【さよならまで一週間】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
卒業まであと一週間。
三月の夕暮れは早くて、放課後の帰り道はもう薄暗かった。いつもの通学路を一人で歩いていると、後ろから息を切らした声が聞こえた。
「水瀬さん!」
振り返ると、久保涼介が走ってきた。クラスでも目立たない、地味な男子だ。
「なに?」
私が立ち止まると、久保は息を整えながら真剣な顔をした。
「あの……好きです。付き合ってください」
え。
私は目を丸くした。久保涼介に告白されるなんて、まったく予想していなかった。
「ごめん、無理」
私は即答した。別に久保のことが嫌いなわけじゃない。でも、好きでもない。それだけのことだ。
「そう、ですよね……」
久保は肩を落とした。でも、その場を離れようとしない。何か言いたそうに、俯いたまま立っている。
「……他に何か?」
「あの……お願いがあります」
久保は顔を上げて、真っ赤な顔で私を見た。
「一週間だけでいいんです。一週間だけ、付き合ったことにしてもらえませんか」
「は? 何それ」
「僕、今まで一度も付き合ったことなくて……クラスの奴らにバカにされて、すごく悔しいんです。だから、卒業までの一週間だけでいいから……僕のこと嫌いでもいいから、付き合ってるフリだけでもさせてください」
久保の声は震えていた。必死なんだ、と思った。なんだか可哀想になって、私はため息をついた。
「……条件は?」
私の言葉に、久保が顔を上げた。
「え?」
「フリでも付き合うなら、それなりの条件がないと割に合わないでしょ。何してくれるの?」
久保は一瞬呆然としたけど、すぐに真剣な顔になった。
「毎日、自転車で送り迎えします。それと、帰りに喫茶店でケーキセット、奢ります」
「……マジで?」
「マジです!」
久保の目が輝いていた。私は少し考えてから、肩をすくめた。
「わかった。一週間だけね。卒業式が終わったら、おしまい」
「本当ですか!?」
久保の顔がぱあっと明るくなった。その嬉しそうな顔を見て、私は少しだけ罪悪感を覚えた。でも、まあいいか。どうせ一週間だけだし。
次の日の朝、久保は本当に自転車で迎えに来た。
「おはようございます、水瀬さん」
「……おはよう」
私は後ろに乗って、久保の背中にそっと手を置いた。久保の背中が一瞬ビクッとした。
「大丈夫? 怖くない?」
「だ、大丈夫です!」
久保は緊張した声で答えた。ペダルを踏む足がぎこちない。
学校まで十分くらいの道のりなのに、久保はやたらとゆっくり漕いだ。まるで、この時間を少しでも長く引き延ばしたいみたいに。
「ねえ、久保」
「は、はい!」
「付き合ってるのに、水瀬さんって呼ぶのおかしくない?」
久保の背中がまた硬くなった。
「え……でも……」
「名前で呼んでよ。涼介」
私がそう言うと、久保は自転車を止めそうになった。
「む、無理です……」
「なんで?」
「恥ずかしいから……」
久保の耳まで真っ赤になっているのが見えた。思わず笑ってしまった。
「変なの。じゃあ、私は涼介って呼ぶけど、涼介は水瀬さんでいいよ」
「す、すみません……」
久保は申し訳なさそうに小さくなった。その姿がなんだか可愛くて、私は久保の背中にもう少し近づいた。
放課後、約束通り久保と喫茶店に行った。学校の近くにある、ちょっとレトロな喫茶店。
「何でも好きなの頼んでください」
久保はメニューを私に差し出した。
「じゃあ、このモンブランとカフェラテ」
「はい。僕はショートケーキとコーヒーで」
注文を終えると、久保は嬉しそうに私を見た。
「水瀬さんと二人で喫茶店に来るなんて、夢みたいです」
「大げさだなあ」
私は笑った。でも、久保は本気の顔をしている。
「本当なんです。水瀬さんのこと、ずっと好きでした」
その真剣な眼差しに、私は少しドキッとした。
「……そうなんだ」
「はい。でも、僕なんかが告白しても無理だってわかってたから……今回、フリでも付き合ってくれて、本当に嬉しいです」
久保の笑顔は無邪気で、まっすぐだった。なんだか、胸がチクリと痛んだ。
ケーキが運ばれてきて、私はフォークを手に取った。モンブランのクリームが、ふわっと口の中で溶ける。
「美味しい?」
久保が心配そうに聞いてきた。
「うん、美味しい」
「よかった……」
久保はほっとしたように笑った。その笑顔を見ていると、なんだか不思議な気持ちになった。
「ねえ、涼介」
「はい」
「また明日も、ここ来る?」
「もちろんです!」
久保の顔がぱあっと明るくなった。その無邪気な笑顔に、私も思わず笑ってしまった。
三日目の朝、久保が迎えに来たとき、雨が降っていた。
「すみません、今日は傘しかなくて……」
久保は申し訳なさそうに言った。
「いいよ、仕方ないじゃん」
「あの、相合い傘で……いいですか?」
久保の顔は真っ赤だった。私は少し笑って、久保の傘に入った。
「涼介、背高いんだね」
「え? そうですか?」
「うん。気づかなかった」
久保は嬉しそうに照れた。二人で歩く道のりは、いつもより近く感じた。久保の肩が私の肩に時々触れる。その度に、久保は少し距離を取ろうとするけど、傘から出ないようにまた近づいてくる。その繰り返しが、なんだか微笑ましかった。
雨音だけが聞こえる静かな道。久保の傘は少し私の方に傾いていて、久保の肩がびしょ濡れになっているのに気づいた。
「涼介、濡れてるよ」
「あ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ。ちゃんと真ん中に」
私が久保の腕を引っ張ると、久保の顔が真っ赤になった。
「ねえ、涼介」
「はい」
「名前、まだ呼んでくれないの?」
久保の足が止まった。
「……本当にすみません。どうしても恥ずかしくて……」
「別にいいけど。でも、ちょっと寂しいかも」
私がそう言うと、久保は苦しそうな顔をした。
「頑張ります……いつか、絶対……」
その「いつか」は来るのかな、と思った。だって、卒業まであと四日しかないんだから。
四日目の放課後、喫茶店でいつものようにケーキを食べていると、久保が急に話し始めた。
「水瀬さん、卒業したらどうするんですか?」
「大学。県外に行く予定」
「そうなんですね……」
久保は少し寂しそうに笑った。
「涼介は?」
「僕も大学です。でも、地元に残ります」
「そっか」
二人とも、違う道を歩くんだ。当たり前のことなのに、なんだか胸が締め付けられた。
「あの、水瀬さん」
「なに?」
「この一週間、本当に楽しかったです。ありがとうございます」
久保の笑顔は、少し切なそうだった。
「まだ終わってないよ。あと三日あるじゃん」
「そうですね。あと三日……」
久保は俯いて、コーヒーカップを両手で包んだ。その手が少し震えているのに気づいて、私は何も言えなくなった。
窓の外を見ると、桜の木が見えた。まだ蕾だけど、もうすぐ咲く。卒業式の頃には、きっと満開だ。
「涼介」
「はい」
「大学生活、頑張ってね」
「……水瀬さんも」
二人とも、これ以上何も言えなかった。
五日目の朝、久保はいつもより少し早く迎えに来た。
「今日は少し遠回りしてもいいですか?」
「うん、いいよ」
久保は川沿いの道を選んだ。桜の蕾がほんの少しだけ膨らんでいる。
「もうすぐ春ですね」
「そうだね」
「水瀬さん、大学生活楽しんでくださいね」
「……うん」
久保の声が優しくて、私は胸が苦しくなった。いつの間にか、久保のことを考える時間が増えていた。久保の笑顔、久保の声、久保の優しさ。全部が、私の中に残っている。
これって、もしかして……。
「水瀬さん?」
「……ん?」
「どうかしました? ぼうっとしてて」
「ううん、なんでもない」
私は首を振った。久保の背中に、もう少しだけ強く手を置いた。
六日目の放課後、喫茶店で久保が突然言った。
「明日で最後ですね」
「……うん」
「約束通り、卒業式が終わったら、別れます」
久保は笑っていたけど、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「涼介……」
「でも、本当に楽しかったです。水瀬さんと過ごせて、幸せでした」
私は何も言えなかった。胸の奥が熱くなって、言葉が出てこなかった。
「水瀬さん、ありがとうございました」
久保は深々と頭を下げた。
「……こちらこそ」
私の声は、少し震えていた。
そして、卒業式の日。
式が終わって、教室で最後のホームルームを終えた後、久保が私を呼び止めた。
「水瀬さん、少しだけ話せますか?」
「うん」
二人で屋上に行った。三月の風が少し冷たい。校庭の桜が、ちらほらと咲き始めていた。
「一週間、ありがとうございました」
久保は深々と頭を下げた。
「こちらこそ。毎日送り迎えしてくれて、ケーキもご馳走してくれて」
「いえ、僕の方こそ……本当に楽しかったです」
久保は笑った。でも、その目は少し潤んでいた。
私は久保の胸に、そっとおでこを預けた。
「……え?」
久保の声が震えた。
「ねえ、一回だけでいいから」
「は、はい……」
「陽菜って、呼んで」
久保の心臓の音が、ドクドクと早くなるのが聞こえた。久保の体が震えている。でも、何も言わない。
何秒経ったんだろう。久保は、ついに私の名前を呼ぶことができなかった。
「……もういいよ」
私は顔を上げて、久保から離れた。
「すみません……本当に、すみません……」
久保は泣きそうな顔で謝った。
「ううん、いいの。約束だもんね。一週間で、おしまい」
「……はい」
「じゃあね、涼介」
「……さようなら、水瀬さん」
私は振り返らずに、屋上を出た。階段を降りながら、小さく呟いた。
「結構いいとこまで来てたんだけどなぁ」
春の風が、私の頬を撫でた。桜の花びらが一枚、ひらりと舞い落ちた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




