【闇を蹴る】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
一
「父ちゃん、誕生日に何が欲しいか、聞いてくれるって言ってたよね」
蓮が唐突に切り出したのは、十二歳の誕生日を三日後に控えた夕食の席だった。箸を持つ手を止めて、俺は息子の方を向いた。蓮の顔は俺の方を向いていない。正確には、俺の方を「見て」いない。見ることができないから。
「ああ、何でも言ってみろ」
俺は努めて明るく答えた。十二歳。小学校最後の年だ。少し奮発してもいいと思っていた。
「俺さ」蓮は箸を置いた。「目が、見えるようになりたい」
心臓が、ぎゅっと締め付けられた。
「目が......」
「うん」蓮は頷いた。その表情は真剣で、少し寂しげで、それでいてどこか恥ずかしそうだった。「生まれてからずっと見えないから、別に気にしてなかったんだ。でもさ、最近、友達がいろんな話をしてくれるんだ。夕焼けがきれいだったとか、虹が出たとか。それでさ、俺も見てみたいなって思うようになって」
俺は何も言えなかった。
「花も見てみたい。桜とか、ひまわりとか。海も見たい。それから......」蓮は俺の方に顔を向けた。白く濁った瞳が、俺を「見て」いた。「父ちゃんの顔」
胸が熱くなった。目頭が熱くなった。
蓮は生まれた時から目が見えなかった。妻の香織は難産だった。二十時間以上かかった出産の末、蓮は生まれた。そして香織は、息子の産声を聞いて、「よかった」と微笑んで、そのまま二度と目を覚まさなかった。
医者に蓮の目のことを告げられた時、俺は泣かなかった。泣いている暇がなかった。
蓮が成長するにつれて、俺は彼の明るさに救われた。友達もたくさんできた。点字を覚え、白杖の使い方を覚え、一人で近所を歩けるようになった。
俺は勝手に思っていた。生まれつき見えないのだから、見えないことを悲しいとは思わないのだろうと。
でも、違った。
蓮は見たかったのだ。この世界を。色を。光を。そして、父親の顔を。
「なあ、蓮」俺はやっとの思いで声を出した。「それは......無理なんだ。医者にも言われただろう。お前の目は、手術しても治らない」
「うん、分かってる」蓮はあっさりと答えた。「無理なのは分かってる。でも、誕生日に何が欲しいか聞かれたから、正直に言っただけ。ごめん、困らせたかった訳じゃないんだ」
「困ってなんか......」
「父ちゃん、息が荒いよ。動揺してる」蓮はくすっと笑った。「大丈夫。俺、今の生活に不満がある訳じゃない。ただ、もし見えたらいいなって思っただけ。叶わない願い事って、誰にでもあるでしょ?」
その晩、蓮が寝た後、俺は一人リビングで座っていた。
見せてやりたかった。息子に、この世界を見せてやりたかった。
でも、できない。
俺にできることは何だろう。
その時、ふと、三年前の記憶が蘇った。
二
蓮が小学三年生の時、学校の運動会があった。
蓮は親友の隼人と二人三脚に出た。
スタートの合図とともに走り出した二人を見て、俺は驚いた。
蓮は笑っていた。
隼人の声に導かれながら、時々よろけながらも、蓮は全力で走っていた。風を受けて、髪をなびかせて、まるで鳥のように自由に。
ゴールした時、蓮は息を切らしながら言った。
「父ちゃん! すごかった! 風が気持ちよかった!」
その顔は、俺がこれまで見た中で一番輝いていた。
走ること。
蓮は走ることが好きだった。
俺は机の引き出しを開けた。そこには、三年前に撮った運動会の写真が入っていた。
そして、もう一枚。
香織の写真。
大学時代、陸上部に所属していた香織が、トラックを走っている写真。
「走ってる時が一番自由なの」香織はよく言っていた。「風になれる気がする」
俺は決めた。
翌日、俺はスポーツ用品店に向かった。
三
「誕生日おめでとう、蓮」
三日後の朝、俺は蓮に包みを渡した。
「ありがとう、父ちゃん」蓮は嬉しそうに包装を破った。「これ、何? ロープ?」
「伴走ロープだ」俺は答えた。「視覚障害者のマラソンで使うやつ。走者と伴走者をつなぐ」
「マラソン?」
「ああ」俺は息を吸った。「蓮、お前に世界を見せてやることは、俺にはできない。申し訳ない。でも、夢を見させてやることはできる」
「夢?」
「マラソン、やってみないか? お前と俺で。伴走ロープでつながって、一緒に走る」
蓮は黙っていた。
「マラソンをしたって、目は見えるようにならないよ」蓮は静かに言った。
「ああ、見えるようにはならない」俺は頷いた。「でも、感じることはできる。風を。太陽を。地面を。そして、俺の息づかいを。お前の母さんはな、走ってる時が一番自由だって言ってた。風になれるって」
「母さんが......」
「お前の母さんは、陸上選手だった。走るのが大好きだった。お前が走るのが好きなのは、母さんに似たんだと思う」
蓮の目から、一筋の涙が流れた。
「目は見えない。でも、お前は走ることができる。風を感じることができる。俺と一緒なら、どこまでも走れる。それは、世界を見ることとは違うかもしれない。でも、お前なりの方法で、世界を感じることができる」
俺は蓮の手を取った。
「見ることと感じることは、違う。でも、どっちも世界を知る方法だ。お前には、お前のやり方がある。俺は、そのやり方でお前が世界を知るのを手伝いたい。一緒に走りたい」
蓮は泣いていた。でも、笑っていた。
「やる」蓮は言った。「やってみたい」
その日から、俺たちの練習が始まった。
四
最初は近所の公園から始めた。
伴走ロープは短い。五十センチほどの輪になっていて、両端を走者と伴走者がそれぞれ握る。
「ゆっくり行くぞ」俺は言った。「まず歩くところから」
公園の外周路は一周五百メートル。
最初の一周は、ひたすら歩いた。俺は蓮に声をかけながら、路面の状態を伝えた。
二周目は、軽くジョギング。
蓮の走りは、最初ぎこちなかった。何度も足がもつれそうになった。
でも、三周目、四周目と繰り返すうちに、蓮の走りが変わってきた。
俺の足音を聞いている。俺の呼吸を聞いている。ロープの張り具合で、俺の動きを感じている。
五周目を走り終えた時、蓮は言った。
「父ちゃん、もっと走りたい」
その顔は、あの運動会の時と同じように輝いていた。
週に三回、公園で練習した。
一キロ、二キロ、三キロと、徐々に距離を伸ばしていった。
蓮の走りは、日に日に良くなっていった。
そして何より、蓮の表情が変わった。
走っている時の蓮は、本当に楽しそうだった。
「父ちゃん、今日の風、いつもと違う。あったかい。春の風だ」
蓮は季節を感じていた。
「今日は日差しが強いね」
「木陰に入ると、急に涼しくなる」
「あ、鳥の声。近くに巣があるのかな」
蓮は世界を感じていた。目ではなく、肌で、耳で、鼻で。
ある日、五キロを走り終えた後、蓮が言った。
「父ちゃん、大会に出てみたい」
俺は調べた。視覚障害者のマラソン大会は、全国各地で開催されている。その中で、親子で参加できる大会を見つけた。五キロの部門がある。三ヶ月後に開催される。
「行くか」俺は蓮に言った。
「行きたい」蓮は答えた。
目標ができた。
五
三ヶ月間、俺たちは練習を続けた。
雨の日も、風の日も、できる限り走った。
息が合ってきた。
最初は俺が蓮を引っ張る形だったのが、いつの間にか対等になっていた。互いの動きを感じ合いながら、一つのリズムで走る。
そして、大会の一週間前。
俺たちは初めて五キロを三十分以内で走り切った。
「やった!」ゴールした瞬間、蓮は叫んだ。「父ちゃん、やったよ!」
「ああ、やったな」俺も笑った。
大会前日。
「蓮、緊張してるか?」俺は聞いた。
「うん、ちょっと」蓮は答えた。「でも、楽しみの方が大きい」
「父ちゃん」蓮は言った。「ありがとう」
「何が?」
「俺に、走ることを教えてくれて。一緒に走ってくれて。目は見えないけど、俺、今すごく幸せだよ」
胸が熱くなった。
「こっちこそ、ありがとうだ」俺は答えた。「お前がいてくれて、一緒に走ってくれて、俺も幸せだ」
六
大会当日は、快晴だった。
会場には、たくさんの視覚障害者ランナーと伴走者が集まっていた。
受付を済ませて、ゼッケンをつける。俺たちは百三番。
スタート地点に並ぶ。
蓮は俺の手を握った。いや、伴走ロープを握った。
「父ちゃん、行こう」
「ああ、行くぞ」
スタートの合図。
ピストルの音が鳴り響いた。
俺たちは走り出した。
一キロの標識を過ぎる。タイムは六分十秒。
「調子はどうだ?」
「いいよ」
二キロ。タイムは十二分二十秒。
三キロ。十八分三十秒。いいペースだ。
四キロ。二十五分。
残り一キロ。
蓮の足取りが重くなってきた。
「蓮、もう少しだ」
「分かってる......でも......」
「一緒に走ろう。俺がいる。お前は一人じゃない」
ゴールまで、あと五百メートル。
沿道から声援が聞こえる。
「頑張れ!」
「もう少しだよ!」
蓮は顔を上げた。その顔に、また笑顔が戻った。
「父ちゃん、行くよ」
「ああ」
最後の力を振り絞る。
ゴールが見えた。
「今だ、蓮!」
俺たちは、同時にゴールテープを切った。
タイムは、二十九分五十二秒。
目標達成。
七
ゴールした瞬間、蓮は膝に手をついた。
でも、笑っていた。
「やった......やったよ、父ちゃん......」
「ああ、やったな」俺も息を切らしながら答えた。
閉会式で、完走証をもらった。
点字で印刷された証書。蓮にとって、初めての、本当の意味でのメダルだった。
帰り道、電車の中で、蓮は窓に顔を向けていた。
「風を感じてる」蓮は答えた。「走ってる時の風とは違う。電車の風」
カレーを食べながら、蓮が言った。
「父ちゃん、次はいつ大会に出る?」
「次? もう次を考えてるのか」
「うん。もっと走りたい。もっと速くなりたい。いつか、十キロも走ってみたい」
俺は笑った。
「いいぞ。また一緒に練習しよう」
その夜、蓮が寝た後、俺は一人、香織の写真を見ていた。
走っている香織。
「香織」俺は写真に語りかけた。「蓮は、お前に似て、走るのが好きみたいだ。今日、一緒に大会に出た。蓮は、すごく頑張った」
「ありがとう、香織。蓮を、産んでくれて」
八
それから、俺たちは走り続けた。
週に三回の練習は、変わらず続いた。
五キロから、七キロに。七キロから、十キロに。
中学生になっても、高校生になっても、俺たちは走り続けた。
大会にも、何度も出た。時には入賞することもあった。でも、順位はどうでもよかった。大事なのは、走ること。一緒に風を感じること。
ある日、蓮は言った。もう高校二年生になっていた。
「父ちゃん、俺、将来マッサージ師になりたい」
「マッサージ師?」
「うん。視覚障害者でもできる仕事。それに、いつか、伴走ボランティアもやってみたい。今度は、俺が伴走者になって」
俺は驚いた。
「でも、お前、目が......」
「見えない人が、見えない人の伴走をすることもあるんだって。俺は走ることの楽しさを知ってる。それを、他の人にも伝えたい」
俺は息子の顔を見た。
もう俺の背丈を超えている。
でも、その笑顔は、十二歳の誕生日の朝に見せた笑顔と、変わらなかった。
「すごいな、蓮」俺は言った。「お前は本当に、強い」
「父ちゃんのおかげだよ」蓮は答えた。「あの時、伴走ロープをくれて、一緒に走ってくれて」
「これからも、一緒に走ろう」
「うん」
九
蓮が二十歳になった誕生日。
俺たちは、またあの公園にいた。八年前、初めて一緒に走った、あの公園。
「懐かしいな」蓮は言った。
あれから八年。
蓮はマッサージの専門学校に通っている。そして週末には、視覚障害者のランニングクラブで伴走ボランティアをしている。
「父ちゃん」蓮が言った。「今日、プレゼントがあるんだ」
「ん? 誕生日は蓮の方だろう」
「そう。だから、俺から父ちゃんへのプレゼント」
蓮はバッグから、何かを取り出した。
伴走ロープだった。
新しい、真っ白な伴走ロープ。
「八年前、父ちゃんがくれたロープ、もうボロボロでしょ。新しいのを買った。これで、また一緒に走ろう」
俺は、そのロープを受け取った。
「ありがとう、蓮」
「それとね」蓮は続けた。「来月、フルマラソンの大会がある。四十二キロ。父ちゃん、一緒に出てくれる?」
フルマラソン。
俺たちが、まだ挑戦したことのない距離。
「走れるか?」俺は聞いた。
「分からない」蓮は正直に答えた。「でも、やってみたい。父ちゃんと一緒なら、走れる気がする」
俺は新しい伴走ロープを見た。
「いいだろう」俺は答えた。「やってみよう」
蓮の顔が、ぱっと輝いた。
「本当に?」
「ああ。ただし、練習はきついぞ」
「分かってる」蓮は頷いた。「頑張る」
その日から、俺たちは新しい目標に向かって走り始めた。
練習は確かにきつかった。
十五キロ、二十キロ、二十五キロ。
「もう無理かも」
二十キロを過ぎたあたりで、蓮が弱音を吐いたことがあった。
「大丈夫だ」俺は言った。「まだいける」
「蓮、覚えてるか? 八年前、初めて五キロを走った時、お前は言った。もっと走りたいって」
「あの時のお前の目は、輝いてた。今も同じだ。お前は走ることが好きだ。だから、大丈夫。俺たちなら走れる」
蓮は、ゆっくりと頷いた。
「うん。走る」
大会の一週間前、三十キロの練習を無事に終えた。
「いけるな」俺は言った。
「いける」蓮も答えた。
大会当日。
スタート地点に並ぶ。
新しい伴走ロープを、俺と蓮で握る。
「蓮」俺は言った。「無理はするな」
「父ちゃんこそ」蓮は言い返した。「もう若くないんだから」
俺は笑った。
スタートの合図。
俺たちは、走り出した。
最初の十キロは、順調だった。
二十キロも、問題なく通過した。
でも、二十五キロを過ぎたあたりから、疲労が押し寄せてきた。
三十キロ。
「大丈夫か?」俺は聞いた。
「まだ......いける......」蓮の声は、かすれていた。
三十五キロ。
もう限界が近い。
「蓮、覚えてるか」俺は言った。「八年前、初めての大会で、お前は言った。風が気持ちいいって」
「覚えてる......」
「今も、風は吹いてる。お前の母さんが感じてた風と、同じ風だ。その風と一緒に、走ろう」
四十キロ。
残り二・一九五キロ。
沿道の声援が、大きくなる。
蓮は顔を上げた。
「父ちゃん」
「なんだ」
「ありがとう」
「何が」
「ずっと、隣にいてくれて。ずっと、一緒に走ってくれて」
俺は、胸が熱くなった。
「こっちこそだ」俺は答えた。「お前が、俺に走る理由をくれた」
ゴールが見えた。
「蓮、行くぞ」
「うん」
最後の力を振り絞る。
ロープが、ぴんと張る。
俺と蓮の足音が、一つになる。
呼吸が、一つになる。
「今だ!」
俺たちは、同時にゴールテープを切った。
タイムは、四時間十二分三十秒。
完走だ。
十
ゴールした瞬間、蓮は倒れこんだ。
俺も、膝をついた。
でも、笑っていた。
「やった......やったよ、父ちゃん......」
「ああ......やったな......」
しばらく、そこに座り込んでいた。
体は疲れ切っていた。
でも、心は満たされていた。
「父ちゃん」蓮が言った。「俺、見えたよ」
「何が?」
「世界。風の色。太陽の温度。地面の感触。そして、父ちゃんの隣にいる安心感。全部、感じた。これが、俺の見る世界だ」
俺は、蓮の肩を抱いた。
「そうか」
「目は見えない。これからも、見えることはないだろう。でも、俺には見える世界がある。感じる世界がある。父ちゃんがくれた世界だ」
「違う」俺は言った。「お前が、自分で見つけた世界だ」
「それでいいんだよ」蓮は笑った。「隣にいてくれるだけで、俺は走れる。世界を感じられる」
俺は、空を見上げた。
青い空。白い雲。まぶしい太陽。
蓮には、これが見えない。
でも、蓮には蓮の見方がある。
それは、目で見ることとは違う。
でも、それも世界を知る、一つの方法だ。
「蓮」俺は言った。「お前の母さん、きっと誇りに思ってるぞ」
「母さん......」
「走ることが好きだったお前の母さん。お前が、同じように風を感じながら走っている姿を、きっとどこかで見てる」
蓮の目から、涙が流れた。
「ありがとう、父ちゃん」
「こっちこそ。お前が、生まれてきてくれて、ありがとう」
俺は、新しい伴走ロープを見た。
もう、汗で濡れている。
これから、このロープはまた俺たちと一緒に、何千キロも走るだろう。
「父ちゃん」蓮が言った。「帰ったら、カレー食べたい」
俺は笑った。
「了解。お前の好きなカレーを作ってやる」
「やった」
俺たちは、ゆっくりと立ち上がった。
二人で、肩を支え合いながら、会場を後にした。
帰り道、電車の中で、蓮は窓に顔を向けていた。
「風を感じてる?」俺は聞いた。
「うん」蓮は答えた。「今日の風は、特別だ。完走した風だ」
俺は、蓮の横顔を見た。
二十歳になった息子。
もう、俺の背丈を超えている。
でも、笑顔は、あの十二歳の誕生日の朝と、変わらない。
「蓮」
「なに?」
「これからも、一緒に走ろう」
蓮は、俺の方を向いた。
白く濁った瞳が、俺を「見て」いた。
「うん。ずっと一緒に」
電車が、夕日に向かって走っていく。
俺は、胸のポケットに手を入れた。
そこには、香織の写真が入っている。
走っている香織。
「香織」俺は心の中で語りかけた。「蓮は、立派に育ったよ。お前に似て、走ることが好きで、強くて、優しい子に育った」
「これからも、蓮と一緒に走る。お前が感じていた風を、蓮と一緒に感じる。だから、見守っていてくれ」
電車は、夕日の中を走り続ける。
俺と蓮を乗せて。
これからも、ずっと。
───
家に着いて、カレーを作った。
「いただきます」
二人で、カレーを食べる。
「美味しい」蓮は言った。
「今日は特別美味しい。完走した後のカレーは最高だ」
俺も笑った。
「そうだな」
テーブルの上に、完走証が置いてある。
点字で印刷された証書。
俺と蓮の名前。
タイム、四時間十二分三十秒。
十二歳の誕生日に、俺が蓮に渡した伴走ロープ。
あれから八年。
俺たちは、何百回も一緒に走った。
蓮に、世界を見せることはできなかった。
でも、世界を感じさせることはできた。
それで、よかったのだと思う。
きっと、明日からまた練習が始まる。
次の目標を見つけて、また走り出す。
俺と蓮は、これからもずっと走り続けるだろう。
伴走ロープでつながって。
互いの息づかいを感じながら。
風と一緒に。
「ありがとう、蓮」俺は呟いた。「お前が、俺に走る理由をくれた」
窓の外を見ると、星が輝いていた。
蓮には、この星も見えない。
でも、いつか伝えよう。
星は、こんな風に輝いているんだと。
そして、お前の笑顔も、星と同じくらい輝いているんだと。
俺は、リビングの電気を消した。
明日も、早起きして仕事に行かなければならない。
でも、その前に、蓮と一緒に朝のランニングをするだろう。
いつものように。
伴走ロープを握って。
風を感じながら。
二人で。
ずっと。
─── 完 ───
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




