【雨の日のえんどうまめ】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
六月の終わり、梅雨の真っ只中。
佐倉美咲は職員室の窓から、灰色の空を見上げていた。
「佐倉先生、今日も遅くまでお疲れさま」
隣の席の山田先生が声をかけてくれる。五十代のベテラン教師で、美咲が一年目の頃から何かと気にかけてくれていた。
「ありがとうございます。明日の授業準備、もう少しだけ」
「あら、でも今日はデートじゃなかったの?」
美咲は曖昧に笑った。
「ええ、まあ。これから行くんです」
智也とは三年の付き合いになる。大学の同級生で、卒業後に再会して付き合い始めた。最初は優しかった。映画を観に行ったり、美咲の話を聞いてくれたり。
でも最近は、違う。
会う約束をしても当日にキャンセル。「仕事が」「友達が」「体調が」——理由はいつも曖昧で、でも翌日のSNSには飲み会の写真が上がっていたりする。美咲の話には上の空で、自分の話ばかり。誕生日も「忙しいから来週な」と言われて、結局そのまま流れた。
それでも別れられなかったのは、三年という時間のせいだ。ここで手放したら、また一からやり直し。二十七歳という年齢が、美咲の背中に重くのしかかっていた。
スマートフォンが震えた。
智也からのLINE。
『ごめん、今日無理になった。急に先輩に呼ばれて』
美咲は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
今日こそは、と思っていた。久しぶりに会って、ちゃんと話をしようと。最近どこかおかしいよね、私たち。そう切り出すつもりだった。
新しいワンピースまで買ったのに。
美咲は静かにスマートフォンをバッグにしまった。返信は、しなかった。
駅までの道を、美咲はゆっくり歩いていた。
急いで帰る理由もない。誰も待っていない部屋に、一人で帰るだけ。
頭の中で、ぐるぐると考えが巡る。
私、何やってるんだろう。
仕事では頑張れる。一年生の子どもたちは毎日が発見の連続で、大変だけど楽しい。「先生、あのね」が止まらない子、給食を残さず食べられて誇らしげな顔をする子、転んで泣いて、でもすぐに立ち上がる子。
彼らと過ごす時間は充実している。自分が必要とされていると感じられる。
なのに、恋愛になると途端にダメになる。我慢して、合わせて、「仕方ないか」で済ませて。智也に「重い」と言われるのが怖くて、本音を言えなくなっていた。
いつからこうなったんだろう。
最初から、だったかもしれない。
空を見上げた瞬間、冷たいものが頬に落ちた。
「え——」
雨だ。
しかも、一気に強くなってきた。六月の雨は容赦がない。
美咲は慌てて走り出した。傘は持っていない。天気予報は確認していたはずなのに、夕方から雨なんて言っていなかった。
いや、言っていたのかもしれない。智也のことで頭がいっぱいで、聞き流していたのかも。
屋根のある場所を探して、美咲は路地に飛び込んだ。商店街から少し外れた、静かな通り。見たことのない道だった。
小さな軒を見つけて、その下に滑り込む。
息を整えながら顔を上げると、そこが店の入り口だと気づいた。
木製のドア、手書きの看板。
『喫茶 えんどうまめ』
可愛らしい名前だ、と思った。緑色の豆のイラストが添えられている。
窓から中を覗くと、温かいオレンジ色の光が見えた。カウンター席がいくつかと、二人掛けのテーブルが三つほど。小さいけれど、居心地が良さそうな空間だった。
ドアが開いた。
「——よかったら、中で休んでいきませんか」
声に顔を上げると、男性が立っていた。
三十歳くらいだろうか。少し長めの黒髪、穏やかな目元。カーキ色のエプロンをつけている。
「あ、いえ、すぐ止むと思うので……」
「そうですか? 今日は長引きそうですけどね」
男性は空を見上げた。確かに、雨足は弱まる気配がない。むしろ強くなっている。
「でも、ご迷惑ですし」
「迷惑なんかじゃないですよ。雨宿りにちょうどいい店なんで」
男性はふっと笑った。
その笑顔に、美咲は少しだけ心が緩むのを感じた。
「……じゃあ、少しだけ」
店内は、外から見た以上に温かかった。
木のテーブル、革張りの椅子、壁に並んだ古い本。どこか懐かしい匂いがする。
「お好きな席にどうぞ。今、他にお客さんいないので」
美咲はカウンターの端に座った。店主らしき男性は、カウンターの向こうに回る。
「コーヒーでいいですか?」
「あ、はい。お願いします」
「ミルクと砂糖は?」
「ミルクだけ、少し」
男性は頷いて、コーヒーを淹れ始めた。
美咲はその手元を何となく眺めていた。慣れた手つき。豆を挽く音、お湯を注ぐ音。静かで、心地いい。
智也といる時間は、いつも落ち着かなかった。彼の機嫌を伺って、話題を選んで、沈黙が怖くて必死に喋って。
今、何も喋っていないのに、こんなに静かでいられるのはなぜだろう。
「はい、どうぞ」
白いカップが目の前に置かれた。湯気と一緒に、いい香りが立ち上る。
「ありがとうございます」
一口飲むと、じんわりと温かさが広がった。苦すぎず、優しい味。
「……おいしい」
「よかった」
男性はカウンターの向こうで、グラスを磨き始めた。話しかけてくるでもなく、かといって無視するでもなく。ちょうどいい距離感だった。
しばらくして、小さな皿がカウンターに置かれた。
「よかったら、どうぞ。今日焼いたスコーンなんですけど」
「え、頼んでないです」
「サービスです。雨宿りのお客さん特典ということで」
美咲は思わず笑ってしまった。
「そんな特典、あるんですか」
「今、作りました」
男性も笑っている。穏やかで、押しつけがましくない笑顔。
美咲はスコーンを一口かじった。素朴な甘さが口に広がる。
「……おいしい」
「今日は、大変な日だったんですね」
不意に言われて、美咲は顔を上げた。
「え?」
「いや、なんとなく。間違ってたらすみません」
男性は気まずそうに頭をかいた。
美咲は答えられなかった。何も言っていないのに、どうしてわかるんだろう。目が赤いのかな。それとも、雰囲気に出ていたのか。
「……ちょっとだけ、うまくいかないことがあって」
気づいたら、そう口にしていた。
「そうですか」
それだけだった。「何があったんですか」とも「大丈夫ですか」とも聞かない。ただ、静かに受け止めてくれる。
その距離感が、今の美咲にはありがたかった。
智也だったら、と思った。彼は美咲が落ち込んでいても気づかない。気づいても「また?」と言うだけ。「俺だって疲れてるんだけど」と自分の話に持っていく。
「大変だったね」なんて、一度も言われたことがなかった。
コーヒーカップを両手で包みながら、美咲はぼんやりと窓の外を見た。
雨は、まだ降り続いている。
雨が小降りになったのは、一時間ほど経った頃だった。
「そろそろ、止みそうですね」
男性がそう言って、窓の外を見た。
「本当だ。……長居してしまってすみません」
「いいえ、ゆっくりしてもらえてよかったです」
美咲は席を立ち、伝票を取ろうとした。
「あ、コーヒー代だけで大丈夫ですよ。スコーンはサービスなので」
「でも」
「雨宿り特典ですから」
男性はまた、あの穏やかな笑顔を浮かべた。
美咲は財布からお金を出しながら、少し迷って、言った。
「あの、ここ……また来てもいいですか」
言ってから、恥ずかしくなった。何を言っているんだろう。初めて来た店なのに。
「もちろん。いつでもどうぞ」
男性はさらりと答えた。
「雨の日じゃなくても、歓迎しますよ」
美咲は少しだけ笑って、店を出た。
帰り道、雨はほとんど止んでいた。
空気が澄んでいて、さっきまでのじめじめした感じがない。雨上がり特有の、清々しい匂い。
美咲は歩きながら、スマートフォンを取り出した。
智也には、まだ何も返信していない。
画面を見つめる。『ごめん、今日無理になった』。たった一行のメッセージ。三年付き合って、ドタキャンの連絡がこれだけ。
美咲は立ち止まって、電話をかけた。
三コールで、智也が出た。
『おう、どした。LINE見た? 悪いな、今日』
いつもと同じ、軽い声。
「うん、見た」
『来週どっかで会おうぜ。埋め合わせするから』
「……ねえ、智也」
『ん?』
美咲は深呼吸をした。
「私たち、もう終わりにしよう」
数秒の沈黙。
『……は? 何、急に』
「急じゃないよ。ずっとだよ」
声が震えそうになるのを、必死に抑えた。
『いや、何かあったの? 俺、何かした?』
「何かした、っていうか……ずっと、こうだったじゃん」
美咲は言葉を探した。怒りはない。ただ、疲れていた。
「約束しても当日キャンセル。私の話は聞いてくれない。誕生日も忘れてた。私、智也と一緒にいて楽しくなかった。ずっと我慢してた」
『いや、それは……俺だって忙しくて』
「知ってる。でも、もう続ける意味がないと思う」
また、沈黙。
『……わかったよ。お前がそう言うなら』
あっさりだった。
引き止めてほしかったわけじゃない。でも、三年付き合って、この反応か。そう思うと、逆に清々しかった。
「じゃあね、智也。元気で」
『ああ、お前もな』
電話を切った。
美咲は空を見上げた。
雲の切れ間から、夕焼けが覗いている。
涙は出なかった。悲しくないわけじゃない。でも、それ以上に、胸がすっとしていた。
三年間、ずっと抱えていた重荷を、やっと下ろせたような気がした。
一週間が過ぎた。
美咲は普段通りに仕事をして、普段通りに家に帰った。智也がいなくなっても、生活は何も変わらなかった。むしろ、ドタキャンに振り回されなくなった分、穏やかだった。
何も変わらない。
——ただ一つ、気になっていることがあった。
あの喫茶店。えんどうまめ。
雨の日、偶然見つけた小さな店。優しい味のコーヒーと、スコーンと、穏やかな店主。
また行きたい、と思っていた。でも、なんとなく行けずにいた。
雨の日に偶然入っただけの店に、わざわざ行くのは変だろうか。常連でもないのに。あの店主に、どう思われるだろう。
そんなことをぐるぐる考えているうちに、一週間が経っていた。
「先生、あのね」
放課後、教室の掃除をしていると、中村悠斗が話しかけてきた。
悠斗は美咲のクラスの中でも、特に人懐っこい男の子だった。いつも「先生、あのね」から話が始まる。
「どうしたの、悠斗くん」
「あのね、きのう、おじさんの店に行ったの」
「おじさん?」
「うん。おじさん、喫茶店やってるんだよ」
美咲は掃除の手を止めた。
「へえ、そうなんだ。何ていう名前?」
「えんどうまめ!」
心臓が跳ねた。
「……えんどうまめ?」
「うん! 緑の豆の絵があるの。おじさんがね、コーヒー作ってくれるんだよ。でも僕はジュース」
まさか、と思った。あの店主が、悠斗のおじさん?
「おじさん、優しいよ。お菓子もくれるし」
悠斗は無邪気に笑っている。
美咲は動揺を悟られないように、微笑み返した。
「そっか。素敵なおじさんだね」
「先生も来てよ。おじさん、喜ぶと思う」
悠斗はそう言って、掃除に戻っていった。
美咲はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
次の日。
美咲は仕事帰りに、えんどうまめの前に立っていた。
晴れている。雨なんか降っていない。
何をしてるんだろう、私。
でも、足は自然とここに向かっていた。悠斗の話を聞いてから、ずっと気になっていたのだ。
勇気を出して、ドアを押した。
カランコロン、とベルが鳴る。
「いらっしゃいませ——あ」
カウンターの向こうで、店主が顔を上げた。
「雨宿りの……」
「こんにちは。また来ちゃいました」
美咲は少し照れながら言った。
「どうぞ。雨宿り、していってください」
「……いえ、今日は降ってなくて…」
店主は一瞬黙り込んで、それから、ふっと笑った。
「色んな雨宿りがあるんですよ。雨の日だけじゃなくて」
美咲も思わず笑ってしまった。
そして前と同じ、カウンターの端に座った。
店主——名前も知らない——がコーヒーを淹れ始める。その手元を見ながら、美咲は思い切って聞いた。
「あの、お名前聞いてもいいですか」
「中村です。中村健太郎」
中村。やっぱり、悠斗と同じ苗字だ。
「私は佐倉です。佐倉美咲」
健太郎はコーヒーカップを美咲の前に置いた。
「佐倉さん。いい名前ですね」
たったそれだけの言葉が、なぜかひどく嬉しかった。
それから、美咲はえんどうまめに通うようになった。
週に二回、三回。仕事帰りに立ち寄って、コーヒーを飲んで、少しだけ話をして帰る。
健太郎は聞き上手だった。美咲の話を、静かに、でもちゃんと聞いてくれる。仕事の愚痴も、子どもたちの可愛いエピソードも、面白いテレビの話も。
相槌の打ち方が絶妙で、話しやすかった。智也といる時はいつも緊張していたのに、健太郎といると自然に言葉が出てくる。
「先生なんですね」と言われた時、少し驚かれた。
「小学校の、一年生を担任してるんです」
「一年生か。大変そうだ」
「大変ですよ。でも可愛いんです、すごく」
美咲が笑うと、健太郎も笑った。
「いい先生なんでしょうね。話してる時、楽しそうだ」
そう言われて、美咲は照れた。
いい先生かどうかはわからない。でも、子どもたちのことを話している時が一番楽しいのは本当だ。
「中村さんは、どうしてお店を始めたんですか」
「んー……なんとなく、ですかね」
健太郎は少し考えるような顔をした。
「昔から、こういう場所が好きだったんです。誰かがふらっと来て、ちょっと休んで帰る。そんな場所を作りたかった」
「素敵ですね」
「雨宿りの人が来てくれると、特に嬉しいです」
健太郎がちらりとこちらを見た。
美咲は耳が熱くなるのを感じた。
ある日、悠斗が教室で言った。
「先生、おじさんの店、行ったことある?」
美咲はどきりとした。
「え?」
「えんどうまめ。先生も行ってるって、おじさんが言ってた」
健太郎が悠斗に話したのだ。美咲のことを。
「う、うん。何回か行ったよ」
「やったー! おじさん、先生のこと話してたよ」
美咲の心臓がドキドキし始めた。
「な、何て?」
「んとね、『素敵なお客さんが来てくれるようになった』って」
素敵なお客さん。
美咲は顔が熱くなるのを感じた。
「そ、そう」
「先生、顔赤いよ?」
「え、そう? 暑いからかな」
美咲は慌てて顔をあおいだ。
悠斗は不思議そうな顔をしていたけれど、すぐに他のことに興味が移ったらしく、走っていってしまった。
美咲は一人、教室の真ん中で立ち尽くしていた。
素敵なお客さん。その言葉が、頭の中でぐるぐる回っている。
翌週、学校で授業参観があった。
保護者が教室に来て、子どもたちの様子を見る日。美咲は朝から緊張していた。保護者対応は何度やっても慣れない。
チャイムが鳴り、保護者たちが教室に入ってくる。
美咲は笑顔で挨拶をしながら、一人一人の顔を見ていた。
——その中に、見覚えのある顔があった。
「あ」
声が出てしまった。
健太郎が立っていた。
スーツではなく、シンプルなシャツとスラックス。でも間違いなく、えんどうまめの店主だ。
美咲と目が合うと、健太郎は小さく会釈した。
悠斗が健太郎に駆け寄る。
「おじさん! 来てくれたの?」
「お母さんが仕事で来られなかったから、代わりにね」
美咲は動揺を必死に抑えながら、授業を始めた。
いつも通りに。いつも通りに。
でも、健太郎の視線を感じると、なぜか緊張してしまう。声が上擦りそうになる。
子どもたちは元気に発言し、笑い、時々ふざけ合っている。いつもの風景。でも今日は、それを見ている人がいる。
——健太郎が、見ている。
授業が終わった後、保護者と個別に挨拶をする時間があった。
健太郎が美咲のところに来た。
「今日は来ていただいて、ありがとうございます」
美咲は努めて普通の声で言った。
「いえ、こちらこそ。いつも悠斗がお世話になってます」
健太郎は丁寧に頭を下げた。
「悠斗、先生のこと大好きなんですよ。毎日、先生の話ばっかりしてます」
「え、そうなんですか」
「『先生がね、今日こんなこと言ってた』『先生がね、給食全部食べたら褒めてくれた』って」
美咲は嬉しくなった。悠斗は確かに懐いてくれているけど、家でもそんなに話してくれているとは思わなかった。
「悠斗くんは本当にいい子で。素直で、優しくて。私も毎日元気をもらってます」
健太郎は柔らかく微笑んだ。
「——授業、素敵でした」
「え?」
「子どもたちが楽しそうで。佐倉先生の声を聞くと、みんな嬉しそうな顔になる」
美咲は言葉に詰まった。
智也には一度も、仕事のことを褒められたことがなかった。「先生って大変そう」「給料安いのによくやるね」。そんなことしか言われなかった。
「あ、ありがとうございます……」
声が震えそうになった。
健太郎は少し照れたように、視線をそらした。
「すみません、急に。でも、本当にそう思ったので」
「いえ、嬉しいです。すごく」
二人の間に、少しの沈黙が流れた。
周りには他の保護者もいる。あまり長く話してはいられない。
「じゃあ、また——」
「はい。また、お店に」
美咲は小さく微笑んだ。
健太郎も微笑み返して、悠斗と一緒に教室を出ていった。
美咲はその背中を見送りながら、胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。
それからも、美咲はえんどうまめに通い続けた。
季節は夏に変わり、子どもたちは夏休みに入った。美咲も少しだけ時間に余裕ができて、前より長く店にいられるようになった。
健太郎との会話も増えた。お互いの趣味の話、好きな本の話、子どもの頃の話。
美咲は、健太郎といる時間がどんどん好きになっていった。
これが、恋なのかもしれない。
そう気づいたのは、ある晴れた日の午後だった。
「中村さんって、彼女いるんですか」
コーヒーを飲みながら、何気なく聞いた。聞いてから、心臓が跳ねた。なんでそんなこと聞いたんだろう。
健太郎は少し驚いた顔をして、それから首を振った。
「いないですよ。もう何年も」
「そうなんですか」
「店が恋人みたいなもんで」
冗談めかして言う健太郎に、美咲はほっとしたような、でもどこか複雑な気持ちになった。
「佐倉さんは?」
「私も、いません」
「そうですか」
健太郎は何も聞かなかった。前に誰かいたのかとか、なぜ別れたのかとか。その距離感が、ありがたかった。
「……少し前まで、いたんですけど」
気づいたら、美咲は話していた。
「三年くらい付き合って。でも、大事にされてなくて」
「……」
「それで、雨の日に、ここに来たんです。あの日、別れようって決めて。帰り道に電話して、終わりにしました」
健太郎は静かに聞いていた。
「自分で決められて、よかったですね」
「え?」
「自分の意思で、終わりにしたんでしょう。それは、すごいことだと思います」
美咲は目を瞬いた。
すごいこと。そんな風に思ったことはなかった。ただ、限界だっただけだ。
「私、全然すごくないですよ。もっと早く気づくべきだったし」
「でも、気づいたじゃないですか。それで、行動した」
健太郎はまっすぐに美咲を見た。
「自分を大事にしようって決めたんだと思います。それって、簡単なことじゃない」
美咲は、何も言えなかった。
喉の奥が熱くなる。泣きそうだった。
智也には一度も、そんな風に言ってもらえなかった。美咲の決断を、肯定してもらえたことがなかった。
「……ありがとう、ございます」
声が掠れた。
健太郎は何も言わず、ただ静かにそこにいてくれた。
夏休みが終わり、二学期が始まった。
久しぶりに会う子どもたちは、一回り大きくなったような気がした。日焼けした顔、元気な声。美咲も自然と笑顔になる。
「先生、夏休みどうだった?」
悠斗が聞いてきた。
「楽しかったよ。悠斗くんは?」
「俺もー! おじさんの店でアイス食べたの!」
「そうなんだ、よかったね」
「先生も来てたよね。おじさんが言ってた」
美咲はどきりとした。
「う、うん。何回かね」
「おじさん、先生が来ると嬉しそうなんだよ」
悠斗は無邪気に笑っている。
美咲の心臓がドキドキし始めた。
「そ、そうなの?」
「うん。なんかニコニコしてる」
——嬉しそう。
その言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
「先生も最近ニコニコしてるよね」
「え?」
「前よりなんか楽しそう」
悠斗は言うだけ言って、友達のところに走っていった。
美咲は教室の真ん中で、立ち尽くしていた。
最近、楽しそう。
確かに、そうかもしれない。えんどうまめに通うようになってから、毎日が少し明るくなった気がする。帰り道が楽しみになった。誰かに会いたいと思えるようになった。
それは、健太郎のおかげだ。
美咲は、自分の気持ちをはっきりと自覚した。
好きだ。健太郎のことが、好きだ。
その夜、美咲はえんどうまめに向かった。
いつもより早い時間。まだ他のお客さんがいる。
カウンターに座って、コーヒーを頼んだ。健太郎はいつも通り、穏やかに「いらっしゃいませ」と言った。
他のお客さんが帰るのを待った。一人、また一人と店を出ていく。
気づけば、美咲だけになっていた。
「今日は早かったですね」
健太郎がカウンター越しに話しかけてきた。
「うん。ちょっと、話したいことがあって」
美咲は心臓がバクバクしているのを感じた。
こんなに緊張するのは久しぶりだ。手が震えそう。
「話したいこと?」
健太郎は不思議そうな顔をしている。
「あの——」
美咲は深呼吸をした。
言おう。ここで言わなかったら、きっと一生言えない。
「私、中村さんのことが好きです」
言った。
言ってしまった。
健太郎が目を見開いた。
「……え?」
「雨の日に、ここに来て。コーヒー飲んで、スコーン食べて、『大変でしたね』って言ってもらって。それから何度も来て、話を聞いてもらって」
美咲は言葉を続けた。止まらなかった。
「中村さんといると、安心するんです。自然でいられる。我慢しなくていい。そういう人、初めてで」
健太郎はじっと美咲を見ていた。
「最初は自分でもわからなかった。でも、悠斗くんに『先生、最近楽しそう』って言われて、気づいたんです。私、中村さんに会いたくてここに来てたんだって」
美咲は一気に言い切って、息を吐いた。
あとは、返事を待つだけ。
長い沈黙があった。
心臓がうるさい。ダメだったかな。迷惑だったかな。お客さんに告白されても困るよな——
「——俺も」
健太郎が口を開いた。
「え?」
「俺も、佐倉さんのことが好きです」
美咲は耳を疑った。
「……本当に?」
「本当に。雨の日に来てくれた時から、ずっと気になってた」
健太郎の耳が赤くなっていた。
「なんか、放っておけなくて。辛そうで、でも強くて。話を聞いてると、もっと知りたいと思った」
「……」
「授業参観の日、教室で子どもたちと話してる姿見て、ああ、好きだなって思った。でも、お客さんだし、悠斗の担任だし、言えなくて」
美咲は泣きそうになった。
嬉しくて、安心して、色んな感情が一気に溢れてくる。
「私も、ずっと言えなかった」
「……言ってくれて、ありがとうございます」
健太郎が微笑んだ。
あの、穏やかで優しい笑顔。でも今は、少しだけ違って見える。照れくさそうで、嬉しそうで。
「これから、どうしましょうか」
美咲が聞くと、健太郎は少し考えて言った。
「とりあえず、今日は閉店にして——」
「え?」
「一緒に、ご飯でも食べに行きませんか」
美咲は笑った。
「行きます」
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。
六月の終わりに出会って、夏が過ぎて、秋の始まり。
雨の音を聞きながら、美咲は思った。
あの日、雨宿りしてよかった。
この店に、入ってよかった。
「じゃあ、行きましょうか」
健太郎がエプロンを外す。
美咲は頷いて、立ち上がった。
外に出ると、雨はまだ降っている。でも、不思議と嫌じゃなかった。
健太郎が傘を差し出した。
「相合傘、でいいですか」
「……はい」
「これからは僕の横で雨宿りしてください」
二人で一つの傘の下、歩き出す。
肩がぶつかりそうな距離。少しだけ触れた指先。
美咲の心臓は、まだドキドキしていた。
でも、それは不安のドキドキじゃない。
幸せの、ドキドキだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




