エピソード2「悪人の仮装」④
「ババ!!」
ある街で起きる連続失踪事件。
真相を追う刑事、沢登修吾と
街で喫茶店を営む女店主、馬場カーミラルの物語。
「ちゃちな悪事で悪人ぶるなよ。みっともないぜ。」
=④=
「はぁ……」
九月十八日、朝八時二分。 喫茶店Terminalには、いつもの二人の姿があった。沢登修吾。 五宇都県警深水市署捜査課所属の刑事。年齢は四十代半ば、だらしない見た目に反して、「一見ぼんやりして見えるが、話し方の節々に滲む鋭い観察眼と論理性が隠しきれない男」らしく、署内では高く評価されている男。
そしてこの店の店主、長い黒髪に、どこか異国の血を感じさせる端正な顔立ち。白いシャツに茶色の薄手のエプロンを纏い、年齢以上の落ち着いた雰囲気を漂わせる、二十代半ばの女性、馬場カーミラル。
店内には、いつものようにふわりとコーヒーの良い香りが漂い、ジャズのBGMが空間を柔らかく整え、包み込んでいる。沢登の飲むコーヒー、インドモンスーン深煎り苦めは、言うまでもなく、いつものようにとても苦い。そして馬場の所作が、まるで踊るように洗練されているのも、いつもと変わらぬ静かな朝の風景だ。
ただ、一つだけ違っていたのは沢登の表情。普段は乏しいその顔に、明らかな“疲れの色”が滲んでいた。
「修吾さん、大丈夫?」
馬場は、カウンター越しに疲れの色を隠しきれない沢登に顔をそっと寄せ、じっとその表情を見つめた。 その瞳には、心配と共に“私でよければ話を聞くよ”という言葉が滲んでいた。以前の沢登なら、こんなふうに顔を近づけられれば、思わず身を引いてしまうところだろう。だが、この二ヵ月、そんな彼女の距離感に、沢登はいつの間にか慣れてしまったのか、身を引くことも無くフッとと小さく笑みを浮かべると、囁くように答えた。
「……大丈夫だよ。」
その声は、疲れを隠すものではなく、むしろ“彼女の気遣いに応える”ささやかな誠意のようでもあった。
ジャズが静かに流れる店内で、ふたりの間に漂う空気は、いつもより少しだけ暖かくそしてどこか柔らかだった。
「馬場さん、この前の落書き騒動の件の犯人のこと、もう知ってるか?」
沢登がそう切り出すと、馬場は目をスッと閉じ、静かに頷いた。
「ええ。新聞に載っていましたね。あの投稿動画から足が付いたんでしたっけ?」
「そうだ。映像の解析で身元が割れた。新聞の通り、犯人は三人。だが、全員行方不明だ。」
沢登はそう言って、頭をくしゃくしゃと掻いた。 そしてもう一度、フゥと、深く息を吐く。
「落書き騒動の現場が中瀬だったこともあって、また失踪者が増えたんじゃないかって、署内でも話題になってるよ。」
言葉の端々に、疲れと僅かな苛立ちが滲んでいた。確かに、落書き騒動に関して事件は進展した。犯人も特定された。だがその先に待っていたのは、またしても新たな“消えた者たち”失踪者だ。
そして、その数はついに二桁に達した。十人目の失踪者が、人々の記憶に刻まれたのだった。
「一難去って、また一難、ですかね。修吾さん、お疲れさま。」
馬場は、困り顔で頭を抱えるようにも見える沢登にそっと声をかける。その言葉には、静かな労いと、彼女の彼に対する心を込めた優しさがあった。
彼女は、寝ぐせの残る沢登の髪に細い手を伸ばし、ポンポンと軽く撫でる。その仕草は、まるで“よく頑張りましたね”と伝えるような柔らかなリズムで、それに不意を突かれた沢登は、少し驚いたように目を見開いた。だが、すぐにその手の温もりに、なぜか心地よさを感じてしまう。そして、照れ隠しのように口元を歪め、苦笑いを浮かべるしかなかった。
◇◆◇
中瀬商店街で起きた落書き騒動。その犯人とされるのは、深水市中央区を拠点に活動していた小規模な暴走族のメンバー、十七歳から十九歳の少年の三人だった。だが、なぜ彼らがその行為に及んだのかは、いまだ不明のままである。
それもそのはず。三人は九月十五日を境に、深水市から忽然と姿を消している。行方不明となった者に動機を問うことはできず、世間に流れるのは憶測ばかり。
真相は、“黒い霧”の中である。
それでも、中瀬の街の人々は、今回ばかりはどこか胸をなでおろしているようだった。相次ぐ中瀬を中心とした失踪事件という不安は残るものの、少なくともあのような悪戯が繰り返されることはないだろうという安堵の空気が中瀬の街には漂っていた。
深水市中瀬失踪事件。その中心にあるこの土地では、中瀬商店街落書き騒動の“犯人が消えた”という事実が、皮肉にも“静けさと安心感”をもたらしていた。
八時二十五分。沢登と馬場の会話は、ジャズの音色に包まれながら、静かに続いていた。このあと沢登は、今日も中瀬の街で失踪事件の聞き込みに向かう。新たに三人の行方が分からなくなり、事件はさらに深い迷路へと入り込みつつある。そんな中、喫茶店Terminalで馬場と交わす何気ない会話は、彼にとって数少ない“癒しの時間”。だが、それもそろそろ終わりを迎えようとしていた。
「香蘭亭に寄った帰りに聞こえた、あのバイクの騒音。あれも、あの三人だったかもしれないな。」
沢登がぽつりと呟くと、馬場はどこか意味ありげに、ふっと微笑んだ。
「そうかもしれませんね。そういえば修吾さん、あのとき“あれくらいならかわいいもの”って言ってませんでしたっけ?」
その言葉に、沢登は言葉を詰まらせた。確かに、そう言った。だがそれは深水市中瀬失踪事件の聞き込みの中で聞いた、社内トラブル、政争話に比べればという意味だったのだが、発言した言葉はどのようにしても言葉として残る。
「…言っていたな。」
「ふふ、私も“そうね”って、言ってましたし。」
二人は顔を見合わせ、ほんの少しだけ笑い合った。沢登にとって、こんな日常が舞い降りてきたのは、奇しくもこの事件を追うために中瀬へ通うようになってから。それはまるで、事件そのものが彼をこの店へと導いたかのようにも思えるほどでもある。そんなことを思いながら、距離の狭まった二人の顔はふっと自然に“普段の距離”に戻る。
「…あれも、自己顕示のための行動だったとしたら、今回の落書き騒動も同じか。 何というか…“悪ガキ共の悪戯”って、何なんだろうな。」
沢登の問いに、馬場は少しだけ目を細めて静かにいつもより少しだけゆっくりとした口調で答えた。
「そうね……抑えられない、ゆがんだ承認欲求。そんなところかしら。」
その言葉とともに浮かんだ馬場の笑みは、いつもの柔らかさに加えて、どこか妖しげな光を帯びていた。それには時折、彼女が見せる“読み切れない何か”が、滲んでいるかのようだった。
◇◆◇
沢登が喫茶店Terminalを後にしてから、およそ一時間が過ぎた頃。中瀬の街で聞き込みを続けていた彼のスマートフォンが、ブーン、ブーンと低く振動した。
普段であれば、「電話が鳴るときは大概ろくな話じゃない」と、ため息のひとつも漏らすところなのだが、今日の沢登は違った。まるでその着信を待っていたかのように、素早くポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。
表示されていたのは部下の名前、武澤春樹。それは、沢登が“頼んでいた件”に何らかの進展があったことを、暗に示していた。
通話ボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし。出たか?」
「おつかれさまです、沢登さん。出ましたけど…ちょっとおかしいですよ、あれ。詳しくはちょっと電話じゃ話せません。一度署まで戻ってもらえませんか?」
「おかしいか……了解だ。これから戻る。遅くなっても十時半には署に着ける。 鑑識にも伝えておいてくれ。武澤君、ありがとう。」
「いえ、こちらこそ。待っていますよ!」
通話は短く、要点だけが交わされた。沢登はスマートフォンを静かに切り、しばし無言のまま立ち尽くす。
『出ましたけど……ちょっとおかしいですよ、あれ。』
武澤の言葉が、沢登の頭の中でリンタラ、ワンタラと反響する。それは、沢登がどこかで予感していた“違和感”の輪郭を、静かに浮かび上がらせていた。
八月八日。捜査の中で、沢登が鑑識課に回した“少し気になったある物”。それは、彼が喫茶店Terminal前で踏んだ小さなコインほどと思われる粉々に砕けた破片。よく見るとそれは硬質な鱗のような物質だった。だが、何かがおかしい。何がおかしいかは言葉にして表現できないのだが、それは“鱗”と呼ぶには、まったく場違いで、どこか異質で、何か怪しい。その瞬間、沢登の記憶の中から、ある言葉が引き出された。捜査にオカルトを持ち込むことに抵抗を感じていた彼が、それでも何度も目にしてきた雑誌の特集「新進の妖怪」。
その言葉が、頭の中で繰り返される。まるで何かを知らせようとするかのように、静かに、しかし執拗に繰り返される言葉。
『“新進の妖怪”それは、時代とともに形を変え、都市の隙間に潜む新しい怪異の概念。』
『出ましたけど……ちょっとおかしいですよ、あれ。』
渦巻く思いを抱えながら、沢登は足早に津ノ上駅へと向かった。
津ノ上駅から深城線に乗り、深水署最寄りの深水城駅までは四駅、所要時間は八分。地下鉄深城線は時間帯を問わず混み合う路線だが、津ノ上駅を出て栄町駅を過ぎる頃には、車内の密度も気持ち少しだけ緩やかになる。そのわずかな静けさの中で、沢登の思考を巡るのは、「新進の妖怪」という言葉と、“あれ”を踏んだ場所の記憶。
電話では話せない。そう告げた武澤の声色から察するに、鑑識課から上がってきた結果は、常識では測れない何か。衝撃的なものか、あるいは得体の知れないものか。そして、“あれ”を踏み砕いた場所。それは喫茶店Terminalの前。
フォオォフォォォォン。地下鉄車両が流れるように、滑るように走行音を響かせながら、地下道の空気を震わせて進んでいく。そんな中で沢登は、静かに息を整えていた。
五宇都県警深水市署。通称、深水署。金の鯱を象徴とする歴史と美の名所「深水城」と、県道215号、良町通を挟んで向かい合う、深水市の警察本部である。
深水市営地下鉄・深城線、深水城駅6番出口。そこから地上に出た沢登は、秋晴れの陽光に肩を照らされながら、署まで数分の道のりを歩く。秋空は澄み渡り、街は穏やかに動いている。だが、沢登の足取りはその空気とは裏腹に、どこか急いていた。本人は意識していないつもりでも、彼を知る者から見れば、わずかに早足になっているのが分かる程度の歩調。それは、彼の中にある“何かが動き出すだろう”期待の表れだった。
署の入り口をくぐると、沢登は迷うことなく捜査課へと向かう。
そこに待つのは、武澤からの報告。そして、深水市中瀬連続失踪事件の“思いがけない次の扉”だった。
十時二十二分。深水署・捜査課に到着した沢登は、部下の武澤と合流し互いに短く言葉を交わすと、すぐに鑑識課へと足を向けた。
武澤はすでに鑑識から結果を聞いている。沢登はまだそれを知らない。その差が、二人の歩調に同じようで微妙な違いを生んでいた。
武澤の顔には、言葉にできない違和感が。沢登の胸には、まだ見ぬ答えへの期待が静かに膨らんでいる。
それぞれの混乱と、それぞれの焦りは、まるで見えない手で背中を押されるように、二人を鑑識課へと急がせていた。廊下を進む足音が、静かな署内にコッコッコッコと小さく響いていた。
「失礼します。笠原さん、沢登さんを連れてきました。」
鑑識課に到着した武澤は、デスクに向かいパソコンの画面を眼鏡越しにじっと見つめている白髪の混じったショートカットの女性に声をかけた。笠原美恵。若手の育成にも熱心なベテラン鑑識官であり、沢登とは長年の付き合いがある人物だ。
その声に反応し、笠原はゆっくりと顔を上げる。沢登の姿を認めると、口元に小さな笑みを浮かべ、そしてほんの少しだけ呆れたような表情を見せた。
「修吾君、相変わらずね。髪。」
「ははは…そう言うなよ、美恵さん。」
それは、二人の間で交わされる“いつもの挨拶”のようなものだった。軽く言葉を交わしただけで、互いの気楽な距離感が自然に生まれる。
笠原はすぐに席を立ち、こっちへと、三人だけになれる別室へと案内した。その背中には、いつにない“何か不可解な結果を伝える困惑と覚悟”のようなものが滲んでいた。
沢登は、そんな彼女の歩調に合わせながら、心の奥に浮かび上がる言葉、“新進の妖怪”を意識させられていた。
それは、現実の枠を越えて何かが迫ってくることを、静かにかつ衝撃的に告げられる前触れのようだった。
別室に入った笠原美恵、沢登修吾、武澤春樹の三人。パタリと扉が閉まる音が静かに響き、笠原は、フゥ、とひとつ意味深な息を吐いた。そして、鋭い眼差しで眼鏡越しに沢登の目をじっと見据える。
「修吾君。これから話すことは、信じがたい内容かもしれない。私自身も正直、本心ではまだ納得できていない。けれど、結果は結果。それとして、伝えるね。」
その言葉には、鑑識官としての説明責任と、ひとりの人間としての納得できない戸惑いが混ざっていた。笠原の視線は鋭く、それはまるで蛙を睨む蛇のように、沢登を貫いてくる。彼女を知らない者なら、思わず身を引いてしまうほどの目力のある強い眼差し。だが沢登は、それを笠原の“本気の証”と受け止めていた。
彼女の目が語るのは、あれはただの異物ではない。“理解できない何かが起きている”という確かな物証だと。そのとき沢登は、ふと武澤の電話で聞いた言葉を思い返した。
「出ましたけど……ちょっとおかしいですよ、あれ。」
その“おかしさ”が、今まさに形を持とうとしていた。それは…
「修吾君。あの欠片。鑑定の結果は…人間の皮膚よ。」
◇◆◇
喫茶店Terminal。深水市中央区中瀬北二丁目、屋久通りに面した中瀬北バス停のすぐ前に佇む、小さな喫茶店。五席のカウンターと、一つの四人掛けテーブル席が並ぶ店内は、十時を過ぎて一度満席となり、今は客がぽつぽつと店を後にしていく時間帯。現在時刻は、十時四十八分。
ひと段落ついた店内には、女店主・馬場カーミラルの姿だけが残っていた。しばしの休憩。どれほど続くかは分からない、束の間の静けさ。カウンター内で、彼女は小さく体を伸ばし、ふぅっと息を吐く。そして、自分用のマグカップにコーヒーを注ぎ、それを口元に運ぶ。ふわりとコーヒーの香りを楽しみ、一口。そしてもう一度、静かに息を吐いた。
九月十八日。街の陽気は、つい先日まで残暑の名残を感じさせていたはずだった。 だが、それはまるで誰かがスイッチを切り替えたかのように、朝晩の空気は一気に冷え込みを帯び始めた。これほど急な気温の変化では、それに体が追い付かず風邪を引く人も少なくないだろう。喫茶店Terminalの窓から見える景色は、まだ秋の色には染まっていない。 木々の葉は緑のまま、街の彩りも夏の名残を残している。しかし、空気だけは確かに変わった。灼熱の夏とは違う、絹のようにさらりとした柔らかさが、肌に触れるように。
馬場は、少しだけ外の風景を静かに見つめていた。
彼女の胸元で揺れる銀色の球体。ペンダントが、店内の光を受けて一瞬、きらりと鋭く輝いた。その瞬間、馬場の瞳はわずかに金色の光を帯び、普段の柔らかな表情に、言い知れぬ鋭さが差し込む。そして、誰に向けるでもなく、彼女の口元から小さな呟きがこぼれた。
「…拾っていたのね。あの破片。ふふ、これで少しだけ近づいたわね。沢登修吾。」
その声は、静かで、甘く、そしてどこか底知れぬ黒い霧を纏った妖しい響きを持っていた。
エピソード2「悪人の仮装」終




