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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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29/30

【青と緑】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

 母が死んだのは、四月の終わりだった。

 中村あおいが訃報を受けたのは、就職して三週間目の水曜日。午後二時過ぎ、まだ仕事のやり方もろくにわからなくて、先輩の背中を目で追いながらデスクに座っていたときだった。

 スマホが震えた。画面を見ると、「おばさん」と表示されていた。母の妹、叔母の幸子さんだ。

 こんな時間にかけてくるのは珍しい。あおいは席を立って、給湯室に移動してから電話に出た。

「あおいちゃん? 今、大丈夫?」

 幸子さんの声が、いつもより低かった。

「はい。どうしたんですか」

「お母さんがね……今朝、倒れて。病院に運ばれたんだけど、そのまま……」

 そのまま、という言葉の続きを、あおいはしばらく理解できなかった。

「……亡くなった、ってことですか」

「うん」

 給湯室の窓の外に、桜の葉が見えた。花はもうとっくに散って、青々とした葉だけが風に揺れていた。あおいはそれをぼんやりと眺めながら、「わかりました」とだけ言った。

 泣かなかった。

 泣けなかった、というより、泣く理由がわからなかった。

 あおいと母・みどりの関係が壊れたのは、あおいが十五歳のときだった。

 きっかけは些細なことだ。今となってはもう、何が最初だったかも思い出せない。門限のことだったか、友達のことだったか。とにかくあおいは母親のすべてが嫌いになった。口うるさいところ。いつも正しいと思っているところ。あおいの部屋に勝手に入ってくるところ。あおいの友達を値踏みするような目で見るところ。

 最初は言い返していた。やがて無視するようになった。

 高校を卒業して、あおいは県外の大学に進んだ。仕送りはしてもらっていたけれど、電話はほとんどしなかった。帰省も、年に一度あるかないか。

 みどりから時々LINEが来た。「元気にしてる?」「ちゃんとご飯食べてる?」「最近寒いから気をつけてね」

 あおいは既読だけつけて、返信しないことが多かった。

 返す言葉が思いつかなかった。謝りたいわけでも、仲直りしたいわけでも、ないつもりだった。ただ、なんとなく、返せなかった。

 就職が決まったとき、みどりからLINEが来た。

「おめでとう。よかったね」

 あおいは「ありがとう」とだけ返した。それが、最後のやり取りだった。


 葬儀は小さなものだった。みどりには友人が少なかった。あおいが知らない顔が数人いたけれど、ほとんどは親戚だった。

 棺の中のみどりは、眠っているみたいだった。シワが増えていた。白髪も、あおいが最後に会った三年前よりずっと多かった。

 あおいはみどりの顔を見ながら、この人のことを自分はどれだけ知っていたんだろう、と思った。

 好きな食べ物。好きなテレビ番組。仲の良かった友達の名前。趣味。最近悩んでいたこと。

 何も知らなかった。

 母親なのに。十八年間、同じ家で育ったのに。

 葬儀が終わって、実家に泊まることになった。幸子さんが「後片付けを手伝ってほしい」と言ったからだ。

 久しぶりに入った実家は、思ったより片付いていた。みどりはきれい好きだった。それだけは覚えている。

 あおいの部屋はそのままになっていた。高校の教科書。読みかけで放置した文庫本。剥がしかけのシール跡。時間が止まったみたいだった。

 夜、幸子さんが帰ってから、あおいは一人でリビングに座った。

 テーブルの上に、みどりのスマホが置いてあった。

 幸子さんが「解約の手続きに必要だから」と言い残していったものだ。ロックはかかっていなかった。みどりは暗証番号を設定していなかったらしい。

 あおいはしばらくそのスマホを見つめていた。

 触ってはいけない気がした。でも、触らずにいられなかった。

 画面をつけると、壁紙が出てきた。

 あおいの写真だった。

 大学の入学式の日に撮ったものだ。あおいが一人で写っている。みどりが「記念に撮って」と言って、あおいが仕方なく応じた写真だ。あのときあおいは早く解放されたくて、ぶっきらぼうに「もういい?」と言った。みどりは何も言わなかった。

 あおいはその写真を、しばらく見つめた。


 LINEのアイコンを開いた。

 みどりのトーク履歴が並んでいた。幸子さん。近所に住む田中さんというひと。スーパーのポイントアプリ。

 あおいとのトークを開いた。

 最後のやり取りは、就職が決まったときのものだった。

「おめでとう。よかったね」

「ありがとう」

 それ以前のメッセージをスクロールした。みどりからのLINEが、ずっと続いていた。

「元気にしてる?」

「ちゃんとご飯食べてる?」

「最近どう?」

「寒くなってきたね、風邪引かないようにね」

「お正月、帰ってこれる?」

「帰ってこなくてもいいけど、元気ならいいから」

 あおいからの返信は、ほとんどなかった。たまに「うん」とか「大丈夫」とか、一言だけ返しているものがあった。

 みどりはそれでも送り続けていた。

 返信がなくても。既読さえつかないことがあっても。

 あおいはスクロールする手を止めた。

 泣きそうだった。でも泣かなかった。泣いたら、何かが崩れてしまう気がした。

 次に、インターネットの検索アプリを開いた。

 特に理由はなかった。なんとなく、開いた。

 履歴が残っていた。

 一番新しいものから順に、さかのぼっていった。

「心筋梗塞 前兆 症状」

「突然死 原因 働き盛り」

「娘 就職 スーツ プレゼント おすすめ」

「社会人 一年目 必要なもの」

「娘に手紙 書き方 例文」

 あおいは手を止めた。

「娘に手紙 書き方 例文」

 検索していたんだ、と思った。

 手紙を書こうとしていたんだ。

 あおいに。

 続きをスクロールした。

「娘と仲直りしたい 方法」

「反抗期 娘 いつまで 続く」

「娘に嫌われた 理由 わからない」

「娘 無視 悲しい」

「子育て 失敗 どうすれば」

 あおいの目が、滲んだ。

 ずっと、悩んでいたんだ。

 あおいが無視し続けた七年間、みどりはずっと、どうすればいいか考えていたんだ。検索して、調べて、答えを探していたんだ。

 あおいにはわからなかった。みどりがそんなことを考えているなんて、思ってもみなかった。

 もっと前に、遡った。

「娘 反抗期 接し方」

「中学生 娘 口を聞かない どうする」

「思春期 子供 距離感」

「娘に何て声をかければいい」

 あおいが十五歳の頃の検索だった。

 みどりはあのときから、ずっと検索していたんだ。どうすればいいか、わからなくて。


 あおいはスマホを置いて、天井を見た。

 リビングの照明が、白く光っていた。

 思い出した。中学生のとき、みどりに「うるさい」と怒鳴ったことがあった。みどりは何も言わなかった。黙って台所に戻っていった。その背中が、なんとなく小さく見えた。でもあおいはそのまま部屋に戻った。

 高校のとき、文化祭があった。みどりが「見に行っていい?」と聞いた。あおいは「来なくていい」と言った。みどりは「そう」とだけ言って、それ以上何も言わなかった。

 大学の卒業式のとき、みどりが「行きたい」と言った。あおいは「別にいい」と答えた。みどりは新幹線に乗ってきた。式の後、二人で食事をした。ほとんど会話がなかった。みどりが「就職先、決まってよかったね」と言った。あおいは「うん」と言った。それだけだった。

 あのとき、何か言えばよかった。

 ありがとう、でも。来てくれてよかった、でも。

 何か一言、言えばよかった。

 再びスマホを手に取った。

 検索履歴の、一番古いものまで遡ろうとした。そのとき、指が止まった。

 一番最近の検索の、少し前。日付は三週間前、あおいが就職した週だった。

「娘が就職した 嬉しい 寂しい」

 あおいは、声が出そうになった。

 嬉しくて、寂しかったんだ。

 あおいが社会人になったことが、嬉しくて、寂しくて、それをどこにもぶつけられなくて、検索したんだ。

 その気持ちを、あおいに伝えることもできなくて。

 もう一度、スクロールした。

 そして、見つけた。

 一番新しい検索の、二日前。みどりが倒れる、四日前のものだった。

「ありがとう 娘に伝える方法」

 あおいは、泣いた。

 声を上げて、泣いた。

 ずっと泣けなかったのに、もう止められなかった。

 ありがとう、って言いたかったんだ。

 みどりは、あおいに、ありがとうって言いたかったんだ。

 何に対してかは、わからない。生まれてきてくれたことか。就職できたことか。二十二年間、娘でいてくれたことか。

 でも、伝え方がわからなくて、検索したんだ。

 あおいに、ありがとうって言えないまま、逝ってしまったんだ。


 翌朝、あおいは実家の押し入れを開けた。

 特に理由はなかった。ただ、もっとみどりのことを知りたかった。

 押し入れの奥に、段ボール箱があった。

 開けると、中に手紙がたくさん入っていた。

 あおいへの手紙だった。

 日付が書いてあった。一番古いものは、あおいが高校を卒業した年。一番新しいものは、去年の誕生日。

 封はされていなかった。送られなかった手紙だった。

 あおいは一番古いものから、順番に読んだ。


あおいへ

高校を卒業したね。おめでとう。

あなたが生まれた日のことを、今日また思い出した。小さくて、真っ赤な顔で、泣いていたね。あの子がもう大人になったんだと思うと、不思議な気持ちがする。

うまく話せなくてごめんね。どうすればよかったのか、今でもわからない。でも、あなたが元気でいてくれることだけが、お母さんの願いです。

大学でも、元気でね。

お母さんより


 あおいは読み終えて、次の手紙を開いた。


あおいへ

成人式の日、遠くからあなたを見た。きれいになったね。声をかけようと思ったけど、やめた。迷惑かと思って。

でも、きれいだった。本当に。

お母さんより


 手紙は、七年分あった。

 みどりはずっと書いていたんだ。送れないまま、ずっと。

 どの手紙にも、難しいことは書いていなかった。「元気でね」「きれいだった」「就職おめでとう」。そんな言葉ばかりだった。

 でも、どの手紙にも最後に一言、同じ言葉が書いてあった。

「産んでよかった」


 あおいは手紙を全部読んでから、しばらく押し入れの前に座っていた。

 窓の外に、青空が見えた。

 みどり、という名前は、緑色のことだ。あおいという名前は、青色のことだ。みどりがあおいにつけた名前だった。

 なんで青なんだろう、と昔思ったことがあった。みどりに聞いたことがあったかもしれない。覚えていない。

 でも今は、なんとなくわかる気がした。

 緑と青は、似ている色だ。はっきりとした境目がない。空と森の境目みたいに、どこからが緑でどこからが青か、わからないことがある。

 でも確かに、隣り合っている。

 ずっと、隣にいたんだ。

 あおいは段ボール箱を閉じた。

 そして、自分のスマホを取り出した。

 LINEを開いた。みどりとのトーク画面を開いた。

 もう、返信は届かない。既読にもならない。

 それでも、あおいは入力した。


お母さんへ

ありがとう。

産んでくれて、ありがとう。

言えなくてごめんね。

あおいより


 送信ボタンを押した。

 メッセージは、届かない。

 でも、きっと、届いた気がした。

 窓の外の青空に、白い雲が流れていた。

 あおいはそれを見ながら、初めて、声を上げずに泣いた。

 静かに、ただ静かに、涙が頬を伝った。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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