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オリジナル短編小説集  作者: 桜餅 詩音


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【傘、一本】

ほんの少しの時間を、この物語に預けてみてください。

あなたの心に何かが残れば嬉しいです。

 雨の日は、決まって彼女が声をかけてきた。

「また傘、ないの」

 呆れたような、でもどこか柔らかい声。振り返ると、宮沢係長が紺色の折りたたみ傘を小脇に抱えて立っていた。残業で人気のなくなったオフィスの出口、蛍光灯の白い光の中で、彼女だけがいつも少し違う色をして見えた。

 俺——入社三年目の浅野颯太——は苦笑いして頭をかいた。

「すみません、また忘れて」

「毎回よ、毎回」

 ため息をつきながらも、宮沢係長は傘を広げて外へ出た。俺はその半歩後ろについて、雨の匂いのするアスファルトの上を歩いた。

 バス停まで、徒歩五分。

 その五分が、俺にとっては特別だった。

 宮沢朋子係長は、俺より四つ年上の二十九歳だ。

 仕事は速くて、判断は的確で、後輩への当たりは柔らかい。会議では一言で空気を変えるくせに、飲み会では誰よりも先にグラスを持って「乾杯!」と声を上げる。怒るときは静かで、褒めるときは大げさで、そのバランスが絶妙だった。

 俺が入社したばかりのころ、右も左もわからなくてオロオロしていたとき、最初に声をかけてくれたのが宮沢係長だった。

「わからないことは何でも聞いて。私もぜんぶ教えてもらって今があるから」

 そう言いながら、隣の席でファイルの綴じ方を実演してくれた。新卒の俺には、その言葉がひどく温かく響いた。

 それから三年。

 気づけば俺は、雨の日に傘を忘れることが増えていた。

 意識してやっているわけじゃない。でも、天気予報を見て「雨か」と思ったとき、傘をわざわざ鞄に入れない自分がいた。それが何を意味するのか、考えないようにしていた。

 傘の下は狭い。

 折りたたみ傘だから余計に、二人で入ると肩が触れそうになる。宮沢係長はいつも俺側に傘を傾けて、自分の左肩が少し濡れるのを気にしない。それに気づいたのは、一緒に歩くようになって三ヶ月ほど経ったころだった。

「係長、そっち濡れてますよ」

「いいの。あなたの方がスーツ高そうだから」

 笑いながら言うけれど、係長のジャケットだって安くはないだろう。そういうさりげない優しさが、俺には眩しかった。

 傘の中で、係長はよく話した。仕事のこと、職場の人間関係のこと、昨日見たドラマのこと。声のトーンが、オフィスにいるときより少し低くて、少し柔らかかった。

 俺はその声を聞きながら、雨音を聞きながら、五分があっという間に終わることを惜しんでいた。

 バス停に着くと、係長はいつも「じゃあね」とだけ言って、俺が乗るのと反対方向のバスを待つ。引き止める言葉を毎回飲み込んで、俺は一人でバスに乗った。

 窓の外に、傘を持って立つ係長の後ろ姿が見えた。バスが動き出すと、その姿は雨の中にゆっくりと溶けていった。

 その繰り返しだった。

 最初に変化に気づいたのは、同じフロアの後輩、小林から聞いた話がきっかけだった。

「宮沢係長って、なんか最近変じゃないですか」

 ランチのとき、小林が箸を止めてそう言った。

「変って、どういう」

「なんか……目が怖いというか。笑ってるのに、笑ってないみたいな」

 俺は「そうか?」と返したけれど、心のどこかで引っかかった。

 確かに、係長の笑顔はいつも完璧だった。崩れない。乱れない。どんなときも、口角が同じ角度で上がっている。

 それが、なぜか、少し怖かった。

 でも俺はその感覚を、うまく言語化できないまま、忘れることにした。

 十月の終わり、その日も残業で遅くなって、外に出ると霧雨が降っていた。

 いつものように傘を忘れた俺は、出口で少し待った。でも係長は来なかった。今日は早く上がったのかもしれない。コンビニで傘を買って帰った。

 翌日、係長の席に行くと、彼女は普通に仕事をしていた。

「昨日早かったんですね」

「うん、ちょっとね」

 それだけだった。

 でもその日から、係長と残業が重なる日が減った。定時になると、誰よりも早く荷物をまとめて帰っていく。まるで、意図的に俺とのすれ違いを作っているみたいだった。

 雨の日も、一人で濡れて帰った。

 コンビニの傘を差しながら、係長のことを考えた。何か気に触ることを言っただろうか。何か悪いことをしただろうか。思い当たることが、何もなかった。

 十一月の雨の夜、久しぶりに係長に声をかけられた。

「浅野くん、今日一緒に帰らない?」

 嬉しかった。正直に言えば、胸が跳ねた。

 いつもと同じ五分間のはずだった。でも、その日の係長は静かだった。仕事の話も、くだらない世間話もなかった。ただ雨音だけが傘を叩いていた。

 バス停が見えてきたとき、係長が口を開いた。

「ねえ、浅野くん」

「はい」

「私のこと、最初に会ったときのこと覚えてる?」

「入社初日ですよね。係長が声かけてくれて——」

「そうじゃなくて。もっと前」

 もっと前。

 俺は記憶を辿ろうとした。入社式。内定者懇親会。それより前……?

「わからないです。どこかで会いましたっけ」

 係長は少し笑った。

「まあ、いいか」

 その笑顔が、いつもと違う気がした。口角は上がっているのに、目の奥が、どこか遠くを見ていた。

「浅野くん、私たぶんもうしばらくしたら、一緒に帰れなくなるから」

「え、なんで」

「なんとなく」

 なんとなく、で済む話じゃない。何か聞こうとしたとき、ちょうどバスが来た。

「ほら、行きなよ」

 係長に背中を押されるようにバスに乗って、窓から振り返ると、彼女は雨の中で小さく手を振っていた。

 その笑顔が、ずっと頭から離れなかった。

 それから、係長は本当に早く帰るようになった。

 挨拶はする。仕事の話もする。でも、それだけだった。以前あった柔らかさが、どこかへいってしまったみたいだった。俺の方を見るとき、一瞬だけ何かをはかるような目をする。そしてすぐに、いつもの完璧な笑顔に戻る。

 小林がまた言った。

「やっぱり宮沢係長、なんか変ですよ。この前トイレで鉢合わせしたとき、ずっと鏡見て笑ってたんですよ。一人で。気づいたら急に『お疲れ様』って言って出ていって……」

 俺は何も言えなかった。

 十二月の最初の雨の日、係長に呼び止められた。

「浅野くん、今日これ持ってきたんだ」

 紺色の折りたたみ傘だった。いつも俺のために傾けてくれた、あの傘。

「あげる」

「え、でも係長が使うやつじゃ」

「もう使わないから」

 有無を言わせない口調だった。受け取るしかなかった。

「係長、本当に何かあったんですか。最近、なんか……」

 しばらく沈黙があった。係長は傘を俺の手に押しつけながら、静かに言った。

「浅野くんは、優しい人だと思う。本当に」

 そしてまた、あの完璧な笑顔を向けて、自分のデスクに戻った。

 俺はその背中を見ながら、胸の中に説明のつかない不安が広がっていくのを感じた。

 その夜、残業を終えて帰宅したのは十時過ぎだった。

 もらった傘を鞄にしまいながらエレベーターを降り、廊下を歩く。自分の部屋のドアの前に立ったとき、何かがおかしいと気づいた。

 ドアが、わずかに開いている。

 確かに鍵をかけて出た。毎朝、ドアノブを二回確認する癖がある。間違いない。

 心臓が速くなった。泥棒か。それとも何かの間違いか。スマホを握りながら、恐る恐るドアを押した。

 暗い廊下。リビングへと続く光のない空間。

 電気をつけた。

 宮沢係長が、俺のソファに座っていた。

 コートを着たまま、膝の上に両手を重ねて、まっすぐ俺を見ていた。表情は穏やかだった。まるで、自分の家のリビングでくつろいでいるみたいに、自然に、そこにいた。

「け……係長?」

 声が裏返った。

「おかえり」

 係長は微笑んだ。いつもと同じ、完璧な笑顔で。

「なんで、どうして部屋に……鍵は」

「スペアキーって、わりと簡単に作れるのよ。管理会社に頼めば貸してくれるし。もちろん嘘ついたけど」

 平然と言った。笑顔のまま。まるで天気の話をするみたいに。

 俺は入口から動けなかった。足が、床に縫い付けられたみたいに動かない。

「浅野くん、座って。話したいことがあるから」

「……何を」

「覚えてないでしょ、やっぱり」

 係長は立ち上がった。コートのポケットから、何かを取り出した。

 小さなノートだった。

「二年前の四月、第二会議室の前の廊下。あなたに声をかけたの。『お疲れ様です』って。でもあなた、私のことを見もしないで歩いていった」

 俺には何も思い出せなかった。

「その日ね、私、お母さんが死んだって連絡を受けてたの。仕事中に。でも仕事だから、泣けなくて、笑顔で過ごして。帰り際に、誰かに一言だけ声をかけてほしくて。声をかけたの、あなたに」

 係長は笑っていた。ずっと笑っていた。泣きそうな話をしながら、口角は一ミリも下がらなかった。

「でも、無視された」

 静かな声だった。責めるわけでもなく、怒るわけでもなく、ただ淡々と。

「それからね、ちょっとおかしくなっちゃったみたい、私」

 ノートを開いた。びっしりと文字が並んでいた。

「浅野颯太。入社年度、配属部署、実家の住所、通勤ルート、よく行くコンビニ、好きなコーヒーの銘柄、傘を忘れやすい癖——全部書いてある。三年分」

 俺は声が出なかった。

「傘を忘れるように仕向けたりはしてないよ。それはあなたが自分でそうなってくれた。嬉しかった」

 係長はノートをぱたんと閉じて、またソファに座った。

「優しくしたのは本当のことだよ。好きだったから。でも最初からずっと、あなたのことを見ていた。あなたが気づかないところで、ずっと」

「……なんのために」

 俺は絞り出すように聞いた。

 係長は少し首をかしげた。子どもが難しい問題を考えるみたいに。

「なんのためかなあ」

 そして、ふわっと笑った。

「わからなくなっちゃった、途中から。最初は怒ってたと思うんだけど。でも一緒に歩いてたら、なんか楽しくなってきちゃって。でもやめられなくて。ノートも書き続けちゃって」

 立ち上がって、俺の方へゆっくり歩いてきた。

「浅野くんって、私のことちゃんと見てくれてたじゃない。傘の下で。あの五分間だけ、私のことちゃんと見てくれてた」

 目の前まで来た。笑顔のまま。ずっと笑顔のまま。

「ねえ、また一緒に帰ろうよ。雨の日に」

 俺はその目を見た。

 三年間、一度も、係長の目が笑っているのを見たことがなかった。

 笑顔の下に、ずっとそれがあった。ガラス玉みたいな、何もない目が。

 俺はやっと気づいた。

 三年前から、ずっと見られていた。

 あの雨の五分間が、特別だったのは——俺だけじゃなかった。

 あなたは周りの人に、優しくしていますか。

 すれ違った誰かが、あなたに声をかけようとしているかもしれない。

 あなたが気づかないだけで。

お読みいただき、ありがとうございました。

この物語が、皆さまの時間に少しでも寄り添えていたら嬉しいです。

よろしければ、次の話も楽しみにしていただけると幸いです。

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