【前世の約束】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
妻が死んで五年が経った。
いや、正確には少し違う。妻がいなくなって五年、というべきか。私にとって彼女は今もこの家にいて、朝には「おはよう」と声をかけ、夜には「おやすみ」と告げる。それが習慣になっていた。
私は作家だ。もう二十年以上、この仕事を続けている。妻の沙耶香は、私がまだ何者でもなかった頃から隣にいてくれた。新人賞に落ち続けた二十代。やっとデビューできた三十代。少しずつ名前が知られるようになった四十代。その全ての時間を、彼女と過ごした。
私は沙耶香のことを「こはる」と呼んでいた。
出会った日のことを、今でも鮮明に覚えている。大学の図書館で、私は窓際の席に座っていた。四月の午後で、窓から差し込む光が暖かかった。その光の中に彼女が歩いてきて、向かいの席に座った。逆光で顔はよく見えなかったけれど、髪が透けて金色に輝いていた。
その瞬間、私の頭に浮かんだのは「小春日和」という言葉だった。
それから何度か図書館で会ううちに話すようになり、付き合うようになり、やがて結婚した。プロポーズの時、私は言った。
「君のことを、ずっと『こはる』って呼んでいいかな」
沙耶香は笑って頷いた。それ以来、二人きりの時は必ずその名前で呼んだ。二十五年間、ずっと。
彼女がいなくなった日のことは、あまり覚えていない。覚えていないというより、覚えていたくないのかもしれない。医者は何か言っていたし、親族も何か言っていたと思う。でも私の耳には何も入ってこなかった。
ただ、最後に「こはる」と呼んだ時、彼女が微かに微笑んだような気がした。そして私の手を握る力が、ふっと消えた。
それから五年。
私は毎日、書斎で原稿に向かい、午後になると近所の公園を散歩する。これも沙耶香と一緒に始めた習慣だった。二人で手を繋いで、ベンチに座って、行き交う人々を眺めた。子供たちが走り回る姿を見て、「子供、欲しかったな」と彼女がぽつりと言ったことがある。結局、私たちには子供ができなかった。
その公園で、私はその子に出会った。
五月の午後だった。ベンチに座っていると、小さな影が私の足元に差した。見上げると、五歳くらいの女の子が立っていた。
「おじさん、ひとり?」
私は面食らった。最近の子供は見知らぬ大人に話しかけないと思っていた。でもその子は不思議と警戒心がなく、私の隣にちょこんと座った。
「お母さんは?」と私は訊いた。
「あっち」と女の子は砂場の方を指差した。若い女性がスマートフォンを見ながらベンチに座っている。娘がいなくなったことに気づいていないようだった。
「お母さんのところに戻った方がいいよ」
「やだ」
女の子はぶんぶんと首を振った。
「おじさんといる」
困った。最近は公園で子供と話しているだけで不審者扱いされることもある。私は腰を上げようとした。
その時、女の子が言った。
「ねえ、おじさん。なんだか懐かしいにおいがする」
私は動きを止めた。
「懐かしい?」
「うん。なんだろう。知ってるにおい」
女の子は私の腕に鼻を近づけて、くんくんと嗅いだ。
「これ、知ってる」
私が使っている香水は、二十年以上変えていない。沙耶香が好きだと言ったから、ずっと同じものを使い続けている。もう廃盤になっていて、ネットで探して取り寄せている。
偶然だ。そう思った。
「お母さんが呼んでるよ」
私がそう言うと、女の子は砂場の方を見た。母親がこちらに向かって手を振っている。
「またね、おじさん」
女の子は走って行った。
私はしばらくベンチに座ったまま、その後ろ姿を見ていた。
*
一週間後、同じ公園で、また会った。
「おじさんだ!」
女の子は満面の笑みで駆け寄ってきた。今度は母親も一緒だった。
「すみません、うちの子が先週も話しかけたみたいで……」
母親は申し訳なさそうに頭を下げた。三十代前半くらいだろうか。疲れた顔をしていた。
「いえ、構いませんよ」
私がそう言うと、母親は少し安心したようだった。
「この子、人見知りするタイプなのに、珍しくて。『公園のおじさんにまた会いたい』って何度も言うから……」
女の子は私の隣に座り、足をぶらぶらさせた。
「ねえ、おじさん、お名前は?」
「誠一だよ」
「せいいち」と女の子は繰り返した。「私はね、凛っていうの」
「りんちゃんか。いい名前だね」
凛はにっこり笑った。その笑顔が、一瞬、沙耶香に重なった。
馬鹿な。そう思った。沙耶香と凛は全然似ていない。沙耶香は大人の女性で、凛は五歳の子供だ。顔立ちも違う。
でも、笑った時の目の細め方が、どこか似ていた。
「誠一さん、ですか」
母親が言った。
「もしかして、作家の藤村誠一先生……?」
私は頷いた。驚かれることには慣れている。
「すごい! 私、先生の本、何冊か読んだことあります。『雪解けの朝』、すごく好きでした」
「ありがとうございます」
『雪解けの朝』は十年前に書いた小説だ。夫を亡くした女性が、少しずつ悲しみを乗り越えていく話。当時、私は取材と想像だけで書いた。妻を亡くすということが、本当はどういうことか、まだ知らなかった。
「凛、あんまり先生に迷惑かけちゃだめよ」
「はーい」
凛は返事をしたが、私の隣から動こうとしなかった。
「ねえ、せいちゃん」
凛が急にそう呼んだ。
心臓が跳ねた。
沙耶香が私のことをそう呼んでいた。「誠一」を縮めて「せいちゃん」。二人きりの時だけ使う、私たちだけの呼び方だった。
「なんで……その呼び方を……」
私の声が震えていたのだろう。母親が怪訝な顔をした。
「凛、なんでそんな呼び方したの?」
「わかんない」と凛は言った。「でも、そう呼びたくなったの」
偶然だ。偶然に決まっている。「せいちゃん」なんて、誰でも思いつく愛称だ。
でも、私の心臓はまだ激しく脈打っていた。
*
それから、私は毎日のように公園に通った。
凛と母親——美奈子さんという——も、よく来ていた。美奈子さんはシングルマザーで、近所に引っ越してきたばかりだという。仕事はパートで、凛の面倒を見る時間を作るのが大変そうだった。
「藤村先生が相手をしてくださるから、凛も喜んでいます」
美奈子さんは申し訳なさそうに言った。
「気にしないでください。私も楽しいですから」
それは本当だった。凛と話していると、不思議と心が安らいだ。
凛は変わった子だった。五歳児にしては言葉遣いが大人びていて、時々、年齢にそぐわないことを言う。
「せいちゃんは、一人で暮らしてるの?」
「ああ」
「寂しくない?」
「少し寂しいかな」
「そっか」
凛は私の手を握った。小さくて温かい手だった。
「私がいるから、大丈夫だよ」
その言葉を聞いた時、涙が出そうになった。沙耶香がよく言っていた言葉だった。私が原稿で行き詰まって落ち込んでいる時、彼女は私の手を握ってそう言った。「私がいるから、大丈夫だよ」と。
偶然が重なりすぎている。
私の中で、ある考えが芽生え始めていた。
*
六月のある日、私は凛に訊いた。
「凛ちゃんは、生まれる前のこと、覚えてる?」
美奈子さんは少し離れたベンチでスマートフォンを見ていた。凛と私は滑り台の下に座っていた。
「生まれる前?」
「うん。お母さんのお腹の中にいた時とか、その前とか」
凛は首を傾げた。
「わかんない。でもね、時々、夢を見るの」
「どんな夢?」
「大人になってる夢。誰かと一緒に暮らしてる夢」
私の心臓が速くなった。
「その誰かって、どんな人?」
「優しい人。本をいっぱい書いてる人」
息が止まりそうだった。
「その人のこと、なんて呼んでた?」
凛は少し考えて、それから言った。
「せいちゃん」
世界が歪んだ気がした。
「凛ちゃん、その夢の中で、その人は君のことをなんて呼んでた?」
凛は私を見上げた。その目が、沙耶香の目に見えた。光を受けて、少し金色に輝いていた。
「こはる」
私は泣いていた。
止められなかった。涙が次々と溢れて、頬を伝った。五十を過ぎた男が、公園で子供の前で泣いていた。
「せいちゃん、どうしたの? 痛いの?」
凛が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ごめん、ごめんね」
私は涙を拭いた。
「嬉しかったんだ。すごく、嬉しかったんだ」
凛は不思議そうな顔をしていた。でも、私の手をぎゅっと握ってくれた。
「泣かないで、せいちゃん。私がいるから」
その言葉で、私は確信した。
この子は沙耶香だ。生まれ変わって、私のところに帰ってきてくれたんだ。
*
それから、私の毎日は輝き始めた。
朝起きると、今日は凛に会えると思うだけで嬉しかった。公園に行き、凛と話し、一緒に遊ぶ。美奈子さんも私を信頼してくれるようになり、時々、凛を少しの間預かることもあった。
「藤村先生、本当にありがとうございます。凛も先生のことが大好きみたいで」
「いえ、私の方こそ感謝しています」
それは本心だった。凛のおかげで、私は生きる理由を取り戻した。
凛は時々、沙耶香しか知らないはずのことを言った。
「ねえ、せいちゃん。あのね、カレーにはりんごを入れると美味しいんだよ」
沙耶香の作るカレーには、すりおろしたりんごが入っていた。
「せいちゃんは、書くのが遅い時、右の耳を触るよね」
その癖を指摘したのは、沙耶香だけだった。
「せいちゃんの書いた本、いつか読みたいな」
沙耶香はいつも、私の本の最初の読者だった。
もちろん、凛がなぜこんなことを知っているのか、論理的には説明できない。美奈子さんが私のファンだと言っていたから、もしかしたらインタビュー記事か何かで読んだことを凛に話したのかもしれない。
でも、私にはわかっていた。これは偶然ではない。凛の中に、沙耶香がいる。
七月になった頃、私は新しい小説を書き始めた。
五年間、まともに書けなかった。沙耶香がいなくなってから、言葉が出てこなくなった。編集者には「充電期間」だと言い訳をして、過去作の重版や文庫化でなんとか食いつないでいた。
でも今は違う。言葉が溢れてくる。凛のこと、沙耶香のこと、二人が重なる不思議な感覚。その全てを書きたかった。
タイトルは『約束』にしようと思った。
沙耶香と私は、約束をしていた。
「生まれ変わっても、また会おうね」
「必ず見つけるよ」
「どうやって?」
「『こはる』って呼んでみる。そしたらきっと、わかるから」
その約束を、沙耶香は守ってくれたのだ。
*
八月の終わり、私は凛に言った。
「今度、せいちゃんの家に遊びに来る?」
いつもの公園のベンチで、私たちは並んで座っていた。美奈子さんは木陰で昼寝をしていた。最近、彼女は疲れているようだった。仕事が増えたらしい。
「おうち? 行きたい!」
凛は目を輝かせた。
「お母さんに訊いてごらん」
凛は走って行って、美奈子さんを起こした。二人で何か話している。美奈子さんがこちらを見て、少し考えてから頷いた。
「藤村先生、お言葉に甘えてもいいですか? 実は来週、どうしても外せない仕事が入ってしまって……」
「もちろんです。凛ちゃんなら、いつでも」
美奈子さんは何度も頭を下げた。
翌週の土曜日、凛が家に来ることになった。
*
その日が来るまで、私は家の中を掃除した。
正確には、リビングと客間と書斎だけを。
寝室には入れないようにしなければ。あの部屋は、沙耶香の部屋だから。
沙耶香は今もあの部屋にいる。五年前から、ずっと。
最初は一階の和室に寝かせていた。でも夏になると、どうしても問題が生じる。だから今は二階の寝室に移した。エアコンを一年中つけっぱなしにして、できるだけ長く一緒にいられるようにした。
毎朝「おはよう」と言い、毎晩「おやすみ」と言う。時々、本を読んで聞かせる。彼女が好きだった音楽をかける。
彼女は何も言わない。でも、私にはわかる。彼女はまだここにいる。
そして今、彼女は凛として帰ってきた。
土曜日の朝十時、チャイムが鳴った。
「せいちゃーん!」
ドア越しに凛の声が聞こえた。
私は玄関に向かった。心が躍っていた。沙耶香がこの家に帰ってくる。五年ぶりに。
ドアを開けると、凛が立っていた。ワンピースを着て、髪をリボンで結んでいた。美奈子さんの姿はなかった。
「お母さんは?」
「車で送ってくれた。お仕事行った」
「そうか。さあ、入って」
凛は靴を脱いで、家に上がった。きょろきょろと辺りを見回している。
「広いね、せいちゃんのおうち」
「二人で暮らすには広すぎるかもね」
「二人?」と凛は首を傾げた。
「ああ、昔は二人で暮らしてたんだ」
「誰と?」
「大切な人だよ」
凛はふうん、と言って、リビングに入った。
私は麦茶を出し、一緒にテレビを見た。子供向けのアニメをつけると、凛は嬉しそうに画面に見入った。
こんな穏やかな時間が、かつてはあった。沙耶香と二人、休日の午後をのんびり過ごす。何をするでもなく、ただ一緒にいる。それだけで幸せだった。
昼食にはカレーを作った。りんごをすりおろして入れた。凛は「美味しい!」と言って、おかわりをした。
「せいちゃんのカレー、夢で食べたことある気がする」
「そうかもね」
私は微笑んだ。
午後、凛が言った。
「ねえ、せいちゃん。おうち、全部見てもいい?」
私の心臓が一瞬止まった。
「全部は……ちょっと散らかってる部屋があってね」
「いいの、散らかってても」
「でも……」
凛は私の手を引っ張った。
「ねえ、見たいの。せいちゃんのおうち、全部知りたい」
その言葉は、沙耶香がよく言っていた言葉だった。付き合い始めた頃、初めて私の部屋に来た時。「全部知りたい」と彼女は言った。
私は凛を見下ろした。五歳の女の子。でもその目は、沙耶香の目だ。
「二階は……」
「二階に何があるの?」
凛の目がきらきらと輝いていた。
「見たい?」
「見たい!」
私は凛の手を握った。
「じゃあ、一緒に行こうか」
*
階段を上りながら、私は不思議と穏やかな気持ちだった。
これでいい。凛は沙耶香なんだから。沙耶香が自分自身に会うのは、おかしなことじゃない。むしろ、そうあるべきだ。
二階には部屋が三つある。書斎、客間、そして寝室。
「ここが書斎だよ」
私は一つ目の扉を開けた。本棚が壁を埋め尽くし、デスクの上には原稿用紙が積まれている。
「すごい! 本がいっぱい!」
凛は目を丸くした。
「せいちゃんが書いた本?」
「そうだよ。全部じゃないけど」
凛は本棚に近づいて、背表紙を眺めた。
「いつか読めるようになりたいな」
「大きくなったらね」
私たちは書斎を出て、廊下を歩いた。
次は客間。ここは特に何もない。
そして、一番奥。寝室の前で、私たちは立ち止まった。
「この部屋は何?」と凛が訊いた。
「寝室だよ」
「入ってもいい?」
私は少し考えた。
凛は沙耶香だ。沙耶香が自分の部屋に入るのは当然のことだ。
「いいよ」
私はドアノブに手をかけた。
ひんやりとした金属の感触。エアコンで冷やされた空気が、ドアの隙間から漏れていた。
ドアを開けた。
*
凛の視界に飛び込んできたのは、薄暗い部屋だった。
カーテンが閉まっていて、エアコンがごうごうと音を立てている。真夏なのに、部屋の中は寒かった。
そして——ベッドの上に、誰かがいた。
凛は目を凝らした。
女の人が横たわっていた。目を閉じて、手を胸の上で組んでいる。まるで眠っているみたいに。
でも、何かがおかしかった。
女の人の肌は、普通の色じゃなかった。蝋燭みたいに白くて、ところどころ黒っぽいシミがあった。髪の毛は長くて、枕の上に広がっていたけど、なんだかぱさぱさで、人形の髪みたいだった。
そして、匂い。
凛は思わず鼻を覆った。甘くて、でも気持ち悪い匂い。芳香剤の匂いと、何か別の匂いが混ざったような。
「せいちゃん……これ、誰?」
凛の声が震えていた。
せいちゃんは、凛の肩に手を置いた。
「こはるだよ」
「こはる……?」
「君だよ、凛ちゃん。いや、こはる」
せいちゃんの声は穏やかだった。優しくて、温かくて、でもどこかおかしかった。
「五年前に君は死んだ。でも、ずっとここにいてくれた。そして今、凛ちゃんとして生まれ変わって、僕のところに帰ってきてくれた」
凛は一歩後ずさった。
「やだ……」
「怖がらないで。君は君なんだから」
せいちゃんが近づいてきた。凛はさらに後ずさった。背中が壁にぶつかった。
「ねえ、こはる。やっと会えたね」
せいちゃんの目は涙で濡れていた。嬉しそうに笑っていた。
凛は叫んだ。
「やだ! お母さん! お母さーん!」
凛は走った。せいちゃんの横をすり抜け、廊下を走り、階段を駆け下りた。
玄関のドアを開けようとした。でも、鍵がかかっていた。
「開けて! 開けてよ!」
凛はドアを叩いた。
後ろから、ゆっくりと足音が近づいてきた。
「こはる、どこに行くの」
せいちゃんの声は、まだ優しかった。
「ずっと一緒にいようって、約束したじゃないか」
凛は振り返った。
階段の上に、せいちゃんが立っていた。
その後ろの寝室のドアは開いたままで、冷たい空気が廊下に流れ込んでいた。
そして——凛には見えた。
寝室の中から、誰かがこちらを見ていた。
ベッドの上の女の人。さっきは目を閉じていたはずなのに。
今は——目を開けていた。
黒い、空洞のような目が、凛を見つめていた。
「ねえ、こはる」
せいちゃんが一段、階段を下りた。
「お帰り」
玄関のチャイムが鳴った。
「凛ちゃーん! お迎えに来たよー!」
美奈子さんの声だった。
凛は声の限り叫んだ。
「お母さん! 助けて! お母さん!」
ドアの外で、美奈子さんが何か叫んでいる。ドアノブがガチャガチャと鳴った。
せいちゃんは階段の途中で立ち止まっていた。
その顔から、ゆっくりと笑顔が消えていった。
「どうして逃げるの、こはる」
せいちゃんの目が、暗く沈んでいった。
「せっかく、帰ってきてくれたのに」
二階から、何かが軋む音がした。
凛は見上げた。
寝室のドアの前に、誰かが立っていた。
長い髪を振り乱した、白い顔の女。
口が動いた。
声は聞こえなかった。
でも、凛にはわかった。
その唇が形作った言葉。
「お か え り」
凛の視界が暗くなった。
*
凛が気がついたのは、病院のベッドの上だった。
美奈子さんが泣きながら抱きしめてくれた。警察の人が何か質問してきたけど、凛は何も答えられなかった。
後から聞いた話では、美奈子さんが予定より早く仕事が終わって迎えに来てくれたらしい。凛の叫び声を聞いて、隣の家に助けを求め、一緒にドアを破った。
凛は玄関で倒れていた。
せいちゃんは——藤村誠一は——二階にいた。寝室のベッドに横たわり、隣に寝ている妻の手を握っていた。
警察が発表したところによると、藤村沙耶香の遺体は五年前のものだった。病院で亡くなった後、夫が連れ帰り、ずっと自宅に安置していたらしい。
誠一は何も話さなかった。
ただ一言だけ、警察に言ったそうだ。
「約束を、守っただけです」
*
あれから一年が経った。
凛は、あの家のことをあまり覚えていない。お医者さんは「心が自分を守るために、記憶を消すことがある」と言っていた。
でも、時々夢を見る。
暗い部屋で、誰かが横たわっている夢。
その誰かが、ゆっくりと起き上がる夢。
こちらに向かって、手を伸ばしてくる夢。
そして——最後にいつも同じ言葉が聞こえる。
「おかえり、こはる」
凛は、その声が誰のものか知らない。
知りたくもない。
でも時々、鏡を見ると、自分じゃない誰かが映っている気がする。
長い髪の、白い顔の女が。
藤村誠一は今も、どこかの病院にいるらしい。
彼の最後の小説『約束』は、未完成のまま書斎の机の上に残されていた。
その最後の一行は、こうだった。
「——彼女は必ず帰ってくる。何度でも、何度でも」
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




