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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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5/30

【踊り場に降る】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

「あんた、どうせ暇なんでしょ」

母のその一言で、私は十五年ぶりに篠原真白の人生に関わることになった。

東京での仕事がひと段落したタイミングだった。半年がかりのウェブサイト制作がようやく終わり、次の案件までしばらく間が空く。実家にでも帰ってのんびりするか——そう思っていた矢先の電話だった。

「真白ちゃん、覚えてるでしょ。篠原さんとこの」

覚えている、というより、忘れようがない。小学校の六年間、毎日一緒に登下校した幼馴染だ。中学に入ってから関わりがなくなって、私が高校卒業と同時に上京してからは、顔を見ることもなくなったけれど。

「亡くなったの。三ヶ月前に」

「……え」

「心臓。昔から悪かったのよね、あの子」

知らなかった。いや、知っていたのかもしれない。曖昧な記憶の底に、そんな話があったような気もする。

「でさ、身寄りがいないのよ。ご両親も何年か前に続けて亡くなってて、親戚のおばさんは施設。大家さんが困っちゃって、近所のみんなで少しずつ手伝ってるんだけど」

「……うん」

「本がすごいの。何百冊もあるの。あの子、図書館で働いてたから。誰か関東で暇してる人いないかって話になって、奈緒がいるじゃないって」

断る理由を探したが、見つからなかった。

「何日か泊まりがけで手伝ってくれない? お駄賃は出すから」

仕方ない、と思った。昔は友達だったのだ。最後くらい手伝ってもいいだろう。

「……わかった」

「助かるわ。じゃあ来週ね」

電話を切ってから、私は窓の外を見た。東京は晴れていた。

真白。

その名前を心の中で転がしてみる。十五年間、意識して思い出すことを避けていた名前。なのに不思議と、特別な感情は湧いてこなかった。

私たちは中学のときに、自然と疎遠になった。理由は思い出せない。きっと大した理由なんてなかったのだろう。女子中学生の友情なんて、そんなものだ。

そう、自分に言い聞かせた。

真白のアパートは、駅から歩いて十五分ほどの住宅街にあった。

築三十年は経っていそうな木造二階建て。外壁のペンキは色褪せ、階段の手すりは錆びている。真白は一階の角部屋に住んでいたらしい。

大家さんから鍵を受け取り、ドアを開ける。

「……うわ」

思わず声が出た。

本だった。

壁一面の本棚。床に積まれた本の塔。テーブルの上にも、椅子の上にも、本、本、本。一人暮らしの1Kにしては、あまりに本が多すぎる。

「司書だったって言ってたものね……」

独り言を呟きながら、部屋の中に足を踏み入れる。本の匂いがした。古い紙とインクの匂い。真白はこの匂いに囲まれて、一人で暮らしていたのだ。

本棚の間を縫うようにして奥に進む。小さなキッチン。清潔に保たれた調理台。冷蔵庫には何も貼られていない。カレンダーもメモも、写真も何もない、静かな部屋。

でも、寂しい部屋ではなかった。本がたくさんあるせいか、むしろ充実した空気がある。真白はここで、本に囲まれて、穏やかに暮らしていたのだろう。

その姿を想像して、少しだけ胸が痛んだ。

窓の外で、ぽつりと音がした。見上げると、空が暗くなり始めている。

雨だ。

傘を持ってきていなかったことを思い出し、舌打ちする。まあいい。今日は下見だけのつもりだったし、少し待てば止むだろう。

段ボールを組み立て、とりあえず目についた本を詰め始める。文庫本、ハードカバー、全集、画集。ジャンルは様々で、規則性が見えない。真白がどんな基準で本を選んでいたのか、今となっては知る術もない。

一時間ほど作業して、ふと顔を上げた。

雨脚が強くなっている。窓ガラスを叩く音が、部屋の中に響く。このぶんだと、しばらく止みそうにない。

ため息をついて立ち上がったとき、ふと玄関のほうが気になった。

何か、音がしたような気がする。

郵便受けのほうに歩いていくと、床に白い封筒が落ちていた。ドアの郵便受けから滑り落ちたらしい。

拾い上げる。宛名は「篠原真白様」。差出人の名前はない。

三ヶ月前に亡くなった人に、まだ郵便物が届くのか。DMか何かだろうかと思いながら、封筒を裏返す。

何も書かれていない。切手は貼ってあるが、消印がにじんでよく見えない。

「……」

開けるべきか、迷った。他人の郵便物だ。でも真白はもういない。届いた郵便物の処理も、私の仕事のうちだろう。

封を切る。

中には、便箋が一枚だけ入っていた。白い便箋に、青いインクの文字。たった一行。

『あの日のこと、覚えてる?』

それだけだった。

差出人の名前も、日付も、他には何も書かれていない。ただその一行だけが、青いインクでぽつんと記されている。

「何これ……」

意味がわからなかった。

あの日とは、いつのことだろう。何のことだろう。そもそも、誰が書いたのだろう。

封筒をもう一度見る。消印は——やはり、にじんでいて読めない。雨のせいだろうか。

窓の外で、雨音が強まった。

なんとなく、その手紙をポケットにしまった。気味が悪いというより、気になったのだ。真白に宛てた、差出人不明の手紙。あの日のこと、覚えてる。

真白には、誰かに問いかけられるような「あの日」があったのだろうか。

その夜、私は実家に帰ってからも、手紙のことを考えていた。

翌日は晴れていた。

母に車を借りて、再び真白のアパートへ向かう。今日は本格的に作業するつもりで、段ボールを十枚ほど積み込んできた。

「お隣さん」という老婦人に挨拶される。

「片付け、大変ねえ。真白ちゃん、本が多かったから」

「そうなんです。何百冊あるのか……」

「真面目な子だったのよ。静かでね。あまりお話ししたことはなかったけど、挨拶はいつもきちんとしてくれて」

「そうですか」

「でもね、最近は少し様子が違ったの」

「違った?」

老婦人は、少し声をひそめた。

「男の人がね、来てたのよ。この半年くらいかしら。たまにだけど」

男の人。真白に、そういう相手がいたのか。

「どんな人ですか」

「三十代くらいの、背の高い人。眼鏡をかけてて、おとなしそうな感じ。真白ちゃんと一緒に歩いてるのを何度か見かけたわ」

「……そうですか」

「仲良さそうだったわよ。真白ちゃん、笑ってたもの。あの子が笑ってるの、久しぶりに見たなって思って」

胸の奥が、ちくりと痛んだ。

真白が笑っていた。誰かと一緒に、幸せそうに笑っていた。私が知らない間に、真白は自分の人生を歩んでいたのだ。当たり前のことなのに、なぜか切なくなった。

「その人、今はどちらに?」

「さあ……最近は見かけなくなったわね。お仕事の都合かしら」

老婦人と別れ、部屋の片付けを再開する。

今日は晴れているからか、昨日より作業が捗った。本を段ボールに詰め、古紙回収に出すものと寄贈するものに分けていく。真白が勤めていた図書館に引き取ってもらえるものもあるかもしれない。

作業しながら、老婦人の言葉を思い出す。

男の人。背の高い、眼鏡の人。

ふと思った。昨日届いた手紙は、その人からではないだろうか。

真白が亡くなったことを知らずに、まだ手紙を送り続けている——そう考えれば、辻褄が合う。でも、あの文面は少し奇妙だ。「あの日のこと、覚えてる?」。恋人同士の手紙にしては、どこか不穏な響きがある。

その日、手紙は届かなかった。

次の日も、次の日も届かなかった。作業は順調に進み、本の山は少しずつ低くなっていく。でも手紙のことが、頭の隅に引っかかっていた。

四日目の朝、目が覚めると雨が降っていた。

窓を叩く雨音を聞きながら、なぜか予感があった。今日は届く、と。

アパートに着いて、作業を始める。昼過ぎ、ふと玄関のほうを見た。

やはり、床に白い封筒が落ちていた。

拾い上げる。宛名は「篠原真白様」。差出人の名前はない。

封を開ける。白い便箋に、青いインクの文字。

『階段の踊り場。あなたの顔。私は覚えてる』

指先が、わずかに震えた。

階段。踊り場。あなたの顔。

その言葉を読んだ瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。錆びた扉が開きかけるような、不快な感覚。

「……何これ」

声が掠れた。

これは何なのだろう。誰が、何のために、こんな手紙を送っているのだろう。

雨音が、やけに大きく聞こえた。

翌日、私は真白が勤めていた図書館を訪ねた。

本の寄贈について相談するという名目だったが、本当の目的は別にあった。真白のことを、もっと知りたかった。手紙を送っている人物についても。

「篠原さんのお知り合いの方ですか」

対応してくれたのは、四十代くらいの女性職員だった。胸の名札に「河村」とある。

「幼馴染なんです。部屋の片付けを手伝っていて」

「そうでしたか……。篠原さんには、お世話になりました。真面目で、丁寧で、利用者さんからの信頼も厚くて」

「いい司書さんだったんですね」

「ええ。特に、常連の方には人気がありました」

常連。その言葉に、私は耳をそばだてた。

「あの、一つお聞きしてもいいですか」

「はい」

「真白……篠原さんと親しくしていた男性のことを、ご存じないですか。三十代くらいの、眼鏡をかけた背の高い方」

河村さんの表情が、わずかに柔らかくなった。

「堂島さんのことかしら」

「堂島さん」

「ええ。堂島修一さん。図書館の常連さんでね、もう何年も通ってくださってたの。篠原さんとは……そうね、いつからかしら。閉館後に一緒に帰るようになって」

私は黙って聞いていた。

「無口な方でね。でも本の話になると、少しだけ饒舌になるの。篠原さんと二人で、静かに話してるのをよく見かけたわ。お似合いだなって、みんなで言ってたの」

「今は、どちらに」

「転勤なさったの。篠原さんが亡くなる少し前に。県外のほうへ」

「じゃあ、篠原さんが亡くなったことは……」

「お伝えしたわ。すぐに連絡先を調べて。お葬式には来られなかったけど、お花を送ってくださったの」

堂島さんは、真白の死を知っている。

では、あの手紙を送っているのは——誰だ。

「何かあったの?」と河村さんが首をかしげる。

「いえ……。ご本人に連絡を取ることは、できますか」

「ちょっと待ってね」

河村さんは奥に引っ込み、しばらくしてメモを持って戻ってきた。

「これ、堂島さんの連絡先。何かあったのなら、直接聞いてみたらいいわ。いい方よ、堂島さん」

メモを受け取り、図書館を出た。空は曇っていたが、雨は降っていない。

その足で、私は堂島修一に電話をかけた。

三回コールして、繋がった。

「はい」

低い、落ち着いた声だった。

「突然すみません。私、篠原真白の幼馴染の、藤村奈緒と申します」

少しの沈黙のあと、「ああ」と声がした。

「真白さんから、聞いたことがあります。昔の友達だって」

真白が私のことを話していた。そのことに、少し驚いた。

「今、真白の部屋の片付けをしていて。それで、少しお話を聞きたいことがあるんですが」

「僕に、ですか」

「はい。もしよければ」

「……わかりました」

堂島さんは翌週、こちらに来る用事があるという。そのときに会う約束をした。

電話を切ってから、私は空を見上げた。

灰色の雲が低く垂れ込めている。もうすぐ、雨が降りそうだった。

堂島修一と会ったのは、一週間後のことだった。

駅前の喫茶店。窓際の席で待っていると、背の高い男性が入ってきた。眼鏡をかけた、おとなしそうな人。老婦人の言っていた通りだ。

「藤村さんですか」

「はい。堂島さん」

向かい合って座る。堂島さんはコーヒーを頼み、私はカフェオレを頼んだ。

「真白さんから、聞いていました」と堂島さんは言った。「小さい頃からの友達がいるって。奈緒ちゃんっていう」

「そう呼ばれてたんですか」

「ええ。よく話してくれました。小学校のときの思い出とか」

私は俯いた。真白が私のことを話していた。懐かしそうに、思い出を語っていた。なのに私は、真白のことをほとんど思い出さないまま十五年を過ごしていた。

「あの、一つ聞いてもいいですか」

「はい」

「真白に……手紙を送っていたりしますか」

堂島さんは首をかしげた。

「手紙、ですか」

「真白の部屋に、手紙が届くんです。雨の日だけ。差出人の名前がなくて」

「雨の日だけ?」

「はい。内容も少し——変わっていて」

私は手紙の文面を伝えた。「あの日のこと、覚えてる」「階段の踊り場」「あなたの顔」。

堂島さんは黙って聞いていた。その表情が、少しずつ曇っていくのがわかった。

「僕じゃないです」と堂島さんは言った。「僕は手紙を送っていません。真白さんが亡くなってから、一度も」

「じゃあ、誰が……」

「わかりません。でも——」

堂島さんは少し言いよどんでから、続けた。

「真白さんは、手紙を持っていました」

「手紙?」

「本棚の奥に、箱があるんです。古い木の箱。その中に、手紙がたくさん入っていると言っていました。誰からの手紙かは、教えてくれなかった。でも、大切なものだと」

本棚の奥。木の箱。私はまだ、そこまで片付けが進んでいなかった。

「真白さんは」と堂島さんは続けた。「過去に、何かあったんだと思います。中学生の頃に。詳しくは話してくれませんでしたが、ときどき、遠い目をすることがあった」

「遠い目」

「何かを思い出しているような。でも、思い出したくないような。そういう顔」

コーヒーが冷めていく。私は黙って聞いていた。

「僕と会うようになってから、少し変わりました。よく笑うようになって、外出も増えて。でも、ときどき——雨の日に、ぼんやりすることがあった」

雨の日。

また、雨だ。

「真白さんは」と堂島さんは言った。「藤村さんのことを、恨んでいなかったと思います」

「え?」

「よくわかりませんが、そんな気がするんです。話を聞いていて。真白さんは藤村さんのことを、懐かしそうに話していたから」

恨んでいなかった。

その言葉が、胸に刺さった。

恨まれることをした覚えはない。私たちは自然と疎遠になっただけだ。そのはずなのに——なぜ、「恨んでいなかった」という言葉が、こんなに重く響くのだろう。

喫茶店を出て、堂島さんと別れた。

空は曇っていた。今にも泣き出しそうな空。

私は真白のアパートに向かった。本棚の奥を、確かめなければならない。

本棚の奥には、確かに木の箱があった。

古い、飴色の木箱。手のひらに乗るくらいの大きさで、蓋には何の装飾もない。こんなものがあったなんて、今まで気づかなかった。本の奥に隠すように、置かれていたのだ。

蓋を開ける。

中には、手紙の束が入っていた。何十通も。いや、百通近くあるかもしれない。全て同じ白い封筒に入っていて、宛名は「篠原真白様」。差出人の名前はない。

最初の一通を開く。

『あの日のこと、覚えてる?』

次の一通。

『あの日のこと、覚えてる?』

その次も。その次も。

全て、同じ文面だった。

青いインクの、やや右上がりの筆跡。何十通、何百通と繰り返される、同じ一行。

「なに、これ……」

手が震えた。箱の中の手紙を、一通ずつ確認していく。全部同じ。全部同じ文面。全部同じ筆跡。

まるで、壊れた機械が同じ言葉を繰り返しているような。許しを求めているのか、それとも——忘れないでほしいと訴えているのか。

窓の外で、雨が降り始めた。

そのとき、玄関のほうで音がした。

郵便受けに何かが落ちる音。

立ち上がり、玄関に向かう。床に落ちた白い封筒を拾い上げる。

今日届いた手紙。

封を開ける。白い便箋。青いインク。

『私の手を、見て』

手紙を持ったまま、私は固まった。

私の手を、見て。

その言葉に導かれるように、自分の手を見下ろす。手紙を持つ右手。震えている指。

そして——

その指に握られたペン。

ペン?

いつの間に、ペンを持っていた? 私はペンを持っていなかったはずだ。手紙を拾って、封を開けて——

違う。

見下ろした手紙には、文字が書かれている。「私の手を、見て」。青いインクの、やや右上がりの筆跡。

この筆跡を、私は知っている。

見覚えがある。ずっと前から、見覚えがある。

本棚のほうに戻り、箱の中の手紙を取り出す。一通を開いて、便箋を見る。「あの日のこと、覚えてる?」。青いインクの、やや右上がりの筆跡。

同じだ。

今日届いた手紙と、同じ筆跡。

私は鞄の中から、手帳を取り出した。仕事のスケジュールを書き込んでいる、使い慣れた手帳。そのページを開く。

私の字。

青いインクの、やや右上がりの筆跡。

同じだった。

全部、同じだった。

記憶が軋んだ。

頭の奥で、錆びた扉がこじ開けられる音がする。ずっと閉じ込めていた何かが、溢れ出そうとしている。

『あの日のこと、覚えてる?』

あの日。

階段。踊り場。あなたの顔。

中学二年の冬。

放課後の校舎。誰もいない階段。踊り場に立つ真白の後ろ姿。

そして——

「やめて」

自分の声が聞こえた。今の声なのか、過去の声なのか、わからない。

私は真白を突き飛ばした。

あの日。階段の踊り場で。誰もいない放課後に。

私が好きだった男子が、真白を好きだと言った。真白もその男子を好きなのだと、友達から聞いた。真白は何も言わなかった。私に気を遣って、黙っていたのだ。その優しさが、許せなかった。

「ねえ、真白」

階段の踊り場で、私は真白に声をかけた。真白が振り返る。その瞬間、私は両手で真白の肩を押した。

真白は階段を転げ落ちた。

鈍い音が響いて、真白は動かなくなった。

私は逃げた。誰にも見られていなかった。真白は「足を滑らせた」ことになった。頭を打って、一週間意識が戻らなかった。意識が戻ってからも、真白は何も言わなかった。私が突き飛ばしたことを、誰にも言わなかった。

でも、真白の心臓に問題が見つかった。事故の後遺症なのか、もともとあったものなのか、医者にもわからなかった。

私は記憶を消した。

自分を守るために。罪悪感に押し潰されないために。私は「真白と自然に疎遠になった」と自分に言い聞かせて、十五年生きてきた。

でも、消えていなかった。

私の中の「別の私」が、ずっと覚えていた。ずっと真白に手紙を送り続けていた。雨の日に。あの日も雨が降っていたから。

「あの日のこと、覚えてる?」

それは真白への問いかけであると同時に、私自身への問いかけだった。忘れるな。思い出せ。お前がしたことを。

涙が頬を伝った。

いつから泣いていたのか、わからない。

手紙の束を抱きしめて、私は泣いた。真白の部屋で、真白の本に囲まれて、声を押し殺して泣いた。

どれくらいそうしていただろう。

気づくと、雨は上がっていた。窓の外に、薄い光が差し込んでいる。

手紙の束を床に置き、私は立ち上がった。涙を拭いて、本棚のほうに歩いていく。木の箱を戻そうとして、ふと気づいた。

箱の底に、もう一枚、紙がある。

取り出す。折り畳まれた便箋だった。他の手紙とは違う。封筒に入っていない、むき出しの便箋。

開く。

真白の字だった。丸みを帯びた、柔らかい筆跡。私の字とは、全然違う。

『奈緒ちゃんへ

手紙、ありがとう。ぜんぶ読んでるよ。

あの日のこと、覚えてる。忘れたことなんてない。でもね、奈緒ちゃん。私は恨んでないよ。本当だよ。

奈緒ちゃんがなんであんなことをしたのか、私にはわかってた。好きな人が被ったら、そりゃあつらいよね。私だって、奈緒ちゃんの気持ちに気づいてたのに知らないふりしてた。ごめんね。

心臓のことは、たぶん関係ないよ。お医者さんもそう言ってた。もともとあったものが見つかっただけだって。だから奈緒ちゃんのせいじゃない。

私ね、最近幸せなの。好きな人ができたの。堂島さんっていうの。優しくて、本が好きで、私の話をちゃんと聞いてくれる人。

だからね、奈緒ちゃんも幸せになってほしい。

この手紙、奈緒ちゃんに届くかな。届いたらいいな。

また会えたら、いっぱい話そうね。

真白』

便箋の端が、涙で滲んだ。

また会えたら。

会えなかった。もう、会えない。私が十五年間逃げ続けている間に、真白は一人で生きて、一人で恋をして、一人で死んでいった。

私を恨まないまま。

私を許したまま。

「ごめん……」

声にならない声で、私は謝った。

「ごめんね、真白。ごめん……」

謝っても、もう届かない。真白はいない。この部屋には、本と手紙と、真白が生きていた痕跡だけが残されている。

窓の外で、雲の切れ間から夕陽が差し込んだ。真白の部屋が、オレンジ色の光に染まる。

そのとき——

手が、動いた。

私の右手が。

勝手に。

ペンを握っている。いつの間に握ったのか、わからない。白い便箋が、目の前にある。いつの間に置いたのか、わからない。

そして、私の手が、文字を書き始めた。

青いインク。やや右上がりの筆跡。

『あの日のこと、覚えてる?』

私は見ていた。自分の手が動くのを。自分の意思とは関係なく、同じ言葉を綴る手を。

まだいる。

私の中に、まだいる。

十五年間、雨の日に手紙を書き続けてきた「もう一人の私」が。真白が死んでも、手紙の届け先がなくなっても、同じ言葉を書き続ける「私」が。

真白は許してくれた。

でも、私の中の「私」は——許していない。

夕陽が沈んでいく。部屋が暗くなる。私の手は止まらない。同じ言葉を、何度も何度も書き続けている。

『あの日のこと、覚えてる?』

『あの日のこと、覚えてる?』

『あの日のこと、覚えてる?』

窓の外で、また雨が降り始めた。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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