偽の自由主義者の理論が独裁政治に繋がりかねない危険性について
私は先日、偽物のリベラルないしは偽物の自由主義と本物のリベラルないしは本物の自由主義について、という名前の作品で、自由主義にはロック型とルソー型とヘーゲル型とニーチェ型がいてこのうち真の自由主義者はロック型だけであるという話をした。ここではロック型以外の考え方は確かに美徳といえる点もあるのだがそれは独裁につながりかねない危険なものであることを示そうと考えている。
自由主義にはロック型とルソー型とヘーゲル型とニーチェ型とベンサム型がいてこのうち真の自由主義者はロック型だけである。ここではロック型以外の考え方は確かに美徳といえる点もあるのだがそれは独裁につながりかねない危険なものであることを示そうと考えている。なお、ここに書かれていることは一つの理論的可能性であり、必然ではない。
まずはルソー型について話そうと思う。ルソー型の提示する共同体の価値観や共通善という価値観は一般人にとってはわかりやすいものに映るだろう。故にルソー型には確かに共同体の価値観や共通善という価値観で集団をまとめやすいという美徳はある。しかしルソー型の悪いところとして、その共同体の価値観や共通善を個人の自由と権利よりも上に置くという点がある。故にルソー型は共同体の価値観や共通善に沿わない発言を取り締まることを正当化する。例えばヘイトスピーチ規正法はこのルソー型の考えからきているといってもよい。もちろん、直接的な暴力扇動や具体的な危害を防ぐための最小限の規制は理解できる。しかし問題は、そこからさらに進んで、差別的な思考や感情そのものを社会的に許容しないという方向へ発展することだ。これは表現の規制から内心の統制へと向かう滑りやすい坂である。私がこんなことを言うと差別をする自由は差別されない権利を侵しているから認められないと主張するルソー型の人もいるだろう。ここで誤解を避けるために明確にしておきたいが、私は制度的な差別や差別行為を擁護しているわけではない。問題なのは、ドゥウォーキンに代表されるような、差別的な感情や思考を持つこと自体を道徳的に非難し、最終的にはそうした内心の自由まで統制しようとする発想である。人が特定の属性を持つ人に対して好悪の感情を抱くことは、自然状態における精神の自由の範疇に属する。精神の自由は最も基本的な権利であり、他の権利はここから派生する。なぜなら思考や感情の自由なくして、真の判断は不可能だからだ。差別されない権利が精神の自由を制約するとすれば、それは派生的権利が基底的権利を侵害することになり、論理的に倒錯している。いずれにせよルソー型の危険性は、この精神の領域にまで共同体の価値観を押し付けようとする点にある。そしてルソー型がヘイトスピーチを取り締まることに成功したら、次はルソー型はほかの共通善や共同体の価値観に反する思想を取り締まるようになる。するといつしか国家の価値観と共通善や共同体の価値観が同一になってしまう。理由は共通善や共同体の価値観に合わない考えで国家運営をすることはできなくなるからだ。すると最終的にはルソー型は国家の価値観と合わない思想を取り締まることになるが、これは独裁政治といっても過言ではないだろう。
次はヘーゲル型について話そうと思う。ヘーゲル型は歴史を必然性に基づいて分析するのでその分析には説得力がある。故にヘーゲル型には確かに約束された未来を実現するために行動するよう集団をまとめることがうまいという美徳がある。しかしヘーゲル型の悪いところとして、約束された未来を実現しようとするあまり現実を無視したり人の願望を無視するという点がある。なぜならヘーゲル型にとって約束された未来は変える余地のない確定したものでありそれは現時点での現実や人の願望に左右されないからだ。ヘーゲル型にとっては約束された未来の実現に不都合な意見は現実を反映して述べられた意見や人の願望を表す意見ではなく単なる愚かな意見なのだ。故にヘーゲル型は約束された未来の実現に邪魔な意見を切り捨てようとし、約束された未来の実現に邪魔な意見を言うことを取り締まろうとする。そしてそれに成功した場合、国家の目指す未来がヘーゲル型にとっての約束された未来と同一になる。理由はヘーゲル型にとっての約束された未来と違う未来を提示する人の意見で国家運営をすることはできなくなるからだ。すると最終的にはヘーゲル型は国家の目指す未来の実現に反する意見を取り締まることになるが、これでは独裁政治とみなされても仕方がないだろう。
今度はニーチェ型について話そうと思う。ニーチェ型は自由を重視するがゆえに既存の権威を疑うがその疑念は時には腐りきった政治を改革する原動力になる。故にニーチェ型には確かに腐りきった政治を改革する原動力が期待できるという美徳がある。しかしニーチェ型の悪いところとして、自身が仮に権力者だったとしても自身を法律(憲法含む)で縛る行為に否定的であるという悪いところがある。ニーチェ型が権力者になれば、自身の権力を縛り上げる法律や憲法を次々になきものにしていくだろう。それにニーチェ型が成功すると、もはや権力者の権力を抑制するものは何もなくなってしまうが、これは独裁政治である。
今度はベンサム型について話そう。ベンサム型は人々の幸福の総和という、比較的どんな時代にも理解されやすい思想を掲げる。故にベンサム型には確かにどんな時代にもその思想を当てはめることができるうえ時代に応じて政策を臨機応変に対応させやすいという美徳がある。しかしベンサム型の悪いところとして、他人の幸福という主観と憶測によって決まるものの最大化を目指しているため、政策が権力者の裁量で決まるという問題点がある。これは確かにルソー型やヘーゲル型やニーチェ型ほどの問題点ではないものの、政策が権力者の裁量で決まるという状況は権力者の恣意的な判断を生み、これが権力者の権力の増大をもたらす。これは直接独裁政治に結び付くわけではないが、独裁政治に結び付きやすい状況なら作られることになる。
最後にロック型について話そうと思う。ロック型は、社会に共有された価値観や歴史的必然性をあまり重視しない。故にロック型は冷たく、人間味がなく、ビジョンもない思想だとみなされやすいという欠点がある。さらにロック型は、ニーチェ型と違い権力を法で縛る。故にロック型は個人の創造性を抑圧している思想だとニーチェ型から思われるかもしれないという欠点がある。さらにロック型は、結果のすばらしさよりも過程の正しさを重視する。故にロック型は融通が利かず、結果に責任を持たない思想だとみなされやすいという欠点がある。だがロック型は個人の自由を最優先にするので、独裁政治につながりにくいという美徳がある。
このように、ルソー型、ヘーゲル型、ニーチェ型、ベンサム型はどれも美徳もあるが同時に独裁につながりかねない危険な考えでもある。逆にロック型は欠点もあるが同時に独裁につながりにくいという美徳があることも分かった。故に私はロック型で政治が行われることを望む。ロック型は、多様な価値観が共存する現代社会において、個人の自由を尊重し、社会の安定を維持するための重要な基盤となる。ロック型を再評価し、その原則を社会に浸透させることこそが、真に自由な社会を実現するための鍵となる。
繰り返すが、私は差別行為の野放しを主張しているのではない。個人の精神の自由と社会的な行為規制は区別されるべきだという点を強調したいのである。まあ私のこの思想は賛否両論どころか批判も受けることになるだろう。しかし私の思想に限らず誰かの思想に対する怒りがより良い世界につながるだろうか?私は怒りからは怒りしか生まれてこないと考える。