【始発まで】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
終電を逃した。
佐藤美咲は駅のベンチに座り込み、深く息を吐いた。
スマホの画面には未読の着信が五件。
すべて彼からだ。
三年付き合った彼氏から、今夜プロポーズされた。
レストランで、指輪まで用意されていた。
でも私は、答えられなかった。
「少し考えさせて」
そう言って席を立ち、そのまま街を彷徨った。
気づけば終電の時間を過ぎていた。
十二月の深夜は冷える。
コートの襟を立てて、美咲は膝を抱えた。
がたん、と隣のベンチに誰かが座る音がした。
見ると、リクルートスーツを着た大学生くらいの男性が、疲れ切った様子で座っていた。
ネクタイは緩み、髪は乱れている。
彼もまた、終電を逃した一人らしい。
しばらくして、また人が来た。
今度は派手な服装の若い女性だ。
目が腫れていて、どうやら泣いていたようだった。
ライブのパンフレットを大事そうに抱えている。
「あー、やばい。終電なくなってる」
彼女は明るい声でそう言うと、美咲たちの向かいのベンチに座った。
そして最後に、年配の男性が現れた。
六十代後半だろうか。
グレーのコートを着て、静かにベンチの端に腰を下ろした。
この時間にこの場所にいるには、少し場違いな落ち着きがある。
深夜零時を過ぎた駅のベンチ。
見知らぬ四人が、始発までの長い夜を共に過ごすことになった。
最初に口を開いたのは、ライブ帰りの女性だった。
「ねえねえ、みんなも終電逃した系?」
美咲と大学生が同時に頷く。
年配の男性は、ゆっくりと首を縦に振った。
「私も! 推しバンドの解散ライブで泣きすぎて、時間わかんなくなっちゃった」
彼女は屈託なく笑った。
川村ゆい、と自己紹介した彼女は二十歳だという。
「私、佐藤です」
美咲がそう名乗ると、大学生も続いた。
「田中陽介です。大学四年生」
年配の男性は少し考えてから、「山田」とだけ言った。
「田中くん、就活?」
ゆいが陽介のスーツを見て尋ねる。
「ああ、まあ…」
陽介は曖昧に笑った。
その笑顔が少し無理をしているように、美咲には見えた。
「寒いですね」
美咲が言うと、陽介が立ち上がった。
「ホットドリンク、買ってきます。みなさん何がいいですか?」
「優しい! 私ココア!」
ゆいが即答する。
美咲は「コーヒーで」と答え、山田は「お茶を」と静かに言った。
陽介が自販機に向かう間、ゆいがパンフレットを開いた。
「見て見て、これ! もう二度と生で聴けないんだよ」
そう言いながら、また目に涙を浮かべている。
「好きだったんですね」
美咲が優しく言うと、ゆいは大きく頷いた。
「五年間追いかけてきたの。高校の時からずっと。でも今日で終わり」
「終わりは、新しい始まりでもある」
山田が初めて、そんな言葉を口にした。
低く落ち着いた声だった。
「そうかなあ?終わりは終わりじゃない?」
ゆいは首を傾げたが、その顔は少し明るくなっていた。
陽介が四つの缶を抱えて戻ってきた。
「はい、どうぞ」
配られた温かい缶を両手で包む。
じんわりと手のひらに熱が伝わってきた。
「ありがとうございます」
美咲が礼を言うと、陽介は「いえ」と小さく笑った。
「田中くん、就活うまくいった?」
ゆいの無邪気な質問に、陽介の顔が曇る。
「いや…最終で落ちて」
「あー、それはきついね」
「第一志望だったんです。もう、やり直す気力もなくて」
陽介は缶コーヒーを見つめたまま続けた。
「今日、結果聞いて、そのまま飲みに行って。気づいたらこんな時間で」
「私も似たようなものです」
美咲は自分でも驚くほど素直に言った。
「大事なことから逃げてきました。答えを出すのが怖くて」
四人の間に、静かな沈黙が流れた。
でもそれは、気まずい沈黙ではなかった。
お互いの痛みを、そっと受け止めるような沈黙だった。
午前二時を過ぎた頃、ゆいがコンビニから肉まんを買ってきた。
「はい、みんなで食べよ! 深夜の肉まん最高だから」
四人で肉まんを頬張る。
湯気が顔にかかって、少し温かい。
「美味しい」
美咲が言うと、ゆいが嬉しそうに笑った。
「佐藤さん、何から逃げてきたんですか?」
陽介が遠慮がちに尋ねる。
「プロポーズです」
「え」
「今夜、彼氏にプロポーズされました。
でも答えられなくて、逃げ出しちゃって」
「それは…」
陽介が言葉に詰まる。
「好きじゃないんですか?」
ゆいが率直に聞いた。
「好きです。でも、結婚って…怖くて」
「何が怖いんです?」
今度は山田が尋ねた。
その声には、責める気配はまったくなかった。
「変わってしまうことが、怖いんです。今の関係が、この先ずっと続くわけじゃないって、頭ではわかってる。でも、それを受け入れるのが」
「変化を恐れていたら、何も始まらない」
山田がゆっくりと言った。
「私はもう六十五です。明日、会社を定年退職する」
「え、明日なんですか?」
ゆいが驚く。
「ええ。だから今夜は、一人で夜の街を歩きたかった。最後に」
「最後って…」
「明日からは、違う人生が始まる。怖くないと言えば嘘になる。でもね」
山田は夜空を見上げた。
「人生はその時その時は、とても長く感じるんです。しかし振り返ってみるとあっという間に過ぎ去って行った。だから、怖がっている暇はないんですよ」
美咲は胸が熱くなるのを感じた。
「俺も怖かったんです」
陽介が口を開いた。
「第一志望に落ちて、これからどうしようって。でも、佐藤さんの話を聞いて思いました。俺、まだ二十二歳なんですよね。失敗したって、やり直せる」
「そうだよ!」
ゆいが明るく言った。
「私だって、推しバンドは解散したけど、また新しい音楽に出会えるかもしれないし!」
四人は顔を見合わせて、笑った。
見知らぬ同士だったはずなのに、この数時間で不思議な連帯感が生まれていた。
午前三時。
駅はさらに静かになった。たまに深夜バスが通り過ぎる音だけが聞こえる。
「ねえ、佐藤さん」
ゆいが言った。
「結婚が怖いって言ってたけど、本当に怖いのは何?」
「え?」
「だって、好きな人と一緒にいられるんでしょ? 幸せなことじゃん」
美咲は言葉に詰まった。
そうだ。
好きな人と一緒にいられる。
それは幸せなことのはずなのに、なぜ私は怖がっているんだろう。
「私…」
美咲はゆっくりと口を開いた。
「何が怖いのか、やっとわかった気がする」
三人が美咲を見る。
「変わることが怖いんじゃない。変わらないことが、怖かったんだ」
「…どういうこと?」
ゆいが首を傾げる。
「彼と付き合って三年。すごく楽で、安心で、居心地がいい。でも」
美咲は膝を抱えた。
「それって、成長してないってことなのかなって。このまま結婚して、変わらない毎日が続いて、私はこのままでいいのかなって」
「なるほど」
山田が頷いた。
「怖いのは、停滞することだったんですね」
「そう…だと思う」
陽介が静かに言った。
「でも、それって、結婚したら変われないって、決めつけてませんか?」
「え?」
「結婚って、ゴールじゃないですよね。スタートだって、うちの親が言ってました」
陽介は少し照れながら続けた。
「結婚しても、人は変わり続けるんじゃないですか? 二人で一緒に」
美咲はハッとした。
そうだ!
結婚は終わりじゃない。
始まりなんだ。
「佐藤さんが変わりたいなら、変わればいい。結婚してようがしてまいが、関係ない」
ゆいが明るく言った。
「私の姉ちゃん、結婚してから大学院行ったよ。旦那さんが応援してくれたって」
美咲の目に、涙が浮かんだ。
「私…間違ってた」
「何が?」
「彼を、信じてなかった。結婚したら、私の自由を奪う人だって、勝手に決めつけてた」
美咲は顔を覆った。
「最低だ…」
「そんなことないですよ」
陽介が優しく言った。
「気づけたじゃないですか。今」
「でも…」
「大丈夫」
山田が静かに言った。
「人は、気づいた時から変われる。あなたは今夜、自分の本当の気持ちに向き合えた。それが大切なんです」
美咲は涙を拭った。
そうだ。私は気づけた。
彼を信じていいんだ。
二人で変わっていけばいいんだ。
「ありがとう」
美咲は三人を見て、心から言った。
「みんなに会えて、本当によかった」
午前四時。
東の空が少しずつ白み始めた。
「もうすぐ始発ですね」
山田が言った。
「えー、もう? まだ話し足りないよ」
ゆいが名残惜しそうに言う。
「でも、いい夜でした」
美咲が微笑んだ。
「本当に。みなさんに会えて、よかった」
午前五時。
始発のアナウンスが流れた。
「じゃあ、私先に行くね! みんな、ありがとう!」
ゆいが手を振りながらホームへ降りていく。
「私も失礼します。皆さん、お元気で」
山田も立ち上がった。陽介に向かって、
「君はきっと大丈夫だ。頑張りなさい」
そう言って、優しく肩を叩いた。
美咲と陽介だけが、ベンチに残った。
「佐藤さん」
陽介が静かに言った。
「うん?」
「俺、思ったんです。佐藤さんって、本当は答え出てたんじゃないかって」
美咲は息を呑んだ。
「…どういうこと?」
「プロポーズされて、嬉しかったんですよね?」
「…うん」
「じゃあ、答えは最初から決まってた。ただ、その気持ちを認める勇気がなかっただけで」
美咲は何も言えなかった。
陽介の言葉が、胸の奥に突き刺さる。
「でも今は、ちゃんと自分の気持ちと向き合えた。それって、すごいことだと思います」
「田中くんは…どうしてそんなこと、わかるの?」
「俺も同じだったから」
陽介は少し照れたように笑った。
「就活、やり直すのが怖かった。でも本当は、もう一回頑張りたかった。今夜、それに気づけました」
「…そっか」
「佐藤さんに会えて、俺も素直になれました。ありがとうございます」
陽介が深々と頭を下げる。
「…こちらこそ」
美咲の声が少し震えた。
「幸せになってください。応援してます。」
陽介が爽やかに笑って、背を向けた。
美咲は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「田中くん!」
陽介が振り返る。
美咲は深呼吸をして、彼に近づいた。
「特別な夜には、特別なお礼がないとね」
そう言って、美咲は陽介の唇に、軽くキスをした。
ほんの一瞬の、柔らかい感触。
「…え?」
陽介が固まる。顔が見る見る赤くなっていく。
「今夜だけの、特別よ」
美咲は少しいたずらっぽく微笑んだ。
陽介は何も言えずに立ち尽くしている。
「なに? 嫌だった?」
「…嫌なわけ、ないです」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「ありがとう、今夜。忘れない」
「…俺も」
「じゃあね」
美咲は手を振って、階段を降りていった。
陽介はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
唇に残る温もりが、まだ消えない。
「田中くーん! 電車来ちゃうよー!」
ホームからゆいの声が聞こえた。
「あ…はい!」
陽介は我に返って、階段を駆け降りた。
電車の中、美咲はスマホを取り出した。
彼からのメッセージが届いている。
『待ってる。ゆっくり考えて』
美咲は返信を打った。
『ありがとう。答え、出た。会いたい』
窓の外、朝日が昇り始めていた。
新しい一日が、始まろうとしている。
陽介も電車に揺られていた。
スマホを見ると、大学の就職課からメールが来ていた。
新しい求人情報だった。
陽介は小さく息を吐いて、前を向いた。
まだ終わりじゃない。
ここから、始めればいい。
ゆいはイヤホンで音楽を聴いていた。
解散したバンドの曲ではなく、新しいアーティストの曲だった。
涙は、もう出なかった。
山田は窓の外を眺めていた。
長い会社員生活が終わる。でも、人生はまだ続く。
「いい夜だったな」
小さく呟いて、山田は微笑んだ。
四人の夜は終わった。
でも、それぞれの朝は、今まさに始まろうとしていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




