【赤い花は雪に消えて】
ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。
あなたの心に何かが残れば嬉しいです。
第一章:転校生
十一月の朝、三年二組の教室の空気が一瞬だけ張り詰めた。
「ねぇねぇ聞いた?五年生の教室に福岡から転校生が来るんだって!」
クラスの女子の声に、ざわめきが起こる。銀次は窓際の席で、外の曇り空を眺めていた。転校生なんて珍しい。この小さな町の小学校に、都会から誰かが来るなんて。
五年生の教室では都会から来た転校生が挨拶をしている。
「福岡から来ました、田中みかです。みかって呼んでください。よろしくお願いします」
その日の放課後、銀次が帰り支度をしていると、五年生のクラスの先生が女の子を連れて入ってきた。
教室の扉が開いて、入ってきた女の子を見た瞬間、銀次の心臓が大きく跳ねた。
紺色のワンピースに、白いカーディガン。髪は肩まで伸びていて、少しウェーブがかかっている。この町の子たちとは何かが違う。言葉にできないけれど、都会の匂いがした。五年生だから、自分より二つも年上だ。
「村田くん!この子、田中さん。今日転校してきたんだけど、実は三丁目に引っ越してきたの。うちのクラス同じ方向の生徒がいないのよ。村田くんと同じ方向なので、しばらく一緒に登下校してもらえないかな?」
先生に言われたとき、銀次は耳を疑った。
「え、ぼ、ぼくが...?」
「村田くんの家が一番近いからね。お願いできるかな?」
断る理由なんてない。でも、どうして自分が選ばれたのか分からなくて、銀次は困惑した。
放課後、昇降口で待っていると、みかが階段を下りてきた。
「銀次くん?」
「は、はい…」
「私、みかでいいよ。銀次くんって何か言いにくいから...銀しゃんって呼んでいい?」
初対面なのに、距離感がやたらと近い。銀次は顔が熱くなるのを感じた。
「あ、うん...」
「じゃあ銀しゃん、よろしくね!」
満面の笑みで手を差し出されて、銀次は慌てて握手した。みかの手は小さくて、少し冷たかった。
帰り道、みかはずっと銀次の二、三歩前を歩いていた。
「この道でいいんだよね? あ、あのお店可愛い! 新潟ってこんな感じなんだ」
振り返りながら、みかは色々なことを話した。福岡のこと、引っ越しが大変だったこと、新しい学校が不安だったこと。銀次は相槌を打つのが精一杯で、ほとんど何も言えなかった。
でも、みかはそれを気にする様子もなく、楽しそうに話し続けた。
「銀しゃんって、静かだね」
ふいに振り返って、みかが笑った。
「でも、ちゃんと聞いてくれてるの分かるから、話しやすい」
その言葉に、銀次の胸が温かくなった。
「あっ!あのお花、きれい。なんて名前?」
みかが指さした先には、雪の中から顔を出して赤い花が咲いていた。
「……雪椿。」
銀次は小さく答えた。
「へぇー!こんな雪の中でも咲くんだー!すごぉい!」
みかは感嘆の声を上げた。
「明日も、一緒に帰ろうね」
家の前で別れるとき、みかはそう言って手を振った。銀次は小さく頷いて、その後ろ姿を見送った。
みかは何度もこっちを振り返って手を振った。
都会から来た、二つ年上の女の子。初めて会った日から、銀次はみかのことが気になって仕方がなかった。
第二章:距離が縮まる冬
十二月に入ると、町は少しずつ冬の装いに変わっていった。
「銀しゃん、長靴貸して! 私のじゃ雪に弱いの」
「銀しゃん、雪かきってどうやるの? お父さん仕事行ってるから教えて」
「銀しゃん、寒いからもっと早く歩いて!」
みかは遠慮なく、色々なことを銀次に頼んだ。時にはわがままに聞こえるくらい。でも銀次は、一度も嫌だと思わなかった。黙って長靴を貸し、雪かきを手伝い、みかのペースに合わせて歩いた。
「銀しゃんって、本当に優しいよね」
ある日、みかがふとそう言った。
「...そんなことない」
「ううん、優しい。文句も言わないし。最初は頼りないなって思ってたけど」
頼りない。その言葉に、銀次は少しだけ胸が痛んだ。
「でもね」みかは続けた。「頼りないんじゃなくて、優しいんだって分かった」
その日の夕方、帰り道の途中で雪が降り始めた。
「わあ、綺麗!」
みかは、はしゃぎながら、雪を手のひらで受け止めようとした。でも、道は既に凍り始めていて、足を滑らせた。
「危ない!」
咄嗟に銀次は手を伸ばした。みかの腕を掴もうとして、でも届かなくて、結局二人とも雪の上に倒れこんだ。
「痛っ...」
「ご、ごめん!」
銀次は慌てて起き上がった。みかは雪まみれになりながら、でも笑っていた。
「銀しゃん、守ろうとしてくれたんだ」
「で、でも...」
「ありがとう」
みかの笑顔を見て、銀次の顔はまた熱くなった。
次の日の朝、いつものように待ち合わせ場所でみかを待っていると、彼女は少し早く現れた。
「おはよう、銀しゃん」
「おはよう...」
歩き始めてすぐ、みかが突然銀次の手を握った。
「え...」
銀次は固まった。温かい。みかの手は、昨日よりずっと温かかった。
「危ないから。また転んだら困るでしょ?」
みかは前を向いたまま、そう言った。
「嫌だったら、離してもいいよ?」
銀次は首を横に振った。声が出なかった。ただ、握られた手に、ぎゅっと力を込めた。
「...そっか」
みかの声が、少しだけ嬉しそうに聞こえた。
それから、雪の日は二人で手を繋いで帰るようになった。最初は恥ずかしくて、銀次は下ばかり見ていた。でも、みかの手の温かさは、冬の寒さを忘れさせてくれた。
「ねえ、銀しゃん」
「うん?」
「新潟、最初は嫌だったんだ。寒いし、知らない人ばっかりだし」
みかは雪を見上げながら、ぽつりと言った。
「でも、銀しゃんがいてくれて...よかった」
その言葉を聞いて、銀次は胸がいっぱいになった。何か言葉を返したかったけれど、やっぱり声にならなかった。ただ、握った手に少しだけ力を込めることしかできなかった。
みかは、それで十分だと言うように、小さく笑った。
十二月の終わり、町は完全に雪に覆われた。二人で歩く帰り道は、銀次にとって特別な時間になっていった。みかの後ろ姿を見ながら、繋いだ手の温もりを感じながら、このまま時間が止まればいいのにと、何度も思った。
第三章:突然の知らせ
一月の半ば、冬休みが明けて間もないある日。
いつものように待ち合わせ場所でみかを待っていると、彼女はいつもより遅く現れた。そして、いつもの笑顔がなかった。
「おはよう...」
「おはよう」
歩き始めても、みかはいつものように話さなかった。銀次は何か聞きたかったけれど、言葉が見つからなかった。
「あのね、銀しゃん」
学校の門の前で、みかが立ち止まった。
「お父さんが、また転勤になっちゃった」
銀次の頭の中が、真っ白になった。
「二月に...福岡に帰ることになったの」
「え...」
「節分の前。だから、あと三週間くらい」
みかは笑っていた。でも、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「ごめんね、急で」
「ううん...」
銀次は首を振った。でも、それ以上何も言えなかった。寂しい、とも、行かないで、とも。
その日から、二人の間に変な空気が流れるようになった。いつものように手を繋いで帰る。でも、会話は少なくなった。みかは時々黙り込むようになり、銀次はそれをどうしていいか分からなかった。
「銀しゃん、怒ってる?」
ある日の帰り道、みかが不意に聞いてきた。
「怒ってない」
「じゃあ、なんで黙ってるの?」
「...分かんない」
本当に分からなかった。何を話せばいいのか。どんな顔をすればいいのか。心の中はぐちゃぐちゃで、整理できなかった。
「私も...分かんない」
みかは小さくそう言って、また黙り込んだ。
繋いだ手だけが、二人を繋いでいた。でも、その手の温もりさえも、もうすぐなくなってしまうのだと思うと、銀次は耐えられなかった。
一月が終わり、二月に入った。
みかの最後の登校日は、二月三日と決まった。節分の日だった。
第四章:最後の雪道
二月三日、朝から大雪が降っていた。
銀次はいつもより早く家を出た。待ち合わせ場所で、みかが来るのを待った。雪は激しさを増していて、視界が白く染まっていく。
「銀しゃん、待った?」
みかが現れた。赤いマフラーを巻いて、いつもの笑顔で。
「ううん」
「じゃあ、行こっか」
みかが手を差し出した。銀次は頷いて、その手を握った。今日で最後の、この温もり。
雪の中を、二人で歩いた。足跡がすぐに雪に消されていく。
「今日、うちのクラスでお別れ会やってくれるんだって」
「...うん」
「銀しゃんは三年生だから、来れないね」
「…うん」
会話は途切れ途切れだった。でも、二人とも無理に話そうとはしなかった。
学校に着いて、昇降口の前で立ち止まった。ここで手を離さなければならない。
「じゃあ...」
みかが手を離そうとした瞬間、銀次はぎゅっと握りしめた。
「銀しゃん?」
「...放課後、迎えに来て」
やっと、それだけ言えた。みかは驚いた顔をして、それから優しく笑った。
「うん。絶対」
放課後、銀次は落ち着かなかった。三年二組の教室で、窓の外の雪を見つめながら、時計ばかり気にしていた。
帰りの会が終わって、荷物をまとめていると、教室の扉が開いた。
「銀しゃん」
みかが立っていた。五年生の教室から、わざわざ迎えに来てくれた。
「待った?」
「ううん」
二人は並んで、学校を出た。雪はまだ降り続いていた。
「手、繋いでいい?」
みかが聞いた。銀次は頷いた。最後だから。もう二度と、この手を握れないから。
帰り道は、とても静かだった。雪が音を吸い込んで、世界が二人だけになったみたいだった。
「銀しゃん」
みかが口を開いた。
「ありがとね」
「...え?」
「新潟、最初は本当に嫌だったの。寒いし、知らない場所だし。でも」
みかは立ち止まって、銀次を見た。
「銀しゃんがいてくれたから。優しくしてくれたから」
みかの目が、少し潤んでいた。
「新潟、好きになった。雪も、この道も、全部」
銀次の胸が、苦しくなった。言いたいことが、たくさんあった。でも、言葉にならなかった。
「ぼく...」
震える声で、やっと一言だけ。
「ぼく...」
それ以上は続かなかった。みかは優しく笑った。
「うん。分かってる」
家の前に着いた。ここで、本当にお別れだ。
「いつか、また会えるかな」
みかが聞いた。銀次は何度も頷いた。
「絶対、会える!」
「うん」
繋いだ手を、離さなければならない。みかがゆっくりと手を引こうとした瞬間、最後にぎゅっと握りしめた。
銀次も、同じように握り返した。
そして、手が離れた。
その瞬間、突然みかが抱きついてきた。
銀次はびっくりして動けなかった。
「ぎゅう!ぎゅうー!」
みかはおどけて言った。
「あーびっくりしたー!」
「いや!こっちのセリフだって!」
「じゃあね、銀しゃん」
「...うん」
「元気でね」
「みかちゃんも」
みかは、自分の家に向かって歩き出した。
銀次はその後ろ姿を見つめていた。悲しそうな顔、見られたくなかったから、みかが振り返らないことを心で願いながら。
みかは一度も振り返らなかった。
雪の中で、みかの姿はだんだん小さくなっていった。
家に着いて、銀次は部屋で一人、窓の外を見つめた。雪は降り続いている。みかの姿はもう見えない。
頬を、涙が伝った。
エピローグ:それから
スマートフォンの画面が、暗闇の中で青白く光っている。
夜の十一時半。銀次は布団の中でライブ配信アプリを開いた。もう三十代半ばになった。あの日から、三十年が経つ。
画面の中で、女性が笑顔で話していた。
「今日も見に来てくれてありがとうございます! 今日はですね、福岡のおすすめカフェを紹介しようと思います」
田中みか。仕事が忙しいらしく、時々しかやらないが、配信者として活動している。視聴者は、いつも数人だけ。
銀次は、いつものように黙って画面を見つめた。みかは相変わらず、明るくて、話すのが上手で。でも、あの頃より少し大人びて、でもやっぱりお節介そうで。
みかは銀次があの時の銀次だとは気がついていない。
「そういえば」
みかが、ふと画面から目をそらし、窓の外を見た。
「雪、降ってるのかな。そっちは」
誰に向けて言ったのか、分からない言葉。でも、銀次は窓の外を見た。
雪が、降り始めていた。
新潟の冬。あの日と同じように、静かに降る雪。
画面の中で、みかが少しだけ寂しそうに笑った。それから、また明るい声に戻って配信を続ける。
銀次は、スマホを握りしめた。
「...ずっと、忘れてないよ」
小さく呟く。誰にも届かない言葉。でも、画面の中のみかは、まるでそれを聞いたかのように、ふと笑顔になった。
配信開始から30分が経った。
銀次は、いつもこの瞬間を楽しみにしている。
みかが画面に向かってハグをしてくれるのだ。
「銀しゃん、いつもありがとう。ぎゅう!ぎゅうー!」
これで終わり。いつも30分くらいで配信は終わる。
終わり際、画面の端にチラッと映った赤い花、なんて花だろう。
雪は、まだ降り続いていた。
あの日と同じように…
(完)
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。
よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。




