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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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15/30

【闇を蹴る】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。


「父ちゃん、誕生日に何が欲しいか、聞いてくれるって言ってたよね」


蓮が唐突に切り出したのは、十二歳の誕生日を三日後に控えた夕食の席だった。箸を持つ手を止めて、俺は息子の方を向いた。蓮の顔は俺の方を向いていない。正確には、俺の方を「見て」いない。見ることができないから。


「ああ、何でも言ってみろ」


俺は努めて明るく答えた。十二歳。小学校最後の年だ。少し奮発してもいいと思っていた。


「俺さ」蓮は箸を置いた。「目が、見えるようになりたい」


心臓が、ぎゅっと締め付けられた。


「目が......」


「うん」蓮は頷いた。その表情は真剣で、少し寂しげで、それでいてどこか恥ずかしそうだった。「生まれてからずっと見えないから、別に気にしてなかったんだ。でもさ、最近、友達がいろんな話をしてくれるんだ。夕焼けがきれいだったとか、虹が出たとか。それでさ、俺も見てみたいなって思うようになって」


俺は何も言えなかった。


「花も見てみたい。桜とか、ひまわりとか。海も見たい。それから......」蓮は俺の方に顔を向けた。白く濁った瞳が、俺を「見て」いた。「父ちゃんの顔」


胸が熱くなった。目頭が熱くなった。


蓮は生まれた時から目が見えなかった。妻の香織は難産だった。二十時間以上かかった出産の末、蓮は生まれた。そして香織は、息子の産声を聞いて、「よかった」と微笑んで、そのまま二度と目を覚まさなかった。


医者に蓮の目のことを告げられた時、俺は泣かなかった。泣いている暇がなかった。


蓮が成長するにつれて、俺は彼の明るさに救われた。友達もたくさんできた。点字を覚え、白杖の使い方を覚え、一人で近所を歩けるようになった。


俺は勝手に思っていた。生まれつき見えないのだから、見えないことを悲しいとは思わないのだろうと。


でも、違った。


蓮は見たかったのだ。この世界を。色を。光を。そして、父親の顔を。


「なあ、蓮」俺はやっとの思いで声を出した。「それは......無理なんだ。医者にも言われただろう。お前の目は、手術しても治らない」


「うん、分かってる」蓮はあっさりと答えた。「無理なのは分かってる。でも、誕生日に何が欲しいか聞かれたから、正直に言っただけ。ごめん、困らせたかった訳じゃないんだ」


「困ってなんか......」


「父ちゃん、息が荒いよ。動揺してる」蓮はくすっと笑った。「大丈夫。俺、今の生活に不満がある訳じゃない。ただ、もし見えたらいいなって思っただけ。叶わない願い事って、誰にでもあるでしょ?」


その晩、蓮が寝た後、俺は一人リビングで座っていた。


見せてやりたかった。息子に、この世界を見せてやりたかった。


でも、できない。


俺にできることは何だろう。


その時、ふと、三年前の記憶が蘇った。



蓮が小学三年生の時、学校の運動会があった。


蓮は親友の隼人と二人三脚に出た。


スタートの合図とともに走り出した二人を見て、俺は驚いた。


蓮は笑っていた。


隼人の声に導かれながら、時々よろけながらも、蓮は全力で走っていた。風を受けて、髪をなびかせて、まるで鳥のように自由に。


ゴールした時、蓮は息を切らしながら言った。


「父ちゃん! すごかった! 風が気持ちよかった!」


その顔は、俺がこれまで見た中で一番輝いていた。


走ること。


蓮は走ることが好きだった。


俺は机の引き出しを開けた。そこには、三年前に撮った運動会の写真が入っていた。


そして、もう一枚。


香織の写真。


大学時代、陸上部に所属していた香織が、トラックを走っている写真。


「走ってる時が一番自由なの」香織はよく言っていた。「風になれる気がする」


俺は決めた。


翌日、俺はスポーツ用品店に向かった。



「誕生日おめでとう、蓮」


三日後の朝、俺は蓮に包みを渡した。


「ありがとう、父ちゃん」蓮は嬉しそうに包装を破った。「これ、何? ロープ?」


「伴走ロープだ」俺は答えた。「視覚障害者のマラソンで使うやつ。走者と伴走者をつなぐ」


「マラソン?」


「ああ」俺は息を吸った。「蓮、お前に世界を見せてやることは、俺にはできない。申し訳ない。でも、夢を見させてやることはできる」


「夢?」


「マラソン、やってみないか? お前と俺で。伴走ロープでつながって、一緒に走る」


蓮は黙っていた。


「マラソンをしたって、目は見えるようにならないよ」蓮は静かに言った。


「ああ、見えるようにはならない」俺は頷いた。「でも、感じることはできる。風を。太陽を。地面を。そして、俺の息づかいを。お前の母さんはな、走ってる時が一番自由だって言ってた。風になれるって」


「母さんが......」


「お前の母さんは、陸上選手だった。走るのが大好きだった。お前が走るのが好きなのは、母さんに似たんだと思う」


蓮の目から、一筋の涙が流れた。


「目は見えない。でも、お前は走ることができる。風を感じることができる。俺と一緒なら、どこまでも走れる。それは、世界を見ることとは違うかもしれない。でも、お前なりの方法で、世界を感じることができる」


俺は蓮の手を取った。


「見ることと感じることは、違う。でも、どっちも世界を知る方法だ。お前には、お前のやり方がある。俺は、そのやり方でお前が世界を知るのを手伝いたい。一緒に走りたい」


蓮は泣いていた。でも、笑っていた。


「やる」蓮は言った。「やってみたい」


その日から、俺たちの練習が始まった。



最初は近所の公園から始めた。


伴走ロープは短い。五十センチほどの輪になっていて、両端を走者と伴走者がそれぞれ握る。


「ゆっくり行くぞ」俺は言った。「まず歩くところから」


公園の外周路は一周五百メートル。


最初の一周は、ひたすら歩いた。俺は蓮に声をかけながら、路面の状態を伝えた。


二周目は、軽くジョギング。


蓮の走りは、最初ぎこちなかった。何度も足がもつれそうになった。


でも、三周目、四周目と繰り返すうちに、蓮の走りが変わってきた。


俺の足音を聞いている。俺の呼吸を聞いている。ロープの張り具合で、俺の動きを感じている。


五周目を走り終えた時、蓮は言った。


「父ちゃん、もっと走りたい」


その顔は、あの運動会の時と同じように輝いていた。


週に三回、公園で練習した。


一キロ、二キロ、三キロと、徐々に距離を伸ばしていった。


蓮の走りは、日に日に良くなっていった。


そして何より、蓮の表情が変わった。


走っている時の蓮は、本当に楽しそうだった。


「父ちゃん、今日の風、いつもと違う。あったかい。春の風だ」


蓮は季節を感じていた。


「今日は日差しが強いね」

「木陰に入ると、急に涼しくなる」

「あ、鳥の声。近くに巣があるのかな」


蓮は世界を感じていた。目ではなく、肌で、耳で、鼻で。


ある日、五キロを走り終えた後、蓮が言った。


「父ちゃん、大会に出てみたい」


俺は調べた。視覚障害者のマラソン大会は、全国各地で開催されている。その中で、親子で参加できる大会を見つけた。五キロの部門がある。三ヶ月後に開催される。


「行くか」俺は蓮に言った。


「行きたい」蓮は答えた。


目標ができた。



三ヶ月間、俺たちは練習を続けた。


雨の日も、風の日も、できる限り走った。


息が合ってきた。


最初は俺が蓮を引っ張る形だったのが、いつの間にか対等になっていた。互いの動きを感じ合いながら、一つのリズムで走る。


そして、大会の一週間前。


俺たちは初めて五キロを三十分以内で走り切った。


「やった!」ゴールした瞬間、蓮は叫んだ。「父ちゃん、やったよ!」


「ああ、やったな」俺も笑った。


大会前日。


「蓮、緊張してるか?」俺は聞いた。


「うん、ちょっと」蓮は答えた。「でも、楽しみの方が大きい」


「父ちゃん」蓮は言った。「ありがとう」


「何が?」


「俺に、走ることを教えてくれて。一緒に走ってくれて。目は見えないけど、俺、今すごく幸せだよ」


胸が熱くなった。


「こっちこそ、ありがとうだ」俺は答えた。「お前がいてくれて、一緒に走ってくれて、俺も幸せだ」



大会当日は、快晴だった。


会場には、たくさんの視覚障害者ランナーと伴走者が集まっていた。


受付を済ませて、ゼッケンをつける。俺たちは百三番。


スタート地点に並ぶ。


蓮は俺の手を握った。いや、伴走ロープを握った。


「父ちゃん、行こう」


「ああ、行くぞ」


スタートの合図。


ピストルの音が鳴り響いた。


俺たちは走り出した。


一キロの標識を過ぎる。タイムは六分十秒。


「調子はどうだ?」

「いいよ」


二キロ。タイムは十二分二十秒。


三キロ。十八分三十秒。いいペースだ。


四キロ。二十五分。


残り一キロ。


蓮の足取りが重くなってきた。


「蓮、もう少しだ」


「分かってる......でも......」


「一緒に走ろう。俺がいる。お前は一人じゃない」


ゴールまで、あと五百メートル。


沿道から声援が聞こえる。


「頑張れ!」

「もう少しだよ!」


蓮は顔を上げた。その顔に、また笑顔が戻った。


「父ちゃん、行くよ」


「ああ」


最後の力を振り絞る。


ゴールが見えた。


「今だ、蓮!」


俺たちは、同時にゴールテープを切った。


タイムは、二十九分五十二秒。


目標達成。



ゴールした瞬間、蓮は膝に手をついた。


でも、笑っていた。


「やった......やったよ、父ちゃん......」


「ああ、やったな」俺も息を切らしながら答えた。


閉会式で、完走証をもらった。


点字で印刷された証書。蓮にとって、初めての、本当の意味でのメダルだった。


帰り道、電車の中で、蓮は窓に顔を向けていた。


「風を感じてる」蓮は答えた。「走ってる時の風とは違う。電車の風」


カレーを食べながら、蓮が言った。


「父ちゃん、次はいつ大会に出る?」


「次? もう次を考えてるのか」


「うん。もっと走りたい。もっと速くなりたい。いつか、十キロも走ってみたい」


俺は笑った。


「いいぞ。また一緒に練習しよう」


その夜、蓮が寝た後、俺は一人、香織の写真を見ていた。


走っている香織。


「香織」俺は写真に語りかけた。「蓮は、お前に似て、走るのが好きみたいだ。今日、一緒に大会に出た。蓮は、すごく頑張った」


「ありがとう、香織。蓮を、産んでくれて」



それから、俺たちは走り続けた。


週に三回の練習は、変わらず続いた。


五キロから、七キロに。七キロから、十キロに。


中学生になっても、高校生になっても、俺たちは走り続けた。


大会にも、何度も出た。時には入賞することもあった。でも、順位はどうでもよかった。大事なのは、走ること。一緒に風を感じること。


ある日、蓮は言った。もう高校二年生になっていた。


「父ちゃん、俺、将来マッサージ師になりたい」


「マッサージ師?」


「うん。視覚障害者でもできる仕事。それに、いつか、伴走ボランティアもやってみたい。今度は、俺が伴走者になって」


俺は驚いた。


「でも、お前、目が......」


「見えない人が、見えない人の伴走をすることもあるんだって。俺は走ることの楽しさを知ってる。それを、他の人にも伝えたい」


俺は息子の顔を見た。


もう俺の背丈を超えている。


でも、その笑顔は、十二歳の誕生日の朝に見せた笑顔と、変わらなかった。


「すごいな、蓮」俺は言った。「お前は本当に、強い」


「父ちゃんのおかげだよ」蓮は答えた。「あの時、伴走ロープをくれて、一緒に走ってくれて」


「これからも、一緒に走ろう」


「うん」



蓮が二十歳になった誕生日。


俺たちは、またあの公園にいた。八年前、初めて一緒に走った、あの公園。


「懐かしいな」蓮は言った。


あれから八年。


蓮はマッサージの専門学校に通っている。そして週末には、視覚障害者のランニングクラブで伴走ボランティアをしている。


「父ちゃん」蓮が言った。「今日、プレゼントがあるんだ」


「ん? 誕生日は蓮の方だろう」


「そう。だから、俺から父ちゃんへのプレゼント」


蓮はバッグから、何かを取り出した。


伴走ロープだった。


新しい、真っ白な伴走ロープ。


「八年前、父ちゃんがくれたロープ、もうボロボロでしょ。新しいのを買った。これで、また一緒に走ろう」


俺は、そのロープを受け取った。


「ありがとう、蓮」


「それとね」蓮は続けた。「来月、フルマラソンの大会がある。四十二キロ。父ちゃん、一緒に出てくれる?」


フルマラソン。


俺たちが、まだ挑戦したことのない距離。


「走れるか?」俺は聞いた。


「分からない」蓮は正直に答えた。「でも、やってみたい。父ちゃんと一緒なら、走れる気がする」


俺は新しい伴走ロープを見た。


「いいだろう」俺は答えた。「やってみよう」


蓮の顔が、ぱっと輝いた。


「本当に?」


「ああ。ただし、練習はきついぞ」


「分かってる」蓮は頷いた。「頑張る」


その日から、俺たちは新しい目標に向かって走り始めた。


練習は確かにきつかった。


十五キロ、二十キロ、二十五キロ。


「もう無理かも」


二十キロを過ぎたあたりで、蓮が弱音を吐いたことがあった。


「大丈夫だ」俺は言った。「まだいける」


「蓮、覚えてるか? 八年前、初めて五キロを走った時、お前は言った。もっと走りたいって」


「あの時のお前の目は、輝いてた。今も同じだ。お前は走ることが好きだ。だから、大丈夫。俺たちなら走れる」


蓮は、ゆっくりと頷いた。


「うん。走る」


大会の一週間前、三十キロの練習を無事に終えた。


「いけるな」俺は言った。


「いける」蓮も答えた。


大会当日。


スタート地点に並ぶ。


新しい伴走ロープを、俺と蓮で握る。


「蓮」俺は言った。「無理はするな」


「父ちゃんこそ」蓮は言い返した。「もう若くないんだから」


俺は笑った。


スタートの合図。


俺たちは、走り出した。


最初の十キロは、順調だった。


二十キロも、問題なく通過した。


でも、二十五キロを過ぎたあたりから、疲労が押し寄せてきた。


三十キロ。


「大丈夫か?」俺は聞いた。


「まだ......いける......」蓮の声は、かすれていた。


三十五キロ。


もう限界が近い。


「蓮、覚えてるか」俺は言った。「八年前、初めての大会で、お前は言った。風が気持ちいいって」


「覚えてる......」


「今も、風は吹いてる。お前の母さんが感じてた風と、同じ風だ。その風と一緒に、走ろう」


四十キロ。


残り二・一九五キロ。


沿道の声援が、大きくなる。


蓮は顔を上げた。


「父ちゃん」


「なんだ」


「ありがとう」


「何が」


「ずっと、隣にいてくれて。ずっと、一緒に走ってくれて」


俺は、胸が熱くなった。


「こっちこそだ」俺は答えた。「お前が、俺に走る理由をくれた」


ゴールが見えた。


「蓮、行くぞ」


「うん」


最後の力を振り絞る。


ロープが、ぴんと張る。


俺と蓮の足音が、一つになる。


呼吸が、一つになる。


「今だ!」


俺たちは、同時にゴールテープを切った。


タイムは、四時間十二分三十秒。


完走だ。



ゴールした瞬間、蓮は倒れこんだ。


俺も、膝をついた。


でも、笑っていた。


「やった......やったよ、父ちゃん......」


「ああ......やったな......」


しばらく、そこに座り込んでいた。


体は疲れ切っていた。


でも、心は満たされていた。


「父ちゃん」蓮が言った。「俺、見えたよ」


「何が?」


「世界。風の色。太陽の温度。地面の感触。そして、父ちゃんの隣にいる安心感。全部、感じた。これが、俺の見る世界だ」


俺は、蓮の肩を抱いた。


「そうか」


「目は見えない。これからも、見えることはないだろう。でも、俺には見える世界がある。感じる世界がある。父ちゃんがくれた世界だ」


「違う」俺は言った。「お前が、自分で見つけた世界だ」


「それでいいんだよ」蓮は笑った。「隣にいてくれるだけで、俺は走れる。世界を感じられる」


俺は、空を見上げた。


青い空。白い雲。まぶしい太陽。


蓮には、これが見えない。


でも、蓮には蓮の見方がある。


それは、目で見ることとは違う。


でも、それも世界を知る、一つの方法だ。


「蓮」俺は言った。「お前の母さん、きっと誇りに思ってるぞ」


「母さん......」


「走ることが好きだったお前の母さん。お前が、同じように風を感じながら走っている姿を、きっとどこかで見てる」


蓮の目から、涙が流れた。


「ありがとう、父ちゃん」


「こっちこそ。お前が、生まれてきてくれて、ありがとう」


俺は、新しい伴走ロープを見た。


もう、汗で濡れている。


これから、このロープはまた俺たちと一緒に、何千キロも走るだろう。


「父ちゃん」蓮が言った。「帰ったら、カレー食べたい」


俺は笑った。


「了解。お前の好きなカレーを作ってやる」


「やった」


俺たちは、ゆっくりと立ち上がった。


二人で、肩を支え合いながら、会場を後にした。


帰り道、電車の中で、蓮は窓に顔を向けていた。


「風を感じてる?」俺は聞いた。


「うん」蓮は答えた。「今日の風は、特別だ。完走した風だ」


俺は、蓮の横顔を見た。


二十歳になった息子。


もう、俺の背丈を超えている。


でも、笑顔は、あの十二歳の誕生日の朝と、変わらない。


「蓮」


「なに?」


「これからも、一緒に走ろう」


蓮は、俺の方を向いた。


白く濁った瞳が、俺を「見て」いた。


「うん。ずっと一緒に」


電車が、夕日に向かって走っていく。


俺は、胸のポケットに手を入れた。


そこには、香織の写真が入っている。


走っている香織。


「香織」俺は心の中で語りかけた。「蓮は、立派に育ったよ。お前に似て、走ることが好きで、強くて、優しい子に育った」


「これからも、蓮と一緒に走る。お前が感じていた風を、蓮と一緒に感じる。だから、見守っていてくれ」


電車は、夕日の中を走り続ける。


俺と蓮を乗せて。


これからも、ずっと。


───


家に着いて、カレーを作った。


「いただきます」


二人で、カレーを食べる。


「美味しい」蓮は言った。


「今日は特別美味しい。完走した後のカレーは最高だ」


俺も笑った。


「そうだな」


テーブルの上に、完走証が置いてある。


点字で印刷された証書。


俺と蓮の名前。


タイム、四時間十二分三十秒。


十二歳の誕生日に、俺が蓮に渡した伴走ロープ。


あれから八年。


俺たちは、何百回も一緒に走った。


蓮に、世界を見せることはできなかった。


でも、世界を感じさせることはできた。


それで、よかったのだと思う。


きっと、明日からまた練習が始まる。


次の目標を見つけて、また走り出す。


俺と蓮は、これからもずっと走り続けるだろう。


伴走ロープでつながって。


互いの息づかいを感じながら。


風と一緒に。


「ありがとう、蓮」俺は呟いた。「お前が、俺に走る理由をくれた」


窓の外を見ると、星が輝いていた。


蓮には、この星も見えない。


でも、いつか伝えよう。


星は、こんな風に輝いているんだと。


そして、お前の笑顔も、星と同じくらい輝いているんだと。


俺は、リビングの電気を消した。


明日も、早起きして仕事に行かなければならない。


でも、その前に、蓮と一緒に朝のランニングをするだろう。


いつものように。


伴走ロープを握って。


風を感じながら。


二人で。


ずっと。


─── 完 ───

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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