【十三分間の真実】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
1
夕陽が事務所の窓から差し込んで、机の上の書類を照らしている。浮気調査の報告書、行方不明者の写真、未払いの請求書。俺は老眼鏡を外して目を擦った。
六十五歳。定年退職から五年が経った。
小さな探偵事務所での日々は、刑事時代とは比べ物にならないほど静かだ。だが、静かすぎるのも問題だった。静寂の中では、どうしても過去が蘇ってくる。
三十年前のあの日。十歳の娘、美咲が学校から帰ってこなかった日。
俺は三十五歳だった。刑事としては脂の乗り切った時期だ。だが、その日から全てが変わった。捜索願を出し、自ら捜査チームを率い、寝る間も惜しんで探し続けた。三日後、郊外の雑木林で見つかった小さな遺体。妻の絶叫。自分の膝から力が抜けていく感覚。
それから二十五年間、俺は犯人を探し続けた。昇進の話も断った。家庭も顧みなかった。ただひたすらに、犯人を探した。
妻の由美は、美咲が死んでから二十年後に心を病んで入院し、そのまま十年前に亡くなった。最期まで、ほとんど口をきかなかった。娘を守れなかった俺を、由美は許してくれなかったのだと思っていた。
そして五年前。定年まであと一週間というタイミングで、ついに容疑者を特定した。
佐々木健一。当時四十二歳の元教師。美咲の学校の近くに住んでいて、教師を辞めたばかりで平日も家にいた。何より我が家の近所を頻繁にウロついていたという証言があった。状況証拠は揃っていた。あとは自白を取るだけだった。
だが佐々木は逃げた。
俺が職務質問をしようとした瞬間、パニックを起こしたように走り出し、車道に飛び出した。トラックは避けきれなかった。佐々木は即死だった。
真実は、彼と共に消えた。
俺の二十五年間は、何の答えも得られないまま終わった。
2
「桐谷先生、聞いてます?」
依頼人の声に、俺は我に返った。
「ああ、すまない。それで、その電話ボックスというのは?」
田中という中年女性の依頼は夫の浮気調査だったが、雑談の中で妙な話をしていた。
「最近、商店街の外れに突然現れたんです。古い赤い電話ボックス。でも中に電話機はなくて、受話器だけがぶら下がってるんです」
「それが?」
「死んだ人と話ができるって噂なんですよ。十三分間だけ。でも一生のうちに、たったの一度しか使えないって」
俺は鼻で笑った。「オカルトか」
「私も最初はそう思ったんです。でも、息子の同級生のお母さんが使ったって聞いて。亡くなったお父さんと話したって。泣きながら喜んでたそうです」
俺は適当に相槌を打ち、依頼の件に話を戻した。
だが田中が帰った後も、その話は頭から離れなかった。
死んだ人と話せる。
もしそれが本当なら。
俺の頭に浮かんだのは、娘の美咲の顔でも、妻の由美の顔でもなく、佐々木健一の顔だった。あの日、恐怖に歪んだ表情で逃げていった男の顔。
お前は本当に犯人だったのか。なぜ逃げた。何があった。娘に何をした。
真実を知りたい。二十五年間、ただそれだけを求め続けてきた。
俺は立ち上がり、コートを羽織った。
3
商店街の外れは、シャッターを下ろした店が並ぶ寂しい場所だった。街灯もまばらで、夕暮れ時には既に薄暗い。
そこに、確かにあった。
古びた赤い電話ボックス。ガラスは曇り、枠は錆びている。だが不思議なことに、周囲の寂れた風景の中で、それだけが異質な存在感を放っていた。
ドアはない。中に入ると、確かに電話機はなく、黒い受話器だけが天井から垂れ下がっていた。
馬鹿馬鹿しい。こんなもの、誰かのいたずらに決まっている。
だが俺の手は、既に受話器を掴んでいた。
耳に当てる。
「接続します」
機械的な女性の声が聞こえた。俺の心臓が跳ねる。
「お話ししたい方の名前を告げてください」
俺は喉が渇くのを感じた。唇を舐め、そして言った。
「佐々木健一」
沈黙。
そして。
「接続しました。残り時間は十三分です」
ザァッという雑音の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。
「……もしもし?」
佐々木だ。間違いない。あの声だ。
俺の手が震えた。三十年間待ち続けた瞬間。
「佐々木健一だな」
「……はい。どちら様でしょうか」
「桐谷だ。桐谷誠。覚えているか」
受話器の向こうで、息を呑む音が聞こえた。長い沈黙。
「……桐谷、刑事」
「元刑事だ。もう定年退職した」
また沈黙。俺は続けた。
「時間がない。お前に聞きたいことがある。三十年前、お前は俺の娘を殺したのか」
「残り時間は十二分です」という機械音声が割り込む。
「……違います」
佐々木の声は震えていた。
「嘘をつくな!お前は逃げた。なぜ逃げた。やましいことがなければ逃げる必要はなかっただろう」
「逃げたのは……」佐々木の声が詰まる。「怖かったんです」
「何が怖かった」
「あなたが。あなたの目が。私を犯人として見ていた疑いのない、あなたの目が」
俺は歯を食いしばった。
「お前が怪しかったからだ。美咲の学校の近くに住んでいた。教師を辞めたばかりで平日も家にいた。うちの近所での目撃情報も取れた。」
佐々木が苦笑した。「あなたの家の近くで見かける人は全員が犯人なのですか?それが犯罪の証拠ですか?」
「他にも状況証拠は山ほどあった」
「状況証拠。そう、全ては状況証拠でした。でも、あなたはそれを真実だと信じた」
「残り時間は十分です」
俺は深呼吸をした。「じゃあ聞く。お前は本当に無実なのか」
沈黙。
「はい」
「証拠は」
「ありません。三十年前もなかった。だから、私は疑われ続けた」
「それだけか。それだけで俺が納得すると思うのか」
「桐谷さん」佐々木の声のトーンが変わった。「一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「あなたは本当に、真実を知りたいんですか」
俺は眉をひそめた。「当たり前だ。三十年間、それだけを求めてきた」
「たとえ、その真実があなたを打ちのめすものだったとしても?」
俺の心臓が早鐘を打った。
「どういう意味だ」
「残り時間は八分です」
「私は」佐々木が言った。「あの事件の真相を知っています」
俺の手が震えた。
「だったら最初から言え!」
「言えなかったんです、ずっと。言えば、あなたの人生が終わるから」
「俺の人生はとっくに終わってる。娘が死んだあの日に」
「いいえ」佐々木の声が悲しげに響いた。「あなたはまだ、希望を持っていた。犯人を見つけるという希望を。でも、本当の真実を知ってしまったら、あなたには何も残らない」
俺の呼吸が荒くなった。
「言え。今すぐ言え」
「残り時間は六分です」
佐々木が深く息を吸う音が聞こえた。
「私は」彼が言った。「あなたの奥さんと、関係がありました」
世界が止まった。
「……何?」
「由美さんと、不倫をしていました。美咲ちゃんが亡くなる半年前から」
「嘘だ」
「本当です。最初は偶然の出会いでした。商店街で。由美さんは悩んでいた。あなたが仕事ばかりで家庭を顧みないこと。孤独だったんです」
俺は壁に手をついた。膝が震えている。
「私たちは……過ちを犯しました。でも、由美さんを愛していました。本気で」
「黙れ」
「残り時間は四分です」
「そしてあの日」佐々木の声が震えた。「美咲ちゃんは、私たちを見てしまったんです」
俺の頭の中で、何かが弾けた。
「学校の帰り道、商店街の喫茶店で。窓越しに、母親と私が手を繋いでいるのを」
「やめろ」
「美咲ちゃんは泣いて走り去りました。由美さんは追いかけました。私も後を追いました。でも、私はすぐに引き返した。これ以上、関わるべきじゃないと思ったから」
俺は受話器を握りしめた。手が痛いほどに。
「その後、何が起きたのかは私も知りません。でも、三日後、美咲ちゃんの遺体が見つかった」
「残り時間は二分です」
「そして、あなたが捜査を始めた。対策本部のリーダーとして周囲への聞き込みを続けた。しかし犯人にはたどり着けなかった。」
佐々木が言葉を切った。
「それ程あなたは奥さんの事を見ていなかったということです。」
俺は何も返す言葉がなかった。
「しかし、あなたは私を容疑者として認識し始めた。二十五年もかけて…その時、私は気づいたんです。なぜ自分が疑われているのか。由美さんが私を利用していたことに」
「どういう意味だ」
「私と頻繁に会っていた時のこと。平日の昼間に外出していたこと。わざわざリスクを犯してまで自宅の近くで会っていたこと。それらの情報を、由美さんは意図的に周囲に漏らしていた。あなたの疑いが、いつか私に向けられるように」
俺の頭が真っ白になった。
「つまり」俺の声が掠れた。「由美が……美咲を」
「わかりません。事故だったのかもしれない。口論になったのかもしれない。でも、結果として美咲ちゃんは死んだ。そして由美さんは、その罪を私に着せようとした」
「なぜ黙っていた。なぜ真実を話さなかった」
「残り時間は一分です」
「愛していたからです」佐々木の声が涙で濡れていた。「馬鹿げていますよね。私を利用した女を。でも、私は由美さんを愛していた。彼女も苦しんでいた。娘を失った母親として。そして……罪を背負った者として。だから私は、せめて彼女の罪を一緒に背負おうと思った」
「ふざけるな!」俺は叫んだ。「お前のせいで俺は三十年を無駄にした!」
「知っています。すみませんでした。でも、あなたに真実を話せば、由美さんは逮捕された。あなたは妻を失い、娘を失い、全てを失った。私にはそれができなかった」
「残り時間は三十秒です」
「桐谷さん」佐々木が最後に言った。「由美さんは、最期まであなたを愛していました。罪悪感で壊れていきましたが、あなたへの愛だけは本物でした。それだけは信じてください」
「信じられるか!」
「残り時間は十秒です」
「私は地獄にいます。由美さんもきっと地獄にいます。でも、あなたはまだ生きている。どうか――」
プツン。
通話が切れた。
4
俺は電話ボックスの中で崩れ落ちた。
由美。
愛していた妻。娘を一緒に育てた妻。最期まで看取った妻。
その妻が、娘を殺した。
いや、違う。
俺が殺したんだ。
仕事ばかりで家庭を顧みなかった自分が。妻を孤独にした自分が。妻を他の男の腕に追いやった自分が。
全ては、俺が起点だった。
俺は声を上げて泣いた。六十五年の人生で、初めて子供のように泣いた。
どれくらい時間が経ったのか。
やがて俺は立ち上がった。足がふらついた。
電話ボックスを出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
俺は夜空を見上げた。星は見えなかった。都会の光に消されて。
美咲。由美。
二人とも、もういない。
そして佐々木も。
三人とも、俺の人生から消えていった。
残されたのは、真実だけ。
重く、冷たく、どうしようもない真実だけ。
俺は歩き出した。どこに向かうのかもわからないまま。
ただ、歩いた。
翌日、事務所の大家が訪ねてくると、机の上には一枚のメモが残されていた。
『美咲、由美、すまなかった』
それだけが、几帳面な文字で書かれていた。
その後、桐谷誠の姿を見た者はいない。
商店街の外れの電話ボックスも、翌朝には跡形もなく消えていた。
まるで最初から、そこには何もなかったかのように。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




