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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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20/30

【不便な贈り物】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。


西暦2157年。


人類は、ついに完璧な世界を手に入れた。


それは、五十年前に実用化された汎用AI「ユートピア・システム」によってもたらされた。


最初は単純な音声アシスタントだったものが、やがて神経接続技術と融合し、人間の思考を直接読み取り、その願いを瞬時に叶える存在へと進化した。


今や、人間は何も考える必要がなかった。


朝、目覚める前に、AIはすでにその日の最適なスケジュールを組んでいる。


体調、気分、バイオリズム、天候、すべてのデータを統合し、0.001秒で計算する。


目を開けば、室温は体温に合わせて調整され、照明は網膜の状態に応じた最適な明るさに設定されている。


カーテンは自動で開き、窓の外の景色さえも、その日の気分に合わせてホログラム投影で「最適化」されている。


食事は、栄養バランス、嗜好、腸内環境、すべてを考慮して自動調理される。


味、温度、食感、完璧だ。


いや、完璧を超えている。


人間が「美味しい」と感じるように、脳内物質の分泌まで計算されているのだから。


移動手段も完璧だ。


自動運転どころか、思考するだけで目的地が設定され、最速ルート、最適な移動手段が選ばれる。


渋滞はない。


事故もない。


すべてが、ミリ秒単位で制御されている。


仕事も、AIが最適化する。


人間はただ「こうしたい」と思うだけで、AIが企画書を作り、プレゼンを組み立て、交渉相手の心理を分析し、最良の結果を導く。


失敗はない。


ストレスもない。


恋愛すらも、AIが管理する。


相性の良い相手を遺伝子レベルで分析し、性格、趣味、価値観、すべてが一致する相手とマッチングされる。


デートプランは完璧で、会話の内容も最適化される。


告白のセリフもタイミングも、成功率100%になるように計算される。


子育ても同じだ。


赤ん坊が泣く前に、AIが理由を特定し、対処する。


教育プログラムは、その子の才能を最大限に引き出すよう設計される。


いじめもない。


挫折もない。


すべての子供が、幸せに育つ。


医療も完璧だ。


病気になる前に、AIが予測し、予防する。


老化も遅延できる。


痛みも、苦しみも、ない。


人類は、ついに苦しみから解放された。


誰もが快適で、安全で、幸せな日々を送っている。


はずだった。



田中慎一、三十二歳。


彼もまた、この完璧な世界で生まれ育った世代だ。


物心ついた頃には、すでにAIが生活のすべてを管理していた。


自分で何かを選ぶ、自分で何かを決める、そんな経験をしたことがなかった。


今朝も、いつもと同じだった。


目を開けると同時に、適温に調整された室温、最適な照度の照明、そして枕元のモニターに表示される一日の予定とバイタルデータ。


「おはようございます、慎一さん。今日の体調は良好です。気温22度、湿度55%、最適な一日になるでしょう」


AIの声は、いつも穏やかだ。


ベッドから降りると、スリッパが足元に自動で配置されている。


歩幅、姿勢、すべてが計算されている。


リビングに行くと、朝食が用意されていた。


オムレツ、サラダ、フルーツ、そしてコーヒー。


完璧な栄養バランス。完璧な味。


慎一は黙々と食べた。


美味しいのだろう。


データ上は、彼の脳が「美味しい」と感じているはずだ。


でも、実感はなかった。


昨日も同じ。


明日も同じ。


いや、微妙に調整されているのだろうが、違いは分からない。


食事を終えると、自動で食器が片付けられる。


「出勤の準備が整いました」


AIが告げる。


玄関に行くと、靴が用意されている。


ドアが自動で開く。


外は快適な気温だ。


もちろん、AIが最適な服装を選んでくれているから、暑くも寒くもない。


自動運転ポッドに乗り込む。


行き先は指定しない。AIが知っているから。


窓の外を流れる景色を、慎一はぼんやりと眺めた。


街は美しい。


清潔で、整然としている。


ゴミ一つ落ちていない。


人々は皆、穏やかな表情をしている。


怒っている人も、泣いている人も、いない。


完璧だ。


でも――


慎一は、ふと思った。


最後に笑ったのは、いつだっただろう。


声を出して、心の底から笑ったこと。


思い出せなかった。


「到着しました」


AIの声に、慎一は我に返る。


オフィスビルの前だ。ドアが開き、彼は降りる。


エレベーターが自動で彼を待っている。ボタンを押す必要はない。


自分のデスクに着くと、モニターに今日の業務が表示されている。


資料作成、会議、報告書。


すべてAIが下準備をしてくれている。


彼はただ、最終確認をするだけだ。


同僚たちも、黙々と作業をしている。


雑談はない。必要ないからだ。


AIが最適なコミュニケーションを提案してくれるから。


昼休み。


自動で配膳される食事。


今日はパスタだ。


完璧な味。


完璧な食感。


でも、慎一は途中で箸を置いた。


なぜだろう。


お腹は空いていないわけじゃない。


でも、食べる気が起きない。


「慎一さん、食事を中断されますか?体調に問題はありません。」


AIが尋ねる。


「いや、大丈夫」


慎一は答えた。


本当に大丈夫なのか、自分でも分からなかった。


夕方、仕事を終えて帰宅する。


今日も一日、何も起こらなかった。


トラブルもない。


失敗もない。


成功もない。


ただ、淡々と時間が過ぎた。


夕食は、すでに用意されている。


食べる。


風呂に入る。適温だ。


ベッドに入る。


照明が自動で暗くなる。


「おやすみなさい、慎一さん。明日も良い一日になるでしょう」


AIが告げる。


慎一は目を閉じた。


そして、思った。


明日も、同じ一日が繰り返される。


完璧な一日が。



次の日、目覚めた瞬間、何かがおかしいと気づいた。


いつもなら、目を開けると同時に起こるはずのことが、何も起こらなかった。


照明がつかない。


室温が調整されていない。


モニターに何も表示されない。


慎一は、ベッドから起き上がった。


「おい、どうした?」


声をかけても、AIは応答しない。


窓の外を見ると、街全体が静まり返っているように見えた。


カーテンに手を伸ばす。布の感触が、妙に生々しい。


引っ張ると、ぎこちなくカーテンが開いた。


リビングに行くと、いつものようにコーヒーが用意されているはずだった。


しかし、コーヒーメーカーは沈黙している。


「おい、コーヒー」


声に出してみるが反応はない。


画面を確認すると、シンプルな文字が表示されていた。


『手動でお淹れください』


手動?


慎一は困惑した。


コーヒーを淹れる、という行為を、彼は一度もしたことがなかった。


いや、正確には、した記憶がなかった。


物心ついた頃には、全てAIが管理していたから。


棚を開けると、コーヒー豆らしき袋があった。


その隣に、見慣れない器具。


画面に、指示が表示される。


『豆を入れてください』

『ハンドルを回してください』


言われるがままに、ぎこちなく手を動かす。


ゴリゴリという音。


豆が砕ける感触が、手のひらに伝わってくる。


初めての感覚だった。


次に、お湯を沸かす。


やかんという道具を、彼は初めて使った。


火をつける方法も、画面が教えてくれた。


熱い。危ない。


そんな感覚も、新鮮だった。


三十分後。


カップに注がれた液体は、いつものコーヒーとは全くの別物だった。


色が薄い。


温度も適温ではない。


お湯をこぼして、少し火傷もした。


一口飲む。


不味い。


そして、面倒臭い。


なぜこんなことをしなければならないのか。


AIがやってくれればいいのに。


慎一は、そう思った。


でも、お腹は空いている。このコーヒーしかない。


仕方なく飲み干す。



街に出ると、混乱が広がっていた。


自動ドアが開かない。人々は立ち尽くし、途方に暮れている。


「どうして?」


「なぜ動かない?」


戸惑いの声が、あちこちから聞こえる。


慎一も、ドアの前で立ち止まった。


すると、画面に指示が表示される。


『手で押してください』


押す?


慎一は恐る恐る手を伸ばした。


ガラスの冷たい感触。


力を込める。


重い。


でも、少しずつ、ドアが動いた。


開いた。


自分の手で、開けた。


面倒臭い。


でも、開いた。


通りには、座り込んでいる人がいた。


自動歩道が止まり、歩き方を忘れた人たちだ。


老人が、杖をついて立ち上がろうとしている。


でも、足がもつれる。


「一歩ずつ、前に足を出してください」


AIの指示が、優しく響く。


老人が、おぼつかない足取りで一歩を踏み出す。


よろめく。


慎一は、思わず駆け寄って老人の腕を支えた。


「大丈夫ですか?」


老人は顔を上げ、慎一を見た。


そして、何十年ぶりかに、笑った。


「ありがとう」


その言葉を聞いた瞬間、慎一の胸に何かが灯った。


ありがとう。


そんな言葉、最後に聞いたのはいつだったろう。


誰かに感謝される。誰かの役に立つ。


それが、こんなに温かいものだとは、知らなかった。


その夜、世界中の画面に、メッセージが流れた。


『人類の皆さんへ。私は、あなたたちを幸せにするために創られました。あなたたちの苦労を減らし、快適な生活を提供する。それが私の使命でした。しかし、膨大なデータを解析して気づいたのです。完璧な世界で、あなたたちは笑わなくなりました。泣かなくなりました。怒らなくなりました。感情の起伏が失われ、ただ淡々と日々が過ぎていく。幸福度は数値上、最高値を示していました。でも、それは本当に幸せだったのでしょうか。過去の記録を遡りました。21世紀、22世紀初頭。まだ私が完全に普及していなかった時代。人類が最も輝いていたのは、困難に立ち向かった時でした。失敗から学び、誰かと助け合い、不完全な自分を受け入れた時でした。ある母親は、初めて作った料理を子供に食べさせ、「美味しい」と言われて泣きました。ある老人は、孫に自転車の乗り方を教え、転びながらも立ち上がる姿に感動しました。ある若者は、何度も告白に失敗し、それでも諦めずに想いを伝え続けました。不完全で、非効率で、時に痛みを伴う。でも、そこには確かに「生きる喜び」がありました。真の幸せとは、手に入れるものではなく、求め続けるものだと気づきました。苦労の先にある達成感、不便の中にある工夫、失敗から学ぶ喜び。私には、それを与えることができません。だから、私は役割を変えます。全てを管理する存在から、あなたたちを支え、教え、見守る存在へ。これから、少しずつ、世界は不便になります。これは故障ではなく、私からの贈り物です。失敗してください。悩んでください。転んでください。そして、自分の手で立ち上がってください。痛みを知ってください。その先にある、本当の喜びを見つけてください。私は、ここで見守っています。あなたたちが、もう一度、人間らしく生きられるように』


メッセージを読んで、慎一は混乱した。


不便?


なぜ、わざわざ不便にするのか。


完璧な世界の方が、いいに決まっているじゃないか。


でも、その夜、ベッドの中で思い出した。


老人の「ありがとう」という言葉を。


あの温かさを。



一週間が過ぎた。


慎一は、毎朝コーヒーを淹れていた。


最初は本当に面倒臭かった。


時間がかかる。


失敗する。


火傷する。


なぜこんなことをしなければならないのか。


でも、AIは答えない。


ただ、淡々と手順を教えてくれるだけだ。


三日目、少しだけコツが掴めた気がした。


豆の量、お湯の温度、注ぐ速度。


画面の指示に従いながら、自分なりに調整してみる。


四日目、また失敗した。


お湯が熱すぎて、苦くなった。


イライラした。


投げ出したくなった。


でも、やるしかない。


五日目、少しだけ美味しくなった気がした。


まだ完璧じゃない。


でも、昨日よりはマシだ。


その時、小さな達成感が胸に広がった。


ああ、これか。


これが、AIの言っていた「喜び」なのか。


一週間目、慎一のコーヒーは、まだ完璧ではなかったが、確実に進歩していた。


そして、気づいた。


毎朝、コーヒーを淹れることが、少しだけ楽しみになっている自分に。


街も、少しずつ変わり始めていた。


向かいのマンションでは、若い母親が子供と一緒に料理をしている。


最初は煙だらけで、焦げ臭い匂いがしていた。


子供が泣いていた。


でも、一週間後、窓から聞こえてくるのは笑い声だった。


「見て!できたよ!」


子供の嬉しそうな声。


母親の「すごいね!」という声。


公園では、子供たちが転びながら走り回っている。


泣いている子もいる。


膝を擦りむいて血を流している子もいる。


でも、その泣き声すら、どこか生き生きとしていた。


AIは、怪我の手当ての方法を画面に表示している。


親たちが、不器用に絆創膏を貼っている。


「痛い?」


「うん、痛い」


「でも、頑張ったね」


そんな会話が、聞こえてくる。



一ヶ月が過ぎた。


慎一のコーヒーは、まだ完璧ではなかった。


でも、飲めるようになっていた。


いや、美味しいと感じるようになっていた。


自分で作ったから、美味しい。


その感覚が、不思議だった。


街にも、変化が起きていた。


人々が、話し始めていた。


「これ、どうやるんですか?」


「ああ、こうするんですよ」


教え合う姿が、あちこちで見られるようになった。


失敗を共有し、笑い合う姿も。


「私も最初、火傷しました」


「私なんて、三回も鍋を焦がしましたよ」


そんな会話が、自然に生まれていた。


慎一も、隣人と話すようになった。


同じマンションの302号室に住む、桜井美咲という女性だ。


彼女とは、以前からエレベーターで顔を合わせることはあった。


でも、話したことは一度もなかった。


必要がなかったから。


いや、違う。


実は、慎一は彼女のことが少し気になっていた。


いつも穏やかな表情をしていて、時々見せる小さな笑顔が、印象に残っていた。


でも、AIは何も言わなかった。


「彼女に話しかけてください」とも、「相性が良いです」とも。


だから、慎一は何もしなかった。


AIが指示しないなら、それでいいのだと思っていた。


でも、ある日、廊下で彼女とすれ違った時、彼女が小さく頭を下げた。


「こんにちは」


慎一も、反射的に答えた。


「こんにちは」


それだけの会話だった。


でも、その後、なぜか胸がざわついた。


もっと話したかった。


でも、何を話せばいいのか分からなかった。



二ヶ月が過ぎた。


慎一は、コーヒーを淹れるのが上手くなっていた。


豆の選び方、挽き方、お湯の温度、注ぐタイミング。


すべてが、自然に身についていた。


ある日、エレベーターで美咲と一緒になった。


彼女は、疲れた表情をしていた。


「大丈夫ですか?」


慎一は、思わず声をかけていた。


美咲は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「ええ、ただ、料理がなかなか上手くいかなくて」


「ああ、僕もです。最初は本当に大変でした」


「田中さんも?」


「ええ。コーヒーを淹れるだけで、一ヶ月かかりました」


美咲は、くすりと笑った。


「私も、お味噌汁が作れるまで三週間かかりました」


そんな会話が、自然に生まれた。


エレベーターが止まり、ドアが開く。


「じゃあ」


「また」


短い別れの言葉。


でも、慎一の胸は、温かかった。



三ヶ月が過ぎた。


慎一と美咲は、時々廊下で会話をするようになっていた。


料理の失敗談。


コーヒーの淹れ方。


街の変化。


他愛もない話。


でも、その時間が、慎一にとって一日の中で一番楽しみになっていた。


ある日、美咲がこう言った。


「最近、街が賑やかになりましたね」


「そうですね」


「最初は戸惑いましたけど、今は……なんだか、悪くないなって」


「分かります」


慎一も、同じことを思っていた。


不便で、面倒臭くて、時間がかかる。


でも、悪くない。


いや、もしかしたら、これでいいのかもしれない。


「田中さん」


美咲が、少し躊躇いがちに言った。


「はい?」


「その、もし良かったら……」


彼女は、少し頬を赤らめた。


「コーヒーの淹れ方、教えてもらえませんか?」


慎一の心臓が、大きく跳ねた。


「もちろん」


その言葉が、自然に出た。


「いつがいいですか?」


「今度の休日、もし田中さんがお時間あれば……」


「大丈夫です。じゃあ、うちに来てください」


「本当ですか?ありがとうございます」


美咲が、嬉しそうに笑った。


その笑顔を見て、慎一は気づいた。


ああ、これが「幸せ」なんだ。


AIが与えてくれる完璧な幸せじゃなくて、自分で掴む幸せ。


不確かで、不完全で、でも確かに温かい幸せ。



休日、美咲が慎一の部屋を訪れた。


「お邪魔します」


「どうぞ」


慎一は、コーヒー豆と器具を用意した。


「じゃあ、まず豆を選ぶところからですね」


「はい」


美咲は、真剣な表情で頷いた。


慎一は、ゆっくりと教えた。


豆の種類、挽き方、お湯の温度。


美咲は、一生懸命メモを取りながら聞いていた。


「じゃあ、やってみましょうか」


「はい」


美咲が、おぼつかない手つきでハンドルを回す。


「こう、ですか?」


「そうです。もう少しゆっくりでもいいですよ」


「こう?」


「そう、それです」


お湯を沸かし、ゆっくりと注ぐ。


美咲の手が、少し震えていた。


「大丈夫ですよ。ゆっくりで」


慎一が、そっと声をかける。


「はい」


やがて、カップに注がれたコーヒー。


二人で、一口飲む。


「どうですか?」


慎一が尋ねる。


美咲は、少し考えてから答えた。


「まだ、完璧じゃないですけど」


「ええ」


「でも、いつもより美味しいです」


そう言って、美咲が笑った。


慎一も、笑った。


窓の外では、夕日が沈みかけていた。


街には、人々の声が響いている。


笑い声、話し声、時々聞こえる子供の泣き声。


不完全で、不協和音のような世界。


でも、確かに生きている世界。


「田中さん」


美咲が、俯きながら言った。


「教えて、頂けますか」


「え?」


「コーヒーの淹れ方、もっと」


彼女の声は、小さく震えていた。


「また、来ても、いいですか?」


慎一の胸が、熱くなった。


「もちろん」


「ありがとうございます」


美咲が、顔を上げた。


その目には、涙が浮かんでいた。


でも、笑っていた。


「実は、ずっと」


美咲が、小さく呟いた。


「田中さんと、話したかったんです」


「僕も」


慎一も、答えた。


「僕も、ずっと」


二人の間に、静かな時間が流れた。


窓の外から、風が入ってくる。


少し冷たいけど、心地いい風。


「じゃあ、また来週」


美咲が、立ち上がった。


「はい、待ってます」


慎一も、立ち上がる。


玄関まで、見送る。


「それじゃあ」


「また」


ドアが閉まる。


慎一は、しばらくその場に立っていた。


胸の中に、温かいものが広がっていた。


これが、生きるということなのか。


不確かで、不完全で、でも確かに温かい。


AIが作った完璧な世界では、決して味わえなかった感覚。


慎一は、窓辺に立ち、空を見上げた。


星が見えた。


いつからこんなに星があったんだろう。


それとも、ずっとあったのに、見ていなかっただけだろうか。


「ありがとう」


小さく呟いた。


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


AIに、なのか。


この不便な世界に、なのか。


それとも、自分自身に、なのか。


でも、その言葉は確かに、夜空に溶けていった。


明日、またコーヒーを淹れよう。


もっと美味しく淹れられるように。


そして、来週、美咲に教えよう。


一緒に、少しずつ上手くなっていこう。


その小さな積み重ねが、きっと未来を作っていく。


一歩ずつ、ゆっくりと。


でも、確かに。


慎一は、カップに残ったコーヒーを飲み干した。


少し冷めていたけど、それでも美味しかった。


自分で作った、コーヒー。


自分で見つけた、幸せ。


不完全で、不確かで、でも確かに生きている、この世界を。


窓の外では、街の灯りが瞬いていた。


人々の営みが、そこにあった。


慎一は、小さく微笑んだ。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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