表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/30

【色のない王女】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。


王女は生まれた時から、世界に色がなかった。


灰色の空。灰色の城。灰色のドレス。灰色の薔薇。


人々は「美しい」と言った。赤い薔薇が、青い空が、金色の髪が。でも王女にはそれが何を意味するのかわからなかった。ただ、濃淡の違う灰色が並んでいるだけだった。


七歳の時、母后が尋ねた。「この花、何色に見える?」


王女は答えられなかった。ただ、母の顔が悲しげに歪むのを見た。それ以来、誰にも言わなかった。色が見えないことを。


王女は完璧に振る舞った。侍女たちが「今日は青いドレスを」と言えば、「そうね、青が良いわ」と答えた。「赤が似合う」と言われれば、「ありがとう」と微笑んだ。


世界は灰色のままだったが、王女は色の名前を覚えた。言葉として。意味のない、空虚な記号として。


十八の春、城に音楽家が雇われた。


「盲目の天才」と人々は囁いた。王女は興味を持たなかった。また一人、城に来る人間が増えただけだ。


でも、初めて彼の音楽を聴いた夜、王女の心臓が跳ねた。


それは舞踏会だった。灰色の壁、灰色のシャンデリア、灰色のドレスを着た貴族たち。その中心で、彼はヴァイオリンを弾いていた。


音楽は、色を持っていた。


いや、違う。音楽は色そのものだった。


王女には理解できなかった。でも、胸が締め付けられるように苦しくて、同時に、何か大切なものに触れているような気がした。


曲が終わった時、王女は気づいた。自分が泣いていることに。



「失礼ですが、お泣きになって」


音楽家が、王女の方を向いた。見えない目が、まっすぐに王女を見つめているようだった。


「あなたの音楽が、美しかったから」


王女は答えた。嘘ではなかった。


「ありがとうございます」


音楽家は微笑んだ。その笑顔は、どこか寂しげだった。


それから、王女は毎晩、音楽家の演奏を聴きに行くようになった。公式には、「音楽の指導を受けたい」ということになっていた。


実際、王女はピアノを習った。不器用で、音を外すことも多かったが、音楽家は辛抱強く教えてくれた。


「音楽に、間違いはありません」と彼は言った。「あるのは、意図と、心だけです」


王女の指が鍵盤の上で迷う。音楽家の手が、そっと王女の手に触れた。


「ここです。感じてください」


温かかった。


王女は、初めて誰かの温もりを感じたような気がした。



夜は深まっていく。


練習が終わると、二人は話をした。音楽のこと。城のこと。空のこと。


「空は、今、何色ですか」と王女は尋ねた。


音楽家は少し考えて、ヴァイオリンを手に取った。そして、一つの音を奏でる。


低く、深く、どこまでも広がっていくような音。


「これが、夜の色です」


「夜の、色」


王女は繰り返した。


「はい。深くて、静かで、全てを包み込むような」


音楽家はまた別の音を奏でた。今度は高く、澄んだ音。


「そして、これが星の色」


王女は目を閉じた。音が体の中に染み込んでくる。


「私には、色が見えないの」


気がつくと、王女は言っていた。


音楽家の手が止まった。


「ずっと、見えなかった。生まれた時から」


沈黙。


「だから」と王女は続けた。「あなたの音楽が、こんなにも響くのだと思う。初めて、色を感じられた気がするから」


音楽家は何も言わなかった。ただ、ゆっくりとヴァイオリンを下ろした。


「なら、僕が教えましょう」


彼は言った。


「音で、色を」



それから、毎晩が特別な時間になった。


音楽家は王女に、色を教えた。


「これが赤」


激しく、情熱的な旋律。


「これが青」


静かで、少し悲しい音色。


「黄色は明るく、緑は優しく、紫は神秘的で」


王女は目を閉じて、音を聴いた。世界が、少しずつ形を変えていく。


「あなたは、何色が好きですか」と王女は尋ねた。


音楽家は少し考えて、「茶色が好きです」と答えた。


「茶色?」


「土の色。木の色。落ち着いていて、温かくて、そこに帰れば安心できる色」


音楽家は穏やかに微笑んだ。


「故郷を思い出すんです」


「故郷」


「小さな村です。海の近くで、風が強くて」


彼の声は、懐かしむような響きを帯びていた。


「いつか、帰りたいと思っています」


王女の胸に、小さな棘が刺さった。


でも、何も言わなかった。



秋が来た。


城の庭園を、二人で歩いた。音楽家は杖で地面を確かめながら、王女の隣を歩く。


「葉が散る音がします」と彼は言った。


王女は空を見上げた。灰色の木々から、灰色の葉が落ちてくる。


「何色ですか」


「茶色と、赤と、黄色が混ざっています」


「音にすると、どんな感じ?」


音楽家は立ち止まった。そして、何も持っていないのに、空中でヴァイオリンを弾くような仕草をした。


彼の指が、見えない弦の上を滑る。


「こんな感じです」


彼は、実際には音を出していない。でも、王女には聴こえた気がした。


暖かくて、少し切なくて、どこか懐かしい音が。


「美しい」


王女は囁いた。


音楽家は微笑んだ。


「王女様の声も、美しい色をしていますよ」


「私の声に、色があるの?」


「ええ。透明で、少し青くて」


彼は、まっすぐに王女を見つめた。見えない目で。


「でも時々、とても寂しい色が混ざります」


王女は息を呑んだ。


見透かされている。


でも、不思議と嫌ではなかった。



冬が来た。


雪が降った。灰色の空から、灰色の雪が舞い落ちる。


「雪の色を教えて」と王女は言った。


音楽家は、今度は歌った。


言葉のない、ハミングのような歌。


高く、澄んで、冷たくて、でもどこか優しい。


王女は目を閉じた。雪が頬に触れる。冷たい。でも、その冷たさが心地よい。


「白は、全ての色を含んでいるんです」と音楽家は言った。


「全ての色?」


「そして同時に、何の色でもない」


彼は雪を手のひらで受け止めた。


「僕の目が見えなくなったのは、十歳の時でした」


王女は黙って聞いた。


「病気で。最初は、ただの目の痛みだったんです。母が心配して、村の医者に診せました」


音楽家の声は、遠くを見るような響きを帯びていた。


「でも、治りませんでした。日に日に、世界がぼやけていって」


「怖かったでしょう」


「ええ。何より、母の顔が見えなくなっていくのが、耐えられなかった」


彼は静かに続けた。


「ある朝、目覚めた時、右目が完全に見えなくなっていました。母は泣いていました。父は、町の医者を呼んでくれました。でも、誰も原因がわからなかった」


王女は、音楽家の手を握りたい衝動に駆られた。でも、動けなかった。


「それから半年くらいかけて、左目も少しずつ光を失っていきました。最初は明るさがわかる程度。それから、ぼんやりとした影だけ。そして最後には、完全な闇」


「最後に見たものは、何だったのですか」


「雪でした」


音楽家は微笑んだ。


「ちょうど今のような、冬の朝でした。窓の外を見たら、真っ白な雪が降っていて。その白さが、目に焼き付いて。だから、白い色だけは忘れられないんです」


「それで、音楽を」


「はい。見えなくなってから、初めて音の世界に気づきました。風の音、雨の音、人々の足音。全てが、形を持っていた」


音楽家は、雪を見上げた。見えないはずなのに。


「村の教会に、古いヴァイオリンがありました。神父様が、触らせてくれたんです。弦に触れた瞬間、わかりました。これが、僕の新しい目になるんだと」


「最初は、音を出すこともできませんでした。でも、毎日毎日練習しました。見えない楽譜を、耳で覚えて。指の位置を、体で覚えて」


王女は、音楽家の横顔を見つめた。


「一年後には、教会で演奏できるようになりました。二年後には、村の祭りで弾きました。三年後には、町の劇場に呼ばれました」


「そうして、ここまで」


「ええ。失明は、終わりではありませんでした。むしろ、始まりだった」


音楽家は王女の方を向いた。


「だから、王女様。色が見えないことも、終わりではありません。別の何かが、きっと見えるはずです」


王女の胸が、熱くなった。


「怖かったですか」と王女は尋ねた。


「最初は。でも、音が聴こえることに気づいてから、怖くなくなりました」


音楽家は微笑んだ。


「失うことは、得ることでもあるのです」


王女は、自分の胸に手を当てた。


心臓が、激しく打っている。



ある夜、王女は尋ねた。


「あなたには、大切な人がいますか」


音楽家の手が、一瞬止まった。


「います」


彼は静かに答えた。


「故郷に」


王女の世界が、少し傾いた。


「どんな人ですか」


「優しい人です。僕が目が見えなくなった時、誰よりも支えてくれた」


彼の声は、とても柔らかかった。


「いつも笑っていて、よく歌を歌っていて」


「その人のために、音楽を弾くのですか」


「ええ」


音楽家は頷いた。


「いつか、帰ります。そして、彼女に全ての音楽を捧げます」


王女は、何も言えなかった。


胸が、痛かった。


でも、涙は出なかった。



それでも、王女は音楽家のもとへ通い続けた。


毎晩、音楽を聴いた。毎晩、色を教えてもらった。毎晩、話をした。


何も変わらなかった。


でも、全てが変わっていた。


王女は気づいていた。音楽家が「愛している」と言ったことは一度もないと。


彼が触れてくるのは、いつも教えるためだけだと。


彼が微笑むのは、優しいからであって、特別だからではないと。


でも、それでもよかった。


この時間が、この瞬間が、今ここにあることが。


それだけで、十分だった。



春が来た。


城の庭に、花が咲いた。


「何色の花ですか」と王女は尋ねた。


「赤と、白と、ピンクと」


音楽家は答えた。


「でも、王女様。今日は、試してほしいことがあります」


「試すこと?」


「はい。目を開けたまま、僕の音楽を聴いてください」


音楽家はヴァイオリンを構えた。


そして、弾き始めた。


王女は目を開けたまま、音楽を聴いた。


最初は、いつもと同じだった。灰色の世界。灰色の音楽家。


でも。


何かが、変わり始めた。


音楽家の髪が、少しずつ、色を帯び始める。


茶色。


彼が好きだと言った、茶色。


王女は息を呑んだ。


それから、彼のヴァイオリンが。彼の服が。彼の後ろの壁が。


全てが、ゆっくりと色づいていく。


世界が、色を取り戻していく。


いや、違う。


世界に色があったのではない。


彼がいるから、世界に色が生まれるのだ。


王女は震えた。


「見えるの」


囁くような声。


「色が、見える」


音楽家は演奏を続けた。彼は知らない。今、どんな奇跡が起きているのかを。


王女の目から、涙が溢れた。


それは透明で、少し青くて。


とても、寂しい色をしていた。



それから、毎日が輝いて見えた。


音楽家と一緒にいる時だけ、世界は色を持った。


庭の薔薇は赤く、空は青く、夕焼けはオレンジ色だった。


そして音楽家自身は、茶色い髪に、優しい褐色の瞳の跡を持っていた。


王女は何も言わなかった。このことを。


言えば、何かが壊れる気がした。


十一


でも、終わりは来た。


「王女様」


ある夜、音楽家が言った。


「来月、城を出ることになりました」


王女の心臓が、止まった。


「契約期間が終わります。故郷に、帰ります」


彼の声は、嬉しそうだった。


「彼女に会えるんです。もう、何年も会っていなかった」


王女は、笑顔を作った。


「それは、良かった」


声は、震えなかった。完璧に、演じきった。


「お幸せに」


「ありがとうございます」


音楽家は、深々と頭を下げた。


十二


最後の夜。


王女は、音楽家の部屋を訪ねた。


「最後に、もう一度だけ、色を教えてください」


音楽家は頷いた。


そして、ヴァイオリンを手に取った。


彼が弾いたのは、今まで聴いたことのない曲だった。


静かで、優しくて、でも底知れないほど深い悲しみを湛えた曲。


王女は目を閉じた。


いや、閉じられなかった。


彼を見ていたかった。最後まで。


音楽家の髪は茶色く輝き、彼の後ろの壁は深い青に染まり、窓の外の月は銀色に光っていた。


世界は、こんなにも美しかった。


曲が終わった。


「これは、何色の音楽ですか」


王女は尋ねた。


音楽家は少し考えて、答えた。


「透明な青、です」


王女は、微笑んだ。


「私の声と、同じ色」


「ええ」


音楽家も微笑んだ。


「王女様の声を、思い浮かべて作りました」


王女の胸に、温かいものが広がった。同時に、冷たいものも。


「ありがとう」


それだけ言って、王女は部屋を出た。


振り返らなかった。


振り返れば、泣いてしまいそうだったから。


十三


翌朝。


王女が目覚めた時、音楽家はもういなかった。


夜明け前に、城を出たという。


王女は窓辺に立った。


遠くに、馬車が見えた。小さく、どんどん小さくなっていく。


世界から、色が消えていく。


音楽家の背中の茶色が、最後まで残った。


それも、やがて灰色に変わった。


全ては、元に戻った。


灰色の空。灰色の城。灰色の世界。


でも、一つだけ変わったことがあった。


王女は、色を知っていた。


見えなくても、知っていた。


赤がどれほど激しいか。青がどれほど深いか。茶色がどれほど温かいか。


そして、恋がどれほど切ないか。


十四


十年が過ぎた。


王女は、今も独身だった。


政略結婚の話は何度もあったが、全て断った。


「私には、ふさわしい相手がいません」


そう言い続けた。


嘘ではなかった。


王女の部屋には、古いヴァイオリンが飾られている。


音楽家が、最後の夜に忘れていったもの。


わざとだったのかもしれない。


「これは、王女様に」


そんなメモが、ケースに挟まっていた。


王女は時々、それを手に取る。


でも、弾かない。


弾けば、あの音色が蘇る。


弾けば、世界がまた色づいてしまうかもしれない。


そして彼がいないことを、色のある世界で確認してしまう。


それは、耐えられない。


だから王女は、ヴァイオリンを抱きしめるだけだった。


灰色の部屋で。


灰色の窓から差し込む、灰色の月明かりの中で。


世界は、ずっと灰色のままだった。


でも、王女は知っている。


一度だけ、世界は色に満ちていたことを。


一人の音楽家が、そこにいたことを。


そして自分が、彼を愛していたことを。


その記憶だけが、王女の心の中で、今も鮮やかな色を保ち続けていた。


見えない色を。


聴こえない音を。


触れられない温もりを。


それでも、確かにあった、あの春の日々を。


王女は目を閉じる。


そして、心の中で、あの曲を思い出す。


透明な青の、切ない音楽を。


窓の外では、また雪が降り始めていた。


灰色の雪が、静かに、世界を覆っていく。


— 完 —

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ