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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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28/30

【夢の値段】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

 田中希は、今日も嘘をきいていた。

「競馬で負けまして。でも、来月には絶対返せます」

 カウンター越しに座る四十代の男は、目を合わせないまま言った。スーツの袖口がほつれていた。靴は汚れていた。希は画面を眺めながら、心の中で静かにため息をついた。

 来月、返せる人間がこの椅子に座ることは、ほとんどない。

「申し訳ありませんが、今回は審査が通りませんでした」

 定型文を口にして、軽く頭を下げる。男は「そうですか」とだけ言って立ち上がり、重たそうな足取りで出口へ向かった。自動ドアが開いて、三月の冷たい風が一瞬だけ吹き込んだ。

 ライフクレジット・新宿東口店。

 希がここに勤めて、三年が経つ。

 消費者金融、という言葉に、就職活動中の自分がどんな印象を持っていたか、もう正直あまり覚えていない。安定した給料、土日休み、そこそこの福利厚生。消去法で選んだ会社だった。窓口業務がメインだと知ったのは、内定をもらってからだった。

 最初の一年は、毎日が重かった。

 パチンコ。スロット。キャバクラ通い。ブランドのバッグ。生活費の補填。ホストへの貢ぎ物。借金の理由は、驚くほどバリエーションに富んでいた。そしてそのほとんどが、返ってこなかった。

 二年目になると、少し慣れてきた。

 三年目の今は、もっと静かになっていた。

 かわいそう、とは思わなくなった。しょうがない、とも思わなくなった。ただ淡々と画面を見て、定型文を言って、頭を下げる。それだけだった。

「希ちゃん、次の方どうぞ」

 隣の席の先輩、松田さんが声をかけてきた。三十二歳、既婚、子供が二人いる。この仕事を「割り切れるかどうかが全て」と言っていた。希は今、その意味がよくわかる気がしていた。

「はい」

 短く返事をして、希は画面に視線を戻した。

 その日の午後、三時過ぎだった。

 自動ドアが開いて、一人の女性が入ってきた。

 希は顔を上げた。反射的に、人を観察する癖がついている。三年間で身についた、職業病みたいなものだ。

 二十代後半くらい。黒いコートを着ていた。肩にはくたびれたトートバッグ。髪は無造作に結んでいて、耳元に小さなイヤリングがひとつだけついていた。化粧は薄い。でも目が、妙に印象的だった。大きいわけじゃない。ただ、まっすぐだった。何かを見定めようとしているような、落ち着いた目だった。

 受付票を記入する手が、少し震えていた。

 緊張しているのだろう、と希は思った。消費者金融の窓口に来るのが初めての人間は、だいたいそうだ。扉を開けるまでに、どれだけの勇気が必要だったか。それくらいは、希にも想像できた。

「お待たせしました。田中が担当いたします」

 女性は椅子に座って、希を見た。

「よろしくお願いします」

 声は落ち着いていた。震えていなかった。

 遠山ひかり。二十七歳。希と、同い年だった。

「ご希望の金額は、五十万円でよろしいでしょうか」

「はい」

「お勤め先はこちらに記載の……フリーランス、ということですね」

「そうです」

 収入の欄には、月十二万円前後、と書いてあった。希は内心で、小さく眉をひそめた。五十万の借り入れに対して、月収十二万。審査の通過ラインとしては、かなり厳しい。

「差し支えなければ、ご利用目的をお聞きしてもよいですか」

 これは確認義務だ。用途によって審査の判断が変わることもある。希は淡々と聞いた。

 ひかりは少し間を置いてから、答えた。

「絵を描くための費用です」

 希は顔を上げた。

「絵、ですか」

「はい。画材と、アトリエの賃料と……あと、来月ヨーロッパに行く予定があって。フィレンツェで、三週間のワークショップがあるんです。画家志望の人間が集まる、小さな講座なんですけど。そこへの参加費と渡航費が、どうしても足りなくて」

 希は、少し黙った。

 ギャンブル。ホスト。ブランド品。今まで聞いてきた理由が、頭の中をよぎった。それらと並べてみると、この答えは、何か違う種類のものだった。

「フィレンツェ、ですか」

「はい。本当は去年行くつもりだったんですけど、仕事が忙しくて。今年が最後のチャンスだと思って」

「最後、というのは」

 ひかりは少し目を伏せた。それから、また正面を向いた。

「二十七歳までに、なんとか形にしたいと決めてたんです。自分で。もし三十になっても食えてなかったら、諦めようって。でも二十七で諦めるのは、まだ早い気がして。だからこの一年、全部賭けてみようと思って」

 希は、画面を見つめたまま、少し固まっていた。

 全部賭けてみよう。

 その言葉が、胸のどこかに引っかかった。うまく言えないけれど、何か、久しぶりに聞く種類の言葉だった。

「今は、どんなお仕事をされているんですか、フリーランスで」

「イラストの仕事を少し。あとバイトを掛け持ちして。でも全然足りなくて」

「絵は、いつから」

 希は自分でも気づかないうちに、業務の範囲を少し外れた質問をしていた。

 ひかりは少し驚いたように瞬きをして、それから少しだけ柔らかい顔になった。

「子供の頃から。小学校の時に美術の先生に褒めてもらったのが最初で。それからずっと描いてます。高校も美術科で、大学も芸大に行って。でも卒業してから、なかなか食えなくて。一回諦めて普通に就職したんですけど、二年で辞めちゃって。やっぱり描きたくて」

「そうですか」

「変ですよね」と、ひかりは小さく笑った。「二十七になっても、こんなこと言ってるの」

 希は首を振った。

「変じゃないです」

 そう言ってから、少し驚いた。自分の口から、こんな言葉が出るとは思っていなかった。

 審査の結果は、保留だった。

 収入に対して希望金額が大きすぎる。返済能力の判定が難しい。担当者である希の一存では決められない案件だった。上司の確認が必要だった。

「本日中に、お電話でご連絡いたします」

 希はそう伝えて、ひかりを見送った。

 自動ドアが閉まって、希はしばらく画面を見つめていた。

 松田さんが隣から声をかけてきた。

「どうだった?」

「厳しいです。月収十二万で五十万。フリーランスで、収入証明も不安定で」

「そっか。まあ、難しいね」

 松田さんはそれだけ言って、自分の仕事に戻った。

 希は、申請書類をもう一度眺めた。

 遠山ひかり、二十七歳。フィレンツェのワークショップ。全部賭けてみよう。

 頭の中で、その言葉がまだ響いていた。

 希は立ち上がって、上司の席に向かった。

 営業課長の桑原は、四十五歳で、眉間にいつも縦皺が寄っていた。仕事はできる人だったけれど、感情的なことを嫌った。数字と根拠で話す人間だった。

「桑原課長、少しよろしいでしょうか」

「なに」

 希は書類を差し出した。桑原は受け取って、さっと目を通した。

「月収十二万で五十万か。難しいな」

「はい。ただ、フリーランスのイラストレーターで、収入が不安定なだけで、実際の支出は少ないようです。家賃は四万五千円、生活費は月六万程度と本人が言っていて。返済額が月一万五千円程度であれば、返済可能な範囲かと」

「それは本人の申告だろ」

「そうです。ただ、直近三ヶ月の通帳のコピーを確認すると、支出が比較的安定していて。浪費傾向は見られませんでした」

 桑原は少し眉を上げた。

「ちゃんと見たんだ」

「はい」

「目的は?」

「ヨーロッパでの美術ワークショップへの参加費と渡航費、および画材・アトリエ費です」

「投資目的か。回収見込みは?」

 希は少し詰まった。

 そこが、一番難しいところだった。絵で食えるかどうか。ワークショップに行って、仕事が増えるかどうか。数字で示せるものではなかった。

「明確な数字はありません。ただ、本人のポートフォリオを見せてもらいました。既にいくつかの商業イラストの実績があります。今後の収入増加が見込めない案件ではないと、私は判断しています」

「田中の判断か」

 桑原は、少し面白そうな顔をした。からかっているのか、本気で聞いているのか、わからなかった。

「そうです」と希は言った。「私の判断です」

 桑原は書類をデスクに置いて、腕を組んだ。

「田中、聞いていいか」

「はい」

「なんでそんなに食い下がるんだ。お前、いつもはこういう案件、さっさと切り上げるだろ」

 希は少し黙った。

 なんで、と言われたら、うまく答えられなかった。ただ、あのひかりの目が頭から離れなかった。まっすぐな目。全部賭けてみようと言った声。

「……理由がましだと思ったので」

「理由がまし?」

「ギャンブルでも、ホストでも、ブランド品でもなくて。自分の夢のために借りようとしていた。そういう人を、審査で弾いていいのかどうか、迷いました」

 桑原は、また少し黙った。

 窓の外で、新宿の街の音がしていた。車のクラクション。遠くの工事の音。街はいつでも騒がしかった。

「お前は昔、何かやりたいことがあったか」

 突然の質問だった。

 希は、少し驚いた。

「……一応、ありました」

「何だ」

「小説を、書きたかったです。大学の頃」

 言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。こんな話、業務中にする必要はなかった。

「書いてたのか」

「少し。でも、全然うまくならなくて。就活の時期になって、やめました」

「そうか」

 桑原は短く言って、また書類を手に取った。

「わかった。通そう」

 希は、少し呼吸が止まった。

「いいんですか」

「ただし条件がある。返済計画の確認書を取ること。三ヶ月ごとに状況確認の連絡を入れること。あと、本人に直接伝えろ。うちはギャンブルの後始末はしないが、夢の後押しくらいはできる、って」

 希は、少し笑いそうになった。

「……課長、それ、うちの会社の方針じゃないですよね」

「俺の方針だ」

 桑原は眉間の縦皺を寄せたまま、そう言った。

 夕方、五時過ぎに、希はひかりに電話をかけた。

 コール音が三回鳴って、出た。

「はい、遠山です」

「田中希と申します。本日、ライフクレジットの窓口でご対応させていただいた者です」

「あ、はい」

 ひかりの声が、少し緊張した。希にはわかった。電話口の向こうで、息をのんでいるのがわかった。

「審査の件でご連絡しております」

 希は一拍おいた。

「ご希望の金額、お通しすることができました」

 少しの沈黙があった。

 それから、電話口の向こうで、小さな音がした。息を吐く音だったのか、それとも声を抑えた音だったのか、よくわからなかった。

「……本当ですか」

「はい。ただ、いくつか条件がございまして」

「なんでも大丈夫です」

 希は、返済計画の確認書のこと、三ヶ月ごとの状況確認のことを伝えた。ひかりは全部、「はい」と答えた。一度も迷わなかった。

「あの」

 希が説明を終えると、ひかりが言った。

「ありがとうございます。本当に」

「いえ、こちらこそ」

 そう言ってから、また少し変なことを言ってしまったと希は思った。こちらこそ、なんて。お礼を言われる立場でもないのに。

「田中さんって、名前、なんとおっしゃるんですか」

「え?」

「下の名前。さっき受付票に書いてあって、気になって。珍しいなって思って」

「……希、です。田中希」

「希望の希、ですか」

「そうです」

「素敵な名前ですね」

 希はしばらく黙った。

 この名前、好きじゃなかった。ずっとそう思っていた。希望なんて、大げさで、重たくて。二十七年間、この名前に見合ったことを何もしてこなかった気がして。

 でも今、電話口でそう言われて、少しだけ違う感じがした。

「ありがとうございます」

 希は言った。

「フィレンツェ、頑張ってください」

「はい。絶対、行ってきます」

 電話を切ってから、希はしばらく受話器を持ったまま座っていた。

 松田さんが声をかけてきた。

「どうだった?通ったの?」

「通りました」

「へえ。課長が首縦に振ったんだ」

「はい」

「どんな案件だったの」

「画家志望の子でした。ヨーロッパに修業に行くための費用で」

 松田さんは、少し目を丸くした。

「珍しいね」

「そうですね」

「希ちゃん、なんか顔つき違うよ。さっきから」

「そうですか」

「うん。なんか、久しぶりにちゃんと仕事してる顔してる」

 希は少し苦笑いした。

「失礼な言い方ですね」

「ほめてるんだよ」

 松田さんはそう言って、自分のコーヒーカップを持ってバックヤードに消えた。

 希は、窓の外を見た。

 新宿の街が、夕暮れに染まっていた。オレンジ色と灰色が混じった、あまりきれいとも言えない空だった。でも今日だけは、少しだけ違って見えた。

 小説を書きたかった。就活の時期になって、やめた。

 桑原課長に言ったことを、希は思い出した。

 別に後悔しているわけではなかった。今でも後悔しているかと聞かれたら、よくわからない、と答えると思う。ただ、ひかりの顔を思い出すと、何か胸の奥がざわついた。全部賭けてみよう、と言った声。最後のチャンスだと思って、と言った目。

 希は、スマートフォンを取り出した。

 メモアプリを開いた。

 何かを書くつもりだったわけじゃなかった。ただ、なんとなく、指が動いた。

 今日のこと。遠山ひかりのこと。フィレンツェのワークショップのこと。電話口で、ありがとうございますと言われたこと。

 書き始めたら、止まらなくなった。

 三ヶ月後。

 希のスマートフォンに、見知らぬ番号からメッセージが届いた。

 送信者を見て、少し首を傾げた。登録していない番号だった。でも文面を読んで、すぐにわかった。

『田中さん、遠山ひかりです。突然すみません。番号、勝手に控えていました。

フィレンツェ、行ってきました。

三週間、毎日絵を描いていました。ワークショップの仲間は世界中から来ていて、みんな本気で、怖いくらいでした。自分の下手さも思い知ったし、でもそれ以上に、好きだという気持ちが確かになりました。

帰国してから、一つ、仕事が決まりました。絵本のイラストです。小さな出版社ですけど、嬉しかったです。

返済、来月から始めます。絶対に、ちゃんと返します。

あと、田中さんに話したくて。それだけです。ありがとうございました』

 希は、メッセージを二回読んだ。

 それから、窓の外を見た。六月の空だった。梅雨の合間の、よく晴れた昼だった。

 絵本のイラスト。

 希はその言葉を、心の中で繰り返した。

 今日の窓口には、また何人かが来るだろう。しょうもない理由の人もいるだろう。返せない人もいるだろう。それでも、希は今日も定型文を言って、頭を下げる。

 でも、たまには、こういうこともある。

 希はメッセージに返信した。

『遠山さん、お知らせありがとうございます。絵本、いつか読んでみたいです。返済のこと、無理せず、でも確実によろしくお願いします。田中希』

 送信ボタンを押して、画面をしまった。

 メモアプリを開いた。あの日から少しずつ書いていた、あの文章の続きを開いた。

 まだうまくはなかった。たぶん、全然うまくなかった。

 でも、久しぶりに、書きたいと思っていた。

 希望の希。

 二十七歳。まだ、間に合うかどうかわからない。でも、全部賭けてみようと言った人のことを、希は知っている。

 窓口の椅子に座り直して、希は次の来客を待った。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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