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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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16/30

【サイレント・ナイト作戦】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

第一部:トーマス・ウィリアムズ


塹壕の底は凍てついていた。


イギリス軍二等兵トーマス・ウィリアムズは、泥と血の臭いが染み付いた軍服の襟を立て、震える手で銃を抱きしめた。


1914年12月24日。


クリスマスイブ。


故郷のロンドンでは、今頃母が暖炉の前でキャロルを口ずさんでいるだろう。


「おい、トーマス」


隣にいた古参兵のジョージが、缶詰の中身を分けてくれた。


冷え切った豆の煮込み。それでも、ここでは御馳走だった。


「今夜は静かだな」


ジョージが呟いた。


いつもなら散発的な銃声が響いているのに、今夜は不気味なほど静かだった。


敵のドイツ軍塹壕まで、わずか五十メートル。暗闇の向こうに、彼らの気配を感じる。


午後十時を過ぎた頃だった。


突然、敵陣から歌声が聞こえてきた。


「Stille Nacht, heilige Nacht...」


トーマスは息を呑んだ。きよしこの夜。


ドイツ語だったが、メロディーは間違いなくあの聖歌だった。


一人ではない。


何十人もの声が、暗闇の向こうで重なり合っている。


「なんだ、これは...」


ジョージが銃を構えた。


トーマスの心臓が早鐘を打つ。


罠か?攻撃の合図か?


しかし、歌声は続いた。


澄んで、静かで、祈るように。


トーマスの喉が震えた。


気づけば、自分も口を開いていた。


「Silent night, holy night...」


英語で、同じ歌を歌い始めていた。


すると、左右の塹壕から、仲間たちの声が重なってきた。


ジョージも、最初は戸惑った顔をしていたが、やがて低い声で歌い出した。


イギリス軍の歌声と、ドイツ軍の歌声が、無人地帯の上空で溶け合った。


歌が終わると、しばらく沈黙が続いた。


そして、ドイツ側から声がした。


「メリー・クリスマス!」


片言の英語だった。


「今夜だけ、撃たない。出てきてもいい!」


トーマスは隣のジョージを見た。


ジョージは眉をひそめていたが、やがて小さく頷いた。


「行くぞ」


二人は塹壕から這い上がった。


他の兵士たちも、恐る恐る顔を出す。


向こう側でも、人影が立ち上がっていく。


無人地帯。


この数ヶ月、何百人もの命が失われた泥の大地。


そこに、今、イギリス兵とドイツ兵が歩み寄っていく。


月明かりの下で、トーマスは初めて「敵」の顔を見た。


若い。


自分と同じくらいの年だ。


金色の髪をした青年が、おずおずと手を差し出してきた。


「フリードリヒ」


青年が自己紹介した。


「トーマス」


二人は握手をした。


冷たい手だった。


震えていた。


自分と同じだ。


やがて、無人地帯は兵士たちで埋まった。


イギリス兵とドイツ兵が、肩を並べて座り、煙草を分け合い、家族の写真を見せ合った。


フリードリヒはポケットから小さな写真を取り出した。


「妹。エマ」


写真には、笑顔の少女が写っていた。


トーマスも自分の写真を見せた。


母と、婚約者のメアリーが写っている。


「美しい」


フリードリヒが微笑んだ。


トーマスも笑った。


数時間前まで、この男を殺そうとしていたなんて、信じられなかった。


誰かがハーモニカを吹き始めた。


また別の誰かが歌い出した。


イギリス兵もドイツ兵も、一緒に歌った。


言葉は違っても、メロディーは同じだった。


真夜中を過ぎた頃、フリードリヒが呟いた。


「明日、また...」


彼は言葉を続けられなかった。


トーマスは頷いた。


「わかってる」


明日になれば、また戦争が始まる。


また互いに銃を向け合う。


この手で、フリードリヒを殺すかもしれない。


フリードリヒに殺されるかもしれない。


「これは、間違ってる」


フリードリヒが苦しそうに言った。


「僕は、君を憎んでなんかいない」


「俺もだ」


トーマスの目に涙が滲んだ。


「俺も、お前を憎んでない」


二人はしばらく黙って、星空を見上げた。


第二部:フリードリヒ・シュミット


夜明けが近づいていた。


フリードリヒ・シュミットは、塹壕に戻りながら、トーマスの顔を記憶に刻み込もうとした。


褐色の髪。


優しい目。


妹のエマと同じくらいの年齢。


指揮官たちは、この夜のことを知らないふりをした。


公式には、何も起こらなかった。


だが、全員が知っていた。


今夜、敵ではなく人間に出会ったことを。


12月25日。


クリスマスの朝。


フリードリヒは塹壕の縁に立ち、無人地帯を見つめた。


昨夜、あそこでトーマスと笑い合った。


写真を見せ合った。夢を語り合った。


「配置につけ!」


上官の声が響いた。


フリードリヒは銃を手に取った。


照準器を覗く。


向こう側のイギリス軍塹壕が見えた。


誰かの頭が、一瞬だけ覗いた。


褐色の髪。


心臓が止まりそうになった。


トーマスだ。


フリードリヒの指が、引き金にかかった。


昨夜握手をした手。


昨夜、家族の話をした相手。


昨夜、一緒に歌った友。


照準器の中で、トーマスもこちらを見ている気がした。


銃声が響いた。


別の場所からだった。


戦闘が再開された。


フリードリヒは引き金に指をかけたまま、動けなかった。


「シュミット!何をしている!撃て!」


上官が怒鳴った。


フリードリヒの目から涙が溢れた。


友よ………


彼は銃口を、わずかに上に向けた。


そして、引き金を引いた。


弾丸は、トーマスの頭上を通り過ぎた。


向こう側から、銃弾が飛んできた。


フリードリヒの左肩をかすめた。


痛みが走ったが、それは重要ではなかった。


あの弾丸も、わずかに外れていた。


わざと。


フリードリヒは理解した。


トーマスも、同じことをしている。


互いに、殺さないように、でも撃っているふりをして。


それがどれだけ続けられるかは、わからなかった。


いつか、どちらかの弾が当たるかもしれない。


上官の命令で、もっと正確に狙わされるかもしれない。


それでも、今この瞬間は、二人とも生きている。


昨夜の歌声が、フリードリヒの耳に蘇った。


「Stille Nacht, heilige Nacht...」


聖なる夜。


たった一夜だけの奇跡。


でも、その奇跡は確かにあった。


敵ではなく、人間に出会った夜。


憎しみではなく、歌を交わした夜。


フリードリヒは銃を構えたまま、静かに祈った。


トーマスが生き延びますように。


この戦争が終わりますように。


いつか、また会えますように。


今度は、銃ではなく、握手をするために。



1914年12月24日、西部戦線の各所で実際に起こった「クリスマス休戦」。敵対する兵士たちが一夜だけ武器を置き、歌を歌い、食べ物を分け合い、人間として触れ合った。翌日、戦争は再開された。この出来事は、後に「人類史上最も美しく、最も悲しい奇跡」と呼ばれるようになる。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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