【観客】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
スマートフォンが鳴ったのは、昼休憩に入ろうとした時だった。
「はい、株式会社メモリーズ、遠藤です」
遺品整理の仕事を始めて七年になる。最初はアルバイトだった。バンドを続けながら、食いつなぐための仕事。それがいつの間にか正社員になり、今では後輩に指示を出す立場になっていた。
「ご依頼の件、承知いたしました。ご住所をお願いできますか」
電話の向こうで、女性が住所を読み上げる。親戚か、あるいは近所の人か。事務的な口調だった。
メモを取る手が、途中で止まった。
「……すみません、もう一度お願いできますか」
聞き間違いであってほしかった。女性がもう一度、同じ住所を告げる。間違いなかった。
福島県いわき市。町名、番地。
実家だ。
「故人のお名前は」
「遠藤和子さん、とお聞きしています」
母の名前だった。
「……承知いたしました」
電話を切ってから、しばらく動けなかった。
母が死んだ。
その事実が、うまく頭に入ってこない。
葬儀の連絡は受けていた。三週間前だ。仕事が立て込んでいて行けない、と親戚に伝えた。本当は、行けなかったのではない。行かなかったのだ。
十二年。
最後に母と会ってから、それだけの時間が経っていた。
遺品整理の仕事は、基本的にチームで行う。
だが今回は一人で行くことにした。上司には「個人的な事情がある」とだけ伝えた。詳しく聞かれなかったのは、この業界ではよくあることだからだろう。遺品整理士の中には、家族の死をきっかけにこの仕事を始めた人間も少なくない。
東京から車で三時間半。
高速道路を降りてから、見覚えのある景色が増えていく。
高校時代に自転車で通った道。友人とカラオケに行った商店街。駅前のコンビニは、昔はレコード屋だった。初めてギターの弦を買った店だ。今はもうない。
実家の前で車を停めた。
エンジンを切っても、すぐには降りられなかった。
二階建ての古い一軒家。外壁のペンキは色褪せ、庭の植木は伸び放題になっている。母が一人で手入れをしていたはずだが、晩年は体力的に難しかったのだろう。
玄関のドアに手をかける。
鍵は親戚から預かっていた。葬儀の時に送られてきたものだ。
ドアを開けた瞬間、匂いがした。
古い木の匂い。畳の匂い。そして、かすかに残る線香の匂い。
母の匂いだ、と思った。
玄関で靴を脱ぐ。
仕事用の作業着を着ているのに、なぜか「お邪魔します」と口に出していた。
誰もいない家が、静かに僕を迎えた。
遺品整理士として、これまで何百件もの現場を見てきた。
孤独死。ゴミ屋敷。突然の事故。長い闘病の末の死。
どんな現場でも、感情を切り離して作業することを心がけてきた。それがプロだと思っていた。
故人の人生に感情移入していたら、この仕事は続けられない。
遺品は「モノ」として扱う。写真も、手紙も、思い出の品も。遺族が必要とするものは残し、それ以外は適切に処分する。それだけのことだ。
リビングに入る。
六畳の和室に、古いソファとテーブル。テレビは小さなブラウン管のままだ。母はずっと「まだ映るから」と買い替えなかった。
壁には写真が飾ってある。
父と母の結婚式。父は僕が小学生の時に病気で亡くなった。
僕の七五三。入学式。卒業式。
そして、高校の文化祭でギターを弾いている僕の写真。
母が撮ったものだ。
ステージの上で、必死にコードを押さえている十七歳の自分。ピントが少しずれているのは、母がカメラに慣れていなかったからだろう。
写真から目を逸らして、作業を始める。
まずは全体の確認だ。
どの部屋に何があるか。処分するものと残すものの分類。業者に依頼するものと、自分で片付けられるものの仕分け。
リビング、キッチン、風呂場、トイレ。
一階を一通り確認してから、二階に上がる。
階段がきしむ。子供の頃と同じ音だ。
二階には三つの部屋がある。
僕の部屋だった場所。物置。そして、母の部屋。
まず、自分の部屋のドアを開けた。
中は、高校時代のまま時間が止まっていた。
学習机。本棚。ベッドには埃よけのシーツがかけられている。
壁には、バンドのポスターがまだ貼ってあった。ニルヴァーナ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ミスター・チルドレン。十代の自分の趣味が、そのまま残っている。
母は何も変えなかったのだ。
いつでも帰ってこられるように。
そう思ったら、少し息が苦しくなった。
部屋を出て、母の部屋のドアに手をかける。
ここが本番だ。
ドアを開けた。
八畳の和室。
窓際にベッド。タンス。鏡台。
そして、部屋の隅に、アップライトピアノがあった。
母のピアノ。
埃をかぶっている。
長い間、弾かれていなかったのだろう。
母はピアノ奏者だった。
結婚前はコンサートも開いていたと聞いた。父と出会ったのも、演奏会の打ち上げだったらしい。
僕が生まれてからは、演奏活動はやめて、自宅でピアノを教えていた。近所の子供たちが習いに来ていた。
幼い頃、僕は母の演奏を聴くのが好きだった。
ショパン、ドビュッシー、リスト。曲名は覚えていない。ただ、母が鍵盤に指を置くと、部屋が別の場所になった。空気が変わった。音が、光のように満ちた。
あんなふうになりたい、と思った。
母みたいに、音楽で人を感動させたい。
それが僕の夢の始まりだった。
ピアノではなくギターを選んだのは、単純に「かっこいい」と思ったからだ。高校生の浅はかさだった。でも母は何も言わなかった。「好きなことをやりなさい」とだけ言った。
ピアノの鍵盤に触れてみる。
低いラの音を押す。
音は出なかった。調律もされていないのだろう。
鍵盤の上に、写真立てが置いてあった。
僕の写真だ。
成人式のものだった。スーツを着て、ぎこちなく笑っている。二十歳。まだバンドを組む前。まだ夢を見る前。
タンスを開ける。
衣類。着物。季節外れのセーター。
引き出しを一つずつ確認していく。通帳、印鑑、保険証書。必要なものは分類しておく。
手紙の束が出てきた。ゴムでまとめられている。
宛名を見て、息が止まった。
僕からの手紙だ。
上京してから数年は、たまに手紙を書いていた。電話が苦手だったからだ。母の声を聞くと、なぜか素直になれなかった。
手紙は全部取ってあった。
日付順に、丁寧に並べられている。
最後の手紙は、十年前のものだった。
それ以降、僕は手紙を書かなくなった。連絡もほとんどしなくなった。
バンドから外されたのが、ちょうどその頃だった。
僕がバンドを始めたのは、大学を中退してからだった。
音楽で食べていく。そう決めて上京した。
アルバイトをしながらライブ活動を続け、何度もオーディションを受けた。落ちても落ちても、諦めなかった。
二十七歳の時、ついにデビューが決まった。
メジャーレーベルからの声がけだった。僕らのバンドを見込んでくれたプロデューサーがいた。夢が叶う、と思った。
だが、デビューするのは僕以外のメンバーだけだった。
ギターは別の人間を入れる、とプロデューサーは言った。技術的な問題だった。僕より上手いギタリストはいくらでもいた。
メンバーは謝った。
でも、彼らを責める気にはなれなかった。
チャンスを掴めるなら、掴むべきだ。僕だって同じ立場なら、そうしただろう。
バンドは僕抜きでデビューし、それなりに売れた。テレビで見かけることもあった。彼らの曲を聴くたびに、自分が弾くはずだったギターパートを頭の中でなぞった。
僕は、別のバンドを組もうとした。
でも、うまくいかなかった。
何かが折れていた。
遺品整理のバイトを続けながら、一人でギターを弾いていた。ライブハウスにも出た。客は数人だった。それでも弾き続けた。
いつからだろう。
ギターを手に取らなくなったのは。
最初は一週間。次に一ヶ月。気づいたら、一年が経っていた。
クローゼットの奥に押し込んだギターを、見ないふりをするようになった。
母には、何も言わなかった。
夢を諦めたとは言えなかった。
だから、連絡をしなくなった。
帰れなくなった。
情けない自分を見せたくなかった。
「お母さんみたいになりたい」と言った子供の頃の自分を、裏切りたくなかった。
タンスの奥を探っていると、小さな木箱が出てきた。
桐の箱。母の裁縫箱だと思った。
開けると、中には写真が入っていた。
僕の写真。
それも、見覚えのないものばかりだった。
ステージの上で、ギターを弾いている僕。
客席の後ろから撮ったのだろう、小さく映っている。画質は悪い。使い捨てカメラで撮ったようだ。
一枚、また一枚とめくっていく。
日付がメモしてある。
六月十四日、高円寺。八月二十二日、下北沢。十一月三日、渋谷。
知っている日付だった。
僕がライブをやっていた日だ。
なぜ母がこの写真を持っているのか、最初は理解できなかった。
誰かに頼んで撮ってもらったのか。
箱の底に、別のものが入っていた。
紙の束。半券だった。
ライブハウスの半券。
一枚ずつ確認する。
高円寺のライブハウス。下北沢のライブバー。渋谷のスタジオ。新宿のハコ。
全部、僕が出演した場所だった。
日付も全て一致している。
半券の数を数えた。
三十七枚。
三十七回。
僕がライブをやった回数と、ほぼ同じだった。
足が震えた。
床に座り込んだ。
母は、来ていた。
僕のライブに、毎回来ていた。
福島から東京まで、三時間半かけて。
客席の後ろで、こっそりと。
僕に気づかれないように。
なぜだ。
なぜ声をかけてくれなかったのか。
いや、違う。
僕が、会いに行かなかったからだ。
僕が、連絡を絶ったからだ。
僕が、逃げたからだ。
母は、それでも見に来てくれた。
夢を諦めかけている息子を、遠くから見守っていた。
何も言わずに。
ただ、そこにいてくれた。
半券を握りしめたまま、動けなかった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
窓の外が暗くなり始めていた。
作業を続けなければ。
そう思って立ち上がったが、頭がうまく働かなかった。
押し入れを開ける。
布団。座布団。古い扇風機。
奥に、段ボール箱があった。
「ケンジ」と、母の字で書いてある。
僕の名前だ。
箱を引っ張り出して、開けた。
中には、僕の子供時代のものが入っていた。
幼稚園で描いた絵。小学校の工作。作文。通知表。
賞状。読書感想文で何かの賞をもらったことがあった。内容は覚えていない。
作文を一枚、手に取った。
小学三年生の時のものだった。
題名は「将来のゆめ」。
自分の字を見て、少しだけ笑いそうになった。下手くそな字。でも、一生懸命書いたのが分かる。
読み始めた。
ぼくの将来のゆめは、お母さんみたいになることです。
お母さんはピアノがとてもじょうずです。お母さんがピアノをひくと、へやがキラキラします。おとが光みたいにとんでいって、ぼくのむねの中にはいってきます。
この間、お母さんがコンサートをしました。ぼくもお父さんといっしょにききにいきました。お母さんがぶたいに出てきたとき、みんながはくしゅしました。お母さんはすこしきんちょうしているみたいでした。
でも、ひきはじめたらぜんぜんきんちょうしていませんでした。お母さんはピアノとおはなししているみたいでした。ぼくはすごいとおもいました。
えんそうがおわったとき、みんなが立ってはくしゅしていました。スタンディングオベーションというそうです。お母さんはおじぎをして、すこし泣いていました。
ぼくはお母さんみたいになりたいです。おんがくで人をかんどうさせる人になりたいです。ピアノじゃなくてもいいです。ギターでもいいし、たいこでもいいです。とにかく、お母さんみたいになりたいです。
お母さん、ぼくもいつかぶたいに立つから、見にきてね。
作文を持つ手が、震えていた。
最後の一文を、何度も読み返した。
お母さん、ぼくもいつかぶたいに立つから、見にきてね。
母は、見に来てくれた。
三十七回も。
客席の後ろで。
声もかけずに。
僕が気づかないところで、ずっと。
お母さんみたいになる、と書いた。
音楽で人を感動させる人になる、と書いた。
でも僕は、たった一人の観客すら、感動させられなかった。
いちばん大切な人に、「ありがとう」の一言も言えなかった。
涙が出た。
止まらなかった。
遺品整理士として、何百もの「死」を片づけてきた。
泣いたことは一度もなかった。
それがプロだと思っていた。
でも今、僕は子供のように泣いていた。
母の部屋で。
母の匂いが残る部屋で。
作文を胸に抱いて。
声を上げて。
全ての作業が終わったのは、三日後だった。
必要な書類は分類した。形見として残すものは、親戚に連絡して引き取ってもらうことにした。家は不動産会社に相談して、売却する方向で進めることになった。
最後に、もう一度母の部屋に入った。
ピアノの前に座る。
鍵盤に触れる。
相変わらず音は出なかった。
でも、母がここで弾いていた姿は思い出せた。
背筋を伸ばして。指先に神経を集中させて。音楽と対話するように。
あんなふうになりたい、と思った。
九歳の僕は、確かにそう思った。
鍵盤から手を離して、立ち上がる。
玄関で靴を履いて、振り返る。
「……ありがとう」
誰もいない家に、そう言った。
東京のアパートに戻ったのは、夜中だった。
疲れているはずなのに、眠れなかった。
リビングの電気をつけて、缶ビールを開ける。
テーブルの上に、母の遺品を並べていた。
ライブハウスの半券。三十七枚。
僕を後ろから撮った写真。
そして、あの作文。
半券を一枚一枚、見返す。
最後にライブをやったのは、六年前だった。
その時も、母は来ていたのだ。
客は七人しかいなかった。そのうちの一人が、母だった。
なぜ気づかなかったのだろう。
いや、気づけるはずがなかった。
僕はステージの上で、自分のことしか見ていなかった。
客席に誰がいるかなんて、ろくに見ていなかった。
ビールを飲み干す。
立ち上がって、クローゼットの前に行く。
開ける。
奥に、ギターケースがあった。
六年間、開けていない。
弦は錆びているだろう。ネックも反っているかもしれない。もう弾けないかもしれない。
それでも、手を伸ばした。
ケースを引っ張り出す。
重い。こんなに重かったか。
床に置いて、留め金を外す。
蓋を開ける。
黒いストラトキャスター。
二十歳の誕生日に、バイト代を貯めて買った。
母に報告したら、「よかったね」と笑っていた。「ケンジが選んだものなら、きっといいギターね」と。
ギターを持ち上げる。
思ったより軽かった。
弦に触れる。
錆びている。予想通りだった。
でも、形は覚えている。
コードの押さえ方。ピッキングの角度。
体が覚えている。
弦を一本、弾いてみる。
かすれた音が出た。チューニングはめちゃくちゃだ。アンプにも繋いでいない。
それでも、音が出た。
もう一度、弾く。
また音が出る。
下手くそな音。でも、確かに音だ。
窓の外が明るくなり始めていた。
朝が来る。
僕は、ギターを膝に載せたまま、窓の外を見ていた。
空が白んでいく。
星が消えていく。
母の顔を思い出そうとした。
でも、うまく思い出せなかった。
若い頃の母は覚えている。ピアノを弾いていた母。僕を抱き上げて笑っていた母。
晩年の母の顔を、僕は知らない。
葬式にも行かなかったから。
でも、母はずっとそこにいた。
客席の後ろで。
僕を見ていた。
たった一人の観客として。
最初から最後まで。
ずっと。
僕は、弦に触れた。
錆びた弦が、かすかに震えた。
音は出なかった。
でも、振動は伝わった。
指先から、腕へ。腕から、胸へ。
母が聴いていた音。
客席の後ろで、一人で聴いていた音。
それを、もう一度。
もう一度だけ。
弾いてみてもいいだろうか。
誰に聞いているのか分からなかった。
母に聞いているのか。
自分に聞いているのか。
窓の外で、鳥が鳴いた。
朝が来た。
僕は、ギターを抱えたまま、目を閉じた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




