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ババ!!  作者: 井越歩夢


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8/15

エピソード2「悪人の仮装」③

「ババ!!」


ある街で起きる連続失踪事件。

真相を追う刑事、沢登修吾と

街で喫茶店を営む女店主、馬場カーミラルの物語。


「ちゃちな悪事で悪人ぶるなよ。みっともないぜ。」

=③=


日は少し過ぎ、九月十五日深夜。いや、時間の感覚で言えば、すでに九月十六日早朝と言ってもいいだろう。時計の針は二時三十分を少し回った頃だ。深水市中央区の街並みは、平日の深夜らしい静けさに包まれていた。


いくら都会とはいえ、週末と比べればこの時間帯になると人の往来はぐっと減る。特に中瀬は、中央区に属してはいるものの、夜の顔は別だ。二十二時を過ぎれば、ほとんどの店がシャッターを下ろし、ポップカルチャーの街、観光地の昼間の賑わいが嘘のように消え静寂が街全体を包み込んでいく。


昼間とは打って変わり九月も中旬ともなれば、日が暮れると気温はぐっと下がる。肌に触れる空気は心地よい涼しさを帯びていた。まだまだ続きそうな残暑が嘘のように、夜涼みにはちょうどいい季節の風が、静かな街をふわりと撫でているようだ。

もちろん、中瀬北二丁目屋久通り沿いに店を構える喫茶店Terminalも、すでに閉店している。先週、落書きの被害に遭った白いシャッターは、高圧洗浄によってすっかり元通りの姿を取り戻し、まるで何事もなかったかのように静かな時間を刻んでいた。


通りを行き交う車の姿もほとんどなく、街は眠りに沈んでいる。道を行くのは深水署のパトカーくらい。クルクゥル、クゥルクルと、赤いパトランプを静かに回しながら、ゆっくりと屋久通りを巡回している。連続失踪事件に加えて新たに街を賑わすことになった商店街の落書き騒動。それはあの日以降、中瀬の見回りが強化されたことを示していた。

昼の喧騒が嘘のように消えた夜の中瀬。その静けさは、まるで街全体が深く眠っているかのようだった。


巡回中のパトカーが、中瀬の街を抜けて中央区栄町方面へと走り去っていく。赤いパトランプの残光が屋久通りに並ぶ大小さまざまな建物の壁面を照らすように一瞬揺れて、やがてフッと消えていった。その瞬間、中瀬の街は再び深い静寂に包まれた。

ゆらりと流れる風が、涼しさを湛えながらも、どこかヌラリと絡みつくような冷たさを含んでいる。ヌラリヌラリと曲線を描くようにすり抜けていくその風は、まるで街の輪郭をジッタリとなぞるようだった。


時刻は、草木も眠る頃。人の気配がふと途絶えたその瞬間、 街は、まるで自らのまぶたをそっと閉じるようかのようだった。

その静けさの中に、ほんのわずかの薄気味悪さが、まるで添え物のように、そっとその場に置かれていた。


「…行ったな?」


深水市営地下鉄・深鉄線津ノ上駅、地下鉄九番出口。地上へと続く階段の影から、若い三人の男がパトカーが巡回する屋久通りの様子をうかがっていた。深夜の中瀬の静けさに溶け込むように、彼らの視線はキョロキョロと周囲の様子を伺っている。


一人は、眼光の鋭さが目立つ、眼鏡をかけたがっしりとした体格。もう一人は、長髪で細身。 どこか気の弱そうな雰囲気を漂わせ、その視線は落ち着きなく揺れていた。そして最後の一人。黒のTシャツを張り詰めるほど鍛え上げられた筋肉質の体躯。だが、それ以上に印象的だったのは、その目だ。虚ろなようでいて、その奥に鋭い光を潜ませている。まるで、何かを見据えているようで、何も見ていないような、そんな不穏な静けさを湛えていた。


パトカーが屋久通を抜け、中瀬から栄町方面へと遠ざかっていくのを確認すると、三人の男たちは一斉に動いた。 ザッ、ザッ、ザッっと、地下鉄九番出口の階段を勢いよく、一定のリズムを刻むように地上へと駆け上がり、誰もいない深夜の屋久通へと姿を現す。


「お、綺麗になってるじゃん。いいね、いいね……じゃあ、さっさと始めようか。」


黒Tシャツの男が、九番出口から見える白いシャッターを確認すると、目を細めてニヤリと笑った。その笑みには、悪戯の高揚感というより、何かを“壊すこと”への悦びが滲んでいる。その反面、長髪の男は、一歩引いたような表情を浮かべている。口元は引きつり、視線は落ち着かず、どこか不安げだ。その姿は、今にも「やめよう」と言い出しそうな空気を纏っていた。一方、眼鏡の男は、無表情のまま立っていた。だが、その口元にはわずかに動きがあり、それは笑っているのか、ただの癖なのか。それでも、彼の沈黙は、それを“肯定”しているかのように見えた。


三人の気配が、夜の中瀬にじわりと染み込み始める。そして、彼らの背後。三人が身を潜めていた地下への通路には、無秩序な痕跡が残されていた。黒、青、赤。三色のスプレーで描かれたそれは、絵画なのか、図形なのか、あるいは何かの記号なのか判別しがたく、まるでボールペンの試し書きのように壁面に散らばっていた。


◇◆◇


深夜の中瀬北二丁目、屋久通。喫茶店Terminalの前には、先週“中瀬商店街落書き騒動”の被害に遭った白いシャッターが静かに佇んでいた。そのときの落書きはすでに消されており、シャッターはむしろ以前よりも白く、清潔に整えられている。例えれば、まるでまだ誰にも触れられていない真っさらなキャンバス。その無垢さが、逆に“誰かを誘っているかのよう”にも見えた。


そんなシャッターへ向かって、三つの影が一歩一歩近づいていく。 周囲の様子を注意深くうかがいながら、黒Tシャツ、眼鏡、長髪の順に並んで歩く三人。黒Tシャツの男は、口元にニヤリと笑みを浮かべ、どこか楽しげな様子。眼鏡は、無表情のまま歩みを進めるが、その沈黙が逆に彼の不気味さを際立たせている。そして長髪の男。周囲を落ち着かなく見回しながら、わずかに足取りを遅らせていた彼の視線には、今の状況に対する違和感、悪い予感めいたものが滲んでいた。


だが、先に行く他の二人はそんな様子に気づくこともなく、ただ白いシャッターへと向かっていた。

そして静寂に包まれた深夜の街に、再び“悪意”が刻まれようとしていた。


真っ白なキャンバスのように、静かに佇む喫茶店Terminalのシャッター。先週の騒動を経て、きれいにされたそれは、白さが眩しく映るほどに整えられている。週を超えてその前に並び立つ三人の男たち。手にはそれぞれ、黒、青、赤のスプレー塗料が握られている。


その表情は三者三様だ。黒スプレーを持つ黒Tシャツの男は、口元にニヤつきを浮かべ、今にも笑い声を漏らしそうな高揚感。赤スプレーを持つ眼鏡の男は、無表情ながらも、黒Tシャツの男と同じくどこか“高揚感”の気配を纏っている。そして青スプレーを持つ長髪の男は、周囲を見回しながら、まるで見張りのような動きを見せていた。いや、真意は定かではないが、見張りをしているのではなく、落ち着きなく周囲を見回しているだけかもしれない。


「さぁて、今夜もこの街に俺たちの“ゲ・イ・ジュ・ツ”を刻んでいくぜ。まずは、ここから…」


黒Tシャツの男が威勢よく声を上げた、その瞬間。


「こんばんは。」


ふわりとした柔らかさを纏った、澄んだ女性の声が、静かな夜の空気を切り裂くように彼らの背後から割って入った。その声は、まるで風のように静かで、しかし確実に三人の男の動きをビタリと止める言い知れない力を持っていた。

それは彼らの夜の“創作”が始まる寸前、街の静けさが別の形で動き始める“合図”かのようだった。


三人はビクッと肩を震わせ、ほぼ同時に声のした背後へと振り向いた。巡回中のパトカーはすでに栄町へと通り過ぎている。屋久通に出てからは、周囲に人の気配がないことを、念入りに確認したはずだった。だが、彼女はそこに、まるで“初めからそこにいたかのように”立っていた。その間、足音も、気配も、空気の揺らぎすらなかった。ただ、静かに、確かに、そこに彼女は“存在していた”のだ。

三人の目線はそこに立つ彼女の姿に捉えられていた。長く美しい銀色に染められた髪が、夜の街灯に淡く光を返し、おそらくカラーコンタクトだろう切れ長で美しい金色の瞳は、三人をまっすぐに見据えている。白いロングシャツが初秋の深夜に映え、ダメージの入ったスリムなデニムパンツと紺色のスニーカー、胸元には銀色のネックレス。そこにぶら下がる真珠のような銀色の球体が、街灯の光を受けて微かに輝いている。


だが、それ以上に目を引くのは、圧倒的な彼女の“佇まい”だった。魅力的なスタイルという言葉では収まりきらない、何か異質な存在感。その美しさは、深夜の静けさの中に言い知れない“不快感”を刃物の如くザクリと刺していた。三人をじっと見据える女性がニヤリと不敵な笑みを浮かべ、目を細める。


「ほら、挨拶したんだから、挨拶くらい返してくれてもいいじゃない。フフフ。」


彼女の言葉は、柔らかく微笑を含んでいたのだが、その響きには明らかな挑発の色が混じっていた。黒Tシャツの男の表情が、瞬時に変わる。今までニヤついた口元の笑みは瞬時に消え、眉間に深い皺が寄る。明らかな怒りを湛えたその目は、まるで獲物を睨む猛獣のように鋭く光っていた。

一方、眼鏡の男は相変わらず無表情のまま。その顔に変化はないが、沈黙の中に何かを見定めようとする雰囲気が漂っていた。そして長髪の男。彼の表情も大きくは変わらない。 だが、その目だけが、はっきりと訴えていた。「やめておけばよかったのに。」と。


彼の声にはならないその思いは、挙動不審のオドオドした瞳の奥に浮かんでいた。だが、他の二人はその視線に気づくこともなく、ただ目の前の“異質な存在”、銀髪の女に全集中の意識を向けていた。

深夜の中瀬の空気から、キシキシキシキシと、わずかに軋む音が聞こえてくるかのような緊張が伝わってくる。


「何だよ、お前?」


黒Tシャツの男が一歩踏み出し、吐き捨てるように言葉を放つ。その声には、苛立ちと警戒、そして明らかな恕の息が混じっていた。

だが、銀髪の女はそれを予期していたかのように、微笑みで受け流す。挑発的に喉の奥でクククと笑いを転がしながら、続けて彼女は柔らかく言葉を返した。


「挨拶なし、かぁ。ふふ。まあ、いいけど。 アタシはその店のオーナーよ。まさかとは思うけど、その手に持ってるもので“また”おイタするつもりなのかしら?」


三人が各々手に持っているスプレー缶を指差す銀髪の女。黒Tシャツの男は、鼻で笑うように言い返す。


「おイタ?おいおい、何言ってんだよ。俺たちはこの殺風景な街を、シャッターアートで彩ってるだけだぜ。ゲ・イ・ジュ・ツ!だよ、芸術。」


黒Tシャツの男の口調はさらに強まり、声には挑発の色が濃くなる。だが、銀髪の女はまったく動じない。 むしろ、ニヤリと笑みを深め、その様子が彼の感情をさらに煮え立たせていく。


「アンタの店もさ、こんな真っ白なシャッターより、アートで目立ってなんぼだろ?」


「そうねぁ、アートねぇ。それも悪くないアイデアかも。ふふふ。 だけどね……」


そう言った銀髪の女は、すっと目を閉じ、両手を顔の横に持ち上げる。真っ黒なネイルが施された細くしなやかな指先が、空気を切るように…パチン、と鳴った。

その瞬間、三人の背後で、この世のものとは思えない、言葉では到底表現できない“騒めき”が、二秒間だけその場を、その空間を突き抜けた。

それは音であり、気配であり、見てはいけない何かの“目覚め”のようでもあった。


“芸術なら、これくらいやらなきゃ。ニッシッシッシッシッシッシ。”


いままで言葉として聞こえていたはずの銀髪の女の声が、笑いが、明らかに異質な何かに変わり、夜の中瀬に奇妙な波紋を広げていく。周囲にヴォっと勢いよく黒い靄が湧きだし、周りが見えなくなる。初秋の深夜のヒヤリとした空気とは別の、刺すような冷たさが広がり、その様子に三人の男たちはその場に立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。


“ボッとしていないで、後ろを見なさい。えーっと、久遠晴馬(くおんはるま)芹沢登也(せりざわとうや)、あと、真壁宗次(まかべそうじ)だね。ニーッシッシッシッシッシ”


◇◆◇


「な、なんだこりゃ!?」


銀髪の女の言葉に促されるまま、恐る恐る振り返る三人。黒Tシャツの男、久遠は振り返った瞬間、その目に飛び込んできた光景に、驚愕を隠すことなく大きな叫び声を上げた。

眼鏡の男、芹沢は言葉を失い、ただ目をカッと大きく見開いている。長髪の男、真壁は顔を引きつらせた最上級の怯え顔。大きく口をパクパクと動かすばかりで、言葉が出ない。


“ニッシッシッシ。どう? 素晴らしい“芸術”でしょう。 あなたたち、芸術を語るなら最低でもこれくらい描いてもらわないと。 どう? 感動した?”


銀髪の女の声は、とても愉快そうに弾みながらも、凍るように冷たく、鋭利な刃物で身を切り裂くかのように鋭く響いていた。


三人の男が見たもの。 それは、ついさっきまで真っ白だったはずの喫茶店Terminalのシャッター。 その全面に、所狭しと描かれていたのは“芸術”と呼ぶにはあまりに禍々しい“漆黒の絵画”だった。

海を悠々と泳ぐ、三つの頭を持つサメの化け物。だが、その異形は頭の数だけではない。背ビレ、胸ビレ、尾ビレ。そのすべてには、いくつあるか数える気にもならない無数の牙の生えた口があり、その口の奥には、ギョロリと血走った巨大な眼球が獲物を見据えるように潜んでいた。

そして、そのサメの化け物の前には、逃げ惑う三匹の猿。その姿は確かに猿なのだが、顔がおかしい。いや、その顔は明らかに猿ではない。その顔は、久遠、芹沢、真壁。今ここにいる三人の顔、そのものだった。


シャッターに刻まれた“芸術”は、ただの絵ではない。それはまるで、これから何が始まるかを示す“予言の絵”のようだった。


“どう? 素晴らしいでしょう? あなたたち、殺風景な街をアートで飾るアーティストなんでしょう?この絵の良さ、わかるよね?ねえ?ねえねえ?感想は?ほら、早く感想、聞かせてほしいなぁー。ニッシッシッシッシシ。”


銀髪の女の声には、艶やかな悪意を含んだ高揚感が滲んでいた。その響きは、まるで甘い香りを持つ遅効性の毒のようにその場の空気を緩やかに満たし、体感する周囲の温度をじわじわと下げていく。

それに呼応するように、喫茶店Terminalの前を覆った黒い霧の濃度はゆっくりと、しかし確実に増していた。いつの間にか、そこは中瀬の街の一角ではなく、まるで現実から切り離された“隔離空間”のようになっていた。

通りの音は消え、風も止み、光さえも届かない。そこにいるのは、久遠、芹沢、真壁、そして銀髪の女。黒く異質な静けさの中、その空気に、三人の男たちは恐怖してか、彼らは額に滝のような脂汗が浮かべ、それは頬を伝ってゆっくりと滴り落ちていく。呼吸は浅くなり、キョロキョロと視線は定まらず、足元がじんわりと震える。

彼らの語る“芸術”は、今やその意味を失い、銀髪の女の“芸術”の前に、ただ立ち尽くすしかなかった。


「お、おい…お前、何しやがった!?」


久遠は、明らかに恐怖に支配されながらも、それを悟られまいと語気を荒げて叫んだ。だがそれは無駄な抵抗だった。彼の声は、震えを隠しきれず、虚勢というにはあまりに脆い。それどころか、むしろこの状況は銀髪の女をさらに楽しませるだけ。久遠はそれに気づく余裕すら失っていた。


“何って…そうねぇ。 芸術のわからないお猿さんたちに、“本物の芸術”ってものを見せてあげた。そういうことにしておこうかしら?”


銀髪の女は、満面の笑みを浮かべながら、まるで謳うように言葉を紡ぐ。その声は甘く、冷たく、そして残酷なほどに楽しげだった。

久遠、芹沢、真壁。三人の男たちは、当初の余裕を完全に失い、ただオロオロと立ち尽くすばかり。その姿は、まるで“描かれた猿”そのもののように滑稽で、哀れだった。

そんな様子に銀髪の女の笑顔は、愉快の最高潮を迎えていた。まるで、舞台の幕が上がった瞬間を祝福する観客のように。彼女は、今この瞬間を“芸術”として心から楽しんでいるかのようだった。

ニヤニヤと笑う銀髪の女に、まるで玩具のように遊ばれている三人の男たち。その中で、脂汗を滲ませながらも久遠は何とか威勢を取り戻そうと、震える声を押し殺すように怒鳴った。


「ふ、ふ、ふざけやがって…! 芹沢!真壁!“やっちまうぞ!”」


その怒声に、真壁はビクッと肩を震わせる。 芹沢は、わずかに冷静さを取り戻したのか、黙ってコクリと頷いた。 三人はシャッター前から銀髪の女へと向き直り、半円を描くようにジリジリと距離を詰めていく。

その様子に、銀髪の女は口角をクッと持ち上げ、不敵な笑みを浮かべた。


“あら?何、”殺る気?“そうなの?”殺る気“なの?ねえねえ?シシシシシ……”


笑みを浮かべる彼女に久遠は、虚勢を張るように笑いながら言い放つ。


「へへへ…こっちは三人だ。覚悟しろよ女。二度と外を歩けないようにしてやる!」


その言葉に、“ん!?”と銀髪の女は一瞬沈黙し…そして、深いため息とともに呆れた声を漏らした。


“は? はぁあああああ??? それだけ? 嘘でしょ…”


その声には、落胆と苛立ちが混じっていた。まるで、期待を裏切られた観客が舞台に背を向けるような態度だった。

彼女は頭を抱え、これ以上ないほどの呆れ顔で三人を見回す。 そして、ゆっくりと目を向けながら、静かに言葉を落とす。


“なによ、「二度と外を歩けない」って。これからするのってただの喧嘩なの?「やっちまうぞ」って、そういう意味だったの?「殺っちまうぞ」じゃないんだ。これから始めるの、殺し合いじゃないんだ。呆れた。あなたたちの“悪”って、そんなものなんだ。あー、呆れた。面白くない。落書きや喧嘩程度で“悪”を語るなんて、そんなの、ただの薄っぺらな遊びだよ。バカみたい。”


ついさっきまで愉快そうに笑っていた銀髪の女の瞳は、蒼天から奈落へと急降下したように、虚ろな色を帯びていた。 その目が三人に向けられた瞬間、久遠、芹沢、真壁は思わず息を呑む。その視線は、言葉以上に冷たく、重く、そして深淵のごとく不気味だった。


“……冷めた。異界鮫、もういい。さっさと、こいつら全員食べて。”


その言葉は、まるで興味を失ったかのように淡々と、冷たく放たれた。

そしてそれが久遠晴馬、芹沢登也、真壁宗次の三人が、この場所で耳にした最後の言葉となった。ここが“この世”なのか、それとも“何かの境界”なのか。もはや判別もつかない黒い靄に囲われた空間の中で、彼らはただその言葉を聞き、そして…その瞬間、


“ズグボゥン”


彼らの背後から空気が割け、何者かの気配が飛び出した瞬間に、三人の肉は声を出す間もなく潰れ、そこに存在した記憶はどこかに消え去った。その数秒間が過ぎた時、彼らの痕跡は跡形もなく消え去りそこには誰もいなかった。

いや、そこにはとても不満げな呆れ顔で佇む銀髪の女と、宙にを泳ぐ真っ黒なサメ肌の怪物、三つの頭、六つの口、もういくつ付いているか数える気もなくなる目を持った化け物の姿だけが残っていた。


◇◆◇


午前四時。喫茶店Terminalの店内には、ひとりの女性の姿があった。シャッターは降りているが、店内は照明が灯されており、外の暗さとは対照的に柔らかく明るい電球色の光で明るい。陽の短くなった九月中旬の早朝。外気は肌寒く、街はまだ暗い眠りの中にある。

彼女はテーブル席に腰を下ろし、机に突っ伏すようにして、そこに置かれた銀色の球体をじっと見つめていた。ソフトボールほどの大きさのその球は、滑らかで、冷たい輝きを湛え、どこか生き物のような艶めかしい気配を纏っている。彼女はその表面を指先でゆっくりと優しく撫でながら、どこか不満げな表情を浮かべていた。


「覚悟のない“悪人顔”なんて、ただそれっぽい格好をしてるだけの“悪人の仮装”よね。そう思わない?“異界鮫”」


銀色の球に向かってそう呟くと、彼女はひとつ、静かにため息を吐いた。

その瞬間、彼女の長い髪が、銀から黒へとゆっくりと色を変えていく。金色に光っていた瞳も、深く澄んだ黒へと戻り、そこにいる彼女の姿は、間違いなく喫茶店Terminalの店主、馬場カーミラルその人だった。

まだ夜の幕がまだ降りたままの暗がりの中瀬の街で、彼女だけが目を覚まし、銀色の球体の中を優雅に泳ぐ “彼女の芸術”の余韻を愛おし気に撫でていた。


午前五時三十分。少し早めに、馬場は喫茶店Terminalのシャッターを開けた。外はようやく薄明るくなりはじめ、中瀬の街はまだ静寂の中にある。シャッターには、昨夜の痕跡など微塵も感じさせないほど、奇麗に真っ白だった。

中瀬の街の早朝。残暑厳しい日中の暑さはまだ無く、冷たい空気が彼女の頬を撫で、遠くで鳥の声がかすかに響く。馬場は、んー!と背筋を伸ばし、ふっと笑みを浮かべながら昇り始めた太陽に顔を向ける。


「よし。」


小さく呟いて、いつもより早めの開店準備に取りかかる。カップを並べ、豆を挽き、湯を沸かし…静かな時間の中に、彼女の所作だけが軽やかなリズムを刻んでいく。


「さあ、今日も頑張りましょう。」


そう言って、ふと窓の外に目をやる。

その笑みは、昨夜の“異界と異形を作るモノ”とは思えないほど、とてもやさしく穏やかだった。



④へつづく



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