【夢の値段】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
一
田中希は、今日も嘘をきいていた。
「競馬で負けまして。でも、来月には絶対返せます」
カウンター越しに座る四十代の男は、目を合わせないまま言った。スーツの袖口がほつれていた。靴は汚れていた。希は画面を眺めながら、心の中で静かにため息をついた。
来月、返せる人間がこの椅子に座ることは、ほとんどない。
「申し訳ありませんが、今回は審査が通りませんでした」
定型文を口にして、軽く頭を下げる。男は「そうですか」とだけ言って立ち上がり、重たそうな足取りで出口へ向かった。自動ドアが開いて、三月の冷たい風が一瞬だけ吹き込んだ。
ライフクレジット・新宿東口店。
希がここに勤めて、三年が経つ。
消費者金融、という言葉に、就職活動中の自分がどんな印象を持っていたか、もう正直あまり覚えていない。安定した給料、土日休み、そこそこの福利厚生。消去法で選んだ会社だった。窓口業務がメインだと知ったのは、内定をもらってからだった。
最初の一年は、毎日が重かった。
パチンコ。スロット。キャバクラ通い。ブランドのバッグ。生活費の補填。ホストへの貢ぎ物。借金の理由は、驚くほどバリエーションに富んでいた。そしてそのほとんどが、返ってこなかった。
二年目になると、少し慣れてきた。
三年目の今は、もっと静かになっていた。
かわいそう、とは思わなくなった。しょうがない、とも思わなくなった。ただ淡々と画面を見て、定型文を言って、頭を下げる。それだけだった。
「希ちゃん、次の方どうぞ」
隣の席の先輩、松田さんが声をかけてきた。三十二歳、既婚、子供が二人いる。この仕事を「割り切れるかどうかが全て」と言っていた。希は今、その意味がよくわかる気がしていた。
「はい」
短く返事をして、希は画面に視線を戻した。
その日の午後、三時過ぎだった。
自動ドアが開いて、一人の女性が入ってきた。
希は顔を上げた。反射的に、人を観察する癖がついている。三年間で身についた、職業病みたいなものだ。
二十代後半くらい。黒いコートを着ていた。肩にはくたびれたトートバッグ。髪は無造作に結んでいて、耳元に小さなイヤリングがひとつだけついていた。化粧は薄い。でも目が、妙に印象的だった。大きいわけじゃない。ただ、まっすぐだった。何かを見定めようとしているような、落ち着いた目だった。
受付票を記入する手が、少し震えていた。
緊張しているのだろう、と希は思った。消費者金融の窓口に来るのが初めての人間は、だいたいそうだ。扉を開けるまでに、どれだけの勇気が必要だったか。それくらいは、希にも想像できた。
「お待たせしました。田中が担当いたします」
女性は椅子に座って、希を見た。
「よろしくお願いします」
声は落ち着いていた。震えていなかった。
遠山ひかり。二十七歳。希と、同い年だった。
二
「ご希望の金額は、五十万円でよろしいでしょうか」
「はい」
「お勤め先はこちらに記載の……フリーランス、ということですね」
「そうです」
収入の欄には、月十二万円前後、と書いてあった。希は内心で、小さく眉をひそめた。五十万の借り入れに対して、月収十二万。審査の通過ラインとしては、かなり厳しい。
「差し支えなければ、ご利用目的をお聞きしてもよいですか」
これは確認義務だ。用途によって審査の判断が変わることもある。希は淡々と聞いた。
ひかりは少し間を置いてから、答えた。
「絵を描くための費用です」
希は顔を上げた。
「絵、ですか」
「はい。画材と、アトリエの賃料と……あと、来月ヨーロッパに行く予定があって。フィレンツェで、三週間のワークショップがあるんです。画家志望の人間が集まる、小さな講座なんですけど。そこへの参加費と渡航費が、どうしても足りなくて」
希は、少し黙った。
ギャンブル。ホスト。ブランド品。今まで聞いてきた理由が、頭の中をよぎった。それらと並べてみると、この答えは、何か違う種類のものだった。
「フィレンツェ、ですか」
「はい。本当は去年行くつもりだったんですけど、仕事が忙しくて。今年が最後のチャンスだと思って」
「最後、というのは」
ひかりは少し目を伏せた。それから、また正面を向いた。
「二十七歳までに、なんとか形にしたいと決めてたんです。自分で。もし三十になっても食えてなかったら、諦めようって。でも二十七で諦めるのは、まだ早い気がして。だからこの一年、全部賭けてみようと思って」
希は、画面を見つめたまま、少し固まっていた。
全部賭けてみよう。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。うまく言えないけれど、何か、久しぶりに聞く種類の言葉だった。
「今は、どんなお仕事をされているんですか、フリーランスで」
「イラストの仕事を少し。あとバイトを掛け持ちして。でも全然足りなくて」
「絵は、いつから」
希は自分でも気づかないうちに、業務の範囲を少し外れた質問をしていた。
ひかりは少し驚いたように瞬きをして、それから少しだけ柔らかい顔になった。
「子供の頃から。小学校の時に美術の先生に褒めてもらったのが最初で。それからずっと描いてます。高校も美術科で、大学も芸大に行って。でも卒業してから、なかなか食えなくて。一回諦めて普通に就職したんですけど、二年で辞めちゃって。やっぱり描きたくて」
「そうですか」
「変ですよね」と、ひかりは小さく笑った。「二十七になっても、こんなこと言ってるの」
希は首を振った。
「変じゃないです」
そう言ってから、少し驚いた。自分の口から、こんな言葉が出るとは思っていなかった。
三
審査の結果は、保留だった。
収入に対して希望金額が大きすぎる。返済能力の判定が難しい。担当者である希の一存では決められない案件だった。上司の確認が必要だった。
「本日中に、お電話でご連絡いたします」
希はそう伝えて、ひかりを見送った。
自動ドアが閉まって、希はしばらく画面を見つめていた。
松田さんが隣から声をかけてきた。
「どうだった?」
「厳しいです。月収十二万で五十万。フリーランスで、収入証明も不安定で」
「そっか。まあ、難しいね」
松田さんはそれだけ言って、自分の仕事に戻った。
希は、申請書類をもう一度眺めた。
遠山ひかり、二十七歳。フィレンツェのワークショップ。全部賭けてみよう。
頭の中で、その言葉がまだ響いていた。
希は立ち上がって、上司の席に向かった。
営業課長の桑原は、四十五歳で、眉間にいつも縦皺が寄っていた。仕事はできる人だったけれど、感情的なことを嫌った。数字と根拠で話す人間だった。
「桑原課長、少しよろしいでしょうか」
「なに」
希は書類を差し出した。桑原は受け取って、さっと目を通した。
「月収十二万で五十万か。難しいな」
「はい。ただ、フリーランスのイラストレーターで、収入が不安定なだけで、実際の支出は少ないようです。家賃は四万五千円、生活費は月六万程度と本人が言っていて。返済額が月一万五千円程度であれば、返済可能な範囲かと」
「それは本人の申告だろ」
「そうです。ただ、直近三ヶ月の通帳のコピーを確認すると、支出が比較的安定していて。浪費傾向は見られませんでした」
桑原は少し眉を上げた。
「ちゃんと見たんだ」
「はい」
「目的は?」
「ヨーロッパでの美術ワークショップへの参加費と渡航費、および画材・アトリエ費です」
「投資目的か。回収見込みは?」
希は少し詰まった。
そこが、一番難しいところだった。絵で食えるかどうか。ワークショップに行って、仕事が増えるかどうか。数字で示せるものではなかった。
「明確な数字はありません。ただ、本人のポートフォリオを見せてもらいました。既にいくつかの商業イラストの実績があります。今後の収入増加が見込めない案件ではないと、私は判断しています」
「田中の判断か」
桑原は、少し面白そうな顔をした。からかっているのか、本気で聞いているのか、わからなかった。
「そうです」と希は言った。「私の判断です」
四
桑原は書類をデスクに置いて、腕を組んだ。
「田中、聞いていいか」
「はい」
「なんでそんなに食い下がるんだ。お前、いつもはこういう案件、さっさと切り上げるだろ」
希は少し黙った。
なんで、と言われたら、うまく答えられなかった。ただ、あのひかりの目が頭から離れなかった。まっすぐな目。全部賭けてみようと言った声。
「……理由がましだと思ったので」
「理由がまし?」
「ギャンブルでも、ホストでも、ブランド品でもなくて。自分の夢のために借りようとしていた。そういう人を、審査で弾いていいのかどうか、迷いました」
桑原は、また少し黙った。
窓の外で、新宿の街の音がしていた。車のクラクション。遠くの工事の音。街はいつでも騒がしかった。
「お前は昔、何かやりたいことがあったか」
突然の質問だった。
希は、少し驚いた。
「……一応、ありました」
「何だ」
「小説を、書きたかったです。大学の頃」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。こんな話、業務中にする必要はなかった。
「書いてたのか」
「少し。でも、全然うまくならなくて。就活の時期になって、やめました」
「そうか」
桑原は短く言って、また書類を手に取った。
「わかった。通そう」
希は、少し呼吸が止まった。
「いいんですか」
「ただし条件がある。返済計画の確認書を取ること。三ヶ月ごとに状況確認の連絡を入れること。あと、本人に直接伝えろ。うちはギャンブルの後始末はしないが、夢の後押しくらいはできる、って」
希は、少し笑いそうになった。
「……課長、それ、うちの会社の方針じゃないですよね」
「俺の方針だ」
桑原は眉間の縦皺を寄せたまま、そう言った。
五
夕方、五時過ぎに、希はひかりに電話をかけた。
コール音が三回鳴って、出た。
「はい、遠山です」
「田中希と申します。本日、ライフクレジットの窓口でご対応させていただいた者です」
「あ、はい」
ひかりの声が、少し緊張した。希にはわかった。電話口の向こうで、息をのんでいるのがわかった。
「審査の件でご連絡しております」
希は一拍おいた。
「ご希望の金額、お通しすることができました」
少しの沈黙があった。
それから、電話口の向こうで、小さな音がした。息を吐く音だったのか、それとも声を抑えた音だったのか、よくわからなかった。
「……本当ですか」
「はい。ただ、いくつか条件がございまして」
「なんでも大丈夫です」
希は、返済計画の確認書のこと、三ヶ月ごとの状況確認のことを伝えた。ひかりは全部、「はい」と答えた。一度も迷わなかった。
「あの」
希が説明を終えると、ひかりが言った。
「ありがとうございます。本当に」
「いえ、こちらこそ」
そう言ってから、また少し変なことを言ってしまったと希は思った。こちらこそ、なんて。お礼を言われる立場でもないのに。
「田中さんって、名前、なんとおっしゃるんですか」
「え?」
「下の名前。さっき受付票に書いてあって、気になって。珍しいなって思って」
「……希、です。田中希」
「希望の希、ですか」
「そうです」
「素敵な名前ですね」
希はしばらく黙った。
この名前、好きじゃなかった。ずっとそう思っていた。希望なんて、大げさで、重たくて。二十七年間、この名前に見合ったことを何もしてこなかった気がして。
でも今、電話口でそう言われて、少しだけ違う感じがした。
「ありがとうございます」
希は言った。
「フィレンツェ、頑張ってください」
「はい。絶対、行ってきます」
六
電話を切ってから、希はしばらく受話器を持ったまま座っていた。
松田さんが声をかけてきた。
「どうだった?通ったの?」
「通りました」
「へえ。課長が首縦に振ったんだ」
「はい」
「どんな案件だったの」
「画家志望の子でした。ヨーロッパに修業に行くための費用で」
松田さんは、少し目を丸くした。
「珍しいね」
「そうですね」
「希ちゃん、なんか顔つき違うよ。さっきから」
「そうですか」
「うん。なんか、久しぶりにちゃんと仕事してる顔してる」
希は少し苦笑いした。
「失礼な言い方ですね」
「ほめてるんだよ」
松田さんはそう言って、自分のコーヒーカップを持ってバックヤードに消えた。
希は、窓の外を見た。
新宿の街が、夕暮れに染まっていた。オレンジ色と灰色が混じった、あまりきれいとも言えない空だった。でも今日だけは、少しだけ違って見えた。
小説を書きたかった。就活の時期になって、やめた。
桑原課長に言ったことを、希は思い出した。
別に後悔しているわけではなかった。今でも後悔しているかと聞かれたら、よくわからない、と答えると思う。ただ、ひかりの顔を思い出すと、何か胸の奥がざわついた。全部賭けてみよう、と言った声。最後のチャンスだと思って、と言った目。
希は、スマートフォンを取り出した。
メモアプリを開いた。
何かを書くつもりだったわけじゃなかった。ただ、なんとなく、指が動いた。
今日のこと。遠山ひかりのこと。フィレンツェのワークショップのこと。電話口で、ありがとうございますと言われたこと。
書き始めたら、止まらなくなった。
七
三ヶ月後。
希のスマートフォンに、見知らぬ番号からメッセージが届いた。
送信者を見て、少し首を傾げた。登録していない番号だった。でも文面を読んで、すぐにわかった。
『田中さん、遠山ひかりです。突然すみません。番号、勝手に控えていました。
フィレンツェ、行ってきました。
三週間、毎日絵を描いていました。ワークショップの仲間は世界中から来ていて、みんな本気で、怖いくらいでした。自分の下手さも思い知ったし、でもそれ以上に、好きだという気持ちが確かになりました。
帰国してから、一つ、仕事が決まりました。絵本のイラストです。小さな出版社ですけど、嬉しかったです。
返済、来月から始めます。絶対に、ちゃんと返します。
あと、田中さんに話したくて。それだけです。ありがとうございました』
希は、メッセージを二回読んだ。
それから、窓の外を見た。六月の空だった。梅雨の合間の、よく晴れた昼だった。
絵本のイラスト。
希はその言葉を、心の中で繰り返した。
今日の窓口には、また何人かが来るだろう。しょうもない理由の人もいるだろう。返せない人もいるだろう。それでも、希は今日も定型文を言って、頭を下げる。
でも、たまには、こういうこともある。
希はメッセージに返信した。
『遠山さん、お知らせありがとうございます。絵本、いつか読んでみたいです。返済のこと、無理せず、でも確実によろしくお願いします。田中希』
送信ボタンを押して、画面をしまった。
メモアプリを開いた。あの日から少しずつ書いていた、あの文章の続きを開いた。
まだうまくはなかった。たぶん、全然うまくなかった。
でも、久しぶりに、書きたいと思っていた。
希望の希。
二十七歳。まだ、間に合うかどうかわからない。でも、全部賭けてみようと言った人のことを、希は知っている。
窓口の椅子に座り直して、希は次の来客を待った。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




