【凪の果て】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
第一章 卒業の桜、九年目の気づき
三月の空気というのは、なんとなく甘ったるい。
桜の匂いとか、制服の柔軟剤の匂いとか、そういうものが全部混ざり合って、独特のにおいになる。毎年この季節になると、なんとも言えない気持ちになるのはそのせいだと思っている。
奥村湊は中学の昇降口の前に立って、ぼんやりとそんなことを考えていた。
卒業式は午前中に終わった。卒業証書はきっちり巻いて鞄の中だ。グラウンドではあちこちで写真撮影が始まっていて、泣いてる女子もいれば、なぜかハイテンションで走り回っている男子もいる。
湊はどちらの気分でもなかった。
さびしい気もする。でも終わった実感もない。
なんか宙ぶらりんだな、と思いながら突っ立っていたら、声をかけられた。
「湊」
振り返ると、白石澪がいた。
セーラー服の胸に卒業証書のケースを抱えて、ちょっと照れたような顔をしている。髪は肩のあたりで緩くまとめてあって、春風にほつれ毛が揺れていた。
白石澪。湊の幼なじみだ。
付き合いは九年になる。小学一年生の春、給食のニンジンがきっかけで友達になって、それからずっと一緒にいる。中学も同じ学校だった。
最初の出会いはくだらない話で、澪がニンジンを残して困っていたところに湊が「交換しようか」と声をかけた、それだけだ。ただそれだけなのに、なぜかその日から友達になった。
男女の仲良しというのは小学校高学年あたりから周りにからかわれるものだが、湊と澪はそういうのにあまり動じなかった。「幼なじみだから」という一言で大体片付いたし、本人たちもそれ以上のことを意識していなかった。
少なくとも、湊はそう思っていた。
今日の午後までは。
「ちょっといい?」澪が言う。「写真、撮ってほしくて」
「いいよ」
澪がスマホを差し出してくる。湊はそれを受け取って、周りを見渡した。
「あそこの桜、ちょうどいいんじゃないか」
校庭の隅に桜の木が一本あって、三分咲きくらいになっている。まだ満開じゃないが、それでも十分きれいだった。
二人でそっちへ歩いていく。澪が木の前に立った。
「どうぞ」
湊はスマホを構えながら、ファインダー越しに澪を見た。
白いセーラー服と、うすいピンクの桜と、少し緊張したような澪の顔。
なんか、きれいだな。
そう思った瞬間、湊は少し戸惑った。
きれい、というのはまあ客観的な感想だ。桜もきれいだし、構図もきれいだし、それだけの話だ。
……だけの話、のはずだった。
カシャ、とシャッターを切る。澪が「見せて見せて」と駆け寄ってくる。
「うわ、目つぶってる!」
「もう一枚撮ろうか」
「お願いします!」
今度はちゃんと目が開いていた。澪が満足そうに確認して、「ありがとう」と言う。
それから「湊も撮る」と言い出した。
「俺はいい」
「よくない。はいそこ立って」
有無を言わせぬ感じで桜の前に押し込まれて、湊は仕方なく立った。
カシャ、とシャッターの音がする。
「うん、いい顔してる」
「見せて」
「やだ」
「なんで」
「なんとなく」
澪はスマホをポケットにしまいながら、ふふ、と笑った。
その笑い方が、ちょっとずるいな、と湊は思った。
なんでずるいのかは、うまく説明できないけど。
帰り道、二人並んで歩いた。
家の方向が同じなので、卒業式の帰りはだいたい一緒だ。小学校のときからそうだった。
しばらく無言で歩いて、澪がぽつりと言った。
「高校、同じで良かったね」
「まあな」
湊も澪も、同じ高校に進学する。家から二駅の県立高校だ。クラスが同じになるかはわからないが、同じ校舎にいることは間違いない。
「中学からそのままみんなで上がる感じ、ちょっと安心する」
「変わり映えしないとも言う」
「湊はそういうこと言う」澪が少し膨れる。「私は嬉しいんだけど」
「俺も嬉しいよ」
「……急に素直じゃん」
澪がこちらを見て、少し驚いたような顔をした。
湊は前を向いたまま、「たまには素直になる」と言った。
澪がくすっと笑う気配がする。
「なんか今日の湊、ちょっと変だよ」
「そうか」
変、か。そうかもしれない。
湊は桜並木の下を歩きながら、さっき感じたあの胸の温かさを思い出していた。
澪がほっとした顔で笑ったとき。ファインダー越しに澪の顔を見たとき。
あれは何だったんだろう。
うまく名前がつけられなかった。
でも、悪い気持ちじゃなかった。
それだけは、はっきりとわかった。
家の近くで二人は別れた。
「じゃあね」と澪が手を振る。
「うん」と湊は手を振り返す。
澪が自分の家の方へ歩いていく。その後ろ姿を、湊はなんとなく見送った。
春の夕暮れが、道路をオレンジ色に染めていた。
湊はそのまましばらくぼんやりして、それから家に向かった。
明日から高校生だ。
同じ高校に、澪がいる。
それがなんとなく、うれしかった。
第二章 高校一年、同じ制服のふたり
四月になって、制服が変わった。
湊の高校の制服はグレーのブレザーに紺のネクタイだ。着てみると思ったよりさまになっていたが、自分ではよくわからない。
入学式の朝、最寄り駅のホームで澪と合流した。
待ち合わせたわけじゃない。家の方向が同じだから、自然とそうなっただけだ。小学校のときからずっとそうだった。
澪は同じ制服を着ていた。
ブレザーは同じグレーだが、スカートで、リボンタイになっている。髪は今日のために少し巻いてあった。
「おはよう」と澪が言う。
「おはよう」
「制服、似合ってる」
「……そうか」
「似合ってるって言ってるのに、そっけない」
「ありがとう」
「遅い」
澪がくすっと笑いながら改札を通っていく。湊はその後に続いた。
電車の中で並んで立って、澪は「緊張する」と言った。
「クラス、一緒になれるといいけど」
「どうだろうな」
「一緒だといいな」
そう言って澪が少し湊の方を見る。
湊は吊革を握ったまま、「まあ、同じ学校なんだからどうにでもなる」と言った。
澪が「それはそうか」と笑う。
窓の外で、電車が駅を通過していく。
一緒のクラスだといいな、と湊も思っていた。ただそれは声に出さなかった。
クラス分けの結果、湊と澪は同じクラスだった。
一組。三十八人。
担任は四十代くらいの男性教師で、第一声が「うちのクラスからは必ず国公立を五人出す」だったので、みんな少し引いた。
澪は湊の二つ前の席になった。
授業中、澪の後ろ頭が視界に入る。
別にそれだけの話なのだが、なんとなく落ち着く気がした。
五月の連休明け、学校に慣れてきたころ、クラスで昼休みのグループが固まってきた。
湊は男子三人のグループで昼を食べることが多くなった。田中と坂口という、わりとノリの合う二人組だ。
澪は女子グループのど真ん中にいた。
もともと人当たりがよくて友達を作るのが得意なので、そのあたりは心配していなかった。
ただ、澪が他の男子と楽しそうに話しているのを見かけると、少しだけ、なんとなく、妙な感じがした。
べつに妬いているわけじゃない。
妬いているわけじゃないが、妙な感じがした。
自分でもよくわからなかった。
六月のある放課後、澪に呼び止められた。
「ねえ、一緒に帰ろう」
「いいよ」
下駄箱で待ち合わせて、二人で歩いた。
梅雨の前の、蒸し暑い夕方だった。
「ねえ」澪が言う。「学校楽しい?」
「まあまあ。そっちは?」
「楽しいよ。友達もできたし」
「よかったじゃないか」
「でも」と澪が少し声を落とす。「湊と昼ごはん食べる機会、減ったな、と思って」
「中学のときは毎日一緒に食べてたもんな」
「うん。なんか寂しいな、って」
湊は少し驚いた。
澪がそういうことをはっきり言うのは、珍しかった。
「別に、食べたければ声かければいいじゃないか」
「それはそうだけど……湊の方から声かけてくれることって、あんまりないじゃん」
「……そうだな」
湊は少し黙った。確かにそうだ。澪からアクションを起こすことの方が多い。
「じゃあ、たまには一緒に食べよう」
「たまには、か」澪が少しむくれる。「たまには、って言葉が若干気になるけど、まあいっか」
「週二回でどうだ」
「よし!じゃあ週二で」
澪がにこっと笑った。
その笑顔に、湊はまたあの胸の温かさを感じた。
中学の卒業式のときと、同じやつだ。
最近こういうことが増えてきた気がする。
七月、梅雨が明けた。
じりじりした暑さの中、湊と澪は週に二回、昼ごはんを一緒に食べるようになった。
大体、屋上か中庭だ。
教室だと周りに人が多くて、どうしても話が途切れる。外の方が気楽に話せた。
「最近、好きな食べ物ってある?」澪がお弁当の卵焼きをつまみながら聞いてくる。
「急だな」
「なんとなく聞いてみたくて。九年一緒にいるのに、意外と知らないこと多いなって思って」
「そうかな」
「じゃあ言ってみて。湊の好きな食べ物」
「とんかつ」
「ああ、確かに! いつもとんかつ定食頼んでるよね」
「澪は?」
「私はオムライス。ケチャップじゃなくてデミグラスソースのやつ」
「へえ」
「へえ、で終わらせないでよ」
「美味しそうだな」
「それでいい」
澪がくすくす笑う。
「じゃあ次。嫌いなもの」
「蜘蛛」
「食べ物!」
「あ、そっちか。えーと、セロリ」
「わかる! 私もセロリ苦手」
「じゃあ澪は?」
「レバー。あと春菊」
「大人の食べ物ばっかりだな」
「そうかな。湊に言われたくないけど」
澪がお弁当の蓋を閉じながら、「湊って」と言った。
「なに」
「話すの得意じゃないのに、私とだと普通に話せてるじゃん」
「……そうか?」
「そうだよ。クラスの子と話してるとき、なんか少し壁ある感じするもん。私とはそういうのないのに」
湊は少し考えた。
確かに、澪と話すときは特に何も考えていない。緊張もしないし、言葉に詰まることも少ない。
「昔から一緒にいるから」
「それだけじゃないと思うけど」
澪が少し首を傾げる。
「まあいっか。私は嬉しいし」
そう言ってお弁当袋をまとめながら、澪は立ち上がった。
「次の授業、行こ」
「うん」
湊も立ち上がって、澪の隣を歩いた。
それだけじゃないと思うけど、と澪は言った。
それだけじゃないとしたら、何なのかを湊は考えた。
答えは出なかった。
いや、出かけていた。
ただ、まだそれを認めるには早い気がした。
九月、体育祭があった。
湊の高校の体育祭は二日間ある。一日目が午前競技で、二日目が午後まで使ってクラス対抗リレーや騎馬戦をやる、なかなか本格的なやつだ。
湊は百メートル走と綱引きに出た。
百メートルは三位だった。まあまあだと思う。
澪はクラス対抗ダンスに出ていた。
体育祭にダンスがあるのかと最初は驚いたが、この高校の体育祭では毎年恒例らしい。クラスごとに曲を選んで振り付けを考えて、三分間踊る。
澪は練習のときから熱が入っていた。
「うまくいくか不安で」と言いながら、昼休みに廊下で一人でステップを確認していた。
「大丈夫じゃないか」
「大丈夫かな。ここのところが難しくて」
澪がステップをやって見せる。湊にはどこが難しいのかよくわからなかったが、なんとなく「そこじゃないか」と言いながら見ていた。
本番、澪は普通に踊っていた。
難しいと言っていたステップもちゃんとできていたし、何より楽しそうだった。
クラスの演技が終わって澪が戻ってきたとき、「どうだった?」と聞いてきた。
「よかった」
「ほんとに?」
「うん。楽しそうに踊ってた」
澪がぱっと顔を明るくする。
「え、そう見えた? それが一番嬉しい」
嬉しそうにしている澪を見て、湊も嬉しかった。
なんで自分が嬉しいのか、と思いながら、でもそのことを深く考えるのはやめた。
体育祭の翌日、クラスで打ち上げがあった。
ファミレスに三十人くらいで押しかけて、二時間くらいわいわいした。
湊は田中と坂口と話していたが、途中で澪のグループの話し声が聞こえてきた。
「澪って彼氏いないの?」
誰かが聞いている。
「いないよ」と澪が答えるのが聞こえた。
「えー、もったいない。かわいいのに」
「かわいいはそんなに関係なくない?」
「じゃあ好きな人は?」
「うーん……」
澪が少し考えるような間を置く。
湊は田中の話を聞いているふりをしながら、耳だけそっちに向けた。
「まあ、気になってる人はいるかな」
「誰!?」
「秘密」
澪が笑っている気配がする。
「ねえ教えてよー」
「内緒」
そこで田中が湊に話しかけてきて、会話に引き戻された。
湊は相槌を打ちながら、澪の言葉を頭の中で繰り返した。
気になってる人はいるかな。
誰だろう。
同じクラスの誰か?それとも別のクラス?
……考えても仕方ない、と思いながら、湊はなぜかそのことが頭から離れなかった。
十月の終わり、文化祭があった。
湊のクラスは喫茶店をやることになった。ブレザーの上にエプロンをつけて、コーヒーとケーキを出す、わりと本格的なやつだ。
湊はホール担当になった。要するに接客係だ。
「湊、接客できる?」と田中に心配された。
「一応やってみる」
「愛想よくしてよ」
「努力する」
「努力、って言葉が不安だよ」
実際やってみると、意外となんとかなった。お客さんが来たら席に案内して、注文を取って、品物を持っていく。流れがわかれば普通にできた。
澪はキッチン担当だった。
こちらからは澪の動いている姿が見えて、澪はてきぱきと動いていた。慣れた動きで皿を並べて、ケーキを切り分けて、コーヒーをカップに注いでいる。
「澪って、ああいうの得意なんだな」と湊は田中に言った。
「幼なじみなのに知らなかったの?」
「知らなかった」
「なんか意外だな」
湊は少し考えた。
確かに、澪のことは知っているつもりだったが、実際には知らないことも多い。
好きな食べ物はオムライスで、嫌いなものはレバーと春菊で、ダンスが好きで、気になっている人がいて。
気になっている人。
また思い出して、湊は視線をお客さんの方に戻した。
文化祭二日目の昼休み、澪が「少し抜けていい?」と言って湊を連れ出した。
「どこ行くんだ」
「屋台見に行こ。一時間あるし」
学校の正門前に屋台が並んでいた。たこ焼きやフランクフルト、綿飴なんかを売っている。
澪がフランクフルトを買った。湊も同じものを買った。
歩きながら食べた。
「楽しい? 文化祭」と澪が聞く。
「まあ。接客は思ったよりなんとかなってる」
「見てたよ。ちゃんとできてた」
「見てたのか」
「キッチンから見えるもん。ちゃんと愛想よくしてて、なんか笑えた」
「笑うな」
「褒めてるの」澪がフランクフルトをかじりながら笑う。「湊って意外と人と話せるじゃん、って」
「そうか」
「普段クールな感じだから、ちょっと意外だった。いい意味で」
湊は少し黙った。
「俺、クールに見えるのか」
「見える見える。近寄りがたいって言ってる子いたもん」
「そうは思っていないんだが」
「知ってる。でも外から見るとそう見えるんだよ」
澪がこちらを見る。
「私は最初からわかってたけどね。ぜんぜん近寄りがたくない」
「なんで」
「だってニンジン交換してくれた人だもん」澪が笑う。「あのとき声かけてくれたじゃん。あれ、すごく嬉しかったよ。今でも覚えてる」
湊はしばらく黙った。
小学一年生のあの日。澪が困った顔をしていて、湊が声をかけた。それだけの話だったのに。
「そんなに印象に残ってたのか」
「残ってる。だから湊のこと、近寄りがたいって思ったことないよ」
澪がにこっと笑う。
湊はフランクフルトを食べながら、少し空を見上げた。
十月の空は高くて、すっきりと青かった。
十一月になると、急に寒くなった。
ブレザーの上にコートを羽織る季節だ。
ある放課後、湊が帰ろうとしたら澪が走ってきた。
「湊、待って!」
息を切らしながら、鞄を振り回している。
「どうした」
「一緒に帰ろうと思って。今日って暇?」
「特に予定はないが」
「じゃあちょっと寄り道してこう。駅前に新しいカフェできたんだって」
「カフェか」
「嫌い?」
「嫌いじゃないけど、そういうとこ行き慣れてない」
「私が案内するから大丈夫。行こ」
そのまま澪に引っ張られて、駅前のカフェに入った。
明るくて、温かくて、コーヒーの匂いがした。
澪はメニューを開いて「うわかわいい!」とはしゃいでいた。湊はそれを眺めながら、ホットコーヒーを頼んだ。
澪はキャラメルラテとシナモンロールを頼んで、シナモンロールをひと口食べて「美味しい!」と言った。
「食べてみる?」
「いいの?」
「食べてみて。本当に美味しいから」
「……じゃあひとくち」
シナモンロールをひとくち食べた。確かに美味しかった。
「美味しいだろ」澪がどや顔で言う。
「美味しかった」
「でしょ!」
澪がまた嬉しそうに笑う。
湊はコーヒーを飲みながら、その笑顔を見ていた。
最近、澪の笑顔を見ると胸が温かくなる。
それが何なのか、湊にはもうわかっていた。
認めたくなかっただけで、とっくにわかっていた。
俺は澪のことが好きなんだ。
ただ、それを認めてしまうと何かが変わる気がして、ずっとごまかしてきた。
でも今、シナモンロールをひとくちもらって、澪の笑顔を見て、もうごまかせなかった。
好きだ。
白石澪のことが、好きだ。
「どうしたの?」澪が首を傾げる。「なんか黙ってる」
「いや、なんでもない」
「ほんとに?」
「うん」
澪がじーっと湊の顔を見る。
「……なんか顔が赤い」
「カフェが暑いんだろ」
「そう?」
澪は少し疑わしそうにしながら、でもそれ以上は追及しなかった。
よかった、と湊は思いながら、コーヒーをまた一口飲んだ。
家に帰ってから、湊は部屋の天井を見ながら考えた。
好きだ、という気持ちを認めてしまった。
これはまずい。
いや、まずいというか……どうしよう。
告白するか?
湊は少し考えて、首を振った。
まだそのときじゃない気がした。
高校一年で、これからまだ二年ある。今この関係を変えるより、もう少しこのままでいたい。
ずっと一緒にいるんだから、焦ることもない。
そう思って、湊は目を閉じた。
ただ、それが人生最大の先延ばしになるとは、このとき思ってもいなかった。
第三章 高校二年、雨と傘と秘密
四月になって、クラス替えがあった。
結果を見に行ったら、湊と澪はまた同じクラスだった。
「また一緒だ!」と澪が廊下で声を上げた。周りの子が振り返ったが、澪は気にしていなかった。
「二年連続か」
「すごくない? 引き寄せてる気がする」
「クラスは五つしかないんだから、確率的にそこそこある話だろ」
「ロマンがない!」
澪がむくれる。湊はそれを見て少し笑った。
ロマンがないのはわかっている。でも、また同じクラスだということは普通に嬉しかった。それは言わなかったけど。
新しいクラスは二組になった。
席は最初、湊が窓側の中ほど、澪が廊下側の前の方だった。離れている。
「遠くなった」と澪がぼやいた。
「席替えすればいいじゃないか」
「席替えって最初はすぐしてくれないんだよ。二ヶ月くらい待つんだよ」
「そうか」
「そうなの。不便」
六月に席替えがあって、澪は湊の斜め前になった。
「近くなった」と澪が言った。
「まあな」
「嬉しくないの?」
「嬉しいよ」
「また素直じゃない」
「言っただろ、嬉しいって」
「言い方が事務的!」
澪が膨れる。湊は苦笑いをした。
斜め前になったせいで、授業中に澪の横顔が視界に入るようになった。
澪は授業によっては熱心にノートを取っていて、つまらないときはちょっとぼんやりしている。黒板を見るときと窓の外を見るときで、表情が違う。
そういうことを、湊は授業中に観察するようになった。
観察、というと聞こえが悪いが、要するに見てしまうのだ。どうしても。
梅雨に入ったころ、雨の日が続いた。
ある朝、湊は傘を忘れた。
玄関を出て、空を見て気づいた。しとしとと細かい雨が降っていた。
戻るか、と思ったが時間がなかった。仕方ない、走っていくか、と決めて歩き始めたら、後ろから声がした。
「湊! 待って!」
振り返ると澪が走ってきた。傘を差して、もう一本手に持っている。
「傘、忘れたでしょ」
「なんでわかった」
「傘持ってないし、雨なのに急いでる感じだったから」
澪がもう一本の傘を差し出してくる。
「うちの予備。使って」
「いいのか」
「いいから。帰りに返して」
湊は傘を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
澪がにこっと笑う。
二人で並んで駅まで歩いた。
細かい雨の中、少し近い距離で歩く。澪の傘の柄が湊の傘と時々当たった。
「梅雨、好き?」と澪が聞いた。
「嫌いじゃないけど、傘がうっとうしい」
「今日みたいにね」澪が笑う。「私は梅雨わりと好き。なんか落ち着く」
「雨が?」
「雨の音が。窓に当たる感じとか、傘に当たる音とか。寝るときとか気持ちいいじゃん」
「確かに」
「湊も?」
「雨の音で眠れるのはわかる」
「ね! じゃあ梅雨嫌いじゃないじゃん」
「傘がうっとうしいのは変わらないけど」
澪がくすくす笑う。
駅に着いて、改札を通る。ホームで電車を待ちながら、澪が言った。
「帰り、一緒に帰ろ。傘返してもらうし」
「わかった」
電車が来て、二人で乗り込んだ。
帰りも一緒に帰れる。
それだけのことが、なんとなく湊には嬉しかった。
梅雨の間、何度か傘の貸し借りがあった。
湊が忘れた日に澪が貸してくれて、澪が忘れた日に湊が一本買って渡したこともあった。
「コンビニで買ったのか」と澪が言った。
「雨強かったから」
「お金返す」
「いらない。どうせ百円くらいだし」
「百九十八円だよ」
「どっちでもいい」
澪がじーっと湊を見る。
「……湊って、さりげなく優しいよね」
「そうか?」
「そう。なんか急に」
澪が少し照れたように視線を逸らす。
湊はそれを見て、少し心臓が跳ねた。
澪が照れているのを見ると、なぜかこちらまで照れてしまう。
「別に大したことじゃないだろ」と湊は言った。
「大したことじゃなくても、嬉しいんだって」
澪がちらっとこちらを見る。
湊は傘を握ったまま、「そうか」とだけ言った。
それ以上、何も言えなかった。
七月のある放課後、澪と二人で帰っていたとき、澪が突然聞いてきた。
「ねえ、湊って好きな人いる?」
「……急だな」
「ダメだった?」
「ダメじゃないけど」
湊は少し考えた。
正直に言えばいる。でも、それを澪に言うのはまだ早い。
「まあ、いるにはいる」
澪が少し目を丸くした。
「へえ! どんな人?」
「近くにいる人」
「クラスの人?」
「まあ、そうとも言える」
「誰?」
「言わない」
「えー」
澪がむくれる。
「なんで言わないの」
「まだそういうタイミングじゃないから」
「タイミング?」
「うん。今は言えない」
澪がじーっと湊の顔を見る。
湊は視線を前に向けたまま歩き続けた。
「告白するの?」と澪が聞いた。
「……いつかは」
「いつか、か」
澪が少し静かになった。
しばらく歩いてから、「応援してる」と言った。
「ありがとう」
「でも、気持ちって早めに伝えた方がいいと思うよ」
「なんで」
「なんか……気持ちって、タイミング逃すと言えなくなるから」
澪がどこか遠い目をしながら言った。
湊はその言葉をどう受け取っていいかわからなかった。
「澪は? 好きな人いるのか」
今度は湊が聞いた。
澪が少し止まる。
「……まあ、気になってる人はいる」
去年の文化祭の打ち上げで聞こえてきたやつだ、と湊は思った。
「誰だ?」
「言わない!湊も教えてくれなかったから」
澪がくすっと笑う。
湊は笑えなかった。
澪に気になっている人がいる。
それは去年から知っていた。でもこうして改めて聞くと、知りたいような知りたくないような、妙な気持ちになった。
「誰なんだ、ほんとに」
「秘密」
澪が笑って駅の改札に入っていく。
湊はその後ろ姿を見ながら、少し心がざわついた。
夏休みに入る前の終業式の日、澪が「花火行こう」と言い出した。
「夏休みに入ったら、地元の花火大会あるじゃん。一緒に行こう」
「いいよ」
「やった! 浴衣着てもいい?」
「着ればいいじゃないか」
「湊は着ないの?」
「持ってない」
「じゃあ甚兵衛でも。なんか夏っぽい感じにしてよ」
「甚兵衛か……考える」
「ぜひ」
結局、当日湊は普通の私服で行った。甚兵衛を買いに行く時間がなかった。
澪は白地に青い朝顔の浴衣を着てきた。
待ち合わせ場所で澪の姿を見たとき、湊は少し言葉を失った。
制服でも私服でも見慣れているのに、浴衣というのは別物だ。
髪もアップにしてあって、なんか、すごく。
「どうしたの」と澪が言う。「私の顔に何かついてる?」
「いや、似合ってる」
「え」澪がぱっと顔を明るくする。「ありがとう! 頑張った甲斐があった」
「そんなに頑張ったのか」
「頑張った! 浴衣の着付け、二時間かかった」
「二時間」
「慣れてないから。でもちゃんとできた!」
澪が少し誇らしそうにしている。
湊はそれを見ながら、「よかった」と言った。
よかった、という言葉にどれだけの意味が込められているか、澪にはたぶん伝わっていない。
花火大会は賑やかだった。
屋台がずらっと並んでいて、たこ焼き、焼きそば、りんご飴、チョコバナナ。人が多くて、歩くのも少し大変なくらいだ。
澪はりんご飴を買った。
「食べにくそうだな」と湊が言う。
「食べにくいけど好き。雰囲気が」
「雰囲気か」
「りんご飴って、花火大会!って感じがするじゃん」
「まあ、そうだな」
二人でシートを広げて、花火を待った。
暗くなってきたころ、ドン、と最初の花火が上がった。
澪が「わあ」と声を上げる。
大きな花火が夜空に広がって、赤や青や金色に散っていく。
湊はそれを見ながら、ちらっと澪の方を見た。
花火に照らされた澪の顔が、きれいだった。
目を輝かせて、口を少し開けて、夜空を見上げている。
さっきからずっとそう思っているが、今日の澪はとびきりきれいに見えた。
浴衣のせいかもしれない。
でも浴衣だけじゃない気もした。
ただ単に、好きだからきれいに見えるのかもしれない。
「湊」
澪がこちらを向いた。
「なに」
「さっきから花火見てないじゃん。何見てるの」
「……花火見てる」
「見てなかったよ」
澪がじーっとこちらを見る。
湊はすっと視線を夜空に戻した。
「見てる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
澪が少し笑って、また花火の方を向く。
どん、と大きな音がした。
金色の光が夜空に広がって、少しずつ消えていく。
湊はそれを見ながら、心の中で思った。
今じゃない。でもいつか言う。
まだ一年以上ある。焦ることはない。
ずっと一緒にいるんだから。
八月が終わって、九月になった。
二学期が始まって、日常が戻ってきた。
澪と週に二回昼を食べて、放課後たまに一緒に帰って、LINEで他愛ないことを話す。
その繰り返しが、湊には心地よかった。
特別なことは何もないが、澪がそこにいる。
それだけで、毎日が少し明るかった。
十月のある昼休み、澪が少し暗い顔で湊の席に来た。
「ちょっといい?」
「どうした」
「外で話したい」
二人で中庭に出た。
日当たりのいいベンチに並んで座る。
澪が少し黙ってから、「なんか相談していい?」と言った。
「どうぞ」
「友達のことなんだけど……ちょっと気まずくなって」
澪が話してくれた。
仲良くしていた子と、些細なことでうまくいかなくなったらしい。どちらが悪いというわけじゃないが、気まずい雰囲気が続いているという。
「どうしたらいいと思う?」
湊は少し考えた。
「澪はどうしたいの?」
「元に戻りたい」
「じゃあ謝ればいいんじゃないか」
「でも私が悪かったかどうかわからなくて」
「悪かったかどうかより、大事にしたいかどうかだろ」
澪が少し止まった。
「……そっか」
「謝ることと、自分が悪かったことは別の話だと思う。謝ることで仲直りしたいなら、理由なんてそれだけでいい」
澪がうつむいて、少し考えている。
「湊ってさ」
「なに」
「そういうこと、ちゃんと言うよね。言葉が少ない割に、大事なことはちゃんと言う」
「そうか?」
「そう。だから相談したかった」
澪が顔を上げて、少し笑う。
「ありがとう。明日謝ってみる」
「うん」
「……湊に話してよかった」
その言葉が、湊の胸にじわっと染みた。
大したことは言っていない。でも澪が頼ってきてくれた。
俺で役に立てるなら、それでいい。
単純にそう思った。
十一月、文化祭があった。
今年のクラスの出し物はお化け屋敷になった。
三年生のクラスがカフェをやっていたのを昨年見て、うちもやりたかったという声もあったが、多数決でお化け屋敷になった。
湊は大道具係になった。段ボールで壁を作ったり、黒い布を貼ったりする作業だ。
澪は当日の案内役になった。お客さんを中に誘導して、スタートの合図を出す係だ。
「ちょっと怖いかも」と澪が言っていた。
「案内役なのに怖いのか」
「中から出てくるやつがいるじゃん。びっくりするじゃん」
「慣れるだろ」
「慣れるかな……」
本番当日、澪はちゃんとやっていた。お客さんを笑顔で誘導して、スタートの合図を出している。
ただ、中から出てきたお化け役の男子に驚いて、小さく「ひっ」と声を上げたのを湊は目撃した。
「見た?」と田中が笑いをこらえながら言う。
「見た」
「可愛いな」
「……そうだな」
湊は素直にそう思ったが、田中に同意したくなかったので小さく言った。
文化祭の帰り、二人で帰りながら澪が言った。
「お化け屋敷、うちのクラスのやつ、完成度高かったよね」
「まあ、みんながんばってたから」
「湊が作った壁、ちゃんとそれっぽかった」
「それっぽいが目標だったから十分だ」
「おつかれさま」
澪が笑って、「今年の文化祭も楽しかった」と言った。
去年も同じことを言っていた気がした。
毎年こうして文化祭が終わって、二人で帰って、澪が「楽しかった」と言う。
来年もそうだといいな、と湊は思った。
十二月に入って、クリスマスが近づいてきた。
澪から「クリスマスイブ、暇?」というLINEが来た。
「どうして」
「一緒にご飯食べたい。イルミネーション見に行こう」
「デートみたいだな」と誰かが言いそうなことを、湊は思いながらも「いいよ」と返した。
当日、澪は白いコートに赤いマフラーで来た。
寒そうで、でも嬉しそうだった。
「去年は一人で見に来たんだけど、さびしくて」と澪が言う。
「誰かと来ればよかったじゃないか」
「友達みんな予定あって。湊に声かけたら来てくれるかなって思って」
「そういうことか」
「嫌だった?」
「全然」
湊は事もなさそうに言いながら、内心ではちょっと喜んでいた。
公園のイルミネーションは青と白の光が木々を包んでいた。池に映って揺れていて、それがきれいだった。
「きれい……」と澪がつぶやく。
光に照らされた澪の横顔を、湊はちらっと見た。
きれいだな、と思ったが口には出さなかった。
屋台でホットドリンクを買った。湊はホットコーヒー、澪はホットチョコレートだ。
「一口ちょうだい」と澪が言う。
「コーヒー苦くないか」
「大丈夫。飲めるから」
澪が湊のカップをそっと両手で包んで、一口飲んだ。
「あったかい」
澪がカップを返してくる。
澪が口をつけたところを、湊はそのまま飲んだ。
特に意識していなかった、と言えば嘘になる。
「美味しかった?」
「うん、ちょっと苦いけど」
「だろ」
「でも好き、これ」
澪がホットチョコレートを飲みながら、夜の光を眺めている。
しばらく二人で黙って、イルミネーションを見ていた。
「ねえ、湊」
「なに」
「湊ってさ、ずっとそばにいてくれるね」
「近所だから」
「そういう意味じゃなくて」
澪が少し立ち止まる。
「なんか……湊がいると安心するんだよね。昔からそう。困ったとき声かけたら来てくれるし、相談したら聞いてくれるし」
湊は何も言えなかった。
「変なこと言ってる?」と澪が少し笑う。
「変じゃない」
「よかった」
澪がまた歩き始める。
湊は一歩遅れてから、澪の隣に追いついた。
安心する、か。
湊が澪に対して感じているのは、安心よりも、もっと大きくて、少しこわい感情だ。
胸が痛くなるような、でも離れたくないような。
そういうやつだ。
でもそれを言葉にするには、まだ勇気が足りなかった。
高校二年の冬は、そうやって終わった。
第四章 高校三年、最後の青春
四月になって、最後のクラス替えがあった。
掲示板の前で名簿を確認して、湊は少し目を細めた。
三組。奥村湊。
隣の列を探す。
白石澪。三組。
三年連続、同じクラスだった。
「また一緒だ!」
後ろから澪の声がした。振り返ると、澪が名簿を指さしながら嬉しそうにしている。
「三年連続か」
「すごくない? 引き寄せてる!」
「クラスは五つしか——」
「ロマンがない!」
先に遮られた。去年も同じやりとりをした気がする。
湊は笑った。
それでも、また同じクラスだということは嬉しかった。正直に言えば。
最後の一年。澪と同じクラスで過ごせる。
それだけで、この一年が少し特別に思えた。
四月の終わり、担任から進路の話が出た。
「三年生になったんだから、そろそろ本気で考えろ」
昼休みに澪に聞いてみた。
「短大考えてる」と澪は言った。「二年で終わるし、早く働きたくて」
「そうか」
「湊は?」
「地元の大学。まだ学部は迷ってる」
「地元か。じゃあ卒業しても近くにいるね」
澪がにこっと笑う。
湊は少し胸が痛くなった。
短大は二年で終わる。湊の大学は四年ある。
ということは、二年後には澪が先に社会人になる。
今までずっと同じペースで隣を歩いてきたのに。
それがなんとなく、怖かった。
五月、六月、梅雨。
三年生の実感が出てきたのはこのころだ。授業のペースが上がって、小テストが増えた。
それでも昼休みに澪と食べる習慣は変えなかった。
「無理しなくていいよ」と澪が言ったが、「これが息抜きだから」と湊は答えた。
澪が少し嬉しそうな顔をした。
「そう言ってくれると、私も頑張れる気がする」
それだけで十分だった。
湊にとっては、澪のその顔が、勉強を続ける理由のひとつだった。
受験が終わったら言おう。
その考えは、このころから湊の中で固まり始めていた。
ずっと先延ばしにしてきた。高校一年のときに気づいて、二年間ためてきた。
でも、受験が終わったら。
春になったら。
ちゃんと言おう。
七月の終業式前日、澪が「かき氷食べに行こう」と言い出した。
「駅前のたい焼き屋、季節限定でかき氷やってるらしくて」
「たい焼き屋がかき氷か」
「行こ」
有無を言わせぬ感じで連れていかれた。
小さな店だったが、かき氷のメニューが黒板にたくさん書いてあった。
湊は抹茶、澪はいちごにした。
外のベンチで並んで食べた。
「美味しい!」と澪が声を上げる。
「うまいな」
「ね! 来てよかった。はいひとくち」
澪がいちごのかき氷を差し出してくる。
湊はひとくち食べた。甘かった。
「美味しい?」
「美味しい」
「交換しよ」
今度は澪が湊の抹茶をひとくち食べた。
「抹茶の方が好きだったかも」と澪が言う。
「じゃあ最初から抹茶にすれば」
「でも交換できたからいいじゃん」
澪がにこにこしながらまたいちごを食べる。
夕方の日差しが澪の髪に当たっていた。
湊は視線を自分のかき氷に落とした。
高校生活もあと一年を切った。
受験が終わったら言おう。
そう、また思った。
夏休みに入って、勉強漬けの日々が始まった。
澪とは一回だけ会えた。お盆のあたりだ。
「受験生なのに来てよかったの?」と澪が心配そうに言う。
「二時間くらいはいい」
「じゃあ二時間、思いっきり休んで」
近所の喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ。澪はパフェを頼んでいた。
「受験、終わったらお祝いしてあげる」と澪が言った。
「どんなお祝いだ」
「湊が食べたいもの、なんでも付き合う」
「なんでも?」
「なんでも。がんばってほしいから」
澪が少し真剣な顔でこちらを見る。
「ちゃんと受かってよね」
「受かるようにする」
「それでいい」
澪がパフェをすくいながら、「受かった後、ちゃんとお祝いしようね」と言った。
湊はアイスコーヒーを飲みながら、うん、と答えた。
受験が終わったら言おう。
お祝いのときに、ちゃんと言おう。
その気持ちだけが、夏の勉強部屋でずっと湊の隣にあった。
九月、二学期が始まった。
受験生の秋は忙しかった。
それでも昼休みだけは澪と過ごすようにした。
澪は毎日話しかけてきた。
「昨日何時まで勉強してたの」
「一時くらい」
「遅い。ちゃんと寝てよ」
「わかってる」
「わかってない顔してる」
「してない」
「してる」
澪がじーっと湊の目を見る。
「……目、疲れてる」
「そうか」
「無理しないで。あなたが倒れたら意味ないんだから」
あなたが、という言い方が少し新鮮で、湊はそれをじっと聞いていた。
「倒れない」
「絶対ね」
「絶対倒れない」
澪が少し安心したように笑う。
「よかった。がんばってね」
「うん」
たったそれだけのやりとりが、昼休みの十五分間が、湊にとっての燃料だった。
十月、体育祭があった。三年生最後の体育祭だ。
湊は四百メートルリレーの第三走者に選ばれた。
澪は応援団に入っていた。赤いポンポンを持って声を出す係だ。
「リレー、かっこよく走ってよ」と澪が言った。
「かっこいいかどうかは保証できない」
「とにかくがんばって。見てるから」
本番、バトンを受け取って走ったとき、スタンドからひときわ大きい声が聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。でも足が速くなった気がした。
結果は二位だった。
「惜しかった! でもかっこよかったよ!」と澪が言ってきた。
「二位だったけどな」
「それでもかっこよかった。なんか胸がぎゅってした」
「リレーに感動したのか」
「湊が走ってたから」
さらっとそんなことを言う。
湊は少し固まった。
「……そういうこと急に言うな」
「え、何か変なこと言った?」
澪が首を傾げる。
悪気がない。完全に無自覚だ。
「なんでもない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
湊は前を向いた。
胸がうるさかった。
十一月、文化祭があった。三年生最後の文化祭だ。
クラスの出し物はカフェになった。
湊はホール担当、澪はキッチン担当。一年生のときと同じだ。
二日目の昼休み、また二人で屋台を見に行った。
フランクフルトを買って、去年と同じベンチに座って食べた。
しばらく無言で食べていたら、澪がぽつりと言った。
「最後の文化祭だな」
今度は澪の方が言った。
「そうだな」
「早いね。三年間」
「ほんとに」
「湊と三年連続同じクラスで、文化祭も全部一緒で。なんかすごいな」
澪がフランクフルトを持ったまま、遠くを見る。
「卒業したら、こういうの、なくなるんだよね」
「まあ、そうだな」
「さびしいな」
澪が少し眉を寄せた。
「でも、これからも一緒にいられるよね」
「いられるよ」
湊は即答した。
澪がこちらを見て、少し笑う。
「そういうとき、湊って即答するね」
「当たり前のことだから」
「……うん」
澪がまた前を向く。
秋の空が高くて、きれいだった。
湊はその空を見ながら思った。
受験が終わったら言う。
絶対に言う。
これ以上先延ばしにはしない。
十二月、塾の冬期講習が始まった。
澪とはLINEだけになった。
「勉強してる?」
「してる」
「ちゃんと寝てる?」
「そこそこ」
「ご飯は?」
「食べてる」
「がんばってね。応援してるから」
毎日同じようなやりとりだった。
それでも、澪からLINEが来るたびに、湊はスマホを手に取った。
応援してるから。
その一言が、夜中の勉強部屋でどれだけ効いたか。
澪には言えなかったけど。
一月、共通テストが終わった。
二月、個別試験があった。
試験会場に入る直前、スマホに澪からのLINEが来ていた。
「今日だよね。がんばれ!!!」
絵文字がたくさんついていた。
湊は少し笑って、スマホをしまって試験会場に入った。
三月、合格発表があった。
掲示板に自分の番号があった。
湊がその瞬間に一番最初にしたことは、澪にLINEを送ることだった。
「受かった」
返信は三十秒で来た。
「やったーーー!!!!おめでとう!!!!!」
「!」が五個ついていた。
「お祝い絶対しよう!! 湊の食べたいもの全部付き合う!!!」
湊は画面を見ながら少し笑った。
受験が終わった。
言う、と決めていた。
お祝いのときに——
でも、言えなかった。
お祝いで行ったイタリアンで、楽しく食べて、笑って話して、気づいたら時間が来ていた。
切り出すタイミングを何度か探したが、澪がずっと楽しそうで、その空気を壊せなかった。
また今度でいい。
大学に入って落ち着いたら言おう。
そう思って、その夜も言わなかった。
三月の終わり、卒業式があった。
体育館に三年生が集まって、担任が泣いて、みんなで歌を歌って、証書をもらった。
式の後、澪が「写真撮ろう」と言ってきた。
中学の卒業式と同じだ、と湊は思った。
あのときも澪に写真を頼まれた。
あれからもう三年経った。
「撮ってあげる」と湊が言った。
「湊も一緒に撮ろう」
「じゃあ誰かに頼もう」
田中に頼んで、二人並んで撮ってもらった。
澪が湊の腕にそっと手を添えた。
写真を確認した澪が「いい写真!」と言って喜んだ。
湊はその写真を後でこっそりスマホの待ち受けにした。
帰り道、二人で並んで歩いた。
家の近くで、いつもの分かれ道に来た。
澪が立ち止まる。
「三年間、ありがとう」と澪が言った。
「こちらこそ」
「これからも仲良くしてね」
「当たり前だろ」
「……うん」
澪がにこっと笑う。
その顔が、また少し胸に刺さった。
言えばよかった。
今日言えばよかった。
でも言えなかった。
また今度でいい、とまた思ってしまった。
澪が手を振りながら歩いていく。
湊はその背中を見送った。
春の夕暮れが、道路をオレンジ色に染めていた。
まだある。
これからまだ時間はある。
ずっと一緒にいられるから、いつか言える。
そう、また思った。
それが、どれほど甘い考えだったか。
このときの湊には、まだわかっていなかった。
第五章 大学生と短大生、すれ違いはじめる春
四月になって、それぞれの学校が始まった。
湊の大学は家から電車で四十分。澪の短大は逆方向に三十分。
毎朝同じ方向に歩いていた十二年間が、突然終わった。
最初の朝、最寄り駅のホームで反対側のホームに澪が立っているのを見かけた。澪も湊に気づいて、手を振ってきた。
湊も手を振り返した。
それだけだった。
電車が来て、それぞれ逆方向に乗り込んだ。
たったそれだけのことなのに、なんか変な感じがした。
四月の最初の週、澪からLINEが来た。
「新しい学校、どう?」
「まだよくわからない。そっちは?」
「楽しい! 友達できそうな子いるし、キャンパスがかわいくて」
「よかった」
「湊は友達できた?」
「まだ。これから」
「そっか。がんばって」
「うん」
「また会おうね」
「うん」
それだけのやりとりだった。
でも、それだけのやりとりが続いていた。
毎日ではないが、二、三日に一回くらい。他愛ないことを話した。
講義が難しいとか、学食が思ったより安いとか、自転車置き場がわかりにくいとか。
そういうことを、澪に話した。
澪も同じようなことを話してきた。
物理的な距離は少し離れたが、気持ちの距離はまだ変わっていない気がした。
五月の連休、久しぶりに二人で会った。
駅前のファミレスで昼ごはんを食べた。
「大学ってどんな感じ?」と澪が聞く。
「高校と全然違う。自分で時間割組むし、同じクラスってのがないから人と仲良くなるのに時間かかる」
「そっか。湊ってそういうの苦手そうだもんね」
「苦手だな」
「でも友達できた?」
「まあ、話せるやつは何人か」
「よかった。私はもう仲良い子できたよ」
「早いな」
「もともと友達作るの得意だから」
澪がパフェをすくいながら言う。
「短大ってどんな感じだ」
「楽しいよ。二年しかないから、なんかみんな最初から仲良くなろうとする感じがある。あと授業が実践的で面白い」
「そうか」
「でも二年しかないと思うと、ちょっと焦る」
「何を焦るんだ」
「就活とか、資格とか。早く動かないとって思って」
澪が少し真剣な顔をした。
「湊はいいな、四年あって」
「まあ、そのぶん長いけど」
「でも時間あるじゃん。私、二年後には社会人だよ」
そうだ。二年後には澪が先に社会人になる。
「早いな」
「ほんとに。なんか怖いよ、まだ実感ないけど」
「なれるよ、ちゃんと」
「また言い切った」澪が笑う。「湊って私のことそういうとき即答するよね」
「知ってるから」
「何を?」
「澪がちゃんとやれる人間だって」
澪が少し黙った。
それからふわっと笑う。
「……ありがとう」
その「ありがとう」が、いつもより少し柔らかかった気がした。
湊はパフェの残りを食べながら、今日言おうか、とまた考えた。
ファミレスだし、昼間だし、タイミングじゃないか。
また先延ばしにした。
六月になると、大学の勉強が本格的になってきた。
レポートが増えて、グループワークが増えて、図書館に通う時間が増えた。
澪とのLINEは続いていたが、頻度が少し落ちた。
三日に一回が、四日に一回になった。
会う約束をしようとしても、お互いの予定が合わなくて、一週間ずれて、また一週間ずれる、ということが続いた。
忙しくなってきた、それだけの話だ。
でも、なんとなく、少し焦る気持ちがあった。
七月、梅雨が明けたころに、やっと会えた。
夕方から近所を散歩した。特に目的もなく、ただ歩いた。
澪は就活の話をした。
「インターン、応募してみようかなって」
「もうそういうこと考えてるのか」
「短大は早いんだよ。二年生になったらすぐ就活本番だから、今のうちに動いとかないと」
「そうか。大変だな」
「大変だけど、やるしかない。地元で働きたいから、地元の会社中心に探してる」
「どんな仕事がいい?」
「事務系。人と話すのは好きだけど、どっちかというと安定してる方がいい。食品系とかいいな、とか思ってる」
「そうか」
「湊はまだ先だよね、就活」
「二年後だから」
「いいなー」澪が少し羨ましそうにする。「でも二年後って、あっという間だよ。気をつけて」
「気をつける」
「ほんとに気をつけてよ。私、社会人になったらもっと忙しくなると思うし、そしたらあんまり会えなくなるかもだし」
澪がそう言って、少し立ち止まった。
「……湊と会えなくなるの、なんか嫌だな」
「会えなくはならないだろ」
「でも今みたいにはいかないと思う。社会人って思ったより忙しいって聞くし」
「それでもたまには会えるよ」
「たまには、か」
澪が少し笑う。
「たまには、で満足するしかないか」
湊はその言葉を聞きながら、今日言おうか、とまた考えた。
夕方の住宅街。蝉の声。二人で歩いている。
言えるかもしれない。
「澪」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
また、言えなかった。
澪が首を傾げた。
「ほんとになんでもないの?」
「うん」
「なんか言いかけてたじゃん」
「気のせいだ」
「……まあいっか」
澪がまた歩き始めた。
湊はその隣を歩きながら、また心の中で同じ言葉を繰り返した。
今度こそ言う。
次に会ったときに、ちゃんと言う。
次に会ったのは、九月だった。
澪の誕生日が八月十三日で、遅れてお祝いをした。
プレゼントを渡したら、澪が目を輝かせた。
「覚えてたんだ」
「毎年覚えてるだろ」
「そうだけど、なんか改めて嬉しい。ありがとう、湊」
その顔が、きれいだった。
湊はまた同じことを思った。
言おう。
でもまた言えなかった。
秋になると、澪の就活の話が増えた。
インターンに行き始めたらしく、LINEの内容が変わってきた。
「今日のインターン、思ったより緊張した」
「どうだった?」
「なんとかなった。でも社会人ってすごいな、みんなちゃんとしてて」
「澪もちゃんとしてるだろ」
「そうかな。なんかまだ学生な気がしてて、背伸びしてる感じがする」
「それでいいんじゃないか。背伸びしてれば慣れる」
「そっかな。……湊に話すと落ち着く」
「そうか」
「うん。昔からそうだよ。湊って、話聞くの上手いよね」
「そんなことないけど」
「あるよ。ちゃんと聞いてくれてる感じがする」
澪からそう言われるたびに、湊はうれしいような、せつないような気持ちになった。
頼りにされている。
でも、湊が澪に対して感じていることは、それよりずっと大きいのに。
冬になった。
十二月、澪から「クリスマスどうする?」というLINEが来た。
「暇だったら会おうよ。去年みたいにイルミネーション見に行こう」
「いいよ」
去年というのは高校二年のことだ。あのクリスマスも二人で行った。
当日、同じ公園のイルミネーションを見た。
青と白の光が木々を包んでいた。
澪の横顔に光が当たって、きれいだった。
「また来ちゃった」と澪が笑う。「来年も来たいな」
「来よう」
「約束ね」
「約束」
帰り道、駅前で別れた。
「またね、湊」
「うん」
澪が手を振って歩いていく。
湊はその背中を見ながら思った。
来年のクリスマス、そのときこそ言おう。
そう、また先延ばしにした。
年が明けて、澪の短大の二年生が始まった。
就活が本格化した。
LINEの返信が遅くなった。
一日、二日、三日。
催促はできなかった。忙しいのはわかっていたから。
でも、返信が来るたびに少しほっとした。
「就活、大変?」
「大変! でも頑張ってる。湊は?」
「こっちはまだ先だから、のんびりしてる」
「いいな。私もそうしたかった」
「でも澪ならうまくいくよ」
「また言い切った。でもありがとう、それ聞くと元気出る」
それだけのやりとりが、細い糸みたいに続いていた。
五月、澪から「就活終わった!」という連絡が来た。
「おめでとう。どこに決まったんだ」
「地元の食品メーカー! 事務員として!」
「よかったじゃないか」
「うん! 安心した。春から社会人だよ、怖いけど」
「大丈夫だよ」
「また言い切った!」
澪からスタンプが来た。笑っている動物のやつだ。
「お祝いしよう」と湊は送った。
「する! 絶対しよ!」
ただ、それが実現したのは三ヶ月後だった。
八月、やっと二人で食事に行けた。
久しぶりに会った澪は、少し大人っぽくなっていた。
髪が少し短くなって、服の雰囲気が落ち着いた感じになっていた。
「なんか変わった?」と湊が言うと、「そう?」と澪が照れたように笑った。
「就活してたら、自然に変わってた気がする」
「似合ってるよ」
「ありがとう」
それから澪は短大生活最後の話をした。卒論のこと、友達のこと、内定先の話。
「春から社会人かあ」と澪がしみじみ言った。
「実感あるか?」
「全然。でもあっという間だったな、二年間」
「そうだな」
「湊と別々になって、最初はさびしかったけど、なんだかんだ会えたし」
「これからも会えるよ」
「……うん。そうだね」
澪が少し笑う。
その笑顔が、少しだけ儚く見えた気がした。
気のせいかもしれない。
でも湊は、その笑顔をずっと覚えていることになる。
第六章 社会人と大学生、細くなっていく糸
四月になって、澪が社会人になった。
同じ日、湊は大学三年生になった。
朝、最寄り駅のホームで澪を見かけた。
スーツ姿だった。
紺のジャケットに、白いブラウス。髪をきっちりまとめて、小さなバッグを持っている。
いつもの澪と、全然違う。
澪も湊に気づいた。
「どう? スーツ」と澪が言う。
「似合ってる」
「ほんとに? なんか緊張する」
「大丈夫だよ」
「うん。行ってきます」
電車が来て、澪が乗り込んだ。
湊も逆方向の電車に乗った。
窓越しに澪のホームが見えた。澪はスマホを見ていた。
電車が動き出して、澪の姿が遠くなった。
頑張れよ、と湊は心の中で思った。
最初の一ヶ月は、まだよく連絡が来た。
「今日初めて一人で電話対応した」
「どうだった?」
「緊張しすぎて、名前言い忘れた」
「大丈夫だったか」
「先輩がフォローしてくれた。優しくてよかった」
「それはよかった」
「でも恥ずかしかった。明日リベンジする」
「リベンジできるよ」
「また言い切った。でも元気出た。ありがとう」
そういうやりとりが続いた。
毎日ではないが、二日に一回くらい。
澪が職場であったことを話して、湊がそれを聞く。
それだけだったが、それが湊には嬉しかった。
まだ糸は繋がっている。
六月になると、澪からの連絡が少し減った。
仕事に慣れてきて、残業も増えてきたらしかった。
「最近どう?」と湊から送ると、一日後に返信が来た。
「忙しい! でもなんとかやってる」
「無理するなよ」
「無理してないよ。でも思ったより仕事多くて、慣れるまで大変かな」
「慣れるよ」
「うん。ありがとう」
それだけだった。
以前なら、そこから話が続いた。
でも、その日はそこで会話が終わった。
湊は「またいつか会おう」と送ろうとして、やめた。
忙しそうなのに、会う約束を取り付けようとするのは重い気がした。
七月、大学のゼミが始まった。
湊はそれなりに忙しくなった。
ゼミのレポートや、グループでの発表準備。夏休みになっても、ゼミ合宿があった。
澪とのLINEは、週に一回くらいになった。
たまに「元気?」と送ると「元気だよ」と返ってきて、それで終わる。
以前みたいに長い会話は減った。
会おうという話は、なかなか実現しなかった。
お互いのタイミングが合わなかった。
ただそれだけなのに、湊はなんとなく焦っていた。
八月、澪の誕生日にメッセージを送った。
「誕生日おめでとう」
しばらくして返信が来た。
「ありがとう! 覚えてくれてたんだ」
「毎年覚えてるだろ」
「そうだよね。嬉しい。最近どう?」
「まあまあ。そっちは?」
「仕事、少し慣れてきた。でも毎日あっという間に終わる感じ」
「そうか」
「社会人って、時間の流れが早い気がする。気づいたら一週間終わってて、気づいたら一ヶ月終わってて」
「そういうもんか」
「そういうもんだよ。湊もそのうちわかる」
澪からスタンプが来た。
「会いたいね」と澪が送ってきた。
湊は少し心臓が跳ねた。
「会おうよ」
「うん。九月とかどう? 落ち着いてきたと思うし」
「いいよ」
「じゃあ日程合わせよう」
ただ、九月になっても日程は合わなかった。
澪が忙しかったり、湊のゼミが入ったり。
「ごめん、また来月にしよう」と澪から来た。
「大丈夫だよ」と湊は返した。
十月になった。
ゼミの発表が重なって、湊も忙しくなった。
澪とのLINEは、十日に一回くらいになった。
会う約束は、また先送りになった。
なんとなく、お互いに「今は忙しいから」という暗黙の了解ができてきた気がした。
十一月、大学の同期が合コンに誘ってきた。
「来いよ」と田中が言う。田中とは大学でも仲良くなっていた。
「いい」
「なんで。彼女いないだろ」
「いない」
「じゃあ来いよ」
「気が乗らない」
「なんで」
湊は少し考えた。
好きな人がいる、とは言いにくかった。
「そういう気分じゃないから」
「もったいない。来ればよかったって後悔するぞ」
「後悔しない」
「言い切るな」
田中が呆れたように笑った。
湊は断りながら、心の中で澪のことを考えた。
澪は今、どうしてるだろう。
忙しいだろうか。元気だろうか。
十二月、クリスマスが近づいてきた。
去年、澪と「来年も来よう」と約束していた。
湊はそれを覚えていた。
「今年もイルミネーション行く?」とLINEを送った。
しばらくして返信が来た。
「ごめん! 今年は会社の忘年会と重なっちゃって。また来年行こう」
「わかった」
「ごめんね。来年絶対行こう」
「うん」
湊は短く返信して、スマホを置いた。
来年、か。
来年も同じことになるかもしれない、という不安が少しあった。
でも、言わなかった。
年が明けて、湊は大学四年生になった。
就活が始まった。
スーツを買って、自己分析をして、エントリーシートを書いた。
澪が一年前にやっていたことを、今度は自分がやっている。
「就活どう?」と澪からLINEが来た。
「始まったばかりでよくわからない」
「大変だよね。でも湊なら大丈夫だよ」
「言い切ってくれるのか」
「だって知ってるから。湊がちゃんとやれる人間だって」
湊は少し笑った。
以前、自分が澪に言っていた言葉を、そのまま返してもらった。
「ありがとう」
「お互い様」
澪からスタンプが来た。
春、夏、秋と就活が続いた。
澪とのLINEは、月に数回になっていた。
会ったのは、就活が終わった秋に一度だけだった。
「就職先、決まったんだ。おめでとう」と澪が言った。
「ありがとう」
「どこ?」
「地元の中堅メーカー。営業職」
「営業か。意外」
「そうか」
「でも湊ならちゃんとできると思う。お客さんに丁寧に接しそう」
「そうなるといいけど」
澪が少し笑う。
久しぶりに会った澪は、また少し変わっていた。
もともと落ち着いた雰囲気があったが、それがさらに増した感じがした。
仕事をしている人間の顔、とでも言えばいいのか。
きれいだな、と思った。
変わっても、やっぱりきれいだな、と。
「最近どうだ? 仕事」と湊が聞いた。
「楽しいよ。大変だけど。先輩も優しいし、仕事も面白くなってきた」
「よかった」
「湊はどう? 卒論とか」
「なんとか進んでる」
「春には卒業か。早いね」
「そうだな」
澪がコーヒーを飲みながら、少し遠い目をした。
「なんか、あっという間だったな。湊と高校卒業して、それぞれの学校行って、私が先に社会人になって。気づいたら二年経ってる」
「そうだな」
「ちゃんと会えてたかな」
「会えてたよ」
「そう思う?」
「うん」
澪が少し笑う。
「湊って、そういうとき否定しないね」
「事実だから」
「……ありがとう」
その「ありがとう」に、少し複雑な感情が混じっているような気がした。
でも湊は、それを聞かなかった。
三月、湊は大学を卒業した。
卒業式の日、澪からLINEが来た。
「卒業おめでとう!!」
「ありがとう」
「社会人になるんだね。感慨深いな」
「そうだな」
「一緒に社会人だね。これからは同じステージだ」
「そうだな」
「なんか嬉しい。またゆっくり話そうね」
「うん」
ゆっくり話そう、という言葉が、少し遠く聞こえた。
でも、また会える。
まだ糸は繋がっている。
そう思っていた。
四月、湊は社会人になった。
スーツを着て、電車に乗って、知らない人たちの中に放り込まれた。
澪が二年前にやっていたことを、今度は自分がやっている。
最初の一ヶ月は、覚えることだらけだった。
名刺の渡し方、電話の取り方、社内システムの使い方。
帰って飯を食って、風呂に入って、寝る。
それだけで一日が終わった。
五月になって、少し落ち着いてきた。
澪に「社会人どう?」とLINEを送った。
一日後に返信が来た。
「大変だよね、最初は。でも慣れるから安心して」
「先輩に言われてる気分だ」
「二年先輩だもん! 何かあったら相談してよ」
「わかった」
「ほんとに相談してよ。遠慮しないで」
「うん」
「……久しぶりに会いたいね」
「会おうよ」
「うん。落ち着いたら連絡する」
落ち着いたら、という言葉が増えてきた。
お互いにそう言いながら、会う機会がずれていく。
それでもまだ、会える気がしていた。
夏になった。
澪から連絡が来る間隔が、また少し広がった。
二週間に一回、三週間に一回。
湊からも送ったが、返信が来るまで時間がかかるようになった。
忙しいのはわかっていた。
仕事が軌道に乗ってくると、かえって忙しくなると聞いたことがある。
催促はしなかった。
でも、待っている時間が少し長くなっていた。
秋、澪とやっと会えた。
半年ぶりだった。
駅前のカフェで、一時間半ほど話した。
澪はまた少し変わっていた。
疲れているようでもあったが、充実しているようでもあった。
「仕事、面白くなってきた」と澪が言った。
「そうか」
「最初はわからないことだらけだったけど、最近は自分で判断できることが増えてきて。それが楽しい」
「よかった」
「湊は? 仕事どう?」
「まあまあ。営業は思ったより向いてるかもしれない」
「そうなの? 意外」
「自分でも意外だった」
澪が笑う。
久しぶりに聞くその笑い声が、湊には懐かしかった。
「また会おうね」と澪が言った。
「うん」
「今度はもっと早く会おう。半年は空きすぎだった」
「そうだな」
「次は三ヶ月以内に会おう。約束」
「約束」
ただ、次に会ったのは半年後だった。
約束は、守られなかった。
守られなかったのは、どちらのせいでもなかった。
ただ、時間が足りなかった。
冬になった。
年末、澪から「今年もお疲れ様でした」というLINEが来た。
「お互いお疲れ様」と湊は返した。
「来年はもっと会おうね」
「うん」
「ほんとだよ」
「わかってる」
「湊って最近、返信短いよね」
「そうか?」
「そうだよ。前はもっと話してたじゃん」
湊は少し止まった。
「……そうだな。すまない」
「謝らなくていいけど。なんか寂しくて」
澪がそう送ってきた。
寂しい。
湊も同じだった。
でも、それをどう言えばいいかわからなかった。
「俺も寂しいよ」
送信ボタンを押してから、少し後悔した。
重かったかな、と思ったが、返信は早かった。
「……なんか、ほっとした」
「なんで」
「湊も同じ気持ちだったから」
澪からスタンプが来た。
その夜のやりとりは、久しぶりに少し長くなった。
他愛ない話をした。仕事のこと、最近見たドラマのこと、食べたいものの話。
一時間くらい話して、澪が「おやすみ」と言った。
「おやすみ」
湊はスマホを置いて、天井を見た。
まだ繋がっている。
細くなっているが、切れてはいない。
そう思った。
翌年の春。
湊が社会人二年目になって、澪が社会人三年目になった。
連絡の頻度は、月に一回か二回。
会うのは、三ヶ月に一回、あるいは半年に一回。
それでも会えば、昔みたいに話せた。
笑って、食べて、しょうもないことで言い合って。
その感覚がうれしかった。
ただ、会えない時間が長くなっていた。
湊は何度も、連絡しようとして、送信ボタンを押せないことがあった。
「元気?」と打って、消した。
何度もそれをやった。
言いたいことは別にある。でもそれは「元気?」じゃない。
かといって、どう切り出せばいいかわからなかった。
ある秋の夜、大学の同期が結婚した。
式に呼ばれて、久しぶりにスーツを着た。
式は明るくて、温かくて、いい式だった。
帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見ながら、湊は澪のことを考えた。
澪は今、何をしているだろう。
仕事は順調だろうか。
元気でいるだろうか。
連絡してみようか、と思った。
でもスマホを取り出して、また閉じた。
こんな夜に突然「元気?」と送るのは、なんか変な気がした。
そうやって、時間が経っていった。
月が変わり、季節が変わり、年が変わった。
連絡が来るのは、誕生日とお正月だけになった。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう。そっちも元気そうで何より」
「うん、なんとかやってる」
それだけだ。
細かった糸が、さらに細くなっていた。
切れてはいない。
でも、いつ切れてもおかしくないくらい、細くなっていた。
ある夜、湊はふと思った。
俺はまだ澪のことが好きなのか。
考えてみると、答えはすぐに出た。
好きだ。
変わっていない。
会えない時間が長くなっても、連絡が減っても、変わっていなかった。
それがわかって、少し困った。
どうすればいいのか、わからなかった。
そんなある日のことだ。
スマホに通知が来た。
澪からではなかった。
澪の母親のSNSで、澪の写真が上がっていた。
誰かと並んで笑っている写真。
澪の隣に、知らない男性がいた。
湊はその写真をしばらく見ていた。
誰だろう、とは思った。
でも、深く考えるのをやめた。
それから数週間後のことだ。
郵便受けに、白い封筒が入っていた。
差出人の名前を見て、湊は少し固まった。
白石澪。
封筒を開けた。
中には、きれいな紙が入っていた。
結婚式の招待状だった。
終章 おめでとう、と言えた夜
招待状を受け取ってから、一週間が経った。
返信ハガキはすぐに書いた。
「ご出席」に丸をつけて、一言「おめでとう」と書いて、ポストに入れた。
それだけのことに、三日かかった。
ポストの前まで何度も行って、何度も戻った。
別におかしなことはない。幼なじみが結婚する。おめでとうと言う。それだけの話だ。
わかっている。
わかっているのに、足が動かなかった。
四度目でやっと、ポストに入れた。
招待状をもう一度、引き出しから出して見た。
白い封筒の中の、きれいな紙。
「白石澪・霧島誠 結婚披露宴」
霧島、という苗字を、湊は何度か目で追った。
白石澪が、霧島澪になる。
それが来月の土曜日に起きる。
わかっていた。
わかっていたのに、文字で見ると、また少し重かった。
引き出しにしまって、湊は窓の外を見た。
式の日程は、来月の土曜日だった。
澪からは招待状以外に特に連絡がなかった。
湊からも何も送らなかった。
何を送ればいいか、わからなかった。
「おめでとう」はもう書いた。
それ以上の言葉が、見つからなかった。
式の前日の夜、湊はソファに座ってぼんやりしていた。
テレビをつけていたが、何も頭に入ってこなかった。
明日、澪の結婚式がある。
白いドレスを着た澪が、霧島誠という人の隣に立つ。
誰かが澪の手を握る。
誰かが澪と一緒に生きていく。
それは、湊じゃない。
わかっていた。ずっとわかっていた。
でも、こうして明日に迫ると、改めてずしっと重かった。
夜の十一時を過ぎたころ、スマホが震えた。
画面を見た。
白石澪。
湊は少し固まった。
三回、画面が光った。
LINEだった。
開いた。
「ねえ、起きてる?」
湊はすぐに返信した。
「起きてる」
すぐに返信が来た。
「よかった。急にごめんね」
「どうした」
少し間があった。
それから、こう来た。
「なんか緊張してきて。明日のこと考えてたら眠れなくて」
湊はその文字を見た。
緊張してきた。眠れない。
明日、結婚式がある。
澪が緊張している。
「電話してもいい?」と湊は打った。
少し間があって、「いいの?」と返ってきた。
「いいよ」
「……うん。お願い」
湊は発信ボタンを押した。
二コールで澪が出た。
「もしもし」
声を聞いたのは、いつぶりだろう。
少し低くなったような、でも変わらないような。
「もしもし」と湊も言った。
「急にごめんね、こんな時間に」
「いいよ。眠れないのか」
「うん。なんか急に緊張してきちゃって。変だよね、今さら」
「変じゃない」
「そうかな」
「そうだよ。緊張するのは当たり前だろ」
澪が少し笑う気配がした。
「湊に電話したら落ち着くかなって思って」
「そうか」
「昔からそうじゃん。困ったとき、なんか湊に話したくなるんだよね」
「そうだったな」
「……久しぶりだね、電話」
「そうだな」
しばらく、沈黙があった。
電話越しに、澪の呼吸が聞こえた。
「ねえ」と澪が言った。
「なに」
「疎遠になっちゃったね、最近」
「……そうだな」
「私のせいだと思う。仕事忙しくて、連絡減らしちゃって。ごめんね」
「俺も同じだよ」
「でも、なんか、ずっと湊のこと、頭のどこかにあったよ。元気かなって」
湊は少し黙った。
「俺も」
「……そっか」
また、静かになった。
遠くで、風の音がした。
「ね、湊」
「なに」
「今日、私に会いに来てくれない?」
湊は少し固まった。
「今日?」
「うん。今夜。式の前夜だけど。……ダメかな」
「どこに」
「駅前の公園。ベンチのとこ。十五分くらいでいいから」
湊は少し考えた。
夜の十一時を過ぎている。明日は式だ。
でも、澪が呼んでいる。
「わかった。行く」
「……ありがとう」
公園まで歩いて十分だった。
夜の公園は静かで、街灯がぽつぽつと光っていた。
ベンチに澪が座っていた。
コートを着て、少し体を縮めるようにして、空を見上げていた。
湊が近づくと、澪が気づいた。
「来てくれた」
「来るって言った」
澪が少し笑う。
目が、少し赤かった。
泣いていたのかもしれない。
湊はベンチに座った。澪の隣に。
しばらく、二人で黙っていた。
風が吹いて、木の葉が揺れた。
「明日、結婚式か」と湊が言った。
「うん」
「緊張するか」
「する。でも、さっきよりはマシになった。湊が来てくれたから」
「そうか」
また、静かになった。
街灯の明かりが、澪の横顔を照らしていた。
湊はその横顔を見た。
中学の卒業式のとき、桜の前で写真を撮ったときの顔。
高校一年の夏、海で転びそうになって腕をつかんだときの顔。
雨の日に並んで歩いたとき。
クリスマスのイルミネーションのとき。
文化祭の帰り道。
たくさんの顔が、頭の中を流れた。
「ねえ」と澪が言った。
「なに」
「湊って、今、好きな人いる?」
突然の質問に、湊は少し止まった。
澪がこちらを向く。
街灯の光の中で、澪の目が揺れていた。
「いる」
湊は答えた。
澪が少し表情を変えた。
「……誰」
「澪だよ」
静寂が落ちた。
木の葉が、風に揺れた。
澪が、ゆっくりと視線を落とした。
「……ずっと?」
「ずっと。高校一年のときから」
澪が唇をかすかに動かした。
何かを言おうとして、言えない、みたいな顔だった。
湊は続けた。
「言えなかった。言おうと思って、何度も思って、でもいつも先延ばしにした。受験が終わったら、大学に入ったら、落ち着いたら、って。そうしてたら、こんなに時間が経ってた」
澪が黙って聞いている。
「遅いのはわかってる。でも、言わないまま明日を迎えるのは、もっとだめだと思って」
しばらく、沈黙があった。
澪が、ゆっくりと顔を上げた。
目に、涙が光っていた。
「……もう遅いよ」
その一言が、静かに落ちた。
「知ってる」
「知ってるのに言うの」
「言いたかったから」
澪が唇を噛んだ。
涙が一粒、頬を伝った。
「……私ね」
澪が言った。
「湊のこと、ずっと気になってた。好きだったと思う。ちゃんと向き合ったことなかったけど、でも、ずっと」
湊は何も言わなかった。
「湊が言ってくれるのを、どこかで待ってたかもしれない。気づいてたから。湊が私のこと、特別に思ってるって」
「そうか」
「なんで言ってくれなかったの」
澪の声が、少し震えた。
「なんで、もっと早く言ってくれなかったの」
湊は少し目を閉じた。
「俺が、臆病だったから」
「……そっか」
澪がまた涙をぬぐう。
「でも、もう遅いよ……」
澪がもう一度、同じ言葉を言った。
今度はもっと小さく、自分に言い聞かせるみたいに。
「霧島さんと、ちゃんと一緒にいることにしたから。明日、式があるから」
霧島、という名前が、夜の空気の中に溶けた。
「わかってる」と湊は言った。
「わかってて言ったの?」
「わかってて言った」
澪がまた黙った。
「……ひどいよ」
「そうだな」
「こんな夜に言うなんて、ひどい」
「そうだな」
「でも」
澪が少し笑った。
泣きながら、笑った。
「……聞けてよかった。ちゃんと聞けてよかった」
湊はその顔を見た。
泣いていて、でも笑っている。
「幸せになれよ」と湊は言った。
「霧島さんと」
澪がまた涙をぬぐった。
「……湊も」
「なる」
「ほんとに?」
「なるようにする」
澪がくすっと笑った。
「また『なるようにする』だ。湊らしい」
「そうか」
「そうだよ」
しばらく、二人でベンチに座っていた。
特に何も話さなかった。
ただ、隣にいた。
風が吹くたびに、木の葉が揺れた。
街灯の明かりが、変わらずそこにあった。
やがて澪が立ち上がった。
「帰る。明日、早いから」
「うん」
「湊も帰って。寒いから」
「わかった」
澪がコートの前を合わせた。
「ね、湊」
「なに」
「これからも、友達でいてね」
湊は少し間を置いた。
「いるよ。ずっと」
澪がまた泣きそうな顔になった。
「……ありがとう」
それから、小さく手を振った。
「またね、湊」
「うん」
澪が歩いていく。
街灯の明かりの中を、少しずつ遠くなっていく。
角を曲がって、見えなくなった。
湊はしばらく、ベンチに座ったままでいた。
夜の公園は静かだった。
風が吹いて、また木の葉が揺れた。
泣くかな、と思った。
でも、涙は出なかった。
ただ、胸のあたりに何か重いものがあった。
石みたいなやつが、ぽんと置いてある感じ。
痛くはない。ただ、重い。
俺が、臆病だった。
それだけの話だ。
澪は気づいていた。ずっと気づいていて、どこかで待っていてくれた。
でも俺は言わなかった。
今じゃなくていい、まだ早い、ずっと一緒にいるから、と思いながら。
受験が終わったら。
大学に入ったら。
落ち着いたら。
そうやって先延ばしにしているうちに、時間が経った。
澪の隣に、湊じゃない誰かがいる。
明日、澪は霧島澪になる。
その人がちゃんと、澪を幸せにする。
それでいい。
澪が笑っているなら、それでいい。
そう思える自分が、少しだけ情けなくて、少しだけまともになった気がした。
スマホを取り出した。
澪からLINEが来ていた。
「今日、来てくれてありがとう。話せてよかった。おやすみ」
湊はしばらくその画面を見ていた。
それから、返信を打った。
「おめでとう、霧島澪。幸せになれよ。おやすみ」
送信ボタンを押した。
画面を見た。
霧島澪、という文字が、画面の中で光っていた。
スマホをしまった。
ベンチから立ち上がった。
夜風が吹いた。
少し、冷たかった。
湊は公園を出て、家に向かって歩き始めた。
街灯が一本、また一本と後ろに流れていく。
歩きながら、湊は思った。
明日、式場で澪を見る。
白いドレスを着た澪を。
霧島誠の隣に立つ澪を。
そのとき、ちゃんと笑えるか。
笑えるかどうか、今はわからない。
でも、笑うようにする。
澪に「おめでとう」と言える顔で、ちゃんとそこにいる。
それだけは、できる。
家に帰って、部屋の電気をつけた。
明かりが部屋を照らした。
湊はコートを脱いで、椅子に座った。
天井を見上げた。
長い夜だった。
でも、後悔はなかった。
言えた。
遅かったけど、ちゃんと言えた。
それだけで、十分だった。
窓の外で、夜がゆっくりと明けていく。
街灯の光が、少しずつ薄くなっていく。
奥村湊は、静かに目を閉じた。
明日、霧島澪の結婚式がある。
ちゃんと、笑っていこう。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




