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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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23/30

【雨の日のえんどうまめ】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

 六月の終わり、梅雨の真っ只中。

 佐倉美咲は職員室の窓から、灰色の空を見上げていた。

「佐倉先生、今日も遅くまでお疲れさま」

 隣の席の山田先生が声をかけてくれる。五十代のベテラン教師で、美咲が一年目の頃から何かと気にかけてくれていた。

「ありがとうございます。明日の授業準備、もう少しだけ」

「あら、でも今日はデートじゃなかったの?」

 美咲は曖昧に笑った。

「ええ、まあ。これから行くんです」

 智也とは三年の付き合いになる。大学の同級生で、卒業後に再会して付き合い始めた。最初は優しかった。映画を観に行ったり、美咲の話を聞いてくれたり。

 でも最近は、違う。

 会う約束をしても当日にキャンセル。「仕事が」「友達が」「体調が」——理由はいつも曖昧で、でも翌日のSNSには飲み会の写真が上がっていたりする。美咲の話には上の空で、自分の話ばかり。誕生日も「忙しいから来週な」と言われて、結局そのまま流れた。

 それでも別れられなかったのは、三年という時間のせいだ。ここで手放したら、また一からやり直し。二十七歳という年齢が、美咲の背中に重くのしかかっていた。

 スマートフォンが震えた。

 智也からのLINE。

『ごめん、今日無理になった。急に先輩に呼ばれて』

 美咲は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 今日こそは、と思っていた。久しぶりに会って、ちゃんと話をしようと。最近どこかおかしいよね、私たち。そう切り出すつもりだった。

 新しいワンピースまで買ったのに。

 美咲は静かにスマートフォンをバッグにしまった。返信は、しなかった。

 駅までの道を、美咲はゆっくり歩いていた。

 急いで帰る理由もない。誰も待っていない部屋に、一人で帰るだけ。

 頭の中で、ぐるぐると考えが巡る。

 私、何やってるんだろう。

 仕事では頑張れる。一年生の子どもたちは毎日が発見の連続で、大変だけど楽しい。「先生、あのね」が止まらない子、給食を残さず食べられて誇らしげな顔をする子、転んで泣いて、でもすぐに立ち上がる子。

 彼らと過ごす時間は充実している。自分が必要とされていると感じられる。

 なのに、恋愛になると途端にダメになる。我慢して、合わせて、「仕方ないか」で済ませて。智也に「重い」と言われるのが怖くて、本音を言えなくなっていた。

 いつからこうなったんだろう。

 最初から、だったかもしれない。

 空を見上げた瞬間、冷たいものが頬に落ちた。

「え——」

 雨だ。

 しかも、一気に強くなってきた。六月の雨は容赦がない。

 美咲は慌てて走り出した。傘は持っていない。天気予報は確認していたはずなのに、夕方から雨なんて言っていなかった。

 いや、言っていたのかもしれない。智也のことで頭がいっぱいで、聞き流していたのかも。

 屋根のある場所を探して、美咲は路地に飛び込んだ。商店街から少し外れた、静かな通り。見たことのない道だった。

 小さな軒を見つけて、その下に滑り込む。

 息を整えながら顔を上げると、そこが店の入り口だと気づいた。

 木製のドア、手書きの看板。

『喫茶 えんどうまめ』

 可愛らしい名前だ、と思った。緑色の豆のイラストが添えられている。

 窓から中を覗くと、温かいオレンジ色の光が見えた。カウンター席がいくつかと、二人掛けのテーブルが三つほど。小さいけれど、居心地が良さそうな空間だった。

 ドアが開いた。

「——よかったら、中で休んでいきませんか」

 声に顔を上げると、男性が立っていた。

 三十歳くらいだろうか。少し長めの黒髪、穏やかな目元。カーキ色のエプロンをつけている。

「あ、いえ、すぐ止むと思うので……」

「そうですか? 今日は長引きそうですけどね」

 男性は空を見上げた。確かに、雨足は弱まる気配がない。むしろ強くなっている。

「でも、ご迷惑ですし」

「迷惑なんかじゃないですよ。雨宿りにちょうどいい店なんで」

 男性はふっと笑った。

 その笑顔に、美咲は少しだけ心が緩むのを感じた。

「……じゃあ、少しだけ」

 店内は、外から見た以上に温かかった。

 木のテーブル、革張りの椅子、壁に並んだ古い本。どこか懐かしい匂いがする。

「お好きな席にどうぞ。今、他にお客さんいないので」

 美咲はカウンターの端に座った。店主らしき男性は、カウンターの向こうに回る。

「コーヒーでいいですか?」

「あ、はい。お願いします」

「ミルクと砂糖は?」

「ミルクだけ、少し」

 男性は頷いて、コーヒーを淹れ始めた。

 美咲はその手元を何となく眺めていた。慣れた手つき。豆を挽く音、お湯を注ぐ音。静かで、心地いい。

 智也といる時間は、いつも落ち着かなかった。彼の機嫌を伺って、話題を選んで、沈黙が怖くて必死に喋って。

 今、何も喋っていないのに、こんなに静かでいられるのはなぜだろう。

「はい、どうぞ」

 白いカップが目の前に置かれた。湯気と一緒に、いい香りが立ち上る。

「ありがとうございます」

 一口飲むと、じんわりと温かさが広がった。苦すぎず、優しい味。

「……おいしい」

「よかった」

 男性はカウンターの向こうで、グラスを磨き始めた。話しかけてくるでもなく、かといって無視するでもなく。ちょうどいい距離感だった。

 しばらくして、小さな皿がカウンターに置かれた。

「よかったら、どうぞ。今日焼いたスコーンなんですけど」

「え、頼んでないです」

「サービスです。雨宿りのお客さん特典ということで」

 美咲は思わず笑ってしまった。

「そんな特典、あるんですか」

「今、作りました」

 男性も笑っている。穏やかで、押しつけがましくない笑顔。

 美咲はスコーンを一口かじった。素朴な甘さが口に広がる。

「……おいしい」

「今日は、大変な日だったんですね」

 不意に言われて、美咲は顔を上げた。

「え?」

「いや、なんとなく。間違ってたらすみません」

 男性は気まずそうに頭をかいた。

 美咲は答えられなかった。何も言っていないのに、どうしてわかるんだろう。目が赤いのかな。それとも、雰囲気に出ていたのか。

「……ちょっとだけ、うまくいかないことがあって」

 気づいたら、そう口にしていた。

「そうですか」

 それだけだった。「何があったんですか」とも「大丈夫ですか」とも聞かない。ただ、静かに受け止めてくれる。

 その距離感が、今の美咲にはありがたかった。

 智也だったら、と思った。彼は美咲が落ち込んでいても気づかない。気づいても「また?」と言うだけ。「俺だって疲れてるんだけど」と自分の話に持っていく。

 「大変だったね」なんて、一度も言われたことがなかった。

 コーヒーカップを両手で包みながら、美咲はぼんやりと窓の外を見た。

 雨は、まだ降り続いている。

 雨が小降りになったのは、一時間ほど経った頃だった。

「そろそろ、止みそうですね」

 男性がそう言って、窓の外を見た。

「本当だ。……長居してしまってすみません」

「いいえ、ゆっくりしてもらえてよかったです」

 美咲は席を立ち、伝票を取ろうとした。

「あ、コーヒー代だけで大丈夫ですよ。スコーンはサービスなので」

「でも」

「雨宿り特典ですから」

 男性はまた、あの穏やかな笑顔を浮かべた。

 美咲は財布からお金を出しながら、少し迷って、言った。

「あの、ここ……また来てもいいですか」

 言ってから、恥ずかしくなった。何を言っているんだろう。初めて来た店なのに。

「もちろん。いつでもどうぞ」

 男性はさらりと答えた。

「雨の日じゃなくても、歓迎しますよ」

 美咲は少しだけ笑って、店を出た。

 帰り道、雨はほとんど止んでいた。

 空気が澄んでいて、さっきまでのじめじめした感じがない。雨上がり特有の、清々しい匂い。

 美咲は歩きながら、スマートフォンを取り出した。

 智也には、まだ何も返信していない。

 画面を見つめる。『ごめん、今日無理になった』。たった一行のメッセージ。三年付き合って、ドタキャンの連絡がこれだけ。

 美咲は立ち止まって、電話をかけた。

 三コールで、智也が出た。

『おう、どした。LINE見た? 悪いな、今日』

 いつもと同じ、軽い声。

「うん、見た」

『来週どっかで会おうぜ。埋め合わせするから』

「……ねえ、智也」

『ん?』

 美咲は深呼吸をした。

「私たち、もう終わりにしよう」

 数秒の沈黙。

『……は? 何、急に』

「急じゃないよ。ずっとだよ」

 声が震えそうになるのを、必死に抑えた。

『いや、何かあったの? 俺、何かした?』

「何かした、っていうか……ずっと、こうだったじゃん」

 美咲は言葉を探した。怒りはない。ただ、疲れていた。

「約束しても当日キャンセル。私の話は聞いてくれない。誕生日も忘れてた。私、智也と一緒にいて楽しくなかった。ずっと我慢してた」

『いや、それは……俺だって忙しくて』

「知ってる。でも、もう続ける意味がないと思う」

 また、沈黙。

『……わかったよ。お前がそう言うなら』

 あっさりだった。

 引き止めてほしかったわけじゃない。でも、三年付き合って、この反応か。そう思うと、逆に清々しかった。

「じゃあね、智也。元気で」

『ああ、お前もな』

 電話を切った。

 美咲は空を見上げた。

 雲の切れ間から、夕焼けが覗いている。

 涙は出なかった。悲しくないわけじゃない。でも、それ以上に、胸がすっとしていた。

 三年間、ずっと抱えていた重荷を、やっと下ろせたような気がした。

 一週間が過ぎた。

 美咲は普段通りに仕事をして、普段通りに家に帰った。智也がいなくなっても、生活は何も変わらなかった。むしろ、ドタキャンに振り回されなくなった分、穏やかだった。

 何も変わらない。

 ——ただ一つ、気になっていることがあった。

 あの喫茶店。えんどうまめ。

 雨の日、偶然見つけた小さな店。優しい味のコーヒーと、スコーンと、穏やかな店主。

 また行きたい、と思っていた。でも、なんとなく行けずにいた。

 雨の日に偶然入っただけの店に、わざわざ行くのは変だろうか。常連でもないのに。あの店主に、どう思われるだろう。

 そんなことをぐるぐる考えているうちに、一週間が経っていた。

「先生、あのね」

 放課後、教室の掃除をしていると、中村悠斗が話しかけてきた。

 悠斗は美咲のクラスの中でも、特に人懐っこい男の子だった。いつも「先生、あのね」から話が始まる。

「どうしたの、悠斗くん」

「あのね、きのう、おじさんの店に行ったの」

「おじさん?」

「うん。おじさん、喫茶店やってるんだよ」

 美咲は掃除の手を止めた。

「へえ、そうなんだ。何ていう名前?」

「えんどうまめ!」

 心臓が跳ねた。

「……えんどうまめ?」

「うん! 緑の豆の絵があるの。おじさんがね、コーヒー作ってくれるんだよ。でも僕はジュース」

 まさか、と思った。あの店主が、悠斗のおじさん?

「おじさん、優しいよ。お菓子もくれるし」

 悠斗は無邪気に笑っている。

 美咲は動揺を悟られないように、微笑み返した。

「そっか。素敵なおじさんだね」

「先生も来てよ。おじさん、喜ぶと思う」

 悠斗はそう言って、掃除に戻っていった。

 美咲はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 次の日。

 美咲は仕事帰りに、えんどうまめの前に立っていた。

 晴れている。雨なんか降っていない。

 何をしてるんだろう、私。

 でも、足は自然とここに向かっていた。悠斗の話を聞いてから、ずっと気になっていたのだ。

 勇気を出して、ドアを押した。

 カランコロン、とベルが鳴る。

「いらっしゃいませ——あ」

 カウンターの向こうで、店主が顔を上げた。

「雨宿りの……」

「こんにちは。また来ちゃいました」

 美咲は少し照れながら言った。

「どうぞ。雨宿り、していってください」

「……いえ、今日は降ってなくて…」

 店主は一瞬黙り込んで、それから、ふっと笑った。

「色んな雨宿りがあるんですよ。雨の日だけじゃなくて」

美咲も思わず笑ってしまった。

 そして前と同じ、カウンターの端に座った。

 店主——名前も知らない——がコーヒーを淹れ始める。その手元を見ながら、美咲は思い切って聞いた。

「あの、お名前聞いてもいいですか」

「中村です。中村健太郎」

 中村。やっぱり、悠斗と同じ苗字だ。

「私は佐倉です。佐倉美咲」

 健太郎はコーヒーカップを美咲の前に置いた。

「佐倉さん。いい名前ですね」

 たったそれだけの言葉が、なぜかひどく嬉しかった。

 それから、美咲はえんどうまめに通うようになった。

 週に二回、三回。仕事帰りに立ち寄って、コーヒーを飲んで、少しだけ話をして帰る。

 健太郎は聞き上手だった。美咲の話を、静かに、でもちゃんと聞いてくれる。仕事の愚痴も、子どもたちの可愛いエピソードも、面白いテレビの話も。

 相槌の打ち方が絶妙で、話しやすかった。智也といる時はいつも緊張していたのに、健太郎といると自然に言葉が出てくる。

 「先生なんですね」と言われた時、少し驚かれた。

「小学校の、一年生を担任してるんです」

「一年生か。大変そうだ」

「大変ですよ。でも可愛いんです、すごく」

 美咲が笑うと、健太郎も笑った。

「いい先生なんでしょうね。話してる時、楽しそうだ」

 そう言われて、美咲は照れた。

 いい先生かどうかはわからない。でも、子どもたちのことを話している時が一番楽しいのは本当だ。

「中村さんは、どうしてお店を始めたんですか」

「んー……なんとなく、ですかね」

 健太郎は少し考えるような顔をした。

「昔から、こういう場所が好きだったんです。誰かがふらっと来て、ちょっと休んで帰る。そんな場所を作りたかった」

「素敵ですね」

「雨宿りの人が来てくれると、特に嬉しいです」

 健太郎がちらりとこちらを見た。

 美咲は耳が熱くなるのを感じた。

 ある日、悠斗が教室で言った。

「先生、おじさんの店、行ったことある?」

 美咲はどきりとした。

「え?」

「えんどうまめ。先生も行ってるって、おじさんが言ってた」

 健太郎が悠斗に話したのだ。美咲のことを。

「う、うん。何回か行ったよ」

「やったー! おじさん、先生のこと話してたよ」

 美咲の心臓がドキドキし始めた。

「な、何て?」

「んとね、『素敵なお客さんが来てくれるようになった』って」

 素敵なお客さん。

 美咲は顔が熱くなるのを感じた。

「そ、そう」

「先生、顔赤いよ?」

「え、そう? 暑いからかな」

 美咲は慌てて顔をあおいだ。

 悠斗は不思議そうな顔をしていたけれど、すぐに他のことに興味が移ったらしく、走っていってしまった。

 美咲は一人、教室の真ん中で立ち尽くしていた。

 素敵なお客さん。その言葉が、頭の中でぐるぐる回っている。

 翌週、学校で授業参観があった。

 保護者が教室に来て、子どもたちの様子を見る日。美咲は朝から緊張していた。保護者対応は何度やっても慣れない。

 チャイムが鳴り、保護者たちが教室に入ってくる。

 美咲は笑顔で挨拶をしながら、一人一人の顔を見ていた。

 ——その中に、見覚えのある顔があった。

「あ」

 声が出てしまった。

 健太郎が立っていた。

 スーツではなく、シンプルなシャツとスラックス。でも間違いなく、えんどうまめの店主だ。

 美咲と目が合うと、健太郎は小さく会釈した。

 悠斗が健太郎に駆け寄る。

「おじさん! 来てくれたの?」

「お母さんが仕事で来られなかったから、代わりにね」

 美咲は動揺を必死に抑えながら、授業を始めた。

 いつも通りに。いつも通りに。

 でも、健太郎の視線を感じると、なぜか緊張してしまう。声が上擦りそうになる。

 子どもたちは元気に発言し、笑い、時々ふざけ合っている。いつもの風景。でも今日は、それを見ている人がいる。

 ——健太郎が、見ている。

 授業が終わった後、保護者と個別に挨拶をする時間があった。

 健太郎が美咲のところに来た。

「今日は来ていただいて、ありがとうございます」

 美咲は努めて普通の声で言った。

「いえ、こちらこそ。いつも悠斗がお世話になってます」

 健太郎は丁寧に頭を下げた。

「悠斗、先生のこと大好きなんですよ。毎日、先生の話ばっかりしてます」

「え、そうなんですか」

「『先生がね、今日こんなこと言ってた』『先生がね、給食全部食べたら褒めてくれた』って」

 美咲は嬉しくなった。悠斗は確かに懐いてくれているけど、家でもそんなに話してくれているとは思わなかった。

「悠斗くんは本当にいい子で。素直で、優しくて。私も毎日元気をもらってます」

 健太郎は柔らかく微笑んだ。

「——授業、素敵でした」

「え?」

「子どもたちが楽しそうで。佐倉先生の声を聞くと、みんな嬉しそうな顔になる」

 美咲は言葉に詰まった。

 智也には一度も、仕事のことを褒められたことがなかった。「先生って大変そう」「給料安いのによくやるね」。そんなことしか言われなかった。

「あ、ありがとうございます……」

 声が震えそうになった。

 健太郎は少し照れたように、視線をそらした。

「すみません、急に。でも、本当にそう思ったので」

「いえ、嬉しいです。すごく」

 二人の間に、少しの沈黙が流れた。

 周りには他の保護者もいる。あまり長く話してはいられない。

「じゃあ、また——」

「はい。また、お店に」

 美咲は小さく微笑んだ。

 健太郎も微笑み返して、悠斗と一緒に教室を出ていった。

 美咲はその背中を見送りながら、胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。

 それからも、美咲はえんどうまめに通い続けた。

 季節は夏に変わり、子どもたちは夏休みに入った。美咲も少しだけ時間に余裕ができて、前より長く店にいられるようになった。

 健太郎との会話も増えた。お互いの趣味の話、好きな本の話、子どもの頃の話。

 美咲は、健太郎といる時間がどんどん好きになっていった。

 これが、恋なのかもしれない。

 そう気づいたのは、ある晴れた日の午後だった。

「中村さんって、彼女いるんですか」

 コーヒーを飲みながら、何気なく聞いた。聞いてから、心臓が跳ねた。なんでそんなこと聞いたんだろう。

 健太郎は少し驚いた顔をして、それから首を振った。

「いないですよ。もう何年も」

「そうなんですか」

「店が恋人みたいなもんで」

 冗談めかして言う健太郎に、美咲はほっとしたような、でもどこか複雑な気持ちになった。

「佐倉さんは?」

「私も、いません」

「そうですか」

 健太郎は何も聞かなかった。前に誰かいたのかとか、なぜ別れたのかとか。その距離感が、ありがたかった。

「……少し前まで、いたんですけど」

 気づいたら、美咲は話していた。

「三年くらい付き合って。でも、大事にされてなくて」

「……」

「それで、雨の日に、ここに来たんです。あの日、別れようって決めて。帰り道に電話して、終わりにしました」

 健太郎は静かに聞いていた。

「自分で決められて、よかったですね」

「え?」

「自分の意思で、終わりにしたんでしょう。それは、すごいことだと思います」

 美咲は目を瞬いた。

 すごいこと。そんな風に思ったことはなかった。ただ、限界だっただけだ。

「私、全然すごくないですよ。もっと早く気づくべきだったし」

「でも、気づいたじゃないですか。それで、行動した」

 健太郎はまっすぐに美咲を見た。

「自分を大事にしようって決めたんだと思います。それって、簡単なことじゃない」

 美咲は、何も言えなかった。

 喉の奥が熱くなる。泣きそうだった。

 智也には一度も、そんな風に言ってもらえなかった。美咲の決断を、肯定してもらえたことがなかった。

「……ありがとう、ございます」

 声が掠れた。

 健太郎は何も言わず、ただ静かにそこにいてくれた。

 夏休みが終わり、二学期が始まった。

 久しぶりに会う子どもたちは、一回り大きくなったような気がした。日焼けした顔、元気な声。美咲も自然と笑顔になる。

「先生、夏休みどうだった?」

 悠斗が聞いてきた。

「楽しかったよ。悠斗くんは?」

「俺もー! おじさんの店でアイス食べたの!」

「そうなんだ、よかったね」

「先生も来てたよね。おじさんが言ってた」

 美咲はどきりとした。

「う、うん。何回かね」

「おじさん、先生が来ると嬉しそうなんだよ」

 悠斗は無邪気に笑っている。

 美咲の心臓がドキドキし始めた。

「そ、そうなの?」

「うん。なんかニコニコしてる」

 ——嬉しそう。

 その言葉が、胸の奥に染み込んでいく。

「先生も最近ニコニコしてるよね」

「え?」

「前よりなんか楽しそう」

 悠斗は言うだけ言って、友達のところに走っていった。

 美咲は教室の真ん中で、立ち尽くしていた。

 最近、楽しそう。

 確かに、そうかもしれない。えんどうまめに通うようになってから、毎日が少し明るくなった気がする。帰り道が楽しみになった。誰かに会いたいと思えるようになった。

 それは、健太郎のおかげだ。

 美咲は、自分の気持ちをはっきりと自覚した。

 好きだ。健太郎のことが、好きだ。

 その夜、美咲はえんどうまめに向かった。

 いつもより早い時間。まだ他のお客さんがいる。

 カウンターに座って、コーヒーを頼んだ。健太郎はいつも通り、穏やかに「いらっしゃいませ」と言った。

 他のお客さんが帰るのを待った。一人、また一人と店を出ていく。

 気づけば、美咲だけになっていた。

「今日は早かったですね」

 健太郎がカウンター越しに話しかけてきた。

「うん。ちょっと、話したいことがあって」

 美咲は心臓がバクバクしているのを感じた。

 こんなに緊張するのは久しぶりだ。手が震えそう。

「話したいこと?」

 健太郎は不思議そうな顔をしている。

「あの——」

 美咲は深呼吸をした。

 言おう。ここで言わなかったら、きっと一生言えない。

「私、中村さんのことが好きです」

 言った。

 言ってしまった。

 健太郎が目を見開いた。

「……え?」

「雨の日に、ここに来て。コーヒー飲んで、スコーン食べて、『大変でしたね』って言ってもらって。それから何度も来て、話を聞いてもらって」

 美咲は言葉を続けた。止まらなかった。

「中村さんといると、安心するんです。自然でいられる。我慢しなくていい。そういう人、初めてで」

 健太郎はじっと美咲を見ていた。

「最初は自分でもわからなかった。でも、悠斗くんに『先生、最近楽しそう』って言われて、気づいたんです。私、中村さんに会いたくてここに来てたんだって」

 美咲は一気に言い切って、息を吐いた。

 あとは、返事を待つだけ。

 長い沈黙があった。

 心臓がうるさい。ダメだったかな。迷惑だったかな。お客さんに告白されても困るよな——

「——俺も」

 健太郎が口を開いた。

「え?」

「俺も、佐倉さんのことが好きです」

 美咲は耳を疑った。

「……本当に?」

「本当に。雨の日に来てくれた時から、ずっと気になってた」

 健太郎の耳が赤くなっていた。

「なんか、放っておけなくて。辛そうで、でも強くて。話を聞いてると、もっと知りたいと思った」

「……」

「授業参観の日、教室で子どもたちと話してる姿見て、ああ、好きだなって思った。でも、お客さんだし、悠斗の担任だし、言えなくて」

 美咲は泣きそうになった。

 嬉しくて、安心して、色んな感情が一気に溢れてくる。

「私も、ずっと言えなかった」

「……言ってくれて、ありがとうございます」

 健太郎が微笑んだ。

 あの、穏やかで優しい笑顔。でも今は、少しだけ違って見える。照れくさそうで、嬉しそうで。

「これから、どうしましょうか」

 美咲が聞くと、健太郎は少し考えて言った。

「とりあえず、今日は閉店にして——」

「え?」

「一緒に、ご飯でも食べに行きませんか」

 美咲は笑った。

「行きます」

 窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。

 六月の終わりに出会って、夏が過ぎて、秋の始まり。

 雨の音を聞きながら、美咲は思った。

 あの日、雨宿りしてよかった。

 この店に、入ってよかった。

「じゃあ、行きましょうか」

 健太郎がエプロンを外す。

 美咲は頷いて、立ち上がった。

 外に出ると、雨はまだ降っている。でも、不思議と嫌じゃなかった。

 健太郎が傘を差し出した。

「相合傘、でいいですか」

「……はい」

「これからは僕の横で雨宿りしてください」

 二人で一つの傘の下、歩き出す。

 肩がぶつかりそうな距離。少しだけ触れた指先。

 美咲の心臓は、まだドキドキしていた。

 でも、それは不安のドキドキじゃない。

 幸せの、ドキドキだった。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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