【さよなら、幼なじみ】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
第一章 あの頃の夏
福岡市の西の外れに、小さな住宅街があった。
築三十年を超えた一戸建てが肩を寄せ合うように並び、どの家の庭にも夏みかんやびわの木が植えられている。昭和の終わりに開発されたその一角は、令和を迎えた今もほとんど景色が変わっていない。
藤原柚葉と野村陸は、その住宅街の隣同士の家に生まれた。
それも同じ年の、同じ月の、同じ日に。しかも同じ病院で。
「うちのお母さんがね、陸くんのお母さんと関西から来てすぐで知り合いがいなかったから、一緒に関西弁で関西の話をするのが楽しかったんだって」
柚葉は何度もその話を母から聞かされていた。
柚葉の母と陸の母は偶然にも同じ産院の同じ部屋で、出産予定日も近く、自然と言葉を交わすようになった。そして関西弁で話せるうちに2人の友情は深まり、やがてお互いの子供も自然と一緒に遊ぶようになった。
物心ついた頃には、もう陸は隣にいた。
「柚葉、今日は絶対見つけるぞ」
五歳の夏、陸は木の枝を片手にそう宣言した。
「なにを?」
「ひみつきち」
「ひみつきち?」
「おう。まだ誰も見つけてないやつ」
陸はいつもそうだった。根拠のない自信に満ちていて、目をきらきら輝かせながら、まだ見ぬ何かを追いかけている。柚葉はその背中を見るのが好きだった。
二人は近所の雑木林に分け入った。大人の膝くらいまである草をかき分け、蜘蛛の巣を枝で払いながら進む。柚葉は何度も転びそうになったけれど、陸が時折振り返って「大丈夫か?」と声をかけてくれるから、怖くはなかった。
「あった!」
陸が叫んだ。
雑木林の奥に、朽ちかけた小さな祠があった。苔むした石の土台に、傾いた木の屋根。誰かが昔お参りしていた名残か、割れた陶器のかけらが散らばっている。
「すげえ、ひみつきちだ」
陸は興奮して周りを見回した。柚葉もつられて胸が高鳴る。
「りく、これ何のおやしろ?」
「わかんねえ。でもここは俺たちだけの場所だ。誰にも言うなよ」
陸が人差し指を立てて唇に当てた。柚葉は何度も頷いた。
その日から、祠は二人だけの秘密基地になった。
夏休みになると、柚葉は毎朝陸の家の前で待った。陸が寝坊して出てこないと、インターホンを押してでも起こした。麦わら帽子をかぶり、虫かごと網を持って、二人は何度もあの祠を目指した。
「柚葉、見ろよ。カブトムシ」
「きゃっ、おっきい!」
「触ってみろって。怖くねえから」
陸に促されて恐る恐る指を伸ばすと、カブトムシの硬い背中が夏の熱を帯びていた。
「……あったかい」
「だろ? 生きてるからな」
陸が笑った。その笑顔が、柚葉にはまぶしかった。
秋が来て、冬が来て、また春が来る。季節が何度か巡り、小学二年生の秋に柚葉は気がついた。自分は陸のことが好きなのだと。
陸が他の女の子と話していると、胸がざわざわした。陸が風邪で学校を休むと、自分まで元気がなくなった。これが「好き」なのだと、子供向けの漫画で読んで知った。
でも、その気持ちを伝えることはできなかった。だって陸はいつも隣にいる。幼馴染だから。改まって「好き」と言うのは、なんだか恥ずかしいというより、おかしな気がした。
だから黙っていた。いつか言えばいい。陸はずっと隣にいるのだから。
そう思っていた。
小学三年生の冬、陸の父親に東京への転勤が決まった。
「ごめん、柚葉。俺、東京に行くことになった」
放課後の教室で、陸はそう言った。いつもの明るい声ではなかった。
「……東京?」
「親父の仕事で。来月には引っ越す」
柚葉は言葉が出なかった。頭が真っ白になって、ただ陸の顔を見つめることしかできなかった。
引っ越しの日、柚葉は陸の家の前に立っていた。
トラックに荷物が積み込まれていく。陸の母が柚葉の母と抱き合って泣いている。陸は最後に柚葉の前に来て、照れくさそうに笑った。
「また会おうな」
「……うん」
「絶対だぞ」
「うん」
柚葉は必死に涙をこらえた。泣いたら陸が困ると思ったから。
トラックが走り去っていく。陸が窓から手を振っている。柚葉も手を振り返した。その姿が角を曲がって見えなくなっても、柚葉はずっとそこに立っていた。
あの冒険の続きを、いつかまた一緒にできると信じていた。
第二章 高知の再会
十七年という月日は、思っていたよりも長かった。
藤原柚葉は二十五歳になっていた。福岡の大学を出て、地元の食品メーカーに就職し、営業部で三年目を迎えた春。突然の内示が届いた。
四国支社への転勤。勤務地は高知県。
「高知……」
柚葉は日本地図を思い浮かべた。四国の南側。カツオのたたきと坂本龍馬。それくらいしか知らない。
両親に報告すると、父は黙って頷き、母は泣いた。
「寂しくなるねえ」
「お母さん、そんな遠くないよ。飛行機ですぐだし」
「でも柚葉、一人暮らししたことないやろ?」
母の言う通りだった。大学も自宅から通い、社会人になってからも実家を出なかった。一人暮らしに憧れがなかったわけではない。ただ、なんとなく踏み出せずにいた。
四月、柚葉は高知市内のワンルームマンションに引っ越した。
荷解きを終えて、がらんとした部屋を見回す。冷蔵庫の唸る音だけが響いている。窓の外には見知らぬ街並みが広がり、知っている顔は誰もいない。
涙が出そうになった。二十五にもなって情けない。でも、一人というのはこんなにも心細いものなのか。
最初の週末、柚葉は生活用品を買いに街へ出た。
スマートフォンで検索して見つけたドラッグストアは、マンションから歩いて十分ほどの場所にあった。自動ドアをくぐると、冷房の効いた空気が肌に触れる。
シャンプー、洗剤、歯磨き粉。カゴに次々と商品を入れながら、柚葉は店内を歩いた。ゴミ袋はどこかな、と案内表示を見上げたとき。
「……柚葉?」
声をかけられた。
振り向くと、男が立っていた。柚葉より頭一つ分高い。短く整えられた黒髪に、くっきりした眉。どこかで見た顔だと思った。でも、誰だったか——
「やっぱり柚葉だ。俺だよ、陸」
陸。
その名前を聞いた瞬間、十七年分の記憶が一気に蘇った。
木の枝を振り回す後ろ姿。カブトムシを見せてくれた笑顔。引っ越しの日、トラックの窓から手を振っていた少年。
「陸……くん?」
「おう。久しぶり」
陸は昔と同じように笑った。あの日と変わらない、まぶしい笑顔だった。
「なんで高知に?」
「転勤。東京の会社なんだけど、こっちの支店に飛ばされた。柚葉は?」
「わたしも転勤……福岡から」
「マジか。すげえ偶然だな」
陸はまるで昨日まで一緒にいたかのように、気さくに話しかけてきた。柚葉は混乱していた。十七年ぶりに会った幼馴染が、なぜ同じ高知にいるのか。なぜこんな偶然が起きるのか。
「あ、ごめん。買い物中だったよな。俺もだけど」
陸が自分のカゴを持ち上げた。中にはカップ麺と缶ビールが入っている。
「陸くんは、一人?」
「ああ、一人暮らし。高知に来て三ヶ月かな」
「彼女とかは?」
「いねえよ。東京で付き合ってた子とは、こっち来る前に別れた。柚葉は?」
「わたしも……今はいない」
陸は一瞬驚いたような顔をして、それから何か言いたげに口を開きかけた。でもすぐに笑顔を作って話題を変えた。
「なあ、この後さ、時間ある? 飯でも行かない? せっかくの再会なんだし」
「うん……行く」
断る理由がなかった。
というより、断りたくなかった。
高知の繁華街は、週末とあって賑わっていた。
陸に連れられて入った居酒屋は、カウンターと小上がりだけのこぢんまりとした店だった。壁にはカツオのたたきや鯨肉の貼り紙が並んでいる。
「高知と言えばやっぱこれでしょ」
陸がカツオのたたきを注文した。運ばれてきた皿には、表面を炙った赤身がずらりと並んでいる。柚葉は一切れを箸で取り、口に運んだ。
「おいしい……」
「だろ? 東京で食うのと全然違うんだよ」
生ビールで乾杯して、二人は昔話を始めた。あの祠のこと、カブトムシを捕まえた夏のこと、柚葉がよく転んでいたこと。
「おまえさ、俺の後ろついて来るくせに、すぐ転ぶんだよな」
「だって陸くん足速かったから」
「待ってやっただろ、いつも」
「……待ってくれた」
そうだ。陸はいつも待っていてくれた。振り返って、「大丈夫か?」と手を差し伸べてくれた。
「あの頃、楽しかったなあ」と柚葉は言った。
「ああ。毎日があっという間だった」
陸がビールを飲み干した。その横顔は少年の面影を残しながら、ちゃんと大人の男の顔になっていた。
十七年という時間が流れたのだ。
お互いに別々の人生を歩んできた。陸は東京で何を経験したのだろう。どんな恋をして、何に傷ついて、何を乗り越えてきたのだろう。
聞きたいことは山ほどあるのに、うまく言葉にできなかった。
「なあ、柚葉」
「なに?」
「また会えてよかった」
陸がまっすぐに柚葉を見た。その目は昔と変わらず、まぶしかった。
柚葉の胸の奥で、何かが動いた。小学二年生の秋に気づいた、あの気持ち。十七年経っても消えていなかったのだと、その時初めて知った。
第三章 恋のはじまり
それから、二人は頻繁に会うようになった。
平日はそれぞれの仕事があるから、週末になると示し合わせて出かけた。ひろめ市場で昼から酒を飲んだり、日曜市を冷やかしたり、桂浜まで足を伸ばしたり。
「坂本龍馬像、でっか」
陸が銅像を見上げて言った。
「教科書で見るより全然大きいね」
「あいつも二十代で世の中変えようとしてたんだよな。俺なんか会社と家の往復だけなのに」
「わたしもだよ。あ、でも今は陸くんの家にも行くから、三角形になったかな」
「それ往復って言わねえだろ」
陸が笑った。柚葉もつられて笑う。二人でいると、不思議と言葉が途切れなかった。
五月の連休に、陸が言った。
「なあ、付き合わない?」
桂浜の海を眺めていたときだった。あまりにも自然に言うものだから、柚葉は一瞬聞き間違えたかと思った。
「……え?」
「俺さ、ずっと後悔してたんだよね。引っ越すとき、何も言えなかったこと」
陸は海を見たまま続けた。
「本当はおまえに伝えたいことがあった。でも小三の俺には無理だった。東京行って連絡しようと思って、でも結局勇気が出なくて。時間経てば経つほど、今さらって思っちゃってさ」
波の音が二人の間を満たした。
「でも、こうして再会して、また一緒にいる時間が過ごせて。これって運命じゃねえかなって。そう思うのは俺だけ?」
「……思わない」
「え?」
「わたしも思う。運命だって」
柚葉は陸を見上げた。目が合う。昔と同じ、まぶしい目。でも今はその中に大人の陰影がある。
「わたしも、陸くんのこと——」
言いかけた言葉は、陸の唇にふさがれた。
潮の香りがした。少し強引で、でも優しいキスだった。
目を閉じて、柚葉は思った。ようやく、ここまで来れた。
十七年分の片想いが、今ようやく実を結ぶのだと。
恋人同士になってから、二人の関係は親密さを増した。
週末だけでなく、平日の夜も時間が合えば食事をした。陸の部屋で一緒に映画を観たり、柚葉の部屋で陸が手料理を振る舞ったりした。
「陸くん、料理できたんだ」
「一人暮らし長いからな。これでも自炊派なんだぜ」
陸が作った肉じゃがは、柚葉の母のものとは味付けが違ったけれど、それはそれでおいしかった。
「ねえ、覚えてる? あの祠」
「秘密基地だろ? 覚えてるに決まってんじゃん」
「わたし、あそこが世界で一番好きな場所だった」
「俺も。あそこに行くといつも柚葉がいてさ。二人だけの場所って感じがして」
「もう、今はないのかな」
「どうだろ。今度福岡に帰ったとき、見に行ってみようぜ」
「うん。行こう」
夜、柚葉の狭いベッドで、二人は肩を寄せ合った。陸の体温を近くに感じながら、柚葉はこの上ない幸福を噛みしめていた。
これが欲しかった。この温もりが、この安心感が、ずっとずっと欲しかった。
「なあ、柚葉」
「なに?」
「俺さ、おまえといると落ち着くんだよね。昔から知ってるからかな。何も隠さなくていい感じがする」
「わたしも。陸くんの前だと、全部見せられる気がする」
陸が柚葉を抱き寄せた。髪を撫でる手が優しい。
「ずっとこうしていたいな」
「……うん」
この時間が永遠に続けばいいと思った。
二人はあの頃に戻れたのだ。木の枝を持って冒険に出かけた、あの無邪気な時代に。
そう信じていた。
第四章 すれ違い
最初の違和感は、小さなことだった。
六月のある夜、陸が柚葉の部屋に来たときのこと。柚葉は仕事で疲れていて、少し愚痴をこぼした。
「今日の会議、部長にめちゃくちゃ言われた……」
「そっか。大変だったな」
陸はそう言いながら、テレビのリモコンを手に取った。
「……それだけ?」
「え?」
「もうちょっと聞いてくれるかなって」
「いや、聞いてるって。でもさ、愚痴言っててもしょうがなくない? 切り替えた方がいいよ」
陸に悪気がないのはわかっていた。でも、柚葉が欲しかったのは解決策ではなく、ただ「大変だったね」と寄り添ってもらうことだった。
「……うん。そうだよね」
柚葉は曖昧に頷いた。小さな棘が胸に刺さったまま。
別の日には、陸がふと言った。
「おまえ、昔もっと積極的だったよな」
「え?」
「いつも俺について来るじゃん。自分から冒険しようって言わないよな」
「だって陸くんがリードしてくれるから」
「それ、なんかちょっと疲れるんだよね。たまには柚葉から何か提案してほしいっていうか」
「……ごめん」
柚葉は謝りながら、どこか釈然としない気持ちを抱えていた。昔の陸は、ついてくる柚葉を嫌がったりしなかった。むしろ「大丈夫か?」と振り返ってくれた。
あれ、と思った。
昔の陸と、今の陸。
同じ人のはずなのに、なぜこんなにも違う気がするのだろう。
陸の方も、同じような戸惑いを感じていた。
柚葉と過ごす時間は楽しい。でも、時々息苦しさを覚える。
「ねえ陸くん、明日の土曜どうする?」
「んー、まだ決めてない」
「わたし、ずっと行きたかったカフェがあるの。一緒に行かない?」
「いいけど……たまには別々に過ごすのもありじゃない?」
柚葉の顔が曇るのがわかった。
「そ、そうだよね。じゃあ、また今度……」
そうやって柚葉がすぐに引き下がるのが、陸にはもどかしかった。
昔の柚葉は、もっとわがままだったはずだ。起きるまで何度もインターホンを鳴らし、自分のペースに巻き込んでくる強さがあった。それなのに、今の柚葉は陸の顔色ばかり窺っているように見える。
あるいは、自分の記憶が間違っているのか。
十七年という歳月は、思い出を美しく塗り替えてしまったのかもしれない。
「なあ、柚葉」
「なに?」
「俺たちさ、本当にうまくいってるのかな」
柚葉の手が止まった。
「……どういう意味?」
「いや、なんかさ、俺が覚えてる柚葉と、今の柚葉って、ちょっと違う気がして」
「わたしも……思ってた」
柚葉がぽつりと言った。
「陸くん、昔はもっと待っていてくれたのに」
「待ってた?」
「うん。わたしが転んでも、ついていけなくても、『大丈夫か』って振り返ってくれた。でも今は、なんか、先に行っちゃってる感じがする」
陸は黙り込んだ。
言われてみれば、そうかもしれない。昔は柚葉のペースに合わせることに何の抵抗もなかった。でも今は、自分のリズムを崩されるのが煩わしいと感じる瞬間がある。
「俺たち、十七年会ってなかったんだもんな」
「うん」
「その間に変わるよな、そりゃ」
「……変わっちゃったのかな、わたしたち」
違う、と陸は思った。変わったんじゃない。
もともと知らなかっただけだ。大人になった相手のことを。
七月に入ると、二人の間に沈黙が増えた。
一緒にいても、何を話せばいいかわからない。昔話はもう出尽くした。今の話をしようとすると、どこか嚙み合わない。
「最近どう?」
「……普通かな」
「そっか」
会話が続かない。スマートフォンを眺める時間が増えた。隣にいるのに、遠くにいるような感覚だった。
あれほど会いたかった人なのに。やっと手に入れたはずなのに。
なぜこんなに苦しいのだろう。
柚葉はベランダから夜空を見上げた。高知の空は福岡より星が多い気がする。
「ねえ」
「ん?」
「わたしたち、幼馴染じゃなかったらどうだったかな」
「どういう意味?」
「だから、もし高知で初めて会った他人だったら」
陸は少し考えて答えた。
「多分……付き合ってないんじゃない?」
「……そうだよね」
それは残酷な真実だった。
二人を結びつけていたのは、恋心ではなく郷愁だったのだ。「あの頃」への憧憬。「もしも」への未練。
本当の相手を見ていなかった。見ていたのは、記憶の中の幻影だった。
第五章 さよなら、幼なじみ
八月の終わり、二人は別れを決めた。
場所は初めて再会したあのドラッグストアの近く、小さな公園のベンチだった。夏の終わりの夜風が、汗ばんだ肌を撫でていく。
「結論、出ちゃったね」
柚葉が静かに言った。
「ああ。俺たち、合わねえよ」
陸の声には怒りも悲しみもなく、ただ疲れたような響きがあった。
「ごめんな。俺、おまえを『昔の柚葉』にしようとしてた。勝手に」
「わたしも。陸くんに『あの頃の陸くん』を求めてた」
二人とも、過去の亡霊と恋をしていたのだ。目の前の生身の人間ではなく。
「お互い、もっと合う相手がいるよ」
陸がそう言って、少し笑った。
「俺のこと待っててくれなくていいやつ。自分でどんどん進んでいけるやつ」
「わたしも。わたしのペースに合わせてくれる人。……陸くんじゃない誰か」
それは互いを否定する言葉ではなかった。ただ、形が合わなかっただけ。無理に削って嵌め込もうとしたら、二人とも傷だらけになるだけだった。
「じゃあな、柚葉」
「うん。……元気でね」
立ち上がりかけて、陸が動きを止めた。振り返って、柚葉を見下ろす。
「最後に、いいか」
何を言われるのだろうと思う間もなく、陸が屈んで唇を重ねた。
桂浜での初めてのキスとは違った。潮の香りもしないし、胸の高鳴りもない。ただ静かで、どこかひんやりとしていた。
それでも柚葉はこの温もりを記憶に刻もうとした。
もう二度と触れることのない温もりを。
唇が離れる。
陸がもう一度「じゃあな」と言って背を向けた。
その背中を見つめながら、柚葉の目から涙があふれた。止めようと思っても止まらなかった。
「……っ」
声が漏れた。嗚咽を噛み殺そうとしたけれど、もう無理だった。
「幼馴染なんかじゃなきゃ良かった」
自分でも思っていなかった言葉が口をついて出た。
陸の背中が止まった。
「隣の家じゃなくて、同じ日に生まれてなくて、秘密基地なんか一緒に見つけてなければ……」
声が震える。涙が頬を伝い、顎から落ちる。
「そしたらこんなに期待しなかった。こんなに夢見なかった。陸くんと再会したとき、『運命だ』なんて思わなくて済んだのに……」
幼馴染という呪い。
共有した過去が美しすぎて、現在を曇らせる。「あの頃に戻れる」という幻想が、目の前の相手を見えなくさせる。
普通に出会った男女だったら。高知で初めて会ったただの同僚だったら。
もっと冷静に、相手を知ることができたかもしれない。合わないとわかれば、傷が浅いうちに離れられたかもしれない。
でも幼馴染だったから。ずっと好きだったから。
「運命」に縋って、「きっとうまくいく」と信じて、気づかないふりを続けてしまった。
陸は振り返らないまま、しばらくそこに立っていた。
やがて。
「俺もだよ」
低い声が聞こえた。
「俺も、幼馴染じゃなければって、何度も思った」
陸の肩が小さく揺れている。
「でもな、柚葉」
振り返った陸の目も、赤くなっていた。
「それでも俺は、あの頃おまえに会えてよかった」
柚葉は涙でぼやける視界の中、陸を見た。
「おまえがついて来るから、冒険が楽しかった。おまえが待っててくれるから、毎日起きるのが楽しみだった。あの時間があったから、俺は俺になれた」
陸が一歩だけ近づいてきた。もう一度、手を伸ばしそうになって——でも、やめた。
「だから、幼馴染でよかったんだよ。おまえの幼馴染で」
柚葉は何も言えなかった。涙が止まらなくて、頷くことしかできなかった。
「泣くなよ。……俺まで泣くだろ」
陸が乱暴に目元を拭った。
「またな、柚葉。今度会うときは、いい報告しろよ」
「陸くんも……」
それが、最後の言葉だった。
陸が歩いていく。夏の終わりの公園を横切って、街灯の光の中に消えていく。
柚葉はベンチに座ったまま、その背中を見送った。
追いかけなかった。
昔はいつだって追いかけていた。陸の後ろを、転びながらでもついて行った。でも今夜は追わない。
追いかけた先に、幸せはないとわかっているから。
木の枝を持った少年はもういない。秘密基地で待っていた少女ももういない。二人ともとっくに大人になっていて、別々の人生を歩んできて、そしてこれからも別々に歩いていく。
でも、あの夏は確かにあった。
一緒に見つけた祠。捕まえたカブトムシ。「絶対だぞ」と交わした約束。
あの記憶だけは、誰にも汚させない。
柚葉は涙を拭いて、夜空を見上げた。
高知の空には、今夜も星が瞬いている。
三ヶ月後の秋、柚葉は仕事で松山へ出張した。
駅のホームでふと、福岡行きの列車の案内を見た。帰ろうと思えば帰れる距離。でも、今はまだいい。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。同期の女性からのメッセージだった。
『今度合コンあるんだけど、来ない? いい人いるかもよ』
柚葉は少し考えて、返信を打った。
『行く』
送信ボタンを押して、スマートフォンをしまった。
新しい出会いが待っているかもしれないし、待っていないかもしれない。それでもいい。前を向いて歩き出すことに意味がある。
列車がホームに滑り込んでくる。
柚葉は一度だけ東の空を見て、それから乗り込んだ。東京に陸がいるのか、まだ高知にいるのかは知らない。知らなくていい。
電車が動き出す。
流れていく景色の中に、小さな祠が見えた気がした。もちろん錯覚だ。でも、それでよかった。
あの場所は、もう二人だけの秘密ではない。
ただ、柚葉の胸の中にだけ残る、幼い日の宝物になった。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




