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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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26/30

【千年、ひとり】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

 私が最後に人を愛したのは、いつのことだったろう。

 記憶の中を探っても、もはや顔すら思い出せない。名前も、声も、ぜんぶ霧の向こうに沈んでいる。千年というのはそういうものだ。人間の記憶はやがて輪郭を失い、感情だけが澱のように残る。愛した、という事実だけが胸の底に沈んでいて、その中身はとっくに空になっている。

 私は妖怪だ。

 人はそう呼ぶ。もっとも、今の時代に私の正体を見抜ける人間などほとんどいない。妖怪という言葉すら、すっかり昔話の中の存在になってしまった。私はただ、時代の流れに紛れながら、人間の街の端っこで、ひっそりと息をしている。

 千年、ずっとそうしてきた。

 寂しいか、と問われたら、そうだと答えるしかない。ただ、寂しさにも慣れる。最初のうちは胸が張り裂けそうだった夜も、百年も経てば、ただ静かな夜になる。二百年経てば、それが当たり前になる。五百年経てば、自分が何を求めていたのかも、よくわからなくなる。

 そうして私は千年を生きた。

 あの夜まで。

 十一月の終わりだった。

 駅のホームに立っていたのは、特に理由があったわけじゃない。ただ人の気配が恋しくて、人が行き交う場所に来ることが、このごろの私の習慣になっていた。人間たちの喧騒の中に混じっていると、孤独が少しだけ薄まる気がした。錯覚だとわかっていても、それでよかった。

 終電近い時間だった。ホームには疲れた顔のサラリーマンが数人、スマートフォンを眺めながら電車を待っていた。私はベンチの端に腰を下ろして、ぼんやりと線路を眺めていた。

 そのとき、隣に座ったのが彼だった。

 三十代前半だろうか。くたびれたスーツに、少し緩んだネクタイ。コンビニの袋をひとつ提げていて、中には缶ビールとおつまみが入っているのが見えた。特別ハンサムというわけでもなく、かといって冴えないわけでもない。ごく普通の、どこにでもいそうな男だった。

 彼は座るなり、大きなため息をついた。

 それがなんだかおかしくて、私は思わず横目で見てしまった。

「見てましたよね」

 突然言われて、私は少し驚いた。彼はこちらを向かずに、線路の方を見たまま言った。

「ため息、大きすぎましたか」

「……少し」

「恥ずかしい」

 そう言って、彼は苦笑した。初めて見る顔なのに、その笑い方がなぜか懐かしかった。

「お疲れですか」と私は言った。自分でも意外だった。見知らぬ人間に話しかけるなんて、何十年ぶりのことだろう。

「まあ、そうですね」と彼は言った。「今日、企画が全部ボツになって」

「それは……大変でしたね」

「三ヶ月かけたんですよ」

 彼はようやく私の方を向いた。目が合った。疲れた目だったけれど、奥に柔らかい光があった。

「愚痴ってしまった。すみません、見ず知らずの人に」

「いいえ」と私は言った。「聞きたかったので」

 彼は少し目を丸くして、それからまた笑った。さっきより少しだけ、自然な笑い方だった。

 電車が来て、彼は立ち上がった。

「また会えたら、続きを話しますね」

 それだけ言って、彼は電車に乗っていった。

 私はしばらくホームに座ったまま、発車していく電車の赤いランプを見送っていた。胸の中で、何かが小さく動いた気がした。千年の澱の底で、何かがほんの少し、揺れた。

 次の夜も、彼はいた。

 同じ時間、同じホーム、同じベンチの近く。私が来たときにはもう座っていて、今日はコーヒーの缶を持っていた。

「また会いましたね」

 彼は当たり前のように言った。まるで約束していたみたいに。

「ええ」

「昨日の続き、話してもいいですか」

「どうぞ」

 それから私たちは、電車が来るまでの十数分、話した。彼の仕事のこと、上司のこと、ボツになった企画のこと。私はただ聞いていた。でも彼は、私が相槌を打つたびに少し嬉しそうな顔をした。

「聞き上手ですね」と彼は言った。

「慣れているので」

「何に?」

「……時間に」

 我ながら変な答えだと思ったけれど、彼は深く追求しなかった。ただ「なんか、わかる気がします」と言って、缶コーヒーを一口飲んだ。

 その夜も彼は電車に乗っていった。

 私はまたホームに残って、遠ざかる電車を見た。今度は胸の動きが、昨日より少し大きかった。

 それから、毎晩会うようになった。

 自然にそうなった。どちらが誘ったわけでもなく、約束したわけでもない。ただ気がつけば、私はその時間にホームにいて、彼もやってくる。それが当たり前になるまで、さほど時間はかからなかった。

 彼の名前は、佐伯といった。

 会社員で、広告の企画をしている。好きな食べ物はカレーで、苦手なものは朝。学生の頃は写真を撮るのが好きだったけれど、忙しくなってからはカメラを開く暇もないと言っていた。

 私のことも、少しずつ話した。もちろん嘘をまじえながら。フリーランスで翻訳の仕事をしている、一人暮らし、家族はいない。本当のことは、名前だけだ。

「綺麗な名前ですね」と彼は言った。「どんな字を書くんですか」

「難しい字です」と私は言った。「もう誰も読めないような」

 彼はふしぎそうな顔をしたけれど、それ以上聞かなかった。

 十二月になった。

 駅のホームにはイルミネーションが飾られ、人の行き来がにぎやかになった。私たちはホームだけじゃなく、駅の近くを一緒に歩くようになった。コンビニでコーヒーを買って、川沿いの道を少しだけ歩く。ただそれだけのことが、私にはひどく特別に感じた。

 誰かと並んで歩くのが、こんなに温かいなんて、忘れていた。

 いや、違う。知らなかったのかもしれない。千年前に誰かと歩いたとき、こんなふうに胸が満ちていただろうか。記憶の中を探っても、もう答えは出てこない。

 ただ今、この瞬間だけは確かだった。

 佐伯と並んで歩いているこの夜道が、千年の中で一番温かかった。

 異変に気づいたのは、十二月の中頃だった。

 川沿いを歩いていると、佐伯が急に立ち止まった。

「ねえ」と彼は言った。「手、冷たくないですか」

 私はとっさに手を引いた。触れそうになっていたことに、私自身気づいていなかった。

「冷え性なので」

「そうじゃなくて」

 佐伯は静かな目で私を見た。

「息が、白くないですよね。あなたの」

 冬の夜だった。彼の吐く息は白く、空気に溶けていく。でも私のそれは——ない。

 私は黙った。

「それに」と彼は続けた。声は穏やかだった。怖がっている様子は、不思議と、なかった。「雨の日も、濡れないですよね。先週、急に降り出したとき」

 そうだった。うっかりしていた。

「影も」と彼は言った。「薄いときがある」

 私は街灯の下に立っていた。影はちゃんとある。でも彼の言う通り、ときに私の影は人間のそれより薄い。気を抜いたとき、この世界への存在感が揺らぐのだ。

「佐伯さん」

「怖くないですよ」と彼は言った。先に。「なんとなく、最初から、普通じゃないと思ってた。でも、それがどうしたって感じで」

 私は彼の顔を見た。本当に怖がっていなかった。ただ、静かに待っていた。

 千年生きて、こんな人間に会ったのは初めてだった。

「……人間じゃないです」と私は言った。「妖怪、という存在です。もうずっと長い間、この国のどこかで生きています」

 佐伯はしばらく黙っていた。川の音だけが聞こえた。

「どのくらい」

「千年、少し超えたくらい」

「……そっか」

 彼はまた歩き出した。私も並んだ。

「千年、ひとりだったんですか」と彼は聞いた。

「ほとんど」

「寂しかったでしょう」

 その一言で、私の胸の何かが、静かに割れた。

 寂しかったでしょう、と言ってくれた人間が、千年の中で何人いただろう。たぶん、いなかった。恐れられるか、崇められるか、逃げられるか。それだけだった。

「ええ」と私は言った。声が少し、震えた。「寂しかったです」

 彼は何も言わなかった。ただ、歩き続けた。私の隣で。

 それだけで十分だった。

 年が明けた。

 私たちはまだ会い続けていた。正体を明かしても、彼は変わらなかった。いや、むしろ少し打ち解けた気がした。嘘をつかなくていい分、私も楽になった。

 一月の夜、佐伯は言った。

「好きです」

 川沿いのいつもの道だった。立ち止まって、真っ直ぐ私を見て、彼は言った。

「妖怪でも、人間じゃなくても、関係ない。あなたのことが好きです」

 私は答えられなかった。

 嬉しかった。それは本当だ。千年の中で、こんなに胸が震えたことはなかった。この気持ちに名前をつけるなら、きっと恋と呼んでいい。私だって、彼のことが——

 でも。

「……佐伯さん」

「断られるのはわかってます」と彼は言った。少し笑いながら。「なんとなく。でも言いたかった」

「ごめんなさい」

 言葉は静かに出てきた。

「人間と妖怪は、添い遂げられません。それは千年かけて、よくわかっています。あなたは年を取る。私は取らない。あなたはいつか死ぬ。私はそれを見送る。それを、私はもう——」

 声が途切れた。

 もう、耐えられないと知っていた。誰かを愛して、失う痛みを、千年分だけ知っていた。だからずっと、近づかないようにしてきた。なのに。

「わかってます」と佐伯は言った。「無理だって、わかってます。ただ」

 彼は夜空を見上げた。

「あなたと歩いたこの道は、本物だったと思ってる。それだけは、変わらないから」

 その夜、私は決めた。

 去ろうと思った。

 このまま会い続けることはできない。彼の気持ちを知ってしまった今、私が傍にいることは彼を縛ることになる。千年生きた私にはわかる。人間の時間は短い。短いからこそ、無駄にしてはいけない。

 彼には、同じ時間を生きられる誰かが必要だ。

 私じゃない、誰かが。

 最後に会ったのは、一月の終わりの夜だった。

 いつものホーム、いつものベンチ。彼は来た。コーヒーを二つ持って。私の分まで。

 その気遣いが、胸に刺さった。

「今日で最後にしようと思っています」

 座るなり、私は言った。遠回しにする優しさを、私は持っていなかった。

 佐伯は少し目を伏せた。それから、静かに「そうですか」と言った。

「あなたと過ごした時間は、千年の中で一番温かかった」

「大袈裟ですよ」

「本当のことです」

 彼はコーヒーを私に差し出した。私は受け取った。温かかった。

「千年、これからも続くんですよね」と彼は言った。

「ええ」

「寂しくなったら、また誰かの隣に座ればいい」

 私は彼を見た。

「こんな出会いは、そうそうないと思いますが」

「でも、ゼロじゃないでしょう」

 彼は笑った。泣きそうな顔で、笑った。

 私も笑った。泣きそうだった。妖怪が泣くのかと言われたら、泣く。千年分の涙が、今この瞬間に全部集まってくるような気がした。

 電車が来た。

 佐伯は立ち上がった。コーヒーを一口飲んで、改札の方を向いた。振り返らなかった。

 最後まで、振り返らなかった。

 彼なりの、優しさだと思った。振り返ったら、私も彼も、もう動けなくなるから。

 私はホームに座ったまま、遠ざかる背中が見えなくなるまで、ずっと見ていた。

 それから千年が経った。

 街は変わった。電車の形も、人の服も、街の灯りも、何もかもが変わった。それでもホームはホームで、終電近くなれば疲れた顔の人たちが並ぶ。千年前と、それだけは同じだった。

 私はベンチの端に腰を下ろして、ぼんやりと線路を眺めていた。

 隣に、誰かが座った。

 大きなため息が聞こえた。

 思わず横目で見た。

 三十代前半だろうか。くたびれたスーツに、少し緩んだネクタイ。コンビニの袋をひとつ提げていた。どこにでもいそうな、ごく普通の男だった。

 でもその横顔が——

「見てましたよね」

 男は線路を見たまま言った。

 私は息を呑んだ。

 声が、同じだった。言い方も、照れ隠しのような口調も。

「……ため息、大きすぎましたか」

「恥ずかしい」

 男は苦笑した。

 あの笑い方だった。

 電車が来た。男は立ち上がって、少し振り返った。

「また会えたら、続きを話しますね。俺、佐伯っていいます」

 私は動けなかった。

 佐伯。

 その名前を、私は一度も——一度も忘れたことがなかった。

 千年前も、千年後も、ずっとずっと、胸の底に沈んだままだった。澱ではなく、光として。消えることなく、ずっと。

 男は改札を抜けていった。

 私はホームに座ったまま、遠ざかる背中を見ていた。手の中のコーヒーが、少しずつ冷めていく。

 また会いに来てしまう、と思った。

 またこの痛みが始まる、とわかっていても。

 私はそういう生き物だった。千年経っても、きっとこれからも、誰かの隣に座って、温かいものを受け取って、そして失い続ける。

 それが私の、千年だった。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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