第2話 気付かない
九月の朝は、まだ夏の名残をひきずっている。
昇降口を抜けて廊下を歩くと、どこかの教室から吹奏楽の練習音が漏れてきた。窓の外では用務員のおじさんが花壇に水をやっている。いつもと変わらない朝だ——そう思いながら教室のドアを開けた瞬間、俺は、思わず足を止めた。
時雨はすでに席に座っていた。
こちらに気づくと、満面の笑顔でまっすぐ手を振ってくる。
「おはよう!」
声が教室に弾んだ。まだ登校している生徒もまばらな時間帯に、その声だけが妙に鮮明に響いた。
「……おはよう」
周りから視線を感じる。俺は小さくため息をついた。
「早いな。家、遠いんじゃなかったっけ」
「早起きしたの。朝の空気、好きだから」
そう言って時雨は窓の外に目を向けた。校庭に差し込む朝の光を見る横顔は、笑っていた。いつも笑っている。
颯が来たのは、ホームルームの五分前だった。
「おっ、もう仲いいじゃん」
颯は時雨と俺を交互に見て、特に悪意もなくそう言った。
「昨日と同じだろ」
「昨日より明らかに距離近い」
時雨がくすくす笑う。
ホームルームが始まり、田中先生が出席を取る。「藤代」と呼ばれたとき、時雨は「はい」と澄んだ声で答えた。
「なんか芸能人みたいな名前だよな」
「颯くんは黙ってて」
颯がこそこそと言うと、葵が小声で窘める。俺はそのやりとりを聞きながら、机の上のシャーペンを指先で転がしていた。
昼休み。
購買に行こうとしていた颯と葵が「先行ってるね」と言い残して教室を出た直後、時雨が俺の机の横に自分の机を引き寄せてきた。当然のように、何の断りもなく。
「一緒に食べよ! お弁当、余っちゃったから分けてあげる」
「余った、って」
「なんか作りすぎちゃって。ほら」
蓋を開けると、几帳面に詰められた弁当が出てきた。卵焼きがきれいに並んでいる。
「別に食べられる量しか作らなくていいだろ…」
顔を上げると時雨はすでに箸を割っていた。俺のペースは最初からこの子の前では機能しないのかもしれない、とぼんやり思いながら、俺も箸を持つ。
「これ、全部自分で作ったのか」
「うん。料理は好きなの」
「……うまいな」
「でしょ!」
時雨が嬉しそうに笑った。その顔を見ていると、何か言い返す気が失せる。
昼食もそろそろ終わりに近づいたころ、時雨が急に声を小さくした。
「ねえ、幼稚園のとき、待人君が砂場で塔作ってたの、ぼんやり覚えてるよ」
唐突な話題だった。俺は箸を止めた。
「すごく一人で集中してて。崩れるたびに最初からやり直してた。かわいかったなあ」
「え、そんなことあったっけ……? 俺、全然覚えてないわ」
「いいの」
時雨は穏やかな声で言った。
「思い出は私が持ってるから」
笑顔のまま、さらりと言ってのけた。俺は何か返そうとして、言葉が見つからなかった。思い出は私が持っているから、という言い方が、どうにも引っかかった。まるで俺の分まで抱えることを、最初から決めていたみたいな言い方だった。
颯と葵が購買の袋を持って戻ってきたのは、ちょうどそのときだった。
「お、机くっつけてるじゃん」
「仲いいね」
「向こうが勝手に…」
なにか言いかけたが、時雨がもう弁当の蓋を閉めているのを見て、黙った。
放課後。颯が「今日は練習あるから」と部活へ行き、葵も図書委員の仕事があると言って別れた。教室に残ったのは、俺と時雨だけになった。
「ちょっとコンビニ寄って帰ろうよ」
かばんを肩にかけながら時雨が言った。誘いというよりは、提案ですらなく、すでにそういう段取りになっているという確認のような言い方だった。
「……わかった」
昨日と同じ正門を出て、昨日と違う方向へ歩く。九月とはいえ夕方の風は少しだけ涼しくなっていた。時雨は歩きながらよく喋った。コンビニで何を買うかをすでに決めているということ、新しいフレーバーのグミが気になっていること、担任の田中先生が思ったより面白い授業をすること。
俺は相槌を打ちながら、その横顔を横目で見ていた。
曲がり角を過ぎたところで、時雨が不意に立ち止まった。
一拍、二拍。彼女はゆっくりと、静かに息を吸い込んだ。わざとらしくなく、でも確かに意識して呼吸をしているような仕草だった。俺は気づかないふりをしようとして、できなかった。
「……どうした?」
振り向いた時雨は、もう笑っていた。
「寒いね!」
さっきまでより一音高い声で、そう言った。
俺は一瞬、まだ暑いだろ、と言おうとした。でも時雨の笑顔に迷いは一切なくて、俺の言葉は喉の手前で止まってしまった。
コンビニに入ると、時雨は迷わず新作グミの棚へ向かった。
「これこれ!待人も食べる?」
「いらない」
そう言ったはずだが、時雨はすでに二つかごに入れていた。
レジを出たあと、時雨はグミの袋を俺に押しつけた。
「食べてみてよ。感想教えて」
「買わなくていいって言っただろ」
「損しないから大丈夫」
俺は受け取った。反論のタイミングを、いつも少し先に奪われる。
帰り道、時雨はまた夕空を見た。昨日と同じように目を細めて、でも昨日とは少しだけ違う表情で——何かを確かめるような顔で——しばらく空を見ていた。
「秋って、足音がしないよね」
「……急だな」
「気づいたら来てるじゃん。夏のあいだずっとそこにいたみたいに」
俺は何も言わなかった。言えなかった、というほうが正確かもしれない。
分かれ道のところで時雨はまた手を振った。白い袖が夕風に揺れる。
「また明日ね♪」
「ああ」
角を曲がって消えていく後ろ姿を、俺はいつまでも見ていた。
グミの袋が、手の中にあった。受け取るつもりなんてなかったのに、気がつけばそこにある。なんでだろう、と思った。
でも答えは出なかった。
秋の足音を、俺はまだ聞いていなかった。




