【嘘つきの恋文】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
古書店に入ったのは、雨宿りのつもりだった。
傘を持たずに出た自分を呪いながら、神保町の路地裏で見つけた小さな店に飛び込んだ。「青葉堂」という看板は半分かすれていて、ガラス戸を開けると、埃っぽい紙の匂いが鼻をついた。
店主らしき老人は奥のカウンターで新聞を読んでいて、こちらを一瞥しただけで何も言わなかった。
適当に棚を眺める。革張りの詩集、黄ばんだ文庫本、見たこともない雑誌のバックナンバー。時間を潰すには悪くない。
そのとき、棚の隅に無造作に置かれた木箱が目に入った。「ご自由にお持ちください」と手書きの札が貼ってある。中を覗くと、古い葉書や写真、そして——薄茶色に変色した封筒の束があった。
何気なく手に取った。十通ほどの封筒が、紐でひとまとめにされている。宛名はすべて同じ。「愛しい彩香へ」と、几帳面な字で書かれていた。
店主に目をやる。相変わらず新聞に没頭している。
読んでしまおうか。他人の手紙を覗き見る背徳感と、小さな好奇心が勝った。一番上の封筒を開ける。日付は二〇〇三年四月十日。二十年以上前だ。
「彩香へ。今日、君と出会った。駅前の花屋で、君は白いガーベラを選んでいた。僕が声をかけると、君は少し驚いた顔をして、それからふわりと笑った。あの笑顔を、僕は一生忘れないと思う」
出会いの手紙。初々しいラブレターだった。
次の手紙を開く。五月の日付。
「今日、初めて手を繋いだ。君の手は思ったより小さくて、冷たかった。『手、冷たいでしょ』と君は恥ずかしそうに言ったけれど、僕にはちょうどよかった」
微笑ましくなって、次々と読み進めた。夏祭りに行った話。秋に風邪をひいた彩香を看病した話。クリスマスにマフラーを贈った話。
けれど、五通目を読んだあたりで、妙な違和感を覚えた。
「今日は君の誕生日だ。君は相変わらず、白いガーベラが好きだと言った。去年もそう言っていた気がする。僕たちは何も変わらない」
——何も変わらない?
恋人同士なのに、一年経っても関係が深まっている様子がない。手紙の内容はどれも初々しいまま、まるで同じ季節を繰り返しているようだった。
六通目。
「君と会うのは、いつも駅前の花屋の近くだ。君はいつも白いガーベラを見ている。声をかけると、少し驚いた顔をして、それからふわりと笑う」
背筋が冷たくなった。
これは——最初の手紙と同じだ。
慌てて残りの手紙を全部開いた。七通目も、八通目も、書かれている内容に既視感があった。場所や季節は違っても、どこかで読んだエピソードの繰り返しだった。会話の内容も、彩香の仕草も、判で押したように同じだ。
彩香は、実在しない。
この人は、架空の恋人に向けて、同じ恋を何度も何度も書き直していたのだ。
なぜ?
最後の手紙を開いた。日付は二〇一八年十二月二十四日。最初の手紙から十五年。
「彩香へ。
いや、この手紙を読んでいる誰かへ。
あなたがこれを読んでいるということは、私はもうこの世にいないのでしょう。そして、この手紙の束が古本屋か、あるいはどこか見知らぬ場所に流れ着いたということです。
彩香は存在しません。あなたはもう気づいていると思いますが。
私は生涯、誰とも深い関係を築けませんでした。臆病だったのです。傷つくのが怖かった。傷つけるのも怖かった。だから誰にも近づかず、誰も近づけず、ひとりで生きてきました。
でも、寂しかった。
だから私は、彩香を作りました。架空の恋人に手紙を書くことで、私は恋を知った気になれた。誰かを愛している自分を、想像することができた。
馬鹿げていると思うでしょう?
私もそう思います。
でも、この手紙を書いている時間だけは、私は幸せだったのです。届かない言葉を綴ることに、意味があるのかと何度も思いました。誰にも読まれない手紙に、価値があるのかと。
今なら、答えが分かります。
ある。意味は、ある。
届かなくても、届けたいと思ったこと。言葉にならなくても、言葉にしようとしたこと。その気持ちは本物だった。彩香は存在しなくても、彩香を愛した私は存在した。
そしてこの手紙は今、あなたに届いた。
見知らぬあなたに、私の言葉が届いた。
それだけで、私が生きた意味はあったのだと思います。
もしあなたに、届けたい言葉があるのなら。
どうか、臆病にならないでください。
私のようには、ならないでください」
手紙を持つ手が震えていた。
気づくと、雨は止んでいた。
店主に会釈をして外に出る。空は曇ったままだったが、アスファルトは濡れて光っていた。
ポケットからスマホを取り出す。連絡先を開く。
佐々木健太。五年前に喧嘩別れした、高校からの親友。些細なことだった。飲み会で言い合いになって、売り言葉に買い言葉で、それきりだ。何度か連絡しようとした。でも、今さら何を言えばいいのか分からなかった。向こうだって連絡してこないんだから、もういいだろうと思った。
——どうか、臆病にならないでください。
画面を見つめる。
五年。長すぎただろうか。今さら連絡して、何になるだろうか。
でも、あの人は十五年間、届かない手紙を書き続けた。誰にも届かないと分かっていて、それでも書き続けた。
俺の言葉は、まだ届く可能性がある。健太はまだ、生きている。
指が震える。
画面をタップする。メッセージ入力欄が開く。
何を書けばいい。「久しぶり」? 「元気?」 五年の沈黙を破る言葉が見つからない。
——届かなくても、届けたいと思ったこと。言葉にならなくても、言葉にしようとしたこと。
目を閉じる。深呼吸をする。
そして、打った。
「健太。あの時はごめん。ずっと連絡しようと思ってた。今さらだけど、また会えないかな」
送信ボタンを押す前に、一瞬だけ迷った。
でも、あの茶色い封筒の束が頭をよぎった。十五年分の届かなかった言葉。それでも、意味はあったと書き残した人。
俺には、まだ届けられる。
親指が、送信ボタンに触れた。
既読がつくかどうかは分からない。返信が来るかどうかも分からない。
でも、言葉は旅立った。
スマホをポケットにしまい、歩き出す。
雲の切れ間から、薄い光が差し込んでいた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




