【定年の朝】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
三月の朝は、まだ冷たい。
田中誠一は、オフィスのドアを開けながら思った。三十八年間、何度この扉をくぐっただろう。そして今日が、最後だ。
午前七時二十分。始業は九時だから、まだ誰も来ていない。それが目的だった。誰かに見られたくなかった。荷物をまとめる姿を、同僚たちに見せたくなかった。
電灯のスイッチを入れると、蛍光灯がじじ、と音を立てて白い光を広げた。がらんとしたオフィスは、人がいないと妙に広く見える。誠一は自分の席に座り、鞄を床に置いて、ぼんやりと部屋を見渡した。
窓の外には、まだ夜明けの薄紫が残っている。東の空だけが少しだけ白んでいた。
さて、と誠一は小さく声に出した。
机の上はすでにほとんど片付けてある。数日かけて少しずつ私物を持ち帰っていたから、残っているのは引き出しの中身だけだ。持ってきた段ボール箱を広げて、誠一は一番上の引き出しを開けた。
ボールペンが何本か。輪ゴム。使いかけのメモ帳。どれも大して思い入れのないものばかりで、ほとんどをゴミ箱に捨てた。
二段目には、古い手帳が何冊か。パラパラとめくってみると、びっしりと予定が書き込まれている。会議、出張、接待。懐かしい名前がいくつも出てきたが、感傷に浸る間もなくゴミ袋に入れた。
三段目を開けたとき、手が止まった。
一番奥に、クリアファイルが一冊挟まっていた。埃をかぶっている。誠一はそれをそっと取り出した。
ファイルを開くと、中には十数枚の書類が入っていた。手書きのグラフ。びっしりと書き込まれた数字。そして表紙には、こう書いてあった。
「地方中小企業向け新規営業戦略プロジェクト案 田中誠一」
二十年前のものだった。
誠一は、しばらくそれを眺めた。
あれは、自分が四十歳になった年だった。
誠一はずっと、自分を「たいしたことのない人間」だと思って生きてきた。勉強もそこそこ、スポーツもそこそこ、特技もなければ取り柄もない。就職できたのも運が良かっただけで、仕事の能力だって同期の中では真ん中より少し下くらいだと自分では思っていた。
そのかわり、誠一が身につけたのは「愛嬌」だった。場を和ませる冗談。誰かが失敗したときのフォローの一言。飲み会での話題の作り方。人の名前と顔を覚えること。それだけは、誰にも負けない自信があった。
「田中がいると場が明るくなる」
そう言われるたびに、誠一は笑顔を作った。嬉しかった。でも心のどこかで、いつもひっかかっていた。それって、仕事の話じゃないよな、と。
四十歳のとき、上司に言われた。
「田中、何か新しいことやってみないか。プロジェクト案を出してみろ」
なんでよりによって自分に、と思った。でも断れなかった。そしてなぜか、やってみたら、面白かった。
営業を長くやってきた経験の中で、ずっと気になっていたことがあった。大手ばかりに目が向いて、地方の中小企業への営業が手薄になっているということ。数字は小さくても、丁寧にフォローすれば長期的な関係が築けるはずだという感触が、何年もかけて積み上がっていた。
誠一は初めて、残業が苦にならなかった。データを集め、数字をまとめ、何度も書き直した。妻に「最近帰りが遅い」と言われても、苦じゃなかった。
出来上がった提案書を上司に出したとき、「よく調べた」と言われた。会議にもかけてもらった。でも結局、「時期尚早」という判断で、企画は棚上げになった。
誠一は、そのとき初めて、本気で悔しいと思った。
そしてしばらくして、またお調子者に戻った。本気を出して、それでもだめだったという事実が、怖かったから。もう本気を出さなければ、傷つかなくていい。そう、どこかで決めてしまったのだと思う。
以来、そのファイルは引き出しの奥で眠り続けた。
誠一は、ファイルを段ボール箱に入れようとして、やめた。
捨てよう、と思った。今日捨てなければ、ずっと持ち続けてしまう気がした。それはなんだか、みっともない気がした。
ゴミ袋に入れようと手を伸ばしたとき、背後でドアが開く音がした。
「あれ、田中さん? 早いっすね」
振り返ると、後輩の宮本が立っていた。入社六年目の、二十八歳。誠一がお調子者キャラで笑わせてきた後輩たちの中でも、特におとなしいほうの男だ。いつも少し眠そうな顔をしていて、誠一とは特別親しいわけでもなかった。
「宮本か。お前こそ早いな」
「電車が空いてる時間に乗りたくて。最近そうしてるんです」
宮本は自分の席に鞄を置きながら、誠一のほうをちらりと見た。
「片付けですか」
「ああ。最後だからな」
「そうですね」
会話が途切れた。宮本はパソコンを立ち上げながら、何かを考えているような顔をしていた。誠一は段ボールに向き直り、引き出しの整理を続けた。
しばらくして、宮本がまた口を開いた。
「田中さん、聞いていいですか」
「なんだ」
「あの……地方中小企業の営業戦略の提案書って、田中さんが書いたんですよね」
誠一の手が止まった。
「なんで知ってるんだ、そんなもの」
「入社したとき、研修で古い資料を読む課題があって。その中に入ってたんです。もう二十年近く前のやつで、ぼろぼろになってたんですけど」
宮本は少し躊躇するように間を置いてから、続けた。
「俺、あれ読んで、この会社に入って良かったって思ったんですよ」
誠一は、ゆっくりと宮本のほうを向いた。
「……は?」
「なんていうか、ちゃんと現場のことを考えて書いてある提案書で。数字の根拠も丁寧で。読んでて、こういう人と仕事したいなって思って」
宮本は照れくさそうに頭をかいた。
「田中さんがその人だって気づいたのは、入社して半年くらい経ってからですけど。言おうか迷って、結局ずっと言えなかったんですけど……今日が最後だから」
誠一は、何も言えなかった。
喉の奥に、何か固いものが詰まったような感覚があった。瞼の裏が、じわりと熱くなった。
二十年間、引き出しの奥で眠っていたあの提案書が、誰かの目に触れていた。誰かの記憶の中に、生きていた。
自分が本気を出した、たった一度のあの仕事が。
「……そうか」
誠一の声は、少し掠れていた。
「そんなこと、思ってたのか」
「はい」
「お前、もっと早く言えよ」
宮本が、ふっと笑った。
「すみません」
誠一は、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が、じわじわと滲んで見えた。笑おうとしたが、うまくいかなかった。かわりに、口の端が勝手に歪んだ。
三十八年間、ずっとお調子者だった。本気を出すのが怖くて、傷つくのが嫌で、愛嬌だけで生き延びてきた。仕事で何かを残したとは思えなかった。そう、ずっと思ってきた。
でもあの提案書は、生きていた。
誰かの、入社した日の、「この会社に入って良かった」という気持ちの中に。
誠一は、ゆっくりと息を吸った。そして静かに、泣いた。声は出さなかった。ただ、目から涙が一筋、頬を伝って落ちた。
宮本は何も言わなかった。ただ、自分のパソコンに向かって、静かにしていてくれた。それが、誠一にはありがたかった。
やがて他の社員たちが出社し始め、オフィスに声と気配が戻ってきた。
誠一はハンカチで顔を拭い、いつものように立ち上がった。
「おはようさん! 今日もよろしく頼むわ、俺はもういなくなるけど!」
あちこちから笑い声が上がった。
「田中さん、最後までそれですか」
「それが田中さんだもんね」
そうだ、それが自分だ、と誠一は思った。
お調子者で、不器用で、本気を一度だけ出して、また引っ込めて。それでも三十八年間、ここにいた。それだけで、十分だったのかもしれない。
段ボール箱には、あのクリアファイルを入れた。
捨てなくて、よかった。
窓の外では、三月の朝日が、ビルの隙間からようやく顔を出し始めていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




