【スマホ依存】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
一
スマホが怖い、と思ったのはいつからだろう。
いや、怖いというより——依存している、という自覚が生まれたのは、確かに今年に入ってからだった。
朝、目が覚めた瞬間に手を伸ばす。布団の中でXのタイムラインをスクロールする。トイレに入っている三分間もショート動画を流し続ける。電車の中、会議の合間、昼飯を食いながら、帰り道、風呂——気づけば一日の可処分時間のほぼすべてを、五・五インチの画面に捧げていた。
桐山雄介、二十六歳。都内の中堅商社に勤める会社員。趣味はSNS、特技もSNS、休日の過ごし方はSNS——そう言っても過言ではない生活を、もう三年近く続けている。
別に、悪いことだとは思っていなかった。情報収集だって言えばそれまでだし、ネットの知り合いは何人もいる。リアルな友人関係が希薄でも、画面の中にはいつも誰かがいた。それで十分だ、とずっと思っていた。
でも、先週の夜のことが引っかかっていた。
彼女の——麻衣の顔が、ふと思い浮かばなかったのだ。
二年付き合っている。会うたびに笑ってくれる、声が優しい、料理が上手い。それは知っている。でも「目がどんな形だっけ」と考えたとき、すぐに答えが出なかった。代わりに頭に浮かんだのは、フォロワー三万人のインフルエンサーの顔だった。一度も会ったことのない、画面の中の人間の顔が。
それが、妙に怖かった。
だから雄介は、その夜、タイムロッキングコンテナを注文した。
二
届いたのは翌々日の夕方だった。
プラスチック製の白い箱で、蓋の部分にデジタルのタイマーが付いている。設定した時間になるまで絶対に開かない仕組みだ。ネットで話題になっていたのを、皮肉なことにSNSで知った。
雄介は土曜日の夜、二十三時にセットした。
翌日——日曜日の二十三時まで、丸一日。
「さよなら」
スマホに向かって呟いて、蓋を閉めた。カチリ、という小さな音がした。
最初の一時間は、拷問に近かった。
手持ち無沙汰で、何をすればいいかわからない。テレビもない(契約を切っていた)。本は積読が崩れそうなほど積んであるのに、手が伸びない。ソファに座って天井を見上げ、立ち上がり、冷蔵庫を開け、また座る——それを何度も繰り返した。
でも三時間が経つと、少し楽になった。
本を一冊手に取った。大学時代に買って、五ページで止まっていた村上春樹の長編だった。読み始めると、思いのほか引き込まれた。主人公が孤独を抱えながら街を歩く描写が、どこかひんやりと気持ちよかった。
夕飯は、久しぶりにちゃんと作った。冷蔵庫にあった鶏肉と玉ねぎと、棚の奥に眠っていたカレールーで、ごく普通のカレーを。食べながら本の続きを読んだ。誰かに「これ美味しそう」と言いたくて手が動きかけたが、伝える手段がなかった。
ただ黙って、食べた。
それがなぜか、少し清々しかった。
夜、布団に入ってまた本を読んでいたら、気づいたら眠っていた。スマホを見ないまま眠るのが、いつぶりかわからなかった。
三
翌朝、雄介は不思議なほど頭がクリアだった。
八時間以上眠っていた。最後にそんなに眠れたのは、いつだろう。いつもは深夜二時三時まで画面を眺めて、六時に起きる生活だった。
午前中は部屋を掃除した。午後は散歩に出た。駅の反対側にある、いつも素通りしていた公園に入った。ベンチに座って、ただぼんやり空を見た。雲が動いていた。鳥の声が聞こえた。どこかの家から、カレーかシチューかわからない匂いが流れてきた。
何も発信できない。何も記録できない。
それなのに、なんだか満ち足りた気分だった。
麻衣に電話したかった、と思ったのは夕方だった。声が聞きたかった。顔が見たかった。でもスマホはあの箱の中にある。
まあいい、と雄介は思った。帰ったら連絡すればいい。
夜、また本を読んで眠った。
四
二十三時ちょうどに、タイマーが鳴った。
電子音が三回、鳴った。蓋を開けると、スマホが静かに横たわっていた。まるで棺の中みたいだ、とふと思った。
電源を入れると、画面に通知が溢れた。
ロック画面が、びっしり埋まっていた。
着信の件数を見た瞬間、雄介の胸に奇妙な感覚が走った。
麻衣から——三十一件。
それ以外にも、麻衣からのLINEが十七件。SMSが六件。
雄介は最初、悪いことをしたという気まずさを感じた。彼女、心配してたんだろうな、と。一日連絡なしはまずかったか、と。
でも、メッセージを開いた瞬間、その気まずさは別のものに変わった。
麻衣 21:04
ねえ、電話出て。なんか変な人がいる
麻衣 21:09
さっきから後ろついてくる気がする。電話して
麻衣 21:14
ちょっと待って、まだいる。コンビニ入った
麻衣 21:19
コンビニ出たらいなくなってた。でもなんか怖い。電話して
麻衣 21:31
ねえなんで出ないの。もう家に帰れそうだから大丈夫だと思うけど、電話して
雄介は息を吐いた。昨夜の話だ。でも「大丈夫だと思う」と書いてある。帰れたんだろう。
続きを読んだ。
麻衣 21:58
帰れた。大丈夫だった。ごめん変なメッセージして。でも電話して
麻衣 22:30
なんで出ないの?怒ってる?
麻衣 23:11
ねえ、起きてる?
日付が変わっていた。これが昨日の深夜——雄介が本を読みながら眠りに落ちた頃だ。
麻衣 01:22
ごめん起こすつもりなかったんだけど、なんか眠れなくて。変な夢見そうで
麻衣 01:45
雄介、起きてたら電話して
ここで一度、長い空白があった。
次のメッセージは、今日の昼前だった。
麻衣 11:38
おはよう。なんか昨日のことがあって外出るのが怖くて、ずっと家にいる。電話して
麻衣 13:02
ねえ本当になんで出ないの。心配してるんだけど
麻衣 14:19
雄介、ちゃんと生きてる?
雄介は喉の奥が少し痛くなるような感覚を覚えた。心配させていた。申し訳ない気持ちで次を開いた。
麻衣 16:44
あのさ、怒らないで聞いてほしいんだけど
麻衣 16:44
昨日帰れたって言ったじゃん
麻衣 16:45
でも今日、マンションの前に男が立ってた
麻衣 16:47
昨日の人かどうかわからないけど、なんか似てる気がして、怖くて外に出られなかった
麻衣 16:52
警察に電話したけど、「現在被害はないので」みたいな感じで、あんまり取り合ってくれなかった
麻衣 16:53
雄介、電話して
雄介の指が、少し止まった。
警察が動かなかった。麻衣は今日、ずっと部屋に閉じこもっていた。
そして次のメッセージを見て、雄介は立ち上がっていた。
麻衣 18:31
インターフォン鳴った。無視した
麻衣 18:33
また鳴った
麻衣 18:40
ドアをノックされてる。怖い
麻衣 18:41
雄介電話して
麻衣 18:41
電話して
麻衣 18:42
電話して
雄介はすぐに麻衣へ電話をかけた。
コール音が鳴った。一回、二回、三回——
出ない。
もう一度かけた。出ない。
手が震えていた。メッセージの続きを見た。
麻衣 18:43
ドアの向こうに誰かいる
麻衣 18:45
ねえ
麻衣 18:50
いなくなった、と思う。でもまだドアが開けられない
麻衣 19:12
落ち着いた。たぶん大丈夫。でもすごく怖かった。電話して
麻衣 20:00
ねえなんで出ないの本当に。もう友達に来てもらうから大丈夫。でも後で連絡して
雄介は大きく息を吐いた。
友達に来てもらったなら、大丈夫だ。今は一人じゃない。
でもその次のメッセージを見て、また止まった。
麻衣 21:33
友達、まだ来てない。遅いな
麻衣 21:55
電話したら「今から出る」って言ってたのに、もう一時間以上経つんだけど
麻衣 22:04
窓の外に人影がある
麻衣 22:04
四階なのに
雄介の背中が、冷えた。
四階。
麻衣のマンションは四階建てで、彼女の部屋は四〇二号室だ。
麻衣 22:06
気のせいかな
麻衣 22:09
でもずっといる
麻衣 22:13
雄介
麻衣 22:13
怖い
麻衣 22:14
電話して
雄介は震える手でもう一度電話をかけた。出ない。
もう一度。出ない。
続きを読んだ。
麻衣 22:21
ガラスに、手の跡がついてる
麻衣 22:22
外から触ってる
麻衣 22:23
雄介助けて
麻衣 22:24
119に電話した。繋がった。今から来てくれるって
119。火事でも怪我でもない。でも繋がったなら——
麻衣 22:31
まだ来ない
麻衣 22:35
ガラスが
そこで、メッセージが途切れた。
二十二時三十五分。
それ以降、何もない。
発信履歴を確認した。麻衣から自分への着信は、二十二時三十八分が最後だった。
雄介はコートを掴んで、部屋を飛び出した。
五
電車に乗りながら、何度も電話をかけた。
出ない。
麻衣の友人——知っている限りの名前をLINEで検索して、片っ端からメッセージを送った。「麻衣と連絡取れてますか」「今日会う約束してたと思うんですが」
返信はすぐには来なかった。
電車が揺れる。向かいに座った老人が、スマホでゲームをしている。隣の女子高生が、イヤホンをしながら動画を見ている。みんな、それぞれの画面を見ている。
雄介は窓の外の暗闇を見た。
昨日の昼、公園のベンチで空を見上げていた自分を思い出した。雲が動いていた。鳥が鳴いていた。満ち足りた気分だった。
その同じ時間、麻衣はどこかで震えていたのだ。
スマホを持っていた。助けを求めていた。彼氏に何十回も電話をかけていた。
でも彼氏は、プラスチックの箱の中にスマホを入れて、本を読んで眠っていた。
麻衣のマンションに着いたのは、深夜十二時を過ぎた頃だった。
エントランスで呼び出しを押した。応答がなかった。
もう一度押した。やはり応答がない。
雄介は青ざめたまま、管理人室に走った。電気がついていた。インターフォンを押すと、眠そうな顔のおじさんが出てきた。
「四〇二の桐山麻衣さんの彼氏です。連絡が取れなくて、安否確認を——」
「四〇二?」
管理人は眉を寄せた。
「今日の夜、救急車来てましたよ。あなた知らないんですか」
六
病院に向かう途中、やっと麻衣の友人——大学時代の同期、友梨から返信が来た。
友梨 00:21
麻衣から「行けなくなった」ってLINEが来たのは20時頃だったよ。何があったの?
二十時。
麻衣は友梨に「来なくていい」と連絡していた。
なぜ。
病院に着いた。救急の受付で名前を告げると、待合室で待つよう言われた。
三十分後、麻衣の母親が来た。
目が赤かった。
「雄介くん」
それだけ言って、しばらく黙った。
「麻衣ね、今、手術中なの」
七
手術は朝方まで続いた。
雄介は待合室のプラスチックの椅子に座り続けた。
麻衣の母親から聞いた話を、頭の中で何度も繰り返した。
昨夜二十二時頃、麻衣の部屋のガラスが割られた。麻衣は浴室に逃げ込んでドアを押さえ続けた。119に電話したが、住所を正確に伝えられず手間取った——動揺していたのか、パニックだったのか——救急と警察が到着したのは、通報から二十分後だった。
男は室内に入っていた。
麻衣は命に別状はない、と医師は言っていた。でも、しばらくかかる、とも言った。
雄介はスマホを見た。
麻衣から最後に届いたメッセージを、もう一度開いた。
麻衣 22:35
ガラスが
そこで文章が止まっている。
打ちかけて、送れなかったのか。送る間もなかったのか。
雄介には、わからなかった。
ただ、二十二時三十五分に麻衣がスマホを持って何かを打ちかけていたとき、自分は何をしていたか——それだけははっきりとわかった。
本を読んでいた。
静かで、清々しい夜だった。
八
夜明けが近い頃、麻衣の母親が自販機で買ったホットコーヒーを雄介に差し出した。
「飲んで」
「すみません」
受け取った缶は、熱かった。
「あなたのせいじゃないのよ、わかってる?」
雄介は何も言えなかった。
「悪いのはあの男。でも——」
母親は言葉を切った。コーヒーを一口飲んで、また黙った。
「でも、麻衣、ずっと電話してたのよね」
「……はい」
「雄介くんが出てくれてたら、って、今日ずっと考えてた。でも考えてもしょうがないのよね」
雄介は缶を両手で握ったまま、頷けなかった。
翌朝、麻衣が集中治療室から出た。
顔を見た。目が閉じていた。管が繋がっていた。
雄介は、麻衣の目がどんな形だったか——やっと思い出した。少し細くて、笑うと糸みたいになる目だ。いつも笑っていたから、思い出せなかったのだ。
ナースステーションの壁に、デジタル時計があった。
数字が、静かに変わっていく。
エピローグ
その後、男は逮捕された。麻衣の職場の元同僚で、一年以上前から付け狙っていたらしい。麻衣は誰にも話していなかった——心配させたくなかったから、と後で言った。
麻衣が退院したのは、事件から三週間後だった。
雄介は毎日病院に通った。スマホは持っていた。タイムロッキングコンテナは、捨てた。
退院の日、麻衣はまだ少しうまく歩けなくて、雄介が肩を支えた。病院の出口で、秋の風が吹いた。
「外、久しぶり」と麻衣が言った。
「うん」
「空、高いね」
雄介は空を見上げた。
高かった。
何か気の利いたことを言おうとして、でも何も出てこなかった。ただ、隣にいる人の重さが、腕に伝わっていた。
ポケットの中のスマホが、振動した。
雄介は無視した。
麻衣の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




