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第八章:慈悲の帰還

### 肉体への復帰


 チベット高原の僧院。バターランプの灯りが揺れる堂内で、十二日と半日間静かに座していた高僧テンジンの体が、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 深く長い、百三十八億年の宇宙の歴史を凝縮したかのような最初の呼吸。


 閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がる。その瞳の中に集まっていた弟子たちは、ヒマラヤの夜明けの空よりも澄み切った無限の深淵を見た。


 だがそれは人間性を失った冷たい目ではなかった。そこには宇宙的な愛と慈悲が満ち溢れていた。


### 弟子たちの感動


 最初に声を発したのは若いドルジェだった。


「師父......お帰りなさい......」


 その言葉に涙が込み上げた。十二日間の間、彼らは師を失うのではないかという不安と、何か偉大なことが起こっているという畏敬の念の間で揺れ動いていた。


 テンジンはゆっくりと微笑んだ。その笑みには、全ての存在への無条件の愛が込められていた。


「私は......どこへも行っていなかった......ここにずっといた......」


 その言葉の意味を、弟子たちは完全には理解できなかった。だが、師の存在から発せられる光のような温かさで、何か根本的な変化が起こったことを感じ取った。


### 医師の困惑


 ジョンソン医師は再び聴診器を師の胸に当てた。心拍、呼吸、すべて正常に戻っていた。体温も三十六度五分。完全に生きている人間の数値だった。


「これは......医学的にありえない......十二日間心停止していた人が......」


 彼は首を振った。自分の医学知識の限界を突きつけられていた。


 テンジンは医師を優しく見つめた。


「先生、生と死は......我々が思っているほど......明確に分かれているものではないのです......」


### 言葉の限界


 トゥクダムは終わった。師は帰還したのだ。


 弟子たちは師の周りに集まり、その旅について問いかけた。テンジンは穏やかに微笑んだ。そして語り始めた。だが彼の口から紡ぎ出される言葉は、あまりにも拙く不十分に思えた。


「私は......石の記憶に触れた......だが......それは石ではなかった......」


「光の舞踏があった......だが......そこには光も踊り手もいなかった......」


「全ては一つだった......だが......その一つさえも......本当は存在しない......」


 人間の言語という分離を前提とした道具では、あの非分離の体験をそのままの形で伝えることは不可能だった。それは二次元の紙の上に三次元の球体を完璧に描き出すことが不可能なのと似ていた。


 どんな言葉を使っても、それは真実そのものではなく、真実を指し示す歪んだ地図にしかならない。


### 沈黙の教え


 それでもテンジンは語り続けた。彼の言葉そのものではなく、その言葉の背後にある沈黙、彼の眼差しの奥にある静寂、彼の存在全体から発せられる波動が弟子たちの心の最も深い部分に直接何かを伝えているのを彼は知っていたからだ。


 最も大切な教えは言葉では伝わらない。存在によってのみ伝わる。


 「師父......どうすれば私たちも......その境地に......」


 ドルジェの質問に、テンジンは静かに答えた。


「君はすでに......そこにいる......ただ......それを思い出すだけだ......」


「私たちは皆......同じ一つの意識の表れ......君の探求は......その事実への気づきに他ならない......」


### 新たな教えの始まり


 その日から、テンジンの教えは根本的に変わった。以前のような経典の解説や瞑想法の指導ではない。もっと直接的で、体験的な教えになった。


 彼は弟子たちに問うた。


「君が瞑想をする時......誰が瞑想しているのか?」


「君が苦しんでいる時......誰が苦しんでいるのか?」


「君が喜んでいる時......誰が喜んでいるのか?」


 これらの問いは、弟子たちの心の最も深い部分を揺さぶった。今まで当然だと思っていた「私」という感覚そのものへの疑問だった。


### 科学との対話


 ジョンソン医師は滞在を延長し、テンジンとの対話を続けていた。彼の科学的世界観が根底から揺さぶられていた。


「師よ......意識とは何なのでしょうか?脳の産物なのでしょうか?」


「先生......逆に問いましょう......脳とは何でしょうか?それを知っているのは誰でしょうか?」


「それは......私ですが......」


「その『私』とは何でしょうか?どこにあるのでしょうか?」


 医師は答えに詰まった。科学は客観的な現象は説明できるが、その現象を知る主体については何も語らない。


「もしかして......意識が基本的で......物質がその表れなのでしょうか?」


 テンジンは頷いた。


「そう考える科学者も増えています......デイヴィッド・チャーマーズ、マックス・テグマーク......彼らは意識を宇宙の基本的な性質として捉えている......」


### 日常の中の悟り


 テンジンの帰還後、僧院の日常も変わった。彼は弟子たちに、特別な修行法を教えるのではなく、日常の行為一つ一つに意識を向けるよう指導した。


 「茶を飲む時......誰が飲んでいるのか気づきなさい......」


 「歩く時......誰が歩いているのか観察しなさい......」


 「眠る時......誰が眠りに入るのか見守りなさい......」


 これらの実践は、特別な体験を求めるものではない。すでにそこにある真実に気づくためのものだった。


### 他の僧院からの訪問


 テンジンのトゥクダム体験とその後の教えの噂は、チベット中に広まった。各地の僧院から高僧たちが彼を訪ねてきた。


 ある高僧が問うた。


「テンジン師よ......あなたは悟りを得たのですか?」


 「悟りとは......何かを得ることではありません......何かを失うことです......『私が悟る』という考えそのものを失うことです......」


 「では......あなたは仏陀になったのですか?」


 「仏陀は人の名前ではありません......気づきそのものの名前です......あなたも私も......皆すでに仏陀なのです......ただ......それに気づいていないだけ......」


### 現代世界への憂慮


 ある日、外界のニュースが僧院にも届いた。環境破壊、戦争、社会の分裂。テンジンは深い悲しみを感じた。


 人類は高度な科学技術を発達させたが、根本的な問題――分離という幻想――は解決していない。むしろ、技術の進歩が分離感を増大させているように見えた。


 「科学は外なる宇宙を探求している......しかし内なる宇宙の探求が伴わなければ......知識は破壊の道具となってしまう......」


 テンジンは、自分の体験を現代世界と分かち合う必要性を感じ始めていた。


### 弟子たちの成長


 師の教えを受けて、弟子たちにも変化が現れ始めた。ドルジェは瞑想中に「瞑想する者」が消失する体験をした。


 「師父......瞑想中に私がいなくなりました......でも瞑想は続いていました......」


 「それです......君がいなくても......気づきは続いている......その気づきこそが......君の真の本質なのです......」


 ロサンも、日常の作業中に突然、行為者がいないことに気づいた。


 「掃除をしていたのですが......気がつくと......掃除が起こっているだけで......掃除する人がいませんでした......」


 「素晴らしい......それが自然な状態です......行為は起こる......しかし行為者はいない......川が流れるように......風が吹くように......」


### 教えの普及への準備


 テンジンは、自分の役割が僧院の中だけに留まるものではないことを悟っていた。この真理は全人類が必要としているものだった。


 彼は弟子たちに言った。


「この教えは......仏教のものではありません......キリスト教のものでも......イスラム教のものでもありません......それは宗教を超えた......存在の真実です......」


「科学と宗教が対立する時代は終わります......両者が同じ真実の異なる側面を探求していることに......人類は気づくでしょう......」


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