君なんですよ」

 私に小声でそう告げる彼女の声は、うっとりとした幸せを噛みしめている様な、甘い響きがある。

 「山田……くん?」

 「そうです、佐藤さんの研究室でお世話になっていた山田高志君なんです」

 「……え? そう……なんで…すか」

 深い眠りに落ちていくのを感じながら、私は驚きを禁じ得ない。

 「……山田君、死んじゃった」

 彼女はマスクを外したらしく、その声が先程よりもハッキリと私の耳に届き、頬を撫でる吐息が心地よい。

 「佐藤さんに殺されちゃった……」

 驚き。

 戸惑い。

 迷い。

 一言、詫びたい。

 そう思うが、もはや唇は動かず、瞼すら開けられない。

 「さようなら、佐藤さん。あなたの別人格、私が殺してあげる。私が、この手で、あなたが山田君にした様に……」

 狂気に彩られた艶やかなその言葉と同時に、私の中で急速に別人格の比重が増していくのを感じる。

 入れ替わる時の、あの、感覚……。逆に私は、私自身はどこか別な場所へと吸い上げられていく様な感覚――――それは、いつもと違う感覚であり、経験した事の無い感覚でもあった。

 私は悟った。さっき、彼女が「あらかじめ」といった理由を。

 私の肉体――――別人格に支配された私の肉体は、復讐の権利を行使する彼女の手によって、今から切り刻まれ、単なる肉塊へと変貌するのだ。

 いったい、どんな残忍な殺され方をするのだろう? 

 血まみれの私の心臓を彼女が掴みだし、高笑いするのだろうか? その時、彼女は私の心臓に熱い口づけをしてくれるのだろうか? 私が、私の別人格が、山田君にしてあげた様に……。

 電気信号へと変化を遂げつつある私にはもう、それを止める事は出来ない。止める気もない。

 むしろ、愉快だ。

 この上もなく、愉快だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ