【青と緑】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
一
母が死んだのは、四月の終わりだった。
中村あおいが訃報を受けたのは、就職して三週間目の水曜日。午後二時過ぎ、まだ仕事のやり方もろくにわからなくて、先輩の背中を目で追いながらデスクに座っていたときだった。
スマホが震えた。画面を見ると、「おばさん」と表示されていた。母の妹、叔母の幸子さんだ。
こんな時間にかけてくるのは珍しい。あおいは席を立って、給湯室に移動してから電話に出た。
「あおいちゃん? 今、大丈夫?」
幸子さんの声が、いつもより低かった。
「はい。どうしたんですか」
「お母さんがね……今朝、倒れて。病院に運ばれたんだけど、そのまま……」
そのまま、という言葉の続きを、あおいはしばらく理解できなかった。
「……亡くなった、ってことですか」
「うん」
給湯室の窓の外に、桜の葉が見えた。花はもうとっくに散って、青々とした葉だけが風に揺れていた。あおいはそれをぼんやりと眺めながら、「わかりました」とだけ言った。
泣かなかった。
泣けなかった、というより、泣く理由がわからなかった。
あおいと母・みどりの関係が壊れたのは、あおいが十五歳のときだった。
きっかけは些細なことだ。今となってはもう、何が最初だったかも思い出せない。門限のことだったか、友達のことだったか。とにかくあおいは母親のすべてが嫌いになった。口うるさいところ。いつも正しいと思っているところ。あおいの部屋に勝手に入ってくるところ。あおいの友達を値踏みするような目で見るところ。
最初は言い返していた。やがて無視するようになった。
高校を卒業して、あおいは県外の大学に進んだ。仕送りはしてもらっていたけれど、電話はほとんどしなかった。帰省も、年に一度あるかないか。
みどりから時々LINEが来た。「元気にしてる?」「ちゃんとご飯食べてる?」「最近寒いから気をつけてね」
あおいは既読だけつけて、返信しないことが多かった。
返す言葉が思いつかなかった。謝りたいわけでも、仲直りしたいわけでも、ないつもりだった。ただ、なんとなく、返せなかった。
就職が決まったとき、みどりからLINEが来た。
「おめでとう。よかったね」
あおいは「ありがとう」とだけ返した。それが、最後のやり取りだった。
二
葬儀は小さなものだった。みどりには友人が少なかった。あおいが知らない顔が数人いたけれど、ほとんどは親戚だった。
棺の中のみどりは、眠っているみたいだった。シワが増えていた。白髪も、あおいが最後に会った三年前よりずっと多かった。
あおいはみどりの顔を見ながら、この人のことを自分はどれだけ知っていたんだろう、と思った。
好きな食べ物。好きなテレビ番組。仲の良かった友達の名前。趣味。最近悩んでいたこと。
何も知らなかった。
母親なのに。十八年間、同じ家で育ったのに。
葬儀が終わって、実家に泊まることになった。幸子さんが「後片付けを手伝ってほしい」と言ったからだ。
久しぶりに入った実家は、思ったより片付いていた。みどりはきれい好きだった。それだけは覚えている。
あおいの部屋はそのままになっていた。高校の教科書。読みかけで放置した文庫本。剥がしかけのシール跡。時間が止まったみたいだった。
夜、幸子さんが帰ってから、あおいは一人でリビングに座った。
テーブルの上に、みどりのスマホが置いてあった。
幸子さんが「解約の手続きに必要だから」と言い残していったものだ。ロックはかかっていなかった。みどりは暗証番号を設定していなかったらしい。
あおいはしばらくそのスマホを見つめていた。
触ってはいけない気がした。でも、触らずにいられなかった。
画面をつけると、壁紙が出てきた。
あおいの写真だった。
大学の入学式の日に撮ったものだ。あおいが一人で写っている。みどりが「記念に撮って」と言って、あおいが仕方なく応じた写真だ。あのときあおいは早く解放されたくて、ぶっきらぼうに「もういい?」と言った。みどりは何も言わなかった。
あおいはその写真を、しばらく見つめた。
三
LINEのアイコンを開いた。
みどりのトーク履歴が並んでいた。幸子さん。近所に住む田中さんというひと。スーパーのポイントアプリ。
あおいとのトークを開いた。
最後のやり取りは、就職が決まったときのものだった。
「おめでとう。よかったね」
「ありがとう」
それ以前のメッセージをスクロールした。みどりからのLINEが、ずっと続いていた。
「元気にしてる?」
「ちゃんとご飯食べてる?」
「最近どう?」
「寒くなってきたね、風邪引かないようにね」
「お正月、帰ってこれる?」
「帰ってこなくてもいいけど、元気ならいいから」
あおいからの返信は、ほとんどなかった。たまに「うん」とか「大丈夫」とか、一言だけ返しているものがあった。
みどりはそれでも送り続けていた。
返信がなくても。既読さえつかないことがあっても。
あおいはスクロールする手を止めた。
泣きそうだった。でも泣かなかった。泣いたら、何かが崩れてしまう気がした。
次に、インターネットの検索アプリを開いた。
特に理由はなかった。なんとなく、開いた。
履歴が残っていた。
一番新しいものから順に、さかのぼっていった。
「心筋梗塞 前兆 症状」
「突然死 原因 働き盛り」
「娘 就職 スーツ プレゼント おすすめ」
「社会人 一年目 必要なもの」
「娘に手紙 書き方 例文」
あおいは手を止めた。
「娘に手紙 書き方 例文」
検索していたんだ、と思った。
手紙を書こうとしていたんだ。
あおいに。
続きをスクロールした。
「娘と仲直りしたい 方法」
「反抗期 娘 いつまで 続く」
「娘に嫌われた 理由 わからない」
「娘 無視 悲しい」
「子育て 失敗 どうすれば」
あおいの目が、滲んだ。
ずっと、悩んでいたんだ。
あおいが無視し続けた七年間、みどりはずっと、どうすればいいか考えていたんだ。検索して、調べて、答えを探していたんだ。
あおいにはわからなかった。みどりがそんなことを考えているなんて、思ってもみなかった。
もっと前に、遡った。
「娘 反抗期 接し方」
「中学生 娘 口を聞かない どうする」
「思春期 子供 距離感」
「娘に何て声をかければいい」
あおいが十五歳の頃の検索だった。
みどりはあのときから、ずっと検索していたんだ。どうすればいいか、わからなくて。
四
あおいはスマホを置いて、天井を見た。
リビングの照明が、白く光っていた。
思い出した。中学生のとき、みどりに「うるさい」と怒鳴ったことがあった。みどりは何も言わなかった。黙って台所に戻っていった。その背中が、なんとなく小さく見えた。でもあおいはそのまま部屋に戻った。
高校のとき、文化祭があった。みどりが「見に行っていい?」と聞いた。あおいは「来なくていい」と言った。みどりは「そう」とだけ言って、それ以上何も言わなかった。
大学の卒業式のとき、みどりが「行きたい」と言った。あおいは「別にいい」と答えた。みどりは新幹線に乗ってきた。式の後、二人で食事をした。ほとんど会話がなかった。みどりが「就職先、決まってよかったね」と言った。あおいは「うん」と言った。それだけだった。
あのとき、何か言えばよかった。
ありがとう、でも。来てくれてよかった、でも。
何か一言、言えばよかった。
再びスマホを手に取った。
検索履歴の、一番古いものまで遡ろうとした。そのとき、指が止まった。
一番最近の検索の、少し前。日付は三週間前、あおいが就職した週だった。
「娘が就職した 嬉しい 寂しい」
あおいは、声が出そうになった。
嬉しくて、寂しかったんだ。
あおいが社会人になったことが、嬉しくて、寂しくて、それをどこにもぶつけられなくて、検索したんだ。
その気持ちを、あおいに伝えることもできなくて。
もう一度、スクロールした。
そして、見つけた。
一番新しい検索の、二日前。みどりが倒れる、四日前のものだった。
「ありがとう 娘に伝える方法」
あおいは、泣いた。
声を上げて、泣いた。
ずっと泣けなかったのに、もう止められなかった。
ありがとう、って言いたかったんだ。
みどりは、あおいに、ありがとうって言いたかったんだ。
何に対してかは、わからない。生まれてきてくれたことか。就職できたことか。二十二年間、娘でいてくれたことか。
でも、伝え方がわからなくて、検索したんだ。
あおいに、ありがとうって言えないまま、逝ってしまったんだ。
五
翌朝、あおいは実家の押し入れを開けた。
特に理由はなかった。ただ、もっとみどりのことを知りたかった。
押し入れの奥に、段ボール箱があった。
開けると、中に手紙がたくさん入っていた。
あおいへの手紙だった。
日付が書いてあった。一番古いものは、あおいが高校を卒業した年。一番新しいものは、去年の誕生日。
封はされていなかった。送られなかった手紙だった。
あおいは一番古いものから、順番に読んだ。
あおいへ
高校を卒業したね。おめでとう。
あなたが生まれた日のことを、今日また思い出した。小さくて、真っ赤な顔で、泣いていたね。あの子がもう大人になったんだと思うと、不思議な気持ちがする。
うまく話せなくてごめんね。どうすればよかったのか、今でもわからない。でも、あなたが元気でいてくれることだけが、お母さんの願いです。
大学でも、元気でね。
お母さんより
あおいは読み終えて、次の手紙を開いた。
あおいへ
成人式の日、遠くからあなたを見た。きれいになったね。声をかけようと思ったけど、やめた。迷惑かと思って。
でも、きれいだった。本当に。
お母さんより
手紙は、七年分あった。
みどりはずっと書いていたんだ。送れないまま、ずっと。
どの手紙にも、難しいことは書いていなかった。「元気でね」「きれいだった」「就職おめでとう」。そんな言葉ばかりだった。
でも、どの手紙にも最後に一言、同じ言葉が書いてあった。
「産んでよかった」
六
あおいは手紙を全部読んでから、しばらく押し入れの前に座っていた。
窓の外に、青空が見えた。
みどり、という名前は、緑色のことだ。あおいという名前は、青色のことだ。みどりがあおいにつけた名前だった。
なんで青なんだろう、と昔思ったことがあった。みどりに聞いたことがあったかもしれない。覚えていない。
でも今は、なんとなくわかる気がした。
緑と青は、似ている色だ。はっきりとした境目がない。空と森の境目みたいに、どこからが緑でどこからが青か、わからないことがある。
でも確かに、隣り合っている。
ずっと、隣にいたんだ。
あおいは段ボール箱を閉じた。
そして、自分のスマホを取り出した。
LINEを開いた。みどりとのトーク画面を開いた。
もう、返信は届かない。既読にもならない。
それでも、あおいは入力した。
お母さんへ
ありがとう。
産んでくれて、ありがとう。
言えなくてごめんね。
あおいより
送信ボタンを押した。
メッセージは、届かない。
でも、きっと、届いた気がした。
窓の外の青空に、白い雲が流れていた。
あおいはそれを見ながら、初めて、声を上げずに泣いた。
静かに、ただ静かに、涙が頬を伝った。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




