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第二章:根の智慧

 移行は落下に似ていた。だが、それは空間的な落下ではない。意識の次元を垂直に降下するような感覚。先ほどまで天上から見下ろしていたはずの僧院の姿が一瞬で反転し、今度は大地深くから見上げる形となる。


 そして突如として、テンジンの意識に全く新しい感覚が生まれた。


 根が、生えた。


 彼の意識は僧院の中庭で三百年もの間、風雪に耐えてきたポプラの古木と完全に融合していたのだ。


### 植物意識の覚醒


 それは衝撃的な体験だった。彼の意識はもはや頭頂部にあるのではなく、大地に張り巡らされた無数の根の先端、その一つ一つに同時に存在していた。


 粘土質の土の湿り気、砂利の硬さ、ミミズが体をくねらせて進む微かな振動。それら全てが思考を介さない直接的な情報として、彼の存在全体に流れ込んでくる。


 人間であった時の記憶が、遠い夢のようにかすんでいく。代わりに植物としての全く異なる世界の法則が彼を支配し始めた。


 テンジンは突然、植物学の知識が意識に流れ込むのを感じた。それは学習したものではない。木そのものが持つ三百年の叡智だった。


 光合成のメカニズム。葉緑体のチラコイドで起こる光化学反応。太陽光のエネルギーが化学エネルギーに変換される奇跡。それをテンジンは、知識としてではなく、歓喜として体験した。


 「これが......宇宙のエネルギーとの直接対話なのか......」


 彼の意識はその神秘に震えた。人間は食物を摂取してエネルギーを得るが、植物は光そのものを食べるのだ。それは究極の断食であり、同時に究極の豊かさだった。


### 時間の再定義


 時間。それはもはや秒、分、時といった直線的な単位ではなかった。太陽が東から昇り、南の空を渡り、西に沈むまでが、まるで一回の呼吸のように感じられる。


 夜は静かな息を吐く時間。そして長い冬。雪の下で全ての活動が停滞し、春の雪解け水が根に届くまでの数ヶ月間は、まるで深い眠りの一瞬のようだった。


 一年が一日。一日が一瞬。季節の循環こそが植物にとっての唯一の時計だった。


 テンジンは人間として生きていた時のことを思い出した。時計に追われ、予定に縛られ、過去を後悔し、未来を不安がっていた日々。それがいかに不自然で無理があったかを、今になって理解した。


 「真の時間とは、循環するものなのだ......」


### 根のネットワーク - 森の知性


 そして何よりも驚くべきは、そのコミュニケーションの方法だった。彼の根は地下で他の植物たちの根と絡み合い、菌類のネットワーク――菌根菌網を通じて微弱な化学信号を交換していた。


 それは言葉のような分離的な情報伝達ではない。「水が足りない」という隣の若木の渇望が直接的な感覚として流れ込んでくる。「アブラムシが来た」という遠くの草の警告がフェロモンの匂いとして共有される。


 テンジンは驚いていた。これは1990年代にスザンヌ・シマードによって発見された「ウッドワイドウェブ」そのものだった。森全体が一つの巨大な神経ネットワークを形成し、情報を共有している。


 森全体が一つの巨大な知性体であり、個々の木々はそのニューロンに過ぎなかった。そこには「自分」と「他者」の明確な区別はなく、ただ森全体の健やかな生命の流れがあるだけだった。


 人間の個人主義がいかに孤独で非効率的だったかを、彼は今痛感していた。競争ではなく共生こそが、生命の本質だったのだ。


### 三百年の記憶


 テンジンは三百年間、この木が見てきた全てを体験した。いくつもの世代の僧侶たちが生まれ、修行し、死んでいく姿。僧院が建てられ、朽ち、再建される様。鳥が枝に巣を作り、子が生まれ、巣立っていく営み。


 1950年代の政治的混乱の時期。多くの僧侶が去っていき、僧院が一時的に閉鎖されたこと。その間も、この古木は静かにその場を守り続けていた。


 1980年代の復興期。若い僧侶たちが戻ってきて、再び読経の声が響いた時の安堵感。


 そして近年、西洋からの研究者たちが訪れるようになった変化。


 その全てを木はただ静かに受け入れ、見守っていた。人間的な「なぜ?」という問いは、そこには存在しない。「そうある」ことの完全なる受容。良いも悪いもなく、ただ生命の循環があるだけ。


 テンジンは仏教の教えの奥義を、思考ではなく身体全体での共感として理解した。縁起――全てのものは相互に依存しあって存在している。無常――全てのものは絶えず変化し、留まることはない。


 その真理を、ポプラの木は三百年間、ただ黙って体現し続けていたのだ。


 「我々人間は、頭で理解しようとしすぎていたのだな......」


 テンジンの意識に、深い謙虚さが芽生えた。


### 弟子たちの観察


 その間、堂内では弟子たちが師の変化を見守っていた。七日目の夕方、ドルジェが気づいた異変があった。


 師の顔色が、微かに緑がかって見えたのだ。そして、まるで陽だまりの匂いのような、青草の香りがかすかに漂っていた。


 「先輩......師父の様子が......」


 ロサンは頷いた。


「師は今、植物の世界を体験しておられる。チベット密教の古い文献には、トゥクダムの際に意識が様々な存在形態を体験するという記述がある」


 ジョンソン医師は首を振った。


「非科学的すぎます。人間の意識が植物になるなど......」


 だが、その時、師の周りにあった枯れかけていた供花が、突然みずみずしさを取り戻すのを彼は目撃した。科学的な説明はつかなかった。


 ロサンが静かに言った。


「先生、科学は『どのように』を説明するが、『なぜ』については答えられない。師は今、『なぜ』の世界を探求しておられるのです」


 その夜、僧院の中庭のポプラの古木が、季節外れの新緑の芽を出しているのを、夜番の若い僧が発見した。


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