【ペンギンちゃんの恋】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
二月の寮には、誰もいなかった。
卒業式まで、あと一ヶ月。ほとんどの生徒が実家に帰り、廊下には冬の冷たい空気だけが漂っている。
山本翼は窓際に座って、グラウンドを眺めていた。誰もいないグラウンドは、いつもより広く見えた。
「まだいたのか」
隣の部屋から青木涼が顔を出した。
「お前こそ」
翼は振り返って笑った。涼も笑い返す。
二人とも、実家に帰るつもりはなかった。
「あと一ヶ月か」
涼が廊下に出てきて、翼の隣に座った。
「早いな」
「ああ」
三年間。本当に、あっという間だった。
入学式の日、この寮に初めて来た時のことを、翼は覚えている。重い荷物を抱えて階段を上った。隣の部屋に涼がいると知ったのは、その日の夜だった。
「進路、決まったんだっけ」
「ああ。お前は」
「俺も」
二人とも、推薦で大学が決まっていた。だから今、こうして寮に残っていられる。授業もない。やることもない。ただ、高校生活の最後を味わいたかった。
「懐かしいな」
涼が呟いた。
「何が」
「全部」
翼は笑った。
「まだ卒業してないのに」
「でも、もう終わりだろ」
階段を上る足音がした。
二人は顔を上げる。
現れたのは、葉山さくらだった。
「何してるの?」
さくらは驚いたように立ち止まった。
「家に帰らなかったの?」
「お前こそ」
涼が言い返す。
「私は、演劇部の片付けがまだ残ってて」
「そうなんだ」
翼が頷く。さくらは演劇部だった。三年間、ずっと。
「じゃあ、行くね」
さくらは足早に去っていった。
翼と涼は、黙ってその後ろ姿を見送った。
さくらの足音が消えてから、涼が口を開いた。
「なあ、翼」
「ん」
「俺さ」
涼は少し躊躇った。それから、ゆっくりと続けた。
「葉山のこと、好きだったんだ」
翼は、涼の顔を見た。
涼は真剣な表情で、グラウンドを見つめていた。
「……俺も」
翼は静かに答えた。
涼が振り返る。二人の視線が交わった。
「マジか」
「マジだ」
「いつから」
「一年の時から」
「俺もだ」
二人は顔を見合わせて、笑った。
三年間、ずっと同じ子を好きだったなんて。しかも、お互いに気づかなかったなんて。
「でも、告白しなかったんだな」
「ああ」
「俺も」
翼は頷いた。
「なんでだ」
「わかってたから」
翼は静かに答えた。
「葉山が、誰を想ってるか」
涼は黙った。
そうだ。二人とも、わかっていた。
一年生の秋。文化祭の日。
翼は今でも、あの日のことを覚えている。
体育館で演劇部の公演があった。翼は涼と一緒に観に行った。別に演劇に興味があったわけじゃない。ただ、クラスメイトが何人か出ていたから。
舞台は盛り上がっていた。客席は満員で、笑い声や拍手が響いていた。
その時だった。
バン、という音がした。
何かが落ちてくる音。
翼が顔を上げると、舞台の照明が傾いていた。固定していたはずの器具が外れて、ゆっくりと落ちてくる。
悲鳴が上がった。
舞台にいた生徒たちが逃げる。でも、一人だけ、動けない人がいた。
二年生の先輩だった。
照明は、その先輩の上に落ちた。
体育館が、静まり返った。
先輩は救急車で運ばれた。
でも、病院で息を引き取った。
翼たち一年生は、何が起きたのか理解できなかった。さっきまで舞台で演技をしていた人が、もうこの世にいない。
学校は三日間、休校になった。
文化祭は中止。演劇部も活動停止。
事故の原因は、照明器具の老朽化。学校側の管理責任が問われ、校長が謝罪会見を開いた。
でも、失われた命は戻ってこなかった。
亡くなったのは、演劇部の二年生。
翼は、その先輩のことをよく知らなかった。同じ学校にいたけど、学年が違ったから話したこともなかった。
でも、さくらは違った。
さくらは、入学前からその先輩のことを知っていた。
事故の後、演劇部は一時的に活動を停止した。
でも、三ヶ月後、再開された。
部員たちは言った。亡くなった先輩のためにも、演劇を続けたい、と。さくらもその一人だった。
翼は、さくらが演劇部に戻ったことを知っていた。
そして、さくらがあの先輩のことを、特別な想いで見ていたことも。
「葉山が、あの先輩のこと想ってたって、いつ知った」
涼が聞いた。
「一年の冬かな」
翼は答えた。
「文化祭の後、葉山がずっと元気なかったから。気になって、共通の友達に聞いた」
「そうか」
涼は頷いた。
「俺もそれくらいだ。部活の先輩から聞いた」
翼は涼の顔を見た。
「お前も、それで諦めたのか」
「……ああ」
涼は小さく頷いた。
「無理だろ。葉山の想いの先は、もうこの世にいない。俺が何を言ったって、届かない」
「そうだな」
翼も頷いた。
そうだ。さくらの心は、ずっとあの先輩に向いていた。
だから、翼は告白しなかった。
涼も、同じだった。
「でもさ」
涼がぽつりと言った。
「葉山、モテたよな」
「ああ」
翼は笑った。
「告白されてるの、何回も見た」
「俺も」
さくらは可愛かった。優しくて、明るくて、誰にでも親切だった。
男子からの人気は高かった。
でも、さくらは誰とも付き合わなかった。
「全部、断ってたな」
「ああ」
「お前はどうだったんだ」
涼が聞いた。
「何が」
「モテてただろ。告白されたこと、あるんじゃないか」
「まあ、何回か」
翼は苦笑した。
「でも、全部断った」
「俺も」
涼も笑った。
「バカみたいだよな。モテるのに、誰とも付き合わなくて」
「ああ」
翼は頷いた。
「でも、仕方ないだろ。好きな子がいたんだから」
「そうだな」
涼は空を見上げた。
「三年間、ずっと葉山のこと好きだった」
「俺も」
翼も空を見上げた。
冬の空は、どこまでも青かった。
次の日、翼は一人で寮の食堂にいた。
涼は朝から出かけていた。最後の買い物に行く、と言っていた。
翼はコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
食堂のドアが開いた。
振り返ると、さくらが立っていた。
「あ、山本くん」
「葉山」
翼は驚いて立ち上がった。
「おはよう」
「おはよう」
さくらは少し照れくさそうに笑った。
「まだ、寮にいたんだ」
「ああ。葉山は」
「私も。部室の片付け、まだ終わってなくて」
「そうなんだ」
翼は頷いた。
「コーヒー、飲む」
「うん、ありがとう」
さくらは翼の向かいに座った。翼はコーヒーを淹れて、さくらに渡した。
「ありがとう」
さくらは両手でカップを包んで、嬉しそうに微笑んだ。
翼は、その笑顔を見つめた。
可愛いな、と思った。
三年間、ずっとそう思っていた。
「なあ、葉山」
翼は口を開いた。
「ん」
「演劇部、楽しかった?」
さくらは少し驚いたように翼を見た。それから、ゆっくりと頷いた。
「うん。楽しかった」
「そっか」
翼は微笑んだ。
「よかった」
さくらは不思議そうな顔をした。
「どうして」
「いや、なんとなく」
翼は曖昧に答えた。
本当は、心配だったのだ。
あの先輩が亡くなった後も、さくらが演劇部を続けていることが。
辛くないのかな、と思っていた。
でも、さくらは楽しかったと言った。
それなら、よかった。
「山本くんは、生物部だったよね」
「ああ」
「楽しかった?」
「うん。めっちゃ楽しかった」
翼は笑った。
「そっか」
さくらも笑った。
「青木くんは、サッカー部」
「ああ。涼もめっちゃ楽しんでたよ」
「二人とも、モテたよね」
さくらがからかうように言った。
「え」
「だって、バレンタインの時、二人ともチョコすごかったもん」
「あ、ああ」
翼は苦笑した。
「でも、誰とも付き合わなかったよね」
さくらが不思議そうに首を傾げた。
「なんで」
翼は、答えに窮した。
どう答えればいいのだろう。
好きな子がいたから、とは言えない。
その好きな子が、目の前にいるのだから。
「なんとなく」
翼は曖昧に答えた。
「そっか」
さくらは納得したように頷いた。
「私も誰とも付き合わなかったから、同じかな」
「そうなんだ」
翼は静かに答えた。
さくらが誰とも付き合わなかった理由を、翼は知っていた。
でも、それを口にすることはできなかった。
「なあ、葉山」
翼は思い切って聞いた。
「演劇部、いつ入ったんだっけ」
「一年の四月」
さくらは即答した。
「入学してすぐ」
「そうなんだ。なんで演劇部に」
さくらは少し考えるように、カップを見つめた。
「中学の時に、この高校の文化祭を見に来たことがあって」
「うん」
「その時、演劇部の公演を観たの」
翼の胸が、きゅっと締め付けられた。
「そうなんだ」
「うん。すごく良くて。ある人の演技が、特に印象に残ってて」
さくらは少し照れくさそうに笑った。
「それで、私もその人と同じ舞台に立ちたいって思ったの」
翼は、何も言えなかった。
さくらが憧れていた人。
同じ舞台に立ちたいと思った人。
その人は、もうこの世にいない。
「でも」
さくらは静かに続けた。
「その人は、私が入学した年に亡くなっちゃった」
「うん」
翼は頷いた。
「あの事故のこと、覚えてる」
「そっか」
さくらは少し寂しそうに笑った。
「あの時、私、何もできなかった」
「……」
「ただ、呆然と見てるだけで」
さくらの声が、少し震えた。
「憧れてた人が、目の前で亡くなって。それでも、私は何もできなくて」
「葉山」
「でもね」
さくらは顔を上げた。
「演劇は続けたかったの。あの人がいた場所で、あの人が愛してた演劇を、私も続けたかった」
翼は、さくらの瞳を見つめた。
その瞳には、強い意志が宿っていた。
「だから、三年間、頑張った」
「うん」
「楽しかった」
さくらは微笑んだ。
「同じ舞台には立てなかったけど、あの人が愛した演劇を、私も愛することができた」
翼の胸が、熱くなった。
さくらは、強い子だった。
大切な人を失っても、前を向いて歩いてきた。
そんなさくらを、翼はずっと見ていた。
好きだった。
今も、好きだ。
「葉山は、強いな」
翼は静かに言った。
「え」
「俺だったら、きっと続けられなかった」
翼は正直に答えた。
「大切な人が亡くなった場所で、同じことを続けるなんて」
「そうかな」
さくらは少し照れくさそうに笑った。
「でも、それしかできなかったから」
「それでも、すごいよ」
翼は微笑んだ。
「ありがとう」
さくらも微笑んだ。
その夜、翼は涼と一緒に屋上にいた。
夜空には、無数の星が瞬いていた。
「なあ、涼」
「ん」
「今日、葉山と話した」
「マジか」
涼が振り返った。
「何話したんだ」
「あの先輩のこと」
涼は黙った。
「葉山、中学の時にその人の演技を見て、憧れてたんだって」
「ああ、知ってる」
「知ってたのか」
「噂で聞いた」
涼は空を見上げた。
「葉山が憧れてて、同じ舞台に立ちたいって思ってたこと」
「そうか」
翼も空を見上げた。
「でも、叶わなかったな」
「ああ」
二人は黙った。
あの先輩が亡くなった日のことを、二人とも覚えていた。
あの日から、さくらは変わった。
明るく振る舞っていたけど、どこか寂しそうだった。
翼も涼も、それに気づいていた。
だから、何もできなかった。
告白なんて、できるわけがなかった。
「なあ、翼」
涼が口を開いた。
「ん」
「俺たち、バカだよな」
「何が」
「三年間、ずっと葉山のこと好きだったのに、何も言えなくて」
翼は苦笑した。
「ああ、バカだな」
「でも、仕方ないよな」
「ああ」
翼は頷いた。
「葉山の心は、ずっとあの人に向いてたから」
しばらく、二人は黙っていた。
星だけが、静かに瞬いている。
「そういえば」
涼がふと思い出したように言った。
「一度聞きたかったんだけど、生物部ってどんなことするの」
「どんなって」
翼は少し考えた。
「そうだなあ、動物とか昆虫とかの進化の歴史を調べたり、自然科学についてとか、動物がとる行動の理由を調べたりとか」
翼は笑った。
「まあ、やることはたくさんあるよ」
「ふうん」
涼は頷いた。
「俺が全く触れてこなかった世界だな」
「そうかもな」
翼は空を見上げた。
「お前、知ってるか。カメレオンって、保護色になるのは敵から身を守るためじゃなくて、感情を表現するためらしい」
「え、マジで」
「ああ。怒ってる時とか、求愛してる時とか、色で伝えるんだって」
「へえ」
涼は感心したように頷いた。
「クラゲなんか、脳がないのに記憶ができるらしいぞ」
「意味わかんない」
「俺もそう思った」
翼は笑った。
「あと、ペンギンは同性同士でペアを組むことも珍しくないんだって」
「へえ」
涼は何気なく相槌を打った。
「それで一緒に卵を育てたりするらしい」
「そうなんだ」
翼は頷いた。
「自然界って、俺たちが思ってる以上に色んな形があるんだなって思った」
「ああ」
涼も頷いた。
二人は、また黙った。
風が吹いて、髪を揺らした。
「でもさ」
涼がぽつりと言った。
「俺、後悔してないよ」
「え」
「だって、葉山のこと好きでいられたから」
涼は微笑んだ。
「三年間、ずっと好きだった。それだけで、十分だ」
翼は、涼の顔を見た。
涼は、本当に幸せそうに笑っていた。
「俺も」
翼は静かに答えた。
「俺も、後悔してない」
「そっか」
涼は笑った。
「よかった」
翼も笑った。
そうだ。後悔なんて、していない。
さくらのことを好きでいられた三年間は、かけがえのない時間だった。
それだけで、十分だった。
卒業式の一週間前。
翼は演劇部の部室の前を通りかかった。
ドアが少し開いていて、中から声が聞こえた。
さくらの声だった。
翼は足を止めた。
「先輩」
さくらが誰かに話しかけているような声がした。
「やっと、片付けが終わりました」
翼は、そっとドアの隙間から中を覗いた。
さくらは一人で、舞台の方を見つめていた。
「三年間、ありがとうございました」
さくらの声が、少し震えていた。
「先輩と同じ舞台には立てなかったけど、先輩が愛した演劇を、私も愛することができました」
翼の胸が、きゅっと締め付けられた。
「先輩のこと、ずっと忘れません」
さくらは、深く頭を下げた。
「さようなら」
翼は、その場を離れた。
胸が苦しかった。
さくらの想いの強さを、改めて感じた。
そして、自分が入り込む余地なんて、どこにもないことを、改めて思い知らされた。
卒業式の前日。
翼と涼は、最後の荷物をまとめていた。
明日、卒業式が終わったら、寮を出る。
それぞれの実家に帰って、それぞれの未来へと進む。
「なあ、翼」
涼が部屋から顔を出した。
「ん」
「最後に、グラウンド行かないか」
「ああ、いいな」
翼は頷いた。
二人は寮を出て、グラウンドに向かった。
夕暮れのグラウンドは、静かだった。
誰もいない。
翼と涼は、グラウンドの真ん中に立った。
「三年間、ここで色々あったな」
涼が呟いた。
「ああ」
翼は頷いた。
運動会、マラソン大会、部活の練習…
たくさんの思い出が、このグラウンドにはある。
「楽しかったな」
「ああ」
二人は、グラウンドを見渡した。
その時、グラウンドの入口から、さくらが歩いてきた。
「あ」
さくらは二人の姿を見て、立ち止まった。
「山本くん、青木くん」
「葉山」
翼は微笑んだ。
「奇遇だな」
「うん」
さくらは二人の元に歩いてきた。
「二人も、最後にグラウンド来たんだ」
「ああ」
涼が頷いた。
「葉山は」
「私も。なんとなく、来たくなって」
さくらは微笑んだ。
三人は、しばらく黙ってグラウンドを見つめていた。
夕日が、グラウンドをオレンジ色に染めていた。
「なあ、葉山」
涼が口を開いた。
「ん」
「大学、どこ行くんだっけ」
「東京」
さくらは答えた。
「二人は」
「俺は大阪」
「俺は福岡」
翼が答えた。
「そっか。みんな、バラバラなんだね」
さくらは少し寂しそうに笑った。
「うん」
翼は頷いた。
「でも、それぞれの道があるから」
「そうだね」
さくらは微笑んだ。
「みんな、頑張ろうね」
「ああ」
涼が頷いた。
「葉山も」
「うん」
さくらは頷いた。
「なあ、葉山」
翼が思い切って聞いた。
「大学でも、演劇続けるの?」
さくらは少し考えるように、空を見上げた。
「うん。続けるつもり」
「そっか」
翼は微笑んだ。
「頑張ってね」
「ありがとう」
さくらも微笑んだ。
「あの人も、きっと喜んでくれるよ」
涼が言った。
さくらは驚いたように涼を見た。
「……うん」
さくらは小さく頷いた。
「きっと見守ってくれてる」
「ああ」
翼も頷いた。
さくらは、二人の顔を見た。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「二人とも、知ってたんだ」
「え」
「私が、あの人のこと」
さくらは言葉を切った。
翼と涼は、顔を見合わせた。
「ああ」
翼は静かに答えた。
「知ってた」
さくらは少し驚いたように二人を見た。
「そっか」
さくらは小さく笑った。
「隠してたつもりだったんだけど」
「わかりやすかったよ」
涼が優しく言った。
「そうなんだ」
さくらは照れくさそうに笑った。
「私ね」
さくらがぽつりと言った。
「あの人に、一度も想いを伝えられなかった」
「うん」
「でも、後悔してないの」
さくらは微笑んだ。
「だって、あの人のことを好きでいられたから」
翼の胸が、きゅっと締め付けられた。
涼も、黙って頷いていた。
「三年間、ずっと想ってた。それだけで、私は幸せだった」
さくらは空を見上げた。
「だから、後悔してない」
翼は、さくらの横顔を見つめた。
強い子だった。
本当に、強い子だった。
「なあ、葉山」
翼は静かに言った。
「ん」
「俺たちも、応援してるから」
「え」
「葉山の未来を」
翼は微笑んだ。
「大学でも、頑張ってね」
「うん」
さくらは少し驚いたように翼を見た。それから、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
「俺も」
涼が言った。
「葉山なら、きっと大丈夫」
「ありがとう、青木くん」
さくらは涼にも微笑んだ。
三人は、しばらく黙ってグラウンドを見つめていた。
夕日が沈んでいく。
オレンジ色だった空が、少しずつ紫色に変わっていく。
「そろそろ、戻ろうか」
涼が言った。
「うん」
さくらが頷いた。
三人は、グラウンドを後にした。
翌日。卒業式。
体育館には、たくさんの生徒と保護者が集まっていた。
翼は卒業証書を受け取り、席に戻った。
涼も、さくらも、卒業証書を受け取った。
式が終わり、みんなが外に出ていく。
翼は涼と一緒に校門に向かった。
その時、後ろからさくらの声がした。
「山本くん、青木くん」
二人は振り返った。
さくらが走ってきた。
「写真、撮らない」
「ああ、いいよ」
翼は頷いた。
三人は並んで、さくらの友達にシャッターを押してもらった。
「ありがとう」
さくらは笑った。
「じゃあね、二人とも」
「ああ」
翼は微笑んだ。
「元気でね」
「葉山も」
涼も微笑んだ。
さくらは手を振って、友達の元へ走っていった。
翼と涼は、その後ろ姿を見送った。
「行こうか」
涼が言った。
「ああ」
翼は頷いた。
二人は校門をくぐった。
振り返ると、校舎が見えた。
三年間、過ごした場所。
たくさんの思い出がある場所。
翼は、校舎に向かって小さく頭を下げた。
涼も、同じように頭を下げた。
「ありがとう」
二人は同時に呟いた。
それから、前を向いて歩き出した。
それぞれの未来へ。
卒業式が終わった夕方。
葉山さくらは、一人で演劇部の部室に戻っていた。
誰もいない廊下を歩く。足音だけが響く。
部室のドアを開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
さくらは部屋の中に入った。
舞台は、もう何もなかった。道具も、衣装も、全部片付けた。
壁には、集合写真が一枚だけ残っていた。
さくらは、その写真に近づいた。
一年生の時の文化祭。事故が起きる前の、演劇部の集合写真。
みんな笑っていた。
先輩たちも、同級生も、後輩たちも。
そして、その中に、あの人がいた。
中村美奈子先輩。
笑顔で写っている、あの人。
長い髪を後ろで結んで、少し恥ずかしそうに笑っている。
とても綺麗な人だった。
優しくて、誰にでも親切で、演技が上手で。
さくらが、中学生の時に一目惚れした人。
同じ舞台に立ちたいと思った人。
「美奈子先輩」
さくらは静かに呟いた。
「やっと、卒業しました」
写真の中の美奈子は、笑っていた。
「先輩と同じ舞台には立てなかったけど」
さくらの声が、少し震えた。
「でも、先輩が愛した演劇を、私も愛することができました」
涙が、一筋、頬を伝った。
「ありがとうございました」
さくらは深く頭を下げた。
それから、顔を上げて、もう一度写真を見つめた。
美奈子は、やっぱり笑っていた。
「さようなら、美奈子先輩」
さくらは写真に手を伸ばした。
でも、触れることはしなかった。
ただ、そっと手を下ろして、部屋を後にした。
廊下に出ると、夕日が差し込んでいた。
オレンジ色の光が、廊下を照らしている。
さくらは、ゆっくりと階段を下りた。
胸の中には、美奈子先輩への想いと、三年間の思い出が詰まっていた。
それだけで、十分だった。
さくらは、前を向いて歩き出した。
新しい未来へ。
春が来る。
新しい季節が、始まる。
でも、あの日々は、きっと忘れない。
想いは、時を超えて、心の中に残り続ける。
たとえそれが、決して届かない想いだったとしても。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




