【色のない王女】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
一
王女は生まれた時から、世界に色がなかった。
灰色の空。灰色の城。灰色のドレス。灰色の薔薇。
人々は「美しい」と言った。赤い薔薇が、青い空が、金色の髪が。でも王女にはそれが何を意味するのかわからなかった。ただ、濃淡の違う灰色が並んでいるだけだった。
七歳の時、母后が尋ねた。「この花、何色に見える?」
王女は答えられなかった。ただ、母の顔が悲しげに歪むのを見た。それ以来、誰にも言わなかった。色が見えないことを。
王女は完璧に振る舞った。侍女たちが「今日は青いドレスを」と言えば、「そうね、青が良いわ」と答えた。「赤が似合う」と言われれば、「ありがとう」と微笑んだ。
世界は灰色のままだったが、王女は色の名前を覚えた。言葉として。意味のない、空虚な記号として。
十八の春、城に音楽家が雇われた。
「盲目の天才」と人々は囁いた。王女は興味を持たなかった。また一人、城に来る人間が増えただけだ。
でも、初めて彼の音楽を聴いた夜、王女の心臓が跳ねた。
それは舞踏会だった。灰色の壁、灰色のシャンデリア、灰色のドレスを着た貴族たち。その中心で、彼はヴァイオリンを弾いていた。
音楽は、色を持っていた。
いや、違う。音楽は色そのものだった。
王女には理解できなかった。でも、胸が締め付けられるように苦しくて、同時に、何か大切なものに触れているような気がした。
曲が終わった時、王女は気づいた。自分が泣いていることに。
二
「失礼ですが、お泣きになって」
音楽家が、王女の方を向いた。見えない目が、まっすぐに王女を見つめているようだった。
「あなたの音楽が、美しかったから」
王女は答えた。嘘ではなかった。
「ありがとうございます」
音楽家は微笑んだ。その笑顔は、どこか寂しげだった。
それから、王女は毎晩、音楽家の演奏を聴きに行くようになった。公式には、「音楽の指導を受けたい」ということになっていた。
実際、王女はピアノを習った。不器用で、音を外すことも多かったが、音楽家は辛抱強く教えてくれた。
「音楽に、間違いはありません」と彼は言った。「あるのは、意図と、心だけです」
王女の指が鍵盤の上で迷う。音楽家の手が、そっと王女の手に触れた。
「ここです。感じてください」
温かかった。
王女は、初めて誰かの温もりを感じたような気がした。
三
夜は深まっていく。
練習が終わると、二人は話をした。音楽のこと。城のこと。空のこと。
「空は、今、何色ですか」と王女は尋ねた。
音楽家は少し考えて、ヴァイオリンを手に取った。そして、一つの音を奏でる。
低く、深く、どこまでも広がっていくような音。
「これが、夜の色です」
「夜の、色」
王女は繰り返した。
「はい。深くて、静かで、全てを包み込むような」
音楽家はまた別の音を奏でた。今度は高く、澄んだ音。
「そして、これが星の色」
王女は目を閉じた。音が体の中に染み込んでくる。
「私には、色が見えないの」
気がつくと、王女は言っていた。
音楽家の手が止まった。
「ずっと、見えなかった。生まれた時から」
沈黙。
「だから」と王女は続けた。「あなたの音楽が、こんなにも響くのだと思う。初めて、色を感じられた気がするから」
音楽家は何も言わなかった。ただ、ゆっくりとヴァイオリンを下ろした。
「なら、僕が教えましょう」
彼は言った。
「音で、色を」
四
それから、毎晩が特別な時間になった。
音楽家は王女に、色を教えた。
「これが赤」
激しく、情熱的な旋律。
「これが青」
静かで、少し悲しい音色。
「黄色は明るく、緑は優しく、紫は神秘的で」
王女は目を閉じて、音を聴いた。世界が、少しずつ形を変えていく。
「あなたは、何色が好きですか」と王女は尋ねた。
音楽家は少し考えて、「茶色が好きです」と答えた。
「茶色?」
「土の色。木の色。落ち着いていて、温かくて、そこに帰れば安心できる色」
音楽家は穏やかに微笑んだ。
「故郷を思い出すんです」
「故郷」
「小さな村です。海の近くで、風が強くて」
彼の声は、懐かしむような響きを帯びていた。
「いつか、帰りたいと思っています」
王女の胸に、小さな棘が刺さった。
でも、何も言わなかった。
五
秋が来た。
城の庭園を、二人で歩いた。音楽家は杖で地面を確かめながら、王女の隣を歩く。
「葉が散る音がします」と彼は言った。
王女は空を見上げた。灰色の木々から、灰色の葉が落ちてくる。
「何色ですか」
「茶色と、赤と、黄色が混ざっています」
「音にすると、どんな感じ?」
音楽家は立ち止まった。そして、何も持っていないのに、空中でヴァイオリンを弾くような仕草をした。
彼の指が、見えない弦の上を滑る。
「こんな感じです」
彼は、実際には音を出していない。でも、王女には聴こえた気がした。
暖かくて、少し切なくて、どこか懐かしい音が。
「美しい」
王女は囁いた。
音楽家は微笑んだ。
「王女様の声も、美しい色をしていますよ」
「私の声に、色があるの?」
「ええ。透明で、少し青くて」
彼は、まっすぐに王女を見つめた。見えない目で。
「でも時々、とても寂しい色が混ざります」
王女は息を呑んだ。
見透かされている。
でも、不思議と嫌ではなかった。
六
冬が来た。
雪が降った。灰色の空から、灰色の雪が舞い落ちる。
「雪の色を教えて」と王女は言った。
音楽家は、今度は歌った。
言葉のない、ハミングのような歌。
高く、澄んで、冷たくて、でもどこか優しい。
王女は目を閉じた。雪が頬に触れる。冷たい。でも、その冷たさが心地よい。
「白は、全ての色を含んでいるんです」と音楽家は言った。
「全ての色?」
「そして同時に、何の色でもない」
彼は雪を手のひらで受け止めた。
「僕の目が見えなくなったのは、十歳の時でした」
王女は黙って聞いた。
「病気で。最初は、ただの目の痛みだったんです。母が心配して、村の医者に診せました」
音楽家の声は、遠くを見るような響きを帯びていた。
「でも、治りませんでした。日に日に、世界がぼやけていって」
「怖かったでしょう」
「ええ。何より、母の顔が見えなくなっていくのが、耐えられなかった」
彼は静かに続けた。
「ある朝、目覚めた時、右目が完全に見えなくなっていました。母は泣いていました。父は、町の医者を呼んでくれました。でも、誰も原因がわからなかった」
王女は、音楽家の手を握りたい衝動に駆られた。でも、動けなかった。
「それから半年くらいかけて、左目も少しずつ光を失っていきました。最初は明るさがわかる程度。それから、ぼんやりとした影だけ。そして最後には、完全な闇」
「最後に見たものは、何だったのですか」
「雪でした」
音楽家は微笑んだ。
「ちょうど今のような、冬の朝でした。窓の外を見たら、真っ白な雪が降っていて。その白さが、目に焼き付いて。だから、白い色だけは忘れられないんです」
「それで、音楽を」
「はい。見えなくなってから、初めて音の世界に気づきました。風の音、雨の音、人々の足音。全てが、形を持っていた」
音楽家は、雪を見上げた。見えないはずなのに。
「村の教会に、古いヴァイオリンがありました。神父様が、触らせてくれたんです。弦に触れた瞬間、わかりました。これが、僕の新しい目になるんだと」
「最初は、音を出すこともできませんでした。でも、毎日毎日練習しました。見えない楽譜を、耳で覚えて。指の位置を、体で覚えて」
王女は、音楽家の横顔を見つめた。
「一年後には、教会で演奏できるようになりました。二年後には、村の祭りで弾きました。三年後には、町の劇場に呼ばれました」
「そうして、ここまで」
「ええ。失明は、終わりではありませんでした。むしろ、始まりだった」
音楽家は王女の方を向いた。
「だから、王女様。色が見えないことも、終わりではありません。別の何かが、きっと見えるはずです」
王女の胸が、熱くなった。
「怖かったですか」と王女は尋ねた。
「最初は。でも、音が聴こえることに気づいてから、怖くなくなりました」
音楽家は微笑んだ。
「失うことは、得ることでもあるのです」
王女は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、激しく打っている。
七
ある夜、王女は尋ねた。
「あなたには、大切な人がいますか」
音楽家の手が、一瞬止まった。
「います」
彼は静かに答えた。
「故郷に」
王女の世界が、少し傾いた。
「どんな人ですか」
「優しい人です。僕が目が見えなくなった時、誰よりも支えてくれた」
彼の声は、とても柔らかかった。
「いつも笑っていて、よく歌を歌っていて」
「その人のために、音楽を弾くのですか」
「ええ」
音楽家は頷いた。
「いつか、帰ります。そして、彼女に全ての音楽を捧げます」
王女は、何も言えなかった。
胸が、痛かった。
でも、涙は出なかった。
八
それでも、王女は音楽家のもとへ通い続けた。
毎晩、音楽を聴いた。毎晩、色を教えてもらった。毎晩、話をした。
何も変わらなかった。
でも、全てが変わっていた。
王女は気づいていた。音楽家が「愛している」と言ったことは一度もないと。
彼が触れてくるのは、いつも教えるためだけだと。
彼が微笑むのは、優しいからであって、特別だからではないと。
でも、それでもよかった。
この時間が、この瞬間が、今ここにあることが。
それだけで、十分だった。
九
春が来た。
城の庭に、花が咲いた。
「何色の花ですか」と王女は尋ねた。
「赤と、白と、ピンクと」
音楽家は答えた。
「でも、王女様。今日は、試してほしいことがあります」
「試すこと?」
「はい。目を開けたまま、僕の音楽を聴いてください」
音楽家はヴァイオリンを構えた。
そして、弾き始めた。
王女は目を開けたまま、音楽を聴いた。
最初は、いつもと同じだった。灰色の世界。灰色の音楽家。
でも。
何かが、変わり始めた。
音楽家の髪が、少しずつ、色を帯び始める。
茶色。
彼が好きだと言った、茶色。
王女は息を呑んだ。
それから、彼のヴァイオリンが。彼の服が。彼の後ろの壁が。
全てが、ゆっくりと色づいていく。
世界が、色を取り戻していく。
いや、違う。
世界に色があったのではない。
彼がいるから、世界に色が生まれるのだ。
王女は震えた。
「見えるの」
囁くような声。
「色が、見える」
音楽家は演奏を続けた。彼は知らない。今、どんな奇跡が起きているのかを。
王女の目から、涙が溢れた。
それは透明で、少し青くて。
とても、寂しい色をしていた。
十
それから、毎日が輝いて見えた。
音楽家と一緒にいる時だけ、世界は色を持った。
庭の薔薇は赤く、空は青く、夕焼けはオレンジ色だった。
そして音楽家自身は、茶色い髪に、優しい褐色の瞳の跡を持っていた。
王女は何も言わなかった。このことを。
言えば、何かが壊れる気がした。
十一
でも、終わりは来た。
「王女様」
ある夜、音楽家が言った。
「来月、城を出ることになりました」
王女の心臓が、止まった。
「契約期間が終わります。故郷に、帰ります」
彼の声は、嬉しそうだった。
「彼女に会えるんです。もう、何年も会っていなかった」
王女は、笑顔を作った。
「それは、良かった」
声は、震えなかった。完璧に、演じきった。
「お幸せに」
「ありがとうございます」
音楽家は、深々と頭を下げた。
十二
最後の夜。
王女は、音楽家の部屋を訪ねた。
「最後に、もう一度だけ、色を教えてください」
音楽家は頷いた。
そして、ヴァイオリンを手に取った。
彼が弾いたのは、今まで聴いたことのない曲だった。
静かで、優しくて、でも底知れないほど深い悲しみを湛えた曲。
王女は目を閉じた。
いや、閉じられなかった。
彼を見ていたかった。最後まで。
音楽家の髪は茶色く輝き、彼の後ろの壁は深い青に染まり、窓の外の月は銀色に光っていた。
世界は、こんなにも美しかった。
曲が終わった。
「これは、何色の音楽ですか」
王女は尋ねた。
音楽家は少し考えて、答えた。
「透明な青、です」
王女は、微笑んだ。
「私の声と、同じ色」
「ええ」
音楽家も微笑んだ。
「王女様の声を、思い浮かべて作りました」
王女の胸に、温かいものが広がった。同時に、冷たいものも。
「ありがとう」
それだけ言って、王女は部屋を出た。
振り返らなかった。
振り返れば、泣いてしまいそうだったから。
十三
翌朝。
王女が目覚めた時、音楽家はもういなかった。
夜明け前に、城を出たという。
王女は窓辺に立った。
遠くに、馬車が見えた。小さく、どんどん小さくなっていく。
世界から、色が消えていく。
音楽家の背中の茶色が、最後まで残った。
それも、やがて灰色に変わった。
全ては、元に戻った。
灰色の空。灰色の城。灰色の世界。
でも、一つだけ変わったことがあった。
王女は、色を知っていた。
見えなくても、知っていた。
赤がどれほど激しいか。青がどれほど深いか。茶色がどれほど温かいか。
そして、恋がどれほど切ないか。
十四
十年が過ぎた。
王女は、今も独身だった。
政略結婚の話は何度もあったが、全て断った。
「私には、ふさわしい相手がいません」
そう言い続けた。
嘘ではなかった。
王女の部屋には、古いヴァイオリンが飾られている。
音楽家が、最後の夜に忘れていったもの。
わざとだったのかもしれない。
「これは、王女様に」
そんなメモが、ケースに挟まっていた。
王女は時々、それを手に取る。
でも、弾かない。
弾けば、あの音色が蘇る。
弾けば、世界がまた色づいてしまうかもしれない。
そして彼がいないことを、色のある世界で確認してしまう。
それは、耐えられない。
だから王女は、ヴァイオリンを抱きしめるだけだった。
灰色の部屋で。
灰色の窓から差し込む、灰色の月明かりの中で。
世界は、ずっと灰色のままだった。
でも、王女は知っている。
一度だけ、世界は色に満ちていたことを。
一人の音楽家が、そこにいたことを。
そして自分が、彼を愛していたことを。
その記憶だけが、王女の心の中で、今も鮮やかな色を保ち続けていた。
見えない色を。
聴こえない音を。
触れられない温もりを。
それでも、確かにあった、あの春の日々を。
王女は目を閉じる。
そして、心の中で、あの曲を思い出す。
透明な青の、切ない音楽を。
窓の外では、また雪が降り始めていた。
灰色の雪が、静かに、世界を覆っていく。
— 完 —
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




