【約束】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
第一章 悩み
僕には、誰にも言えない悩みがある。
恥ずかしい話なんだけど、僕はいわゆる「童貞」というやつだ。
別に、女性が嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。大好きだ。AVも週に三回は見る。お気に入りのジャンルは人妻もの。最近のAVってタイトルが異常に長いよな。「隣の奥さんが実は元ヤンで俺のことを舎弟扱いしてくるけど実は俺のこと好きらしくて云々」みたいな。いや、そこまで説明いる?
...話が逸れた。
とにかく、僕は女性が好きだ。でも、昔から女性の前に立つと緊張してしまって上手く喋れない。学生時代も、バイト先でも、とにかくダメだった。目も合わせられない。声が裏返る。汗が止まらない。完全に不審者だ。
そんな僕にも、最近変化が訪れた。
今年から始めたコンビニのバイトで、パートのおばちゃんと仲良くなったのだ。
名前はミヨコさん。推定年齢は五十代前半。いや、後半かもしれない。とにかく、おばちゃんだ。
ミヨコさんは明るくて優しい。仕事を教えてくれる時も、「ゆっくりでいいからね〜」って笑ってくれる。レジ打ちでミスしても、「大丈夫大丈夫、誰でも最初はそうだから」ってフォローしてくれる。
そして先週、事件が起きた。
深夜のシフトが終わって、二人で店の外でタバコを吸っていた時(僕は吸わないけど、付き合いで外にいた)、ミヨコさんが急に言った。
「ねえ、あんた彼女いないの?」
「え、あ、はい...いないです」
「もったいないわね〜。真面目そうだし、優しいし、絶対モテると思うけどなぁ」
そう言いながら、ミヨコさんは僕の肩をポンと叩いた。
その時、僕の脳裏に、とんでもない考えが浮かんだ。
—もしかして、この人なら...?
いや、ダメだ。そんなこと考えちゃダメだ。でも、でもだ。
友達はみんな言う。「初めては好きな人としなよ。じゃないと絶対後悔するから」って。
わかってる。わかってるけど、僕にはそんな相手がいない。このままだと、一生このままなんじゃないか。そんな不安が、最近どんどん大きくなってる。
だったら、いっそ...
ミヨコさんで、捨ててしまおうか。
彼女なら、頼めば一回くらいはやらせてくれそうな気がする。少なくとも、話を聞いてはくれるだろう。
いや、でも...
やっぱりこんな初めてじゃ、後悔するだろうか。
僕は悩んでいる。
誰かに相談したいけど、こんな恥ずかしい話、友達にもできない。
というか、友達も最近減った。みんな家庭を持って、忙しそうだ。僕だけが、取り残されている気がする。
ああ、やっぱり悩むな...
今夜も眠れそうにない。
バイトから帰って、自宅のアパートでこんなことを考えている。
時計を見ると、午前二時を回っていた。
明日も...いや、もう今日か。今日も遅番のシフトが入っている。ミヨコさんと一緒だ。
どんな顔して会えばいいんだろう。
冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出す。プシュッと音を立てて開けて、一口飲む。
苦い。
ビールが苦いのか、人生が苦いのか、もうよくわからない。
部屋の隅に置いてある姿見が目に入る。なんとなく近づいて、自分の顔を覗き込む。
そこに映っているのは、疲れた顔をした男。
髪は薄くなり始めている。いや、「始めている」なんて生易しいものじゃない。もうかなり来ている。額は後退し、頭頂部も寂しい。目の下にはクマ。ほうれい線も、くっきりと刻まれている。
—ああ、俺も歳を取ったな。
もう、若くない。
というか、全然若くない。
缶ビールをもう一口飲む。
鏡の中の自分が、少しだけ笑ったような気がした。自嘲的な笑いだ。
今年で還暦を迎えた。
六十歳。
コンビニバイトの、六十歳。
そして、童貞だ。
名前は、トシオ。
還暦童貞のトシオだ。
第二章 手紙
テニス部の部室は、夕方の光で満たされていた。窓から差し込む西日が、壁に立てかけられたラケットの影を長く伸ばしている。
私は、掲示板に貼られた明日の試合のメンバー表を見上げて、目を疑った。
「え...私? レギュラー?」
思わず声が出た。隣にいた先輩が、ニコッと笑って振り返る。
「そうだよ。あんたが頑張ってるの、みんな見てるから」
そう言われても、私より上手な人なんていくらでもいる。二年生の先輩たちは、私なんか相手にならないくらい強い。
嬉しいはずなのに、不安の方が大きかった。
明日、勝てるだろうか。
足を引っ張らないだろうか。
そんなことばかり考えながら、私は部室を出た。
帰り道、校舎は夕焼けに染まっていた。
オレンジ色の光が窓ガラスを照らして、まるで学校全体が燃えているみたいだった。
靴箱でローファーを履き替えながら、ふと、カバンの中に違和感を覚えた。
何か、入ってる…?
ファスナーを開けて中を探ると、折りたたまれた便箋が出てきた。
—え、何これ?
誰かのイタズラ? それとも...
心臓がドクンと跳ねる。
周りに誰もいないのを確認して、便箋を開いた。
「明日、頑張れ! トシオ」
...トシオ?
クラスメートの、あのトシオ?
いつも変なことばっかり言って、授業中に消しゴム投げてくるような、ちょっとウザい男子。
この前なんて、「お前、サーブの時変な顔してるな」って笑ってたくせに。
そのトシオが、こんな手紙を?
もう一度、文字を見つめる。
字は少しだけ震えていて、でも丁寧だった。
便箋の端が、ほんの少しだけ折れている。何度もカバンに入れようとして、躊躇したのかもしれない。
—なんで、手紙なんて...
わざわざこんな風に、カバンに忍ばせて。
直接言えばいいのに。
いや、でも...直接言われたら、もっと恥ずかしかったかもしれない。
手書きの文字には、何か特別な重さがある。
心臓が、さっきとは違うリズムで跳ねた。
試合の緊張とは、全然違う。
これは、何?
この感じ、何?
私は、便箋をもう一度折りたたんで、カバンのポケットにしまった。
それから、早足で家路についた。
家に帰ると、制服のままベッドに倒れ込んだ。
カバンから便箋を取り出して、もう一度読む。
たった一行。
でも、何度読んでも飽きない。
トシオの顔が浮かぶ。
いつもふざけて笑ってる顔。授業中に寝てる顔。給食を大盛りで食べてる顔。
でも、この手紙の文字は、ふざけていなかった。
真面目だった。
私のことを、ちゃんと見てくれていた。
試合のことだけ考えていたはずなのに、今は、手紙のことばかりが頭を占めている。
トシオは、どんな気持ちでこれを書いたんだろう。
どんな顔で、私のカバンに入れたんだろう。
学校で会った時、何て言えばいいんだろう。
「ありがとう」って、言えるかな。
言ったら、変に思われるかな。
いや、でも、お礼くらい言わないと...
便箋を胸に当てる。
紙の感触が、妙に温かい気がした。
第三章 美学
夜のアパート。
蛍光灯の下で、缶ビールを開ける。
プシュッという音が、静かな部屋に響いた。
一口飲んで、苦い顔をする。
でも、今日は少しだけ違う苦さだった。
僕は、決めた。
ミヨコさんに頼むのは、やっぱり違うと思う!
四十五年前の春。
高校1年の教室の窓際、桜の花びらが舞い込む午後。
僕は、彼女の笑顔に恋をした。
名前を呼ぶだけで、胸が高鳴った。
でも、彼女の隣には、いつもマサルがいた。
マサルは、大人しい性格でクラスでも目立つ方ではなかった。
でも不思議と僕たちはウマが合った。
ある日、マサルが言った。
「俺、あいつのこと、好きなんだ」
その瞬間、僕の中で何かが静かに崩れた。
自分よりも彼女を幸せにできるのは、マサルだ。
そう思った。
だから、何も言わなかった。
彼女の誕生日に用意していた手紙も、渡さなかった。
それを、“美学”だと思った。
譲ること。
黙って身を引くこと。
それが、男の潔さだと信じていた。
——でも、本当に正しかったのか?
六十歳の夜、ひとりで飲むビールの苦さが、胸に沁みる。
誰も愛さず、誰にも愛されず、四十五年。
それを“美学”と呼ぶには、あまりに空虚だった。
ふと、古いアルバムを開く。
そこには、あの春の彼女の笑顔があった。
そして、マサルと肩を並べて笑う自分。
あの頃の自分に、今の自分が問いかける。
——あれは身を引いたのか?
——それとも、ただ逃げ出しただけなのか?
第四章 事故
よく晴れて試合前から汗ばむくらいの陽気だった。
私は何とか試合に勝つことができた。
接戦だったけど、最後の最後でトシオの手紙が力をくれた気がした。
次の日の放課後。
私は、トシオにお礼を言おうと思って屋上に行った。
夕焼けが、校舎を赤く染めていた。風が、髪を揺らす。トシオは、フェンスに背中を預けて立っていた。
「あのね...手紙、ありがとう」
私は、少しだけ顔を熱くして言った。
トシオは慌てて、「えっ、あ、いや、あれは...」と言い訳しようとした。
いつもふざけてばかりいるくせに、こういう時だけ慌てる。
「嬉しかったよ。だから、約束して」
「約束?」
「トシオは、私以外の人、好きにならないでね。」
半分ジョーダンのつもりだった。
でもトシオは、少しだけ困ったような顔をして、それでも答えてくれた。
「...わかった。約束する」
嬉しかった。
これで、トシオは私を待っていてくれる。
私が、ちゃんと気持ちを整理できるまで。
「ありがと。じゃあ、私も約束する」
「何を?」
「秘密」
私は、そう言って屋上を去った。
本当は言いたかった。
—私も、あなた以外の人を好きにならない、って。
でも、言えなかった。
もう一つの"約束"があったから。
あの日のことは、今でも忘れられない。
1年前、中学3年生の春。
放課後、私は一人で帰り道を歩いていた。
3年生になり、受験のことを考えていた。
—志望校、どこにしよう。
—成績、もうちょっと上げないと。
—数学、苦手なんだよなぁ...
そんなことを考えながら、ぼんやりと歩いていた。
横断歩道にさしかかる。
信号は...
—赤? 青?
よく見えなかった。
いや、見てなかった。
考え事をしていて、周りが見えていなかった。
私は、そのまま横断歩道を渡り始めた。
その時。
キィィィィッ!!
急ブレーキの音。
目の前に、車。
—あ。
頭が真っ白になった。
動けない。
足が、すくんで動かない。
車が、迫ってくる。
その瞬間。
誰かが、私の身体を突き飛ばした。
私は、道路脇に転がった。
そして、聞こえた。
ドンッ!!
鈍い音。
顔を上げると、マサルが倒れていた。
車は、止まっていた。
マサルの足の下に、血が広がっていた。
「マサル!!」
私は、叫んだ。
マサルは、顔を歪めながら、それでも笑った。
「...よかった。間に合った」
「なんで...なんでそんな...」
「お前...信号、見てなかっただろ」
マサルは、苦しそうに息をした。
「いつも、ぼんやりしてるもんな」
「ごめん...ごめんなさい...」
私は、泣きながらマサルの手を握った。
救急車のサイレンが、近づいてくる。
マサルは、病院に運ばれた。
診断は、右足の複雑骨折。
手術は成功したけど、後遺症が残るかもしれないと言われた。
「歩けないことはないのですが、今までのように歩くことは難しいかもしれません。リハビリをすれば改善する可能性はありますが、時間がかかります」
医者の言葉が、胸に突き刺さった。
私は、毎日病院に通った。
マサルのベッドの横に座って、謝り続けた。
「ごめんなさい。私のせいで...」
マサルは、笑った。
「お前のせいじゃない。俺が勝手にやったことだ」
「でも...」
「いいんだ。お前を守れて、よかった」
マサルは、窓の外を見た。
「俺、小さい頃から病弱でさ。クラスでも大人しい方だから、誰かを守るなんて、できないと思ってた」
マサルは、少しだけ笑った。
「でも、お前を守れた。それだけで、俺は嬉しいんだ」
私は、泣いた。
そして、誓った。
「私、マサルの足が治るまで、ずっとそばにいる」
「え...」
「リハビリも、手伝う。何でもする。だから...」
私は、マサルの手を握った。
「絶対に、ちゃんと歩けるようになって」
マサルは、涙を流した。
「...ありがとう」
それから、私は毎日病院に通った。
リハビリを手伝った。
マサルが痛みに耐えて歩く練習をする姿を、そばで見守った。
そして、通院費を少しでも助けるために、アルバイトを始めた。
マサルの家は、裕福じゃなかった。
医療費には、お金がかかる。
私にできることは、少しでもお金を稼ぐことだった。
放課後、コンビニでバイトをした。
休日も、バイトをした。
勉強する時間も、遊ぶ時間もなかった。
でも、それでもよかった。
マサルを助けたかった。
私のせいで、マサルがこんなことになったんだから。
半年後、マサルは少しずつ歩けるようになった。
まだ、完治はしてないけど、それでもリハビリの成果は出ていた。
医者は言った。
「このままリハビリを続ければ、完全に治る可能性もあります」
マサルは、泣いて喜んだ。
「ありがとう。お前のおかげだ」
私も、泣いた。
よかった。
マサルが、また昔のように歩けるようになる。
私たちは高校生になった。
マサルも同じ高校だった。
高校で出会ったのが、あのトシオだ!
いつもふざけて私をからかってくる。
でも私は、トシオに恋をした。
あの手紙。
あの約束。
全てが、私の心を満たしてくれた。
でも…
ある日の放課後。
マサルに、呼び出された。
音楽室。誰もいない場所。
マサルは、窓の外を見ながら立っていた。
リハビリは続けているけど、まだ足は完全には治っていない。
「あのさ...俺、お前のこと好きなんだ」
マサルは、真っ直ぐに私を見て言った。
「付き合ってほしい」
私は、何も言えなかった。
マサルの足を見る。
あの日の、事故。
私を守って、轢かれた。
その傷を見た瞬間、全てが蘇った。
—私のせいで。
—私のせいで、マサルは...
「あ...ありが...」
私は、声が震えた。
「でも、私...」
「いいんだ。断られるのは覚悟してる」
マサルは、少しだけ笑った。
「でも、言いたかった。お前がそばにいてくれたから、俺はここまで回復できた。お前がいてくれたから、俺は頑張れた」
マサルの目が、潤んでいた。
「だから、好きになった」
私は、涙が止まらなかった。
—断れない。
—断れるわけがない。
トシオの顔が浮かぶ。
あの手紙。
あの約束。
でも、マサルの足が、私の罪悪感を呼び覚ます。
—私が、この人をこんな目に遭わせた。
—私が、この人に借りがある。
私は、震える声で答えた。
「...わかった」
「え...?」
「ありがとう…付き合おう。」
私は、マサルの目を見た。
「...ありがとう」
マサルは、泣いて喜んだ。
でも、私の心は、引き裂かれそうだった。
その日から、私はマサルと付き合い始めた。
でも、心のどこかで、いつもトシオの顔が浮かんだ。
トシオは、何も言わなかった。
私がマサルと付き合い始めても、何も言わなかった。
ただ、遠くから見ていた。
そして、ある日。
トシオが、学校に来なくなった。
一週間。
二週間。
一ヶ月。
トシオは、戻ってこなかった。
聞けば、転校したらしい。
理由は、誰も知らなかった。
私は、トシオの机を見つめた。
空っぽの机。
誰もいない席。
—トシオ、どこに行ったの?
—なんで、何も言わずに消えたの?
答えは、返ってこなかった。
ただ、風が教室を吹き抜けるだけだった。
教室で、マサルの隣に座る。
マサルは、嬉しそうに笑っている。
でも、トシオの席は、空っぽのままだった。
私は、どちらも見ることができなかった。
ただ、教科書を開いて、文字を追う。
でも、何も頭に入ってこなかった。
心のどこかで、いつもトシオの顔が浮かんだ。
あの手紙。
あの約束。
—ごめんね、トシオ。
—約束、守れなくて。
でも、私にも守らなきゃいけない約束があったの。
マサルを、見捨てられなかった。
そんな日々が、続いていく。
第五章 約束
高校を卒業して、僕は県外の大学へと進んだ。
マサルと彼女は同じ大学に進学したらしい。
僕は、地元を離れて、一人暮らしを始めた。
距離を置きたかった。
二人の幸せを、近くで見ていたくなかった。
でも、本当は逃げていただけなのかもしれない。
大学時代、僕は誰とも付き合わなかった。
合コンに誘われても断った。女の子に告白されても、適当な理由をつけて断った。
友達は、「お前、何か問題あるの?」と心配してくれた。
問題なんて、ない。
ただ、心が他の誰も受け入れてくれないだけだ。
社会人になっても、同じだった。
職場の女性に食事に誘われても、断った。
お見合いの話が来ても、断った。
両親は、心配していた。
「お前、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ」
嘘だった。
全然、大丈夫じゃなかった。
でも、どうすることもできなかった。
そして、ある日。
実家にマサルから、結婚式の招待状が届いたと連絡が来た。
久々に実家に戻り、招待状を受け取った。
封を開けると、マサルと彼女の写真が入っていた。
二人とも、笑っていた。
僕は、返信ハガキの「欠席」に丸をつけた。
理由の欄には、「仕事のため」と書いた。
嘘だった。
本当は、行けなかった。
彼女のウェディングドレス姿を見たら、僕は壊れてしまいそうだった。
それから、何年も経った。
マサルからは、毎年 実家に年賀状が届いているらしい。
「子供が生まれました」
「二人目が生まれました」
「家を買いました」
マサルの人生は、順調に進んでいた。
僕の人生は、止まったままだった。
そして、5年前。
マサルの訃報を聞いた。
心臓の病気だった。
55歳。マサルは長く生きられなかった。
でも、彼は幸せだったと思う。
愛する人と結婚して、子供を授かって、家族に囲まれて。
僕は、葬式に行った。
彼女の姿を、遠くから見た。
黒い喪服を着て、泣いていた。
後ろ姿だけだったから顔は見えなかったが、40年ぶりの彼女は、とても小さく見えた。
僕は、声をかけることができなかった。
ただ、香典を置いて、去った。
それから、また時間が過ぎた。
僕は、定年を迎え、再就職先を探していた。
そして、見つけたのがコンビニのバイトだった。
そこで、ミヨコさんと出会った。
ミヨコさんは、明るくて優しかった。
一緒に働いていると、心が落ち着いた。
彼女の前では、自然体でいられた。
そして、ふと思った。
—この人となら、童貞を捨てられるかもしれない。
でも、すぐに思い直した。
—いや、やっぱりダメだ。
昔の約束を、大切にしたい。
彼女への想いを、汚したくない。
そして、今夜。
僕は、ミヨコさんに伝えようと思った。
「あの、ミヨコさん」
深夜のシフトが終わった後、店の外でミヨコさんに声をかけた。
「ん?どうしたの?」
「前に、冗談で『彼女いないの?』って聞いてくれたじゃないですか」
「ああ、うん」
「あれ以来、色々考えたんですけど...やっぱり、僕は誰とも付き合えないと思います」
ミヨコさんは、少しだけ寂しそうな顔をした。
「そっか。何かあったの?」
「昔、好きだった人がいて...その人との約束を、守りたいんです」
「約束?」
「はい。その人以外を好きにならないって約束を」
ミヨコさんは、少しだけ目を見開いた。
「...その人、今どうしてるの?」
「わかりません。でも、僕はその人のことをずっと...」
僕は、言葉に詰まった。
ミヨコさんは、じっと僕を見ていた。
そして、小さく笑った。
「そっか。真面目なんだね」
「すみません。変なこと言って」
「ううん、変じゃないよ」
ミヨコさんは、空を見上げた。
しばらく沈黙が続いた。
そして、ミヨコさんが口を開いた。
「ねえ...もしかして、その人の名前、聞いてもいい?」
「え...」
「いや、ごめん。聞いちゃいけないよね」
「いえ...名前は、言ったことないんです。誰にも」
「そっか」
また、沈黙。
風が、二人の間を吹き抜けた。
「...みよちゃん、って言いました」
僕は、小さく呟いた。
「高校の時の、クラスメートで」
ミヨコさんが、固まった。
僕は続けた。
「テニス部で、試合の前に手紙を渡して...屋上で約束して...」
「トシオ...?」
ミヨコさんの声が、震えていた。
僕は、顔を上げた。
ミヨコさんは、涙を流していた。
「え...なんで...」
「バカ」
ミヨコさんは、泣きながら笑った。
「バカ。私よ。私」
「え...?」
「私が、みよちゃんよ」
世界が、止まった。
「え...でも...」
「45年も経ったから、わかんないよね。私も、あんたが誰だかすぐにはわからなかった」
「じゃあ、いつ...」
「名札。『トシオ』って見た時、もしかしてって思った。
でも、確信が持てなくて。だって、45年も経ってるから」
ミヨコさん...いや、みよちゃんは、涙を拭いた。
「でも、今、確信した。あんたが『みよちゃん』って言った時」
僕は、何も言えなかった。
ただ、彼女を見つめることしかできなかった。
—45年。
45年間、ずっと想い続けていた人が、目の前にいた。
コンビニのパートのおばちゃんとして。
ミヨコさんとして。
でも、彼女だった。
あの日の、彼女だった。
「ねえ、トシオ。一つ聞いていい?」
「はい」
「本当にあの約束、まだ守ってるの?」
「...はい」
「バカ」
彼女は、また泣いた。
「バカ。45年も、ずっと?」
「...はい」
彼女は、僕の方を向いた。
涙で濡れた目で、僕を見つめた。
「私もよ」
「え...?」
「私も、あんたとの約束、ずっと覚えてた」
—え?
僕は、崩れ落ちそうになった。
45年間。
45年間、僕たちはすれ違い続けていた。
でも、今。
今、やっと。
「ねえ、トシオ」
彼女は、手を差し伸べた。
「もう一回、やり直してみない?」
「...いいんですか」
「私たち、もう還暦よ?今さら恥ずかしがることなんて、ないでしょ」
僕は、彼女の手を取った。
45年ぶりに触れる、彼女の手。
温かかった。
「約束、守ってくれてありがとう」
彼女は、泣きながら笑った。
「私も、ずっと覚えてたよ」
僕たちは、45年の時を超えて、やっと繋がった。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




