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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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19/30

【始発まで】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

終電を逃した。


佐藤美咲は駅のベンチに座り込み、深く息を吐いた。


スマホの画面には未読の着信が五件。


すべて彼からだ。


三年付き合った彼氏から、今夜プロポーズされた。


レストランで、指輪まで用意されていた。


でも私は、答えられなかった。


「少し考えさせて」


そう言って席を立ち、そのまま街を彷徨った。


気づけば終電の時間を過ぎていた。


十二月の深夜は冷える。


コートの襟を立てて、美咲は膝を抱えた。


がたん、と隣のベンチに誰かが座る音がした。


見ると、リクルートスーツを着た大学生くらいの男性が、疲れ切った様子で座っていた。


ネクタイは緩み、髪は乱れている。


彼もまた、終電を逃した一人らしい。


しばらくして、また人が来た。

今度は派手な服装の若い女性だ。


目が腫れていて、どうやら泣いていたようだった。


ライブのパンフレットを大事そうに抱えている。


「あー、やばい。終電なくなってる」


彼女は明るい声でそう言うと、美咲たちの向かいのベンチに座った。


そして最後に、年配の男性が現れた。


六十代後半だろうか。


グレーのコートを着て、静かにベンチの端に腰を下ろした。


この時間にこの場所にいるには、少し場違いな落ち着きがある。


深夜零時を過ぎた駅のベンチ。


見知らぬ四人が、始発までの長い夜を共に過ごすことになった。


最初に口を開いたのは、ライブ帰りの女性だった。


「ねえねえ、みんなも終電逃した系?」


美咲と大学生が同時に頷く。


年配の男性は、ゆっくりと首を縦に振った。


「私も! 推しバンドの解散ライブで泣きすぎて、時間わかんなくなっちゃった」


彼女は屈託なく笑った。


川村ゆい、と自己紹介した彼女は二十歳だという。


「私、佐藤です」


美咲がそう名乗ると、大学生も続いた。


「田中陽介です。大学四年生」


年配の男性は少し考えてから、「山田」とだけ言った。


「田中くん、就活?」


ゆいが陽介のスーツを見て尋ねる。


「ああ、まあ…」


陽介は曖昧に笑った。


その笑顔が少し無理をしているように、美咲には見えた。


「寒いですね」


美咲が言うと、陽介が立ち上がった。


「ホットドリンク、買ってきます。みなさん何がいいですか?」


「優しい! 私ココア!」


ゆいが即答する。


美咲は「コーヒーで」と答え、山田は「お茶を」と静かに言った。


陽介が自販機に向かう間、ゆいがパンフレットを開いた。


「見て見て、これ! もう二度と生で聴けないんだよ」


そう言いながら、また目に涙を浮かべている。


「好きだったんですね」


美咲が優しく言うと、ゆいは大きく頷いた。


「五年間追いかけてきたの。高校の時からずっと。でも今日で終わり」


「終わりは、新しい始まりでもある」


山田が初めて、そんな言葉を口にした。


低く落ち着いた声だった。


「そうかなあ?終わりは終わりじゃない?」


ゆいは首を傾げたが、その顔は少し明るくなっていた。


陽介が四つの缶を抱えて戻ってきた。


「はい、どうぞ」


配られた温かい缶を両手で包む。


じんわりと手のひらに熱が伝わってきた。


「ありがとうございます」


美咲が礼を言うと、陽介は「いえ」と小さく笑った。


「田中くん、就活うまくいった?」


ゆいの無邪気な質問に、陽介の顔が曇る。


「いや…最終で落ちて」


「あー、それはきついね」


「第一志望だったんです。もう、やり直す気力もなくて」


陽介は缶コーヒーを見つめたまま続けた。


「今日、結果聞いて、そのまま飲みに行って。気づいたらこんな時間で」


「私も似たようなものです」


美咲は自分でも驚くほど素直に言った。


「大事なことから逃げてきました。答えを出すのが怖くて」


四人の間に、静かな沈黙が流れた。


でもそれは、気まずい沈黙ではなかった。


お互いの痛みを、そっと受け止めるような沈黙だった。


午前二時を過ぎた頃、ゆいがコンビニから肉まんを買ってきた。


「はい、みんなで食べよ! 深夜の肉まん最高だから」


四人で肉まんを頬張る。


湯気が顔にかかって、少し温かい。


「美味しい」


美咲が言うと、ゆいが嬉しそうに笑った。


「佐藤さん、何から逃げてきたんですか?」


陽介が遠慮がちに尋ねる。


「プロポーズです」


「え」


「今夜、彼氏にプロポーズされました。


でも答えられなくて、逃げ出しちゃって」


「それは…」


陽介が言葉に詰まる。


「好きじゃないんですか?」


ゆいが率直に聞いた。


「好きです。でも、結婚って…怖くて」


「何が怖いんです?」


今度は山田が尋ねた。


その声には、責める気配はまったくなかった。


「変わってしまうことが、怖いんです。今の関係が、この先ずっと続くわけじゃないって、頭ではわかってる。でも、それを受け入れるのが」


「変化を恐れていたら、何も始まらない」


山田がゆっくりと言った。


「私はもう六十五です。明日、会社を定年退職する」


「え、明日なんですか?」


ゆいが驚く。


「ええ。だから今夜は、一人で夜の街を歩きたかった。最後に」


「最後って…」


「明日からは、違う人生が始まる。怖くないと言えば嘘になる。でもね」


山田は夜空を見上げた。


「人生はその時その時は、とても長く感じるんです。しかし振り返ってみるとあっという間に過ぎ去って行った。だから、怖がっている暇はないんですよ」


美咲は胸が熱くなるのを感じた。


「俺も怖かったんです」


陽介が口を開いた。


「第一志望に落ちて、これからどうしようって。でも、佐藤さんの話を聞いて思いました。俺、まだ二十二歳なんですよね。失敗したって、やり直せる」


「そうだよ!」


ゆいが明るく言った。


「私だって、推しバンドは解散したけど、また新しい音楽に出会えるかもしれないし!」


四人は顔を見合わせて、笑った。


見知らぬ同士だったはずなのに、この数時間で不思議な連帯感が生まれていた。


午前三時。


駅はさらに静かになった。たまに深夜バスが通り過ぎる音だけが聞こえる。

「ねえ、佐藤さん」


ゆいが言った。


「結婚が怖いって言ってたけど、本当に怖いのは何?」


「え?」


「だって、好きな人と一緒にいられるんでしょ? 幸せなことじゃん」


美咲は言葉に詰まった。


そうだ。


好きな人と一緒にいられる。


それは幸せなことのはずなのに、なぜ私は怖がっているんだろう。


「私…」


美咲はゆっくりと口を開いた。


「何が怖いのか、やっとわかった気がする」


三人が美咲を見る。


「変わることが怖いんじゃない。変わらないことが、怖かったんだ」


「…どういうこと?」


ゆいが首を傾げる。


「彼と付き合って三年。すごく楽で、安心で、居心地がいい。でも」


美咲は膝を抱えた。


「それって、成長してないってことなのかなって。このまま結婚して、変わらない毎日が続いて、私はこのままでいいのかなって」


「なるほど」


山田が頷いた。


「怖いのは、停滞することだったんですね」


「そう…だと思う」


陽介が静かに言った。


「でも、それって、結婚したら変われないって、決めつけてませんか?」


「え?」


「結婚って、ゴールじゃないですよね。スタートだって、うちの親が言ってました」


陽介は少し照れながら続けた。


「結婚しても、人は変わり続けるんじゃないですか? 二人で一緒に」


美咲はハッとした。


そうだ!


結婚は終わりじゃない。


始まりなんだ。


「佐藤さんが変わりたいなら、変わればいい。結婚してようがしてまいが、関係ない」


ゆいが明るく言った。


「私の姉ちゃん、結婚してから大学院行ったよ。旦那さんが応援してくれたって」


美咲の目に、涙が浮かんだ。


「私…間違ってた」


「何が?」


「彼を、信じてなかった。結婚したら、私の自由を奪う人だって、勝手に決めつけてた」


美咲は顔を覆った。


「最低だ…」


「そんなことないですよ」


陽介が優しく言った。


「気づけたじゃないですか。今」


「でも…」


「大丈夫」


山田が静かに言った。


「人は、気づいた時から変われる。あなたは今夜、自分の本当の気持ちに向き合えた。それが大切なんです」


美咲は涙を拭った。


そうだ。私は気づけた。


彼を信じていいんだ。


二人で変わっていけばいいんだ。


「ありがとう」


美咲は三人を見て、心から言った。


「みんなに会えて、本当によかった」


午前四時。


東の空が少しずつ白み始めた。


「もうすぐ始発ですね」


山田が言った。


「えー、もう? まだ話し足りないよ」


ゆいが名残惜しそうに言う。


「でも、いい夜でした」


美咲が微笑んだ。


「本当に。みなさんに会えて、よかった」


午前五時。


始発のアナウンスが流れた。


「じゃあ、私先に行くね! みんな、ありがとう!」


ゆいが手を振りながらホームへ降りていく。


「私も失礼します。皆さん、お元気で」


山田も立ち上がった。陽介に向かって、


「君はきっと大丈夫だ。頑張りなさい」


そう言って、優しく肩を叩いた。


美咲と陽介だけが、ベンチに残った。


「佐藤さん」


 陽介が静かに言った。


「うん?」


「俺、思ったんです。佐藤さんって、本当は答え出てたんじゃないかって」


美咲は息を呑んだ。


「…どういうこと?」


「プロポーズされて、嬉しかったんですよね?」


「…うん」


「じゃあ、答えは最初から決まってた。ただ、その気持ちを認める勇気がなかっただけで」


 美咲は何も言えなかった。


陽介の言葉が、胸の奥に突き刺さる。


「でも今は、ちゃんと自分の気持ちと向き合えた。それって、すごいことだと思います」


「田中くんは…どうしてそんなこと、わかるの?」


「俺も同じだったから」


陽介は少し照れたように笑った。


「就活、やり直すのが怖かった。でも本当は、もう一回頑張りたかった。今夜、それに気づけました」


「…そっか」


「佐藤さんに会えて、俺も素直になれました。ありがとうございます」


陽介が深々と頭を下げる。


「…こちらこそ」


美咲の声が少し震えた。


「幸せになってください。応援してます。」


陽介が爽やかに笑って、背を向けた。


美咲は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「田中くん!」



陽介が振り返る。


美咲は深呼吸をして、彼に近づいた。

「特別な夜には、特別なお礼がないとね」


そう言って、美咲は陽介の唇に、軽くキスをした。


ほんの一瞬の、柔らかい感触。


「…え?」


陽介が固まる。顔が見る見る赤くなっていく。


「今夜だけの、特別よ」


美咲は少しいたずらっぽく微笑んだ。


陽介は何も言えずに立ち尽くしている。


「なに? 嫌だった?」


「…嫌なわけ、ないです」


ようやく絞り出した声は、震えていた。


「ありがとう、今夜。忘れない」


「…俺も」


「じゃあね」


美咲は手を振って、階段を降りていった。


陽介はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


唇に残る温もりが、まだ消えない。


「田中くーん! 電車来ちゃうよー!」


ホームからゆいの声が聞こえた。


「あ…はい!」


陽介は我に返って、階段を駆け降りた。


電車の中、美咲はスマホを取り出した。


彼からのメッセージが届いている。


『待ってる。ゆっくり考えて』


美咲は返信を打った。


『ありがとう。答え、出た。会いたい』


窓の外、朝日が昇り始めていた。


新しい一日が、始まろうとしている。


陽介も電車に揺られていた。


スマホを見ると、大学の就職課からメールが来ていた。


新しい求人情報だった。


陽介は小さく息を吐いて、前を向いた。


まだ終わりじゃない。


ここから、始めればいい。


ゆいはイヤホンで音楽を聴いていた。


解散したバンドの曲ではなく、新しいアーティストの曲だった。


涙は、もう出なかった。


山田は窓の外を眺めていた。


長い会社員生活が終わる。でも、人生はまだ続く。


「いい夜だったな」


小さく呟いて、山田は微笑んだ。


四人の夜は終わった。


でも、それぞれの朝は、今まさに始まろうとしていた。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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