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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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21/30

【育てた手】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

プロローグ

 あざに気づいたのは、入園して三週間目の水曜日だった。

 りおちゃんが昼寝から目を覚まし、トイレに行くと言って立ち上がったとき、めくれ上がった袖口から、青黒い痕が覗いた。

「りおちゃん、ちょっと腕見せて」

 私が声をかけると、彼女はびくりと身を強ばらせた。三歳児特有の反応ではない。もっと深いところから来る、怯えだった。

「大丈夫よ。先生、怒ってないから」

 ゆっくりと近づき、しゃがんで目線を合わせる。りおちゃんは俯いたまま、小さく頷いた。

 袖をまくると、予想通り、二の腕に五つの指の痕があった。大人の手だ。しかも新しい。昨日か、一昨日のものだろう。

 保育士を二十八年やってきて、こういう痕を見るのは初めてではない。だが、いつだって心臓が冷たくなる。

 私は努めて平静を装い、りおちゃんの頭を優しく撫でた。

「トイレ行こうね」

 手を引いて廊下を歩きながら、頭の中では既に手順を確認していた。園長への報告。写真の記録。児童相談所への連絡。保護者との面談。

 りおちゃんは先月、この園に転入してきた。

 入園手続きは祖母が代行し、送り迎えも祖母が担当していた。母親の顔は、まだ見たことがなかった。

 だが、連絡帳に書かれた母親の名前を見たとき、私の手が止まっていた。

 桜井麻衣

 旧姓は山田。二十年前、私が担任をした子だ。

 明るくて、人懐っこくて、いつも「先生、先生」と私の後を追いかけてきた、あの子。

 まさか、と思った。

 同姓同名かもしれない。

 でも、祖母の名前も一致していた。山田トシ子。あの頃、麻衣ちゃんを迎えに来ていた、あの人だ。

 育てたはずの手が、今、その娘を傷つけているのだろうか。


第一章「卒園」

 山田麻衣ちゃんが卒園したのは、私が三十二歳のときだった。

 まだ若かった。希望に満ちていた。不妊治療を始めて三年目で、まだ諦めていなかった。

「先生、小学校でも頑張るね!」

 卒園式の日、麻衣ちゃんは満面の笑みでそう言った。小さな手で、ぎゅっと私の手を握った。

「うん。頑張ってね。先生、ずっと応援してるから」

 私はそう答えながら、心の中で思っていた。いつか、私にも自分の子供ができたら、この子みたいに明るい子に育てよう、と。

 麻衣ちゃんの家庭は、決して恵まれているとは言えなかった。父親はほとんど家におらず、母親は夜の仕事をしていた。お迎えはいつも祖母のトシ子さんで、たまに来る母親は疲れ切った顔をしていた。

 それでも麻衣ちゃんは明るかった。いや、明るく振る舞っていた、と言うべきかもしれない。

 年長クラスになってから、ときどき表情が曇ることがあった。お絵描きの時間、家族の絵を描かせると、彼女だけが真っ白な紙を出した。

「描きたくない」

 そう言って、初めて泣いた。

 私は麻衣ちゃんを抱きしめた。小さな背中をさすりながら、心の中で誓った。この子を守ろう。少なくとも、この園にいる間は。

 でも、卒園したらそれで終わりだ。

 私たち保育士は、子供たちの人生のほんの一部にしか関われない。

 種を蒔くことはできても、育て続けることはできない。

 それが、私たちの限界だった。


第二章「診断」

「お子さんを持つのは、難しいと思います」

 医師の言葉は、驚くほど淡々としていた。まるで天気予報を読み上げるように。

 私は診察室の椅子に座ったまま、何も言えなかった。隣にいた夫の手が、私の手を握った。冷たかった。

 二十八歳。結婚三年目。そろそろ、と思って病院に行った結果がこれだった。

 卵管の癒着。子宮内膜症。体外受精でも可能性は低い。

「治療を続けますか?」

 医師が尋ねた。

 夫が答える前に、私は頷いた。

「続けます」

 それから七年間、私たちは治療を続けた。

 ホルモン注射。採卵。移植。陰性判定。

 繰り返すたびに、夫の顔が疲れていった。私も疲れていた。でも、諦められなかった。

 保育園で子供たちと過ごす時間が、唯一の救いだった。

 抱きしめる小さな体。無邪気な笑顔。「先生、大好き」という言葉。

 それが私を支えていた。

 でも同時に、それが毒にもなっていた。

 お迎えに来る母親たちを見るたびに、胸が痛んだ。彼女たちは当たり前のように「ママ」と呼ばれていた。

 私は「先生」だった。ずっと、「先生」のままだった。

 三十五歳の誕生日の夜、夫が言った。

「もう、やめよう」

 私は何も答えられなかった。

 翌月、最後の体外受精が失敗に終わった。

 その三ヶ月後、夫が家を出た。

「悪いのは俺だ。お前のせいじゃない」

 そう言い残して。

 でも、悪いのは私だった。

 私の体が、子供を作れなかった。

 私の執着が、夫を追い詰めた。

 全部、私のせいだった。


第三章「通報」

「園長、少しお時間よろしいですか」

 私は写真をプリントアウトして、園長室のドアを叩いた。

 りおちゃんの腕の痣。そして、入園以来三週間の記録。体重の減少。表情の乏しさ。言葉の遅れ。

 園長は眉をひそめた。

「桜井さんのお子さんですね」

「はい」

「お母さんには会ったことは?」

「まだです。いつもおばあちゃんが送迎を」

「そうですか……」

 園長は深いため息をついた。

「実は、入園手続きのとき、少し気になることがありました」

「と言いますと」

「そのお祖母様ね、娘さん——つまりりおちゃんのお母さんのことを、あまり良く言わなかったんです。『手に負えない』『私が面倒を見るしかない』と」

 私は黙って聞いた。

「それで、桜井麻衣さん、昔うちの園の子だったんですよね」

「私が担任でした」

 園長は私の顔を見た。

「辛いでしょうが、児相に連絡するしかありません」

「はい」

 園長室を出て、事務室の電話の前に座った。

 受話器を取る手が震えていた。

 通報すれば、麻衣ちゃんは「虐待親」として記録される。

 もしかしたら、りおちゃんは一時保護される。

 麻衣ちゃんは私を恨むかもしれない。

 でも、それでもやらなければならない。

 私は保育士だ。子供を守るのが仕事だ。

 たとえその子の母親が、かつて私が抱きしめた子だとしても。

 電話をかけた。淡々と状況を説明した。担当者は「すぐに動きます」と言った。

 受話器を置いた後、私は一人、事務室の椅子に座り込んだ。

 窓の外では、子供たちが遊んでいた。笑い声が聞こえた。

 私は何も救えていない。

 麻衣ちゃんを救えなかった。

 だから今、りおちゃんが傷ついている。

 私が育てたのは、何だったのだろう。


第四章「離婚」

 離婚届にサインをしたのは、十二月の寒い日だった。

 夫は新しいアパートの住所を書き込み、私に書類を差し出した。

「本当に、すまない」

「謝らないで」

 私はそう言って、自分の名前を書いた。旧姓に戻ることも考えたが、結局そのままにした。もう、どちらでもよかった。

「そのうち再婚するの?」

 判を押しながら、私は尋ねた。夫は少し黙ってから、答えた。

「わからない。でも、いつかは」

「子供、欲しい?」

「……ああ」

 正直でいてくれて、ありがとう。

 そう言おうとしたが、声にならなかった。

 役所で書類を提出した後、私たちは駅前で別れた。

「元気でな」

「うん」

 夫の背中が雑踏に消えていくのを見送りながら、私は思った。

 彼はいつか、誰かの父親になる。

 そして私は、ずっと「先生」のままだ。

 家に帰ると、がらんとした部屋が待っていた。

 夫の荷物はすべて運び出されていた。本棚も、ソファも、テレビも。私たちの生活の痕跡が、きれいに消えていた。

 私は床に座り込んだ。

 泣こうと思ったが、涙は出なかった。

 翌日から、私はいつも通り保育園に出勤した。

 子供たちは変わらず私を「先生」と呼び、抱きついてきた。

 私は笑顔で応えた。仕事をしている間だけは、自分が何者なのかわからなくならずに済んだ。

 でも、家に帰ると、また一人だった。

 誰も「おかえり」と言わない部屋で、冷凍食品を温めて食べた。

 テレビをつけても、何も頭に入ってこなかった。

 ある日、元同僚から電話がかかってきた。

「離婚したんだって?大丈夫?」

「うん、大丈夫」

「また飲みに行こうよ。話聞くから」

 私は断った。

 話したって、何も変わらない。

 同情されるのも、慰められるのも、嫌だった。

 私はただ、黙々と働いた。

 子供たちを抱きしめた。絵本を読んだ。一緒に遊んだ。

 それが私の人生の全てになった。

 そして今、五十二歳。

 二十年近く、この生活を続けてきた。


第五章「再会」

 児童相談所の職員と一緒に、桜井家を訪問することになった。

 夕方六時。りおちゃんを保育園に残し、私たちは古いアパートの前に立った。

 二階の角部屋。郵便受けには新聞が溜まっていた。

 インターホンを押すと、しばらくして、ドアが開いた。

「……先生?」

 麻衣ちゃん——いや、桜井麻衣さんが、そこに立っていた。

 面影はあった。でも、別人だった。

 げっそりと痩せて、目の下にはクマができていた。髪は乱れ、服はしわだらけだった。

 彼女は私を見て、驚いたように目を見開いた。

「久しぶり、麻衣ちゃん」

 私がそう言うと、彼女の顔が歪んだ。

「なんで、先生が……」

 児童相談所の職員が名刺を差し出し、説明を始めた。りおちゃんの体に不審な痣があること。話を聞きたいこと。

 麻衣さんは黙って聞いていたが、やがて観念したように頷いた。

「……入って」

 部屋は荒れていた。

 洗濯物が山積みになり、食器がシンクに溜まっていた。床には子供のおもちゃと、ビールの空き缶が散らばっていた。

「旦那さんは?」

 職員が尋ねた。

「いません。半年前に出て行きました」

 麻衣さんはそう答えて、私の方を見た。

「先生、覚えてますか。私のこと」

「もちろん」

「私、先生が大好きでした」

 彼女は笑った。悲しい笑いだった。

「でも、先生は私を救えなかった」

 その言葉が、胸に刺さった。

「卒園してから、全部めちゃくちゃでした。母は男に走って、私は祖母に預けられて。中学で荒れて、高校中退して。デキ婚して。離婚して」

 麻衣さんは淡々と語った。

「りおが生まれたとき、思ったんです。今度こそ、ちゃんとしようって。でも、できなかった」

 彼女は両手で顔を覆った。

「叩いちゃうんです。泣き止まないと、イライラして。気づいたら、手が出てる」

 職員が冷静に尋ねた。

「お一人で育児をされているんですか」

「いえ、母……祖母が手伝ってくれてます。でも、祖母も高齢で。私が仕事から帰ると、もう限界で」

「お仕事は?」

「夜、スーパーで品出しを。昼間は寝てるか、ぼーっとしてるか」

 私は黙って聞いていた。

 何か言わなければと思ったが、言葉が出てこなかった。

「先生」

 麻衣さんが私を見た。

「先生には、子供いますか」

 予想していなかった質問だった。

 私は少し間を置いてから、答えた。

「いません」

「じゃあ、わからないですよね。この苦しさ」

 その言葉は、責めるようでもあり、助けを求めるようでもあった。

「わからない」

 私は正直に答えた。

「私には、母親の苦しさはわからない。でも」

 私は麻衣さんの目を見た。

「あなたが苦しんでいることは、わかります」

 麻衣さんは俯いた。

「先生、私、もうどうしたらいいか」

「一人で抱え込まないで。助けを求めて」

 職員が具体的な支援の説明を始めた。一時保護。カウンセリング。母子支援施設。

 麻衣さんは何度も頷いた。

 帰り際、私は麻衣さんに言った。

「りおちゃんを、守りましょう」

「……はい」

 彼女は小さく答えた。

 アパートを出て、夜道を歩きながら、職員が言った。

「よくあるケースです。被虐待児が親になって、また虐待する」

「……そうですね」

「でも、気づいて、助けを求めれば、止められる」

 私は頷いた。

 でも、心の中では思っていた。

 本当に止められるのだろうか。

 私は麻衣ちゃんを救えなかった。

 今度こそ、りおちゃんを救えるのだろうか。


エピローグ

 りおちゃんは一時保護された。

 麻衣さんはカウンセリングを受け、母子支援施設に入ることになった。

 数ヶ月後、親子で一緒に暮らせるようになるかもしれない、と職員は言った。

 でも、保証はない。

 連鎖は簡単には断ち切れない。

 麻衣さんが変われるかどうかも、わからない。

 それでも、何もしないよりはましだ。

 金曜日の夜、私は一人、自分の部屋で夕食を食べていた。

 コンビニで買った弁当。一人分。

 テレビをつけたが、すぐに消した。

 窓の外を見ると、向かいのアパートの窓が明るく光っていた。

 家族の影が見えた。母親と、父親と、子供。

 笑い声が聞こえた気がした。

 私には、あれがない。

 ずっと、なかった。

 でも、だからこそ、私は保育士を続けてこられたのかもしれない。

 夫がいて、子供がいたら、仕事にここまで打ち込めただろうか。

 麻衣ちゃんやりおちゃんのことを、こんなに真剣に考えただろうか。

 わからない。

 答えのない問いだ。

 私は弁当の容器を片付け、明日の準備を始めた。

 連絡帳に返事を書く。教材を用意する。

 月曜日には、また子供たちが来る。

 彼らを抱きしめる。

 絵本を読む。

 一緒に笑う。

 それが私の人生だ。

 子供を産むことはできなかった。

 でも、育てることはできる。

 完璧には育てられない。

 卒園したら、手を離さなければならない。

 その後のことは、もう私にはどうにもできない。

 それでも、私は種を蒔く。

 小さな優しさの種を。

 いつか芽吹くかもしれない、希望の種を。

 それが、私にできることの全てだ。

 窓を開けると、冷たい夜風が入ってきた。

 遠くで、電車の音がした。

 私は目を閉じた。

 明日も、保育園に行く。

 子供たちが、待っている。

 それだけで、十分だった。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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