【宝物の在処】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
一
「お兄ちゃん、一緒に帰ろう」
中学校の門を出たところで、弟の遼太が満面の笑みでそう言った。小学三年生の遼太は、いつも僕の中学校まで迎えに来る。小学校は中学校のすぐ隣だから、遼太は先に終わって、僕を待っているのだ。
「……今日、友達と約束あるから」
嘘だった。何の約束もない。ただ、田中たちと一緒に帰りたかっただけだ。
遼太の笑顔が少しだけ曇る。でも、すぐにまた笑った。
「そっか。じゃあね、お兄ちゃん」
ぎこちない発音で、遼太はそう言って手を振った。
僕は背を向けて、友達の田中のところへ向かった。振り返らなかった。遼太の小さな背中を見たくなかったから。
遼太には知的障害がある。医者の説明は難しくてよくわからなかったけど、要するに他の子より発達がゆっくりなんだ、と母さんは言った。言葉も少ない。表情も乏しい。でも、僕のことは大好きで、いつも僕を探している。
小学生の頃は気にならなかった。いや、むしろ誇らしかった。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」って慕ってくれる弟が可愛くて、手を繋いで一緒に遊んだ。遼太が転んだら助けて、迷子になったら探して、泣いていたら慰めた。
でも、中学生になって変わった。
制服を着て、少し大人になった気がして、遼太と一緒にいるのが恥ずかしくなった。友達に「お前の弟、ちょっと変じゃね?」って言われたことがある。笑いながら言われた、その言葉が胸に刺さった。
変なんかじゃない。遼太は遼太だ。
でも、否定できなかった。反論もできなかった。
それからだ。僕は遼太を避けるようになった。
遼太が中学校の門で待っていても、わざと遅く出たり、別の門から帰ったりした。休日も、「勉強がある」「友達と遊ぶ」と言い訳をして、遼太と過ごす時間を減らしていった。
本当は遼太と遊びたい。一緒にいたい。
でも、できなかった。
僕は弱虫で、臆病で、最低な兄だった。
二
その日の夕方、僕は遼太の部屋に入った。母さんに頼まれて、洗濯物を置きに行っただけだ。
遼太の部屋は、いつも通り散らかっていた。おもちゃ、絵本、クレヨン。壁には遼太が描いた絵がたくさん貼ってある。どれも、何を描いているのかよくわからない。
机の上に、一枚の紙があった。
クレヨンで描かれた、ぐちゃぐちゃの線。赤、青、黄色、緑。いろんな色が混ざり合って、迷路みたいになっている。ところどころに丸や三角、星のマークが描いてある。
そして、紙の端に平仮名でこう書いてあった。
「たからもののばしょ」
僕は苦笑した。また意味不明な絵だ。遼太はこういうのをよく描く。本人は真剣なんだろうけど、僕にはさっぱりわからない。
でも、よく見ると、この線はただのぐちゃぐちゃじゃない。何かのルートを示している気がする。
地図?
僕は紙を手に取った。スタート地点らしき場所に、小さく「うち」と書いてある。そこから線が伸びて、最初の丸印に繋がっている。
なんとなく、興味が湧いた。
暇だったし、この地図が本当にどこかに続いているのか、確かめてみたくなった。どうせ適当に描いただけだろう。そう思いながら、僕は家を出た。
三
地図の最初の丸印は、家から三つ目の交差点にあった。
そこに立って、ようやく思い出した。
ここは、遼太が転んだ場所だ。
確か、僕が小学四年生、遼太が一年生の時だった。遼太を連れて駄菓子屋に行く途中、遼太が走り出して転んだ。膝を擦りむいて、血が出た。遼太は泣かなかったけど、じっと膝を見つめていた。
僕は遼太を抱き起こして、ハンカチで血を拭いた。
「痛くない?」
遼太は首を横に振って、僕の顔を見て笑った。
「お兄ちゃん、ありがと」
たどたどしい言葉だったけど、嬉しかった。
僕は地図を見直した。次の三角印は、コンビニのマークに見える。
家から五分ほど歩いたところにあるコンビニに向かった。
そこは、遼太と一緒にアイスを食べた場所だ。
夏休みのある日、僕は遼太を連れてそのコンビニに行った。遼太はチョコミントのアイスが好きで、僕はバニラが好きだった。二人で店の前のベンチに座って、溶けないうちに必死で食べた。
遼太は、僕のバニラを一口欲しがった。僕は自分のアイスをスプーンですくって、遼太の口に入れてやった。遼太は嬉しそうに笑って、自分のチョコミントも僕にくれた。
「お兄ちゃんと半分こ」
遼太はそう言った。
僕は地図を握りしめた。手が少し震えていた。
次の星印は、公園だった。
四
公園に着いた時、もう夕暮れが近かった。
ここは、遼太が迷子になった場所だ。
僕が小学五年生の秋、僕と遼太は母さんと一緒にこの公園に来た。母さんがトイレに行っている間、僕は遊具で遊んでいて、遼太から目を離してしまった。
気づいた時には、遼太がいなくなっていた。
母さんと二人で必死で探した。公園中を走り回って、遼太の名前を叫んだ。
見つけたのは、公園の隅にある小さな茂みの中だった。遼太はしゃがみ込んで、何かを見つめていた。泣いてもいなかった。ただ、じっとそこにいた。
「遼太!」
僕は遼太を抱きしめた。心臓がバクバクしていた。もし見つからなかったらどうしようって、本気で怖かった。
「どこ行ってたんだよ! 心配したじゃないか!」
遼太は僕を見上げて、小さく言った。
「ごめんね、お兄ちゃん」
それから、遼太は手に握っていたものを見せてくれた。
小さな、四つ葉のクローバーだった。
「お兄ちゃんに、あげる」
遼太はそう言って、笑った。
僕はその四つ葉のクローバーを、家に帰ってから本に挟んだ。まだ、どこかにあるはずだ。
地図を見ると、公園の星印から、最後の線が伸びていた。
終点は、ハートのマークになっている。
そこは、家から少し離れた空き地だった。
五
空き地に着いた頃には、もう空が赤く染まっていた。
ここは、僕と遼太の秘密基地があった場所だ。
正確には、秘密基地と呼べるほど立派なものじゃない。ただの空き地の隅に、段ボールとブルーシートで作った小さな小屋があっただけだ。
小学生の僕と遼太は、よくここで遊んだ。おもちゃを持ってきて、お菓子を食べて、他愛もない話をした。遼太は言葉が少なかったけど、僕の話を静かに聞いてくれた。
でも、僕が中学生になってから、ここには来ていない。
空き地の隅に、あの小屋の残骸があった。もうボロボロで、原型を留めていない。
地図のハートマークは、その場所を指していた。
僕は小屋の跡に近づいた。そして、土が少し盛り上がっているのに気づいた。
誰かが、何かを埋めた跡だ。
僕は素手で土を掘り始めた。
すぐに、小さな箱に当たった。
それは、お菓子の空き缶だった。錆びていて、蓋が固かったけど、なんとか開けることができた。
中には、小さなおもちゃが入っていた。
それは、僕が昔、遼太にあげたミニカーだった。
赤い消防車のミニカー。僕が小学二年生の時、お年玉で買ったものだ。すごく気に入っていたけど、遼太が欲しがったから、あげた。
遼太は大喜びで、いつもそのミニカーを持ち歩いていた。
でも、いつの間にか見なくなった。壊れたのかな、と思っていた。
ミニカーはボロボロだった。塗装が剥げて、タイヤも一つ取れている。それでも、遼太はずっと大切に持っていたんだ。
缶の底に、もう一枚紙が入っていた。
クレヨンで描かれた絵だった。
二人の人間が手を繋いでいる絵。一人は大きくて、一人は小さい。
そして、平仮名でこう書いてあった。
「おにいちゃん だいすき ずっといっしょ」
僕の目から、涙が溢れた。
止められなかった。
遼太は、僕が避けていることに気づいていたんだ。
それでも、僕のことが大好きで、この地図を作ったんだ。
僕と遼太の思い出の場所を辿る地図を。
「ありがとう」を伝えるための地図を。
そして、「ずっと一緒」でいたいという願いを込めた地図を。
僕はどうしようもないくらい、最低な兄だった。
遼太は何も悪くないのに、僕は遼太を避けた。恥ずかしいと思った。一緒にいたくないと思った。
でも、遼太はずっと僕を信じていた。
僕のことを、大好きでいてくれた。
六
僕は走って家に帰った。
玄関を開けると、母さんが驚いた顔で僕を見た。
「拓也、どうしたの? 泣いて……」
「遼太は?」
「遼太なら部屋に……」
僕は靴を脱ぎ捨て、遼太の部屋に駆け込んだ。
遼太は床に座って、また何か描いていた。
僕が入ってくると、遼太は顔を上げた。
「お兄ちゃん」
僕は遼太の前に座り込んで、遼太を抱きしめた。
「ごめん。ごめんな、遼太」
遼太は、何が起きたのかわからない様子だった。でも、僕の背中にそっと手を回した。
「お兄ちゃん、泣いてる?」
「うん。泣いてる」
「どうして?」
僕は遼太の肩を掴んで、顔を見た。
「遼太の地図、見つけたんだ」
遼太の目が、少しだけ大きくなった。
「宝物、見つけた?」
「うん。見つけたよ」
僕はポケットから、あの赤いミニカーを取り出した。
遼太は嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃんがくれたやつ」
「これ、遼太の宝物だったんだろ? なんで埋めたの?」
遼太は首を傾げて、ゆっくりと言った。
「お兄ちゃんが、遼太と遊ばなくなったから」
胸が締め付けられた。
「だから、いつも遊んでたとこに宝物、置いた。そしたら、お兄ちゃん、また一緒に遊ぶかなって」
僕はもう一度、遼太を抱きしめた。
「ごめん。本当にごめん」
遼太は僕の背中をポンポンと叩いた。
「いいよ。お兄ちゃん、忙しいから」
違う。忙しいんじゃない。僕が臆病で、弱くて、最低だっただけだ。
「これから、ちゃんと一緒にいるから」
遼太は僕の顔を覗き込んで、笑った。
「ほんと?」
「本当だよ。約束する」
遼太は嬉しそうに頷いた。
それから、遼太は描いていた紙を僕に見せた。
「お兄ちゃん、見て」
そこには、また地図が描かれていた。
でも、今度の地図は前のものより複雑で、線がたくさん描かれている。
「これ、何?」
遼太は笑って言った。
「お兄ちゃんと、これから行く場所の地図」
僕は思わず笑った。涙で顔がぐちゃぐちゃなのに、笑えた。
「どこに行くの?」
「わかんない。これから、一緒に決める」
遼太はクレヨンを僕に差し出した。
「お兄ちゃんも、描いて」
僕はクレヨンを受け取った。
そして、遼太と一緒に、新しい地図を描き始めた。
七
次の日、僕は中学校の門を出た。
いつものように、遼太が待っていた。
今日は、田中も一緒だった。
「おー、拓也。弟さん?」
「うん」
僕は遼太の頭を撫でた。
「遼太、俺の友達の田中」
遼太は恥ずかしそうに、小さく「こんにちは」と言った。
田中は笑って、遼太にしゃがんで目線を合わせた。
「こんにちは。遼太くん、よろしくな」
遼太は嬉しそうに頷いた。
田中は立ち上がって、僕の肩を叩いた。
「いい弟さんだな」
「ありがとう」
僕は遼太の手を握った。
「じゃあな、田中。また明日」
「おう、また明日」
僕と遼太は手を繋いで、家に向かって歩き始めた。
遼太は嬉しそうに、僕の手をぎゅっと握りしめた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「今日も、秘密基地行く?」
「うん。行こう」
僕たちは手を繋いで歩いていった。
夕日が、僕たちの影を長く伸ばしていた。
でも、もう怖くなかった。
遼太と一緒にいることが、恥ずかしくなかった。
むしろ、誇らしかった。
この小さな手を、僕は二度と離さない。
八
その日の放課後、僕は遼太を連れて、昔の空き地に行った。
秘密基地の跡はもうなくなっていたけど、僕たちは新しい基地を作ることにした。
段ボールとブルーシートを持ってきて、遼太と一緒に組み立てた。遼太は不器用だったけど、一生懸命手伝ってくれた。
完成した小屋は、前よりも少しだけ立派だった。
僕たちは中に入って、持ってきたお菓子を食べた。
遼太は嬉しそうにポテトチップスを頬張りながら、僕を見た。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ずっと一緒?」
僕は笑って、遼太の頭を撫でた。
「ずっと一緒だよ」
遼太は安心したように笑った。
その時、僕は気づいた。
遼太が地図の最後に埋めたのは、ミニカーだけじゃなかったんだ。
あの缶の中には、僕と遼太の思い出が詰まっていた。
転んだ交差点。アイスを食べたコンビニ。迷子になった公園。秘密基地のあった空き地。
遼太はそのすべてを覚えていて、大切にしていた。
そして、僕がまたそれを思い出してくれることを、信じて待っていた。
遼太の地図は、過去への地図じゃなかった。
僕を、未来へと導く地図だったんだ。
僕と遼太が、これからも一緒に歩いていくための地図だったんだ。
九
それから数週間後、僕は学校の廊下で担任に呼び止められた。
「佐藤、ちょっといいか」
「はい」
担任は少し困った顔をしていた。
「実は、お前の弟さんのことなんだが……」
僕は緊張した。遼太に何かあったんだろうか。
「遼太がどうかしましたか?」
「いや、悪いことじゃないんだ。むしろ、いいことなんだが……」
担任は封筒を取り出した。
「これ、遼太くんが描いた絵なんだが、市のコンクールで賞を取ったらしい。隣の小学校の先生から連絡があってな」
僕は驚いて、封筒を受け取った。
中には、一枚の絵が入っていた。
それは、僕と遼太が手を繋いで歩いている絵だった。
背景には、あの空き地の秘密基地が描かれている。
そして、空には虹がかかっていた。
絵の下に、タイトルが書かれていた。
「おにいちゃんとぼく」
僕は涙をこらえるのに必死だった。
「遼太くん、すごく嬉しそうに絵を描いていたらしいぞ。お兄ちゃんのことを描くんだって言ってな」
担任は笑って、僕の肩を叩いた。
「いい弟さんだな」
「はい」
僕は小さく頷いた。
「自慢の弟です」
十
家に帰ると、遼太が玄関で待っていた。
「お兄ちゃん!」
遼太は僕に駆け寄ってきた。
「遼太の絵、ほめられたよ」
「うん。先生から聞いたよ。すごいな、遼太」
遼太は照れくさそうに笑った。
「お兄ちゃんと一緒の絵、描いたんだ」
「見せてもらったよ。すごくいい絵だった」
僕は遼太の頭を撫でた。
「ありがとう、遼太」
「どうして、ありがとう?」
「遼太が、僕のことを描いてくれたから」
遼太は首を傾げた。
「お兄ちゃん、大好きだから」
その言葉に、僕はまた泣きそうになった。
「僕も、遼太のこと大好きだよ」
遼太は嬉しそうに笑って、僕の手を掴んだ。
「お兄ちゃん、今日も秘密基地行く?」
「うん。行こう」
僕たちは手を繋いで、家を出た。
夕日が、僕たちの影を長く伸ばしていた。
でも、もう怖くなかった。
遼太と一緒にいることが、恥ずかしくなかった。
むしろ、誇らしかった。
この小さな手を、僕は二度と離さない。
遼太が作ってくれた地図は、僕の宝物だ。
そして、これから僕たちが一緒に描いていく地図が、僕の人生になる。
エピローグ
僕のポケットには、あの赤いミニカーが入っている。
遼太からもらった宝物。
そして、遼太が教えてくれた、本当に大切なもの。
それは、一緒にいることの意味だった。
血が繋がっているとか、家族だからとか、そういうことじゃない。
ただ、お互いを大切に思う気持ち。
一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に歩いていくこと。
遼太の地図は、僕にそれを思い出させてくれた。
僕は遼太の手を握りしめた。
「遼太」
「なあに、お兄ちゃん」
「これからも、ずっと一緒だよ」
遼太は笑って、力強く頷いた。
「うん。ずっと一緒」
僕たちは夕日の中を歩いていった。
新しい地図を描くために。
新しい思い出を作るために。
そして、これからもずっと、一緒にいるために。
宝物は、探すものじゃない。
宝物は、いつも隣にあったんだ。
(完)
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




