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第一章:離脱の始まり

 世界の屋根、チベットのチャンタン高原。そこでは時間は風の音で計られ、沈黙は石の記憶で計られる。カイラス山から吹き下ろす聖なる風が、ゴンパのタルチョ(祈祷旗)をはためかせ、そこに刷られた経文の祈りを虚空へと解き放っていた。


 その僧院の最も奥深く、バターランプの揺れる薄闇に満たされた堂内で、一つの静寂が七日間の長きにわたり続いていた。高僧テンジン、齢八十。彼は結跏趺坐の姿勢を少しも崩さぬまま、深い瞑想のうちにあった。


 麓の町から呼び寄せられた西洋医学の医師は、聴診器を彼の胸から外し、静かに首を横に振った。呼吸停止、心拍停止、脳波フラット。医学的には彼は七日前に死亡していた。


 しかし弟子たちは少しも動揺しなかった。師の体は死後硬直も腐敗の兆候も示さず、まるで眠っているかのようにしなやかさを保っていたからだ。そして心臓のあたりに掌をかざすと、冬の陽だまりのような微かな温もりが感じられた。


 トゥクダム。虹の身へと至る前の究極の瞑想状態。意識が肉体を離れた後も、その叡智の光が物質世界に留まり続ける稀有にして深遠な現象。弟子たちは師が最後の旅に出立したことを知っていた。


 西洋医学の医師、デイヴィッド・ジョンソンは困惑していた。ハーバード大学医学部を首席で卒業し、神経科学の博士号を持つ彼にとって、目の前の現象は全ての医学常識に反していた。


「これは......科学的に説明がつかない」


 彼は震える手でメモを取りながらつぶやいた。体温は摂氏三十一度。通常なら死後十二時間以内に環境温度まで下がるはずだ。皮膚の弾力性も保たれ、筋肉の硬化も見られない。


 最年長の弟子ロサンが、静かに医師に語りかけた。


「先生、医学では心臓が止まれば死とお考えでしょう。しかし我々の伝統では、意識こそが生命の本質なのです。師は今、肉体という器を超えた領域を旅しておられる」


 ジョンソンは首を振った。


「意識は脳の産物です。脳死が確認された以上......」


「では先生」ロサンが微笑みを浮かべて言った。「なぜ師の体は今もこうして温かいのでしょうか?なぜ腐敗が始まらないのでしょうか?」


 その質問に、医師は答えることができなかった。


### テンジンの内的体験


 その頃、テンジンの意識はもはや「テンジン」という名の器に収まってはいなかった。


 ふ、と気づくと、彼はバターランプの煤で黒ずんだ堂の天井から、自らの抜け殻を見下ろしていた。皺の刻まれた顔、剃り上げられた頭、日に焼けた皮膚。八十年という歳月を共に過ごしたその肉体は、今や見知らぬ彫像のように静まり返っている。


 恐怖も悲しみも執着もない。ただ、そこにある。五十年に及ぶ修行で培われた「観察する意識」が、死という最大の嵐の中にあってさえ、羅針盤のように彼の本質を指し示していた。


 テンジンは思い出していた。若い頃、初めて瞑想を学んだ時のことを。師であったガワン・リンポチェの言葉が、今、鮮やかによみがえってきた。


「瞑想とは、川の流れを止めることではない。川岸に立ち、流れを静かに観察することだ。思考も感情も、全て川を流れる木の葉のようなもの。それらと同化せず、ただ観察せよ」


 あれから六十年。彼は今、究極の観察者となっていた。


 意識はもはや脳という器官に縛られていなかった。思考が生まれる前に、その源流が見える。感覚が知覚される前に、その波動が分かる。そして何より、彼の内側で絶えず囁き続けていた「言葉」が、静かになり始めていた。


 山、石、空、自分、他人......。これまで世界を切り分け、分類し、理解してきた無数の名前たちが、その意味を失い、音の響きだけを残して剥がれ落ちていく。まるで長年着古した重い衣を一枚また一枚と脱ぎ捨てていくような、途方もない解放感。


 言葉が消えると、言葉によって作り上げられていた「私」という感覚もまた、輪郭がぼやけ始める。


 人間としての意識が、その特徴を露わにしながら霧散していく。


 時間。それは記憶という過去の残像と、期待という未来の幻影の間を直線的に流れる川だった。だが今、その川の流れが止まり、過去と未来が「今」という一点の湖に溶け込んでいく。


 分離。それはこの皮膚の内側が「私」で、外側が「世界」だという最も根源的な思い込みだった。だが今、その皮膚の境界線が消え、堂内の空気の振動と自分の意識の揺らぎが、同じ一つの現象であることが分かる。


 概念。それは複雑な現実を単純なラベルに置き換える便利な道具だった。だが今、道具は捨てられ、現実そのものの名付けようのない豊かさが直接流れ込んでくる。


 テンジンという個我は、ゆっくりと、しかし確実に解体されていった。彼はもはや一人の人間ではなかった。純粋な「気づき」の場。名もなき観察者。


 その彼の意識が、次なる体験へと引き寄せられていくのを、彼はただ静かに観察していた。それは堂のすぐ外、中庭にそびえ立つ巨大な存在の呼び声だった。


 古木の根が彼を呼んでいた。


「おいで......時が来た......」


 それは言葉ではない。もっと原始的で、直接的な意識の波動だった。


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