後編
五日目の朝、俺は自分の寝室で目を覚ました。
昨日の夜会で使ったオルゴールの音が、まだ耳の奥に残っている気がした。
扉越しの夜会。
白い花。
シャルロットの声。
『明日はね、あなたに、私を怒らせてもらうわ』
目を閉じても、その言葉だけが消えなかった。
怒らせる。
普通なら絶対に避けるべきことだ。
この館でシャルロットの機嫌を損ねることは、死に近づくことと同じだった。けれど、今日はその逆をしなければならない。
俺は洗面台の前に立ち、顔を洗った。
頬の傷はまだ赤い。初日に彼女を「お前」と呼んだだけでつけられた傷だ。
あれから四日。
俺は、まだ生きている。
それが幸運なのか、シャルロットの気まぐれなのか、自分でも分からなかった。
食堂へ行くと、朝食はいつも通り用意されていた。
パン。スープ。卵。果物。
きちんと温かい。
ここが殺人ゲームの舞台でなければ、ありがたいと思えただろう。
俺は食べながら、昨日までの課題を思い返した。
朝食は、シャルロットの思い出を探した。
遊びは、本気で勝負した。
花は、安直な豪華さではなく、彼女の意地を選んだ。
夜会は、シャルロットを中心にした。
どれも、ただ喜ばせるだけでは駄目だった。
シャルロットは褒められたい。
でも、嘘の称賛は嫌う。
勝ちたい。
でも、手加減された勝利には価値を感じない。
わがままで、残酷で、幼い。
けれど、空っぽの言葉にはひどく敏感だった。
なら、今日の課題も同じだ。
怒らせればいいだけじゃない。
ただ悪口を言えば、一回目のミスになる。
的外れな挑発でも同じだ。
シャルロットが納得する怒り。
彼女が本気で腹を立てて、それでも「これは課題として成立している」と認める怒らせ方。
考えれば考えるほど、胃が重くなった。
昼前、鈴が鳴った。
『悠真』
天井から声が落ちてくる。
『準備できた?』
「……はい」
『嘘ね。声が怖がってる』
小さく笑う気配。
『でも、いいわ。怖がりながらでも来なさい』
俺は食器を片づけ、シャルロットの部屋へ向かった。
扉の前には、昨日の夜会で使った小さな丸テーブルがまだ残っていた。白い花は片づけられ、代わりにルナリアの鉢が扉の横に置かれている。
花は、今日も咲いていた。
俺は水をやったあと、扉の前に立った。
「おはようございます、シャルロットお嬢様」
『おはよう。今日の課題、覚えているわね?』
「お嬢様を怒らせることです」
『正確には、私が納得する怒らせ方をすること』
受け渡し口が少しだけ開く。
向こう側の暗闇から、シャルロットの声がした。
『つまらなかったらミス。逃げたらミス。私をただ傷つけるだけでもミス。もちろん、怒らせられなかったら失敗』
「難しすぎませんか」
『難しい私のお世話係なんでしょう?』
その言い方は、少し楽しそうだった。
俺は息を吸った。
最初から核心を突く勇気はなかった。
だから、まずは試した。
「お嬢様は、わがままです」
沈黙。
『それで?』
「自分勝手で、人の命を軽く見ている」
『うん』
「負けず嫌いで、すぐ怒る」
『知ってる』
シャルロットは退屈そうだった。
『続きは?』
俺は言葉に詰まった。
『まさか、それで怒ると思ったの?』
鈴の音がした。
ちりん。
『一回目』
背後で壁が開いた。
反射的に振り向くと、廊下の奥から陶器の人形が一体、こちらへ滑ってきていた。
人形は少女の形をしていた。白いドレスを着て、笑っている。
その手には、小さな鋏が握られていた。
俺は横へ飛んだ。
鋏がさっきまで俺の首があった場所を通り過ぎる。人形は壁にぶつかって砕けたが、破片の中から細い針が何本も飛び出した。
一本が腕に刺さる。
鋭い痛みが走った。
『誰にでも言える悪口なんて、つまらないわ』
シャルロットの声は冷たい。
『私を怒らせたいなら、ちゃんと私を見なさい。それはお仕置きよ』
腕から針を抜きながら、俺は歯を食いしばった。
一回目は使った。
もう外せない。
俺は扉の前に戻った。
逃げるな。
シャルロットは逃げたらミスだと言った。
痛みで手が震える。
それでも、俺は真正面を向いた。
「お嬢様」
『なあに?』
「お嬢様は、勝負が好きなんじゃありません」
空気が変わった。
扉の向こうで、椅子が微かに軋む。
「勝つことが好きなわけでもありません」
『……へえ』
声が細くなる。
『じゃあ、私は何が好きなの?』
「負けない場所にいることです」
言った瞬間、廊下の燭台の火が揺れた。
「お嬢様は、相手に本気を求めます。手加減されると怒る。嘘の褒め言葉も嫌う。だから、本気の勝負が好きなんだと思いました」
『違うの?』
「違います」
自分でも、命知らずなことを言っていると思った。
けれど止まれなかった。
「本気の勝負が好きなら、お嬢様も同じだけ危険を負うはずです。でも、お嬢様はいつも部屋の中にいる。こちらは殺されるかもしれないのに、お嬢様は傷つかない安全な場所から課題を出している」
『……』
俺は続けた。
「お嬢様は負けず嫌いじゃない。負けるのが怖いだけです」
次の瞬間、受け渡し口から何かが飛び出した。
銀のナイフ。
俺は避けきれなかった。
左肩を掠め、布が裂ける。遅れて血が滲んだ。
『今の発言を、二度目の失礼としても扱っていいのよ』
シャルロットが言った。
声は震えていた。
怒りだ。
『そうすれば、あなたはここで終わり』
「なら、お嬢様の負けです」
『なんですって?』
「怒らせる課題なのに、怒ったから殺すなら、お嬢様は課題を守れなかったことになります」
俺は肩を押さえたまま続けた。
「お嬢様は、自分が決めたルールには厳しい。だから、今すぐ俺を殺したくても殺せない」
『……』
「それが悔しいんでしょう」
『……』
扉の奥で、何かが割れる音がした。
高い音。
グラスか、皿か。
シャルロットが何かを投げたのかもしれない。
俺は動かなかった。
逃げたらミス。
謝っても、たぶん駄目だ。
ここまで来たら、最後まで向き合うしかない。
「お嬢様は難しいです。わがままです。怖いです。でも、それ以上に、負けた自分を誰にも見せたくない人です」
長い沈黙が落ちた。
俺の呼吸だけが廊下に残る。
やがて、シャルロットが笑った。
低く、短く。
『……最悪』
声は怒っていた。
でも、その奥にかすかな満足があった。
『本当に最悪。今までで一番腹が立ったわ』
「課題は」
『合格』
俺はその場に膝をつきそうになった。
『五日目、クリア』
シャルロットはまだ怒っていた。
だからこそ、声には妙な熱があった。
『悠真』
「はい」
『あなた、私のことをかわいそうだと思った?』
危ない質問だった。
俺は少し考えてから答えた。
「思いかけました」
扉の向こうが静かになる。
「でも、やめました。お嬢様は、かわいそうと言われるのが嫌いなので」
『そう』
「それに、かわいそうな人は、ここまで面倒くさい課題を出しません」
数秒後、シャルロットが小さく吹き出した。
『本当に失礼ね』
「申し訳ありません」
『謝らなくていいわ。今のは少し面白かった』
受け渡し口が開き、小さな布が出てきた。
包帯だった。
『それで肩を押さえなさい。血で廊下を汚されたら困るもの』
「ありがとうございます」
『嬉しそうに言わなくていいわ。今は腹が立っているから』
俺は包帯を受け取った。
*
六日目の課題は、朝ではなく昼に告げられた。
それまでシャルロットは、一度も声をかけてこなかった。
俺はルナリアに水をやり、肩の包帯を替え、書斎で古い本を眺めていた。
館のことをもっと知りたかった。
だが、核心に触れるものはほとんどない。
ローゼンベルク家の歴史。古い招待状。絵画の目録。温室の管理記録。夜会の献立。
シャルロット自身のことは、断片しか残っていなかった。
ピアノの賞状。
チェス大会の銀のカップ。
絵画コンクールの記念写真。
どれも勝利の記録ばかりだ。
しかし、その写真の中のシャルロットは、必ず一人だった。
周りには大人がいる。
使用人がいる。
教師がいる。
けれど、隣で笑っている同年代の子供はいない。
俺はアルバムを閉じた。
昼過ぎ、鈴が鳴る。
『悠真』
「はい」
『昨日はよくも言ってくれたわね』
「……申し訳ありません」
『謝らないで。腹が立つから』
理不尽だ。
でも、いつものことだった。
『六日目の課題よ』
俺は身構えた。
『私に負けを認めさせなさい』
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「お嬢様に、負けを」
『そう。私が自分で負けたと言えばクリア』
「勝負の内容は」
『あなたが決めていいわ』
それは自由に見えて、ひどく危険な条件だった。
チェスで勝てるとは思えない。
料理で競っても意味がない。
花の知識でも、音楽でも、シャルロットは何かしら理由をつけて勝つだろう。
なにより、彼女が自分から負けを認める姿が想像できなかった。
『制限時間は今日の夜十二時』
「一回目のミスは」
『もちろんあるわ。でも、変な勝負を提案したらその時点で一回目にするから』
受け渡し口の向こうで、彼女が笑う。
『楽しみにしているわ、悠真。昨日のお返しよ』
俺は廊下に立ち尽くした。
昨日、俺はシャルロットの弱いところに触れた。
その報復としては、あまりにも彼女らしい課題だった。
負けを認めさせる。
シャルロットにとって、それは殺されるより嫌なことかもしれない。
夕方まで、俺は館の中を歩き回った。
勝てそうな勝負を探した。
チェスは駄目だ。
カードも駄目。
ピアノも絵も、そもそも俺ができない。
腕力勝負は成立しない。シャルロットは部屋から出ない。
知識勝負も危ない。シャルロットのことだから教養もあるのだろう。
結局、どんな勝負を選んでも、彼女は勝ちに来る。
そして、負けそうになったら怒る。
それでも認めさせなければならない。
夕食の時間になっても、答えは出なかった。
食堂には、いつも通り料理があった。
だが、ほとんど喉を通らない。
俺は水だけ飲み、ルナリアの鉢を見に行った。
花は、扉の横で静かに咲いている。
白い花弁に、廊下の灯りが薄く乗っていた。
シャルロットはあれから何も言わない。
花が咲いているかも聞いてこない。
俺は膝をついて、土に触れた。
まだ湿っている。
水は足りている。
そのとき、思いついた。
勝負の内容。
シャルロットが一番負けそうなもの。
俺は扉の前に立った。
「お嬢様」
『決まった?』
「はい」
『言ってみなさい』
「我慢比べです」
沈黙。
『何を我慢するの?』
「俺に声をかけることです」
扉の向こうで、シャルロットが動いた気配がした。
「今から夜十二時まで、お嬢様が俺に声をかけなければ、お嬢様の勝ちです。俺が先に話しかけたら、俺の負け。」
『……どちらも声をかけなかったら?』
「俺の負けです」
『馬鹿なの?』
「かもしれません」
『私に有利すぎるわ』
「だからこそ、受けていただけると思いました」
シャルロットは黙った。
彼女は負けず嫌いだ。
そして、負けず嫌いが故に自分に有利な勝負を断れない。
だが、有利すぎるからこそ、彼女は疑っている。
『あなた、何を狙っているの?』
「それも含めて勝負です」
『本当に腹が立つわね』
少しの沈黙のあと、シャルロットは言った。
『いいわ。受けてあげる』
俺は息を整えた。
『今から開始。夜十二時まで。先に相手へ声をかけた方が負け、勝負がつかなかった時もあなたの負け。』
そこまで言って、シャルロットは楽しそうに付け加えた。
『私ばかり有利なのも癪ね。あなたが痛がって声を出しても、私に話しかけたのでなければ負けにはしないであげる』
その言葉で、嫌な予感がした。
それはすぐに当たった。
廊下の燭台の火が消える。
暗闇の中で、天井から水が落ちてきた。
冷たい水。
頭から肩まで濡れる。
傷口が痛んだ。
俺は声を出しそうになり、歯を食いしばった。
扉の向こうから、シャルロットの笑いをこらえる気配がした。
それでも、声はかけてこない。
勝負は始まっている。
俺は扉の前に座った。
時間は、なかなか進まなかった。
八時。
廊下の奥で、誰かの足音がした。
もちろん、誰もいない。
この館では、そういうことが起こる。
足音は俺の背後で止まり、耳元で息を吹きかけた。
振り向かなかった。
九時。
受け渡し口から、焼き菓子の匂いが漏れてきた。
腹が鳴る。
シャルロットは何も言わずに焼き菓子を齧る。
十時。
壁の肖像画が一斉にこちらを向いた気がした。
視線だけが、肌に貼りつく。
俺は膝の上で拳を握り、黙り続けた。
十一時。
寒さで体が震え始めた。
濡れた服が肌に張りつき、肩の傷が熱を持っている。
黙っているだけで彼女は勝てる。
比べて俺は時間が近づくに連れて焦りが出てくる。
俺の狙いが間違っていたのかもしれない。
不安が込み上げる。
十一時四十分。
ふいに、扉の向こうで椅子が鳴った。
俺は顔を上げた。
声はしない。
十一時五十分。
ルナリアの花弁が、少し揺れた。
廊下に風はない。
ただ、鉢の土が乾いているように見えた。
水は夕方にやった。
足りているはずだ。
でも、シャルロットからは見えない。
彼女には、足りているか分からない。
十一時五十五分。
扉の向こうで、何かを爪で叩く音がした。
こつ。
こつ。
こつ。
苛立っている。
あと五分。
俺は黙っていた。
十一時五十八分。
シャルロットが、小さく息を吸う音がした。
そして。
『……花』
声がした。
『ルナリア、まだ咲いてる?』
俺は時計を見た。
十二時まで、二分あった。
勝負は決まった。
だが、すぐには答えられなかった。
シャルロットの声が、あまりにも不安そうだったからだ。
命令でも、挑発でもない。
ただ、知りたい声だった。
俺はゆっくり立ち上がった。
「咲いています」
扉の向こうが静かになる。
「お嬢様の負けです」
長い沈黙。
その間に、十二時の鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
全部で十二回鳴り終わるまで、シャルロットは何も言わなかった。
そして最後に、苦しそうな声で言った。
『……負け』
俺は息を吐いた。
『私の負けよ』
その声は、小さかった。
『六日目、クリア』
俺は壁にもたれた。
寒さと緊張で、足に力が入らない。
受け渡し口が開き、乾いたタオルが出てきた。
『使いなさい』
「ありがとうございます」
『嬉しそうにしないで。負けた直後なのよ』
「すみません」
『謝らないで。それも腹が立つ』
少しだけ、いつもの調子が戻っていた。
でも、声の底にはまだ悔しさが残っている。
『悠真』
「はい」
『あなた、嫌な勝負を選ぶわね。』
「お嬢様に勝てるものを考えました」
『私が花に水をやらないことを気にすると思ったの?』
「思いました」
『どうして』
「お嬢様は、あの花が枯れるのを嫌がっているので」
シャルロットは黙った。
「それは、お嬢様が弱いという意味ではありません」
『じゃあ、何?』
「大切なものを気にしてしまうのは、弱さではないと思います」
扉の向こうで、シャルロットが息を呑む。
俺は言い過ぎたかと思った。
けれど、鈴は鳴らなかった。
『……明日で最後』
シャルロットが言った。
『七日目の課題をクリアしたら、あなたの勝ち。七日間生き残ったことになるわ』
「外へ出られるんですか」
『さあ』
シャルロットはいつものように笑った。
『それも明日次第ね』
*
七日目。
朝から館は静かだった。
静かすぎるほどだった。
燭台の火も揺れない。廊下の床も軋まない。肖像画の目も、今日はただ絵のままだ。
俺はルナリアに水をやった。
花はまだ咲いている。
七日前、俺はこの館で目を覚ました。
知らない部屋。
知らないルール。
知らないお嬢様。
あのときは、ただ逃げることだけを考えていた。
今も逃げたい。
それは変わらない。
けれど、シャルロットの声を聞く前に帰れたとしても、どこかで振り返ってしまう気がした。
そんな自分が怖かった。
昼になっても、課題は出ない。
夕方になっても、鈴は鳴らない。
こちらから声をかけるべきか迷ったが、勝手な行動がミスになる可能性があった。
俺は食堂でほとんど味のしない夕食を取り、日が落ちるのを待った。
夜八時。
ようやく鈴が鳴った。
『悠真』
「はい」
『最後の課題よ』
俺はシャルロットの部屋の前に立った。
受け渡し口は閉じている。
扉の向こうには、彼女がいる。
『私を自由にして』
その言葉は、思ったより静かだった。
「自由に」
『そう』
「部屋から出す、という意味ですか」
『それを考えるのがあなたの仕事』
シャルロットの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、かえって怖い。
『制限時間は夜十二時。ミスは一回まで。二回目は、もちろん処分』
俺は拳を握った。
「分かりました」
『悠真』
「はい」
『最後だからって、つまらない答えを出したら怒るわよ』
受け渡し口の奥で、彼女が笑う。
『私は難しいお嬢様なんだから』
通話のような声が切れた。
残り四時間。
俺はまず、物理的に扉を調べた。
取っ手はない。
鍵穴もない。
蝶番も見えない。
壁と一体化しているような扉だった。
道具室から金槌や釘抜きを持ってくる。継ぎ目に刃を差し込もうとするが、わずかな隙間もない。
扉を叩く。
重い音が返ってくる。
中にシャルロットがいるはずなのに、まるで棺の蓋を叩いているようだった。
「お嬢様。扉を壊します」
そう言った瞬間、鈴が鳴った。
『一回目』
床が傾いた。
体が横へ流される。
俺は壁に手をつき、ぎりぎりで踏みとどまった。足元の絨毯が裂け、その下に黒い穴が開いている。
『私を外へ出すことが自由だと思ったの?』
俺は答えられなかった。
『あなたも、他の人と同じね』
その言葉が、胸に刺さった。
『次で最後よ』
床が元に戻る。
俺は息を荒くしながら、道具を置いた。
物理的に出すのは違う。
予想はしていた。
それでも試したのは、どこかで単純な答えに縋りたかったからだ。
残り三時間。
俺は館を歩いた。
書斎。
音楽室。
温室。
大広間。
この七日間で使った場所を、もう一度回る。
朝食の写真。
チェス盤。
ルナリア。
夜会のオルゴール。
怒らせるために吐いた言葉。
負けを認めさせた沈黙。
全部が、シャルロットにつながっている。
彼女は部屋から出ない。
だが、館のすべてが彼女のために存在している。
食事も、寝室も、罠も、花も、音楽も。
ここではシャルロットが中心だ。
シャルロットはお嬢様で、俺はお世話係。
その役割がある限り、ゲームは続く。
俺は立ち止まった。
自由。
シャルロットを自由にする。
それは、扉を開けることではない。
俺の中に、一つの考えが浮かんだ。
でもそんな答えを、シャルロットが納得するだろうか。
分からない。
けれど、それ以外に思いつかなかった。
俺は準備を始めた。
豪華なものは使わなかった。
食堂から、白い皿を一枚。
厨房から、焼いただけのパンと、温めただけのスープ。
書斎から、何も書かれていない紙。
音楽室から、音の鳴らない壊れたオルゴール。
最後に、俺は自分の寝室へ戻った。
用意されていた服ではなく、ここへ来た日に着ていた服を探す。
クローゼットの奥に畳まれていた。
少し皺がついている。
バイト帰りの、何の特別さもない服。
俺はそれに着替えた。
鏡を見る。
お世話係ではなく、ただの佐伯悠真がいた。
夜十一時四十分。
俺はシャルロットの部屋の前に戻った。
扉の横で、ルナリアが咲いている。
俺は小さな丸テーブルを置き、皿とスープとパンを並べた。
壊れたオルゴールを置く。
白紙を置く。
椅子は、置かなかった。
『準備できた?』
シャルロットの声がした。
「はい」
『それが、私を自由にする答え?』
「はい」
『ずいぶん貧相ね』
「お嬢様のための夜会ではありませんから」
空気が止まった。
『……どういう意味?』
ここから先は、失敗できない。
「今日は、お嬢様のお世話をしません」
沈黙。
『課題を放棄するの?』
「違います」
俺は受け渡し口の前に立った。
「シャルロットお嬢様」
『なあに?』
「あなたはずっと、お嬢様として扱われてきたんだと思います」
返事はない。
「綺麗で、賢くて、優雅で、誰よりも優れていなければならない。そういうものとして見られてきた」
『……それの何が悪いの』
「悪いとは言いません」
「俺は、お嬢様を自由にするために、お世話係をやめます」
シャルロットの声が低くなる。
『あなた、自分の立場を分かっている?』
「分かっています」
『私はあなたを殺せるのよ』
「はい」
受け渡し口が開いた。
中の暗闇が、いつもより濃く見えた。
『説明しなさい』
「お嬢様は、ずっとお嬢様として扱われてきたんだと思います。褒められて、勝たされて、守られて、遠ざけられて、誰も本気で向き合わなかった」
シャルロットは何も言わない。
「でも、お嬢様はそれが嫌だった。だから、本気の相手を求めた。手加減しない相手。嘘を言わない相手。負けたら悔しがる相手」
『それで?』
「この七日間、俺はお世話係でした。だから、お嬢様の機嫌を取って、課題をクリアして、生き残ろうとしました」
『当然でしょう』
「でも、それだけなら、俺も他の大人たちと同じです」
扉の向こうで、微かな音がした。
「お嬢様を中心にして、お嬢様を特別扱いして、お嬢様のルールの中でしか動かない。そうしている限り、お嬢様はずっとこの部屋から出なくてもいい。誰かがお世話をし続けるから」
『……何が言いたいの』
「自由にするというのは、お嬢様として扱うのをやめることだと思いました」
俺は喉の乾きを感じた。
初日の傷が、頬で熱を持つ。
あの日、俺は呼び方を間違えて殺されかけた。
だからこそ、最後に踏み込むべき場所は分かっていた。
「だから、最後は名前で呼びます」
鈴は鳴らない。
俺は一歩も動かずに言った。
「シャルロット」
廊下の灯りが一斉に消えた。
真っ暗になった。
冷たい空気が足元から這い上がる。
どこかで金属が擦れる音がした。
俺は死ぬと思った。
でも、逃げなかった。
「俺を殺したいなら、殺せばいい。でも、それはあなたの自由じゃない。この館のルールに従っているだけだ」
胸が痛いほど鳴っている。
「俺を帰すなら、それもあなたが決めることです。勝ち負けじゃなく、命令でもなく、あなたが選ぶことです」
沈黙。
長い、長い沈黙。
闇の奥から、鈴の音がした。
ちりん。
終わった。
そう思った。
しかし、刃は来なかった。
床も開かない。
代わりに、受け渡し口から白い手が出てきた。
手袋はしていない。
その指が、テーブルの上の白紙に触れた。
『……何も書いてない』
シャルロットが言った。
「はい」
『どうして』
「あなたは自由に見えて、ずっとルールに縛られていました。だから、そこに自分で決めたことを書いてください。」
『私に命令するの?』
「命令ではありません」
『お願い?』
「それも違います」
『じゃあ何?』
「選択です」
シャルロットは、紙に触れたまま動かなかった。
『私が、あなたを殺すと書いたら?』
「それなら、それがあなたの選択です」
『怖くないの?』
「怖いです」
すぐに答えた。
「でも、ここで命乞いをしたら、俺は最後までお世話係のままです」
『……』
「俺は、お世話係としてではなく、佐伯悠真として、あなたに選んでほしい」
『私をお嬢様扱いしないの?』
「しません」
『命令よ』
「聞けません」
指先が、紙の上で止まる。
『あなた、私を怒らせたいの?』
「違います」
『じゃあ、どうしてそこまでするの』
俺は少しだけ迷った。
正直な答えを言うべきか。
それとも、生き残るために綺麗な言葉を選ぶべきか。
でも、シャルロットは嘘を嫌う。
だから、俺は本音を言った。
「帰りたいからです」
扉の向こうで、シャルロットが息を呑んだ。
「俺は帰りたい。妹にも母親にも連絡したい。友達にも会いたい。普通の生活に戻りたい」
『……でしょうね』
「でも、あなたがどうでもいいわけじゃないです」
『……』
「俺はあなたを助けられません。部屋から出すこともできない。あなたの過去を変えることもできない」
俺はルナリアを見た。
「でも、あなたが自分で選ぶところまでは、見届けたいと思いました」
受け渡し口の向こうで、紙が擦れる音がした。
『それが、私を自由にする答え?』
「はい」
『扉を開けることじゃなくて?』
「違います」
『外に連れ出すことでもなくて?』
「違います」
『私に選ばせること?』
「はい」
そこで初めて、シャルロットの声が小さく震えた。
『選んだことなんて、ないわ』
俺は何も言えなかった。
『勝ちなさいって言われた。泣いたら、鏡の前に立たされたわ。お嬢様らしくしなさいって言われた。負けた日の写真は燃やされたわ』
受け渡し口から出た指が、紙の端を握る。
『だから、私は難しくなったの』
「はい」
『簡単だったら、誰かが勝手に決めるもの』
「はい」
『わがままじゃないと、誰も私の言うことを聞かないもの』
「……はい」
『負けたら、私じゃなくなるもの』
その声は、ひどく幼かった。
俺は胸が詰まった。
それでも、かわいそうとは言わなかった。
言えば、これまでの全部が嘘になる気がした。
「負けても、あなたはシャルロットです」
鈴の音はしなかった。
『名前で呼ぶのね』
「はい」
『もう一回呼んで』
俺は息を吸った。
「シャルロット」
紙の上で、ペンが動く音がした。
ゆっくりと。
何かを書いている。
その間、俺は一歩も動かなかった。
やがて、ペンが止まった。
受け渡し口から、紙が差し出される。
俺は震える手で受け取った。
そこには、綺麗な字でこう書かれていた。
『悠真を、帰す』
その下に、少し間を空けて、もう一行。
『シャルロット』
俺は紙を見つめた。
命令ではなかった。
課題の結果でもなかった。
処分の判定でもなかった。
彼女が、自分で書いた選択だった。
『七日目』
シャルロットの声が聞こえた。
『クリア』
その瞬間、館全体が軋んだ。
遠くで、鍵が外れる音がした。
一つ。
二つ。
三つ。
数えきれないほどの鍵が、館のどこかで開いていく。
廊下の灯りが戻った。
赤い絨毯の先、玄関ホールの方から、冷たい夜風が流れてくる。
外の匂いだった。
雨上がりの土と、木々の匂い。
「……本当に、帰っていいんですか」
シャルロットは少し不機嫌そうに言った。
『私の字が読めないの?』
「読めます」
『なら行きなさい』
「シャルロットは」
『私は部屋から出ない』
最初と同じ言葉だった。
けれど、声は違っていた。
『でも、それは私が決めることよ』
俺は扉を見た。
取っ手のない扉。
開かない部屋。
少し沈黙があった。
『でも、まあ』
シャルロットは笑った。
『それは次の勝負で決めるわ』
「まだやるんですね」
『当然でしょう。私は負けたままは嫌いなの』
その声には、少しだけ誇らしさが戻っていた。
俺はルナリアの鉢に水をやった。
最後の仕事のように。
「咲いています」
『知ってる』
「見えないのに?」
『見てなくても負けなかった花よ?』
俺は小さく笑った。
初めて、自然に笑えた気がした。
『悠真』
「はい」
『外に出たら、振り返らないで』
「振り返ったら?」
『次の課題を与えるわ』
「やめてください」
『ふふ。冗談よ』
冗談に聞こえなかった。
俺は紙を丁寧に折りたたんだ。
そこには、彼女の選択が書かれている。
命令ではなく。
勝敗でもなく。
シャルロットが、自分で決めたことが。
俺はそれ以上何も言わず、廊下を歩いた。
玄関ホールの扉は開いていた。
七日前、どれだけ押しても引いても動かなかった扉が、今は少しの力で開く。
外は夜だった。
森の向こうに、細い月が浮かんでいる。
一歩、外に出る。
土を踏む感触がした。
冷たい風が頬の傷に触れる。
生きている。
俺は本当に外に出た。
背後で、洋館の扉がゆっくり閉まる音がした。
振り返るな。
シャルロットの言葉を思い出す。
俺は前だけを見て歩いた。
森を抜けるまで、何度も振り返りたくなった。
彼女は今も、あの部屋にいるのだろう。
ルナリアは咲いているのだろう。
そして、いつか外に出る選択をするのだろうか。
分からない。
分からないまま、歩き続けた。
やがて、遠くに街灯が見えた。
道路だ。
現実の世界だ。
俺は膝から崩れ落ちた。
スマホはポケットに入っていた。
電源を入れると、七日分の通知が一斉に表示される。
妹からの着信。
母からのメッセージ。
バイト先からの着信。
友人からの連絡。
全部が現実のものだった。
俺は震える指で、母に短い返信を打った。
『ごめん。帰る』
送信したあと、初めて涙が出た。
助かった。
そう思った。
けれど、ポケットの中で何かが小さく鳴った。
ちりん。
俺は息を止めた。
恐る恐るポケットに手を入れる。
出てきたのは、小さな鈴だった。
銀色の鈴。
シャルロットが鳴らしていたものに似ていた。
そこには、小さな紙が結ばれていた。
震える手で開く。
綺麗な字で、こう書かれていた。
『次に会うときは、お世話係じゃなくていいわ』
森の奥から、洋館はもう見えなかった。
それなのに、どこかでシャルロットが笑った気がした。
七日間のゲームは終わった。
俺は生き残った。
そしてシャルロットは、自分で選んだ。
それが救いなのか、新しい遊びの始まりなのかは分からない。
ただ、手の中の鈴は冷たく震えていた。
まるで、次のゲームの始まりを待っているみたいに。




