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ババ!!  作者: 井越歩夢


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4/15

エピソード1「善人の仮面」③

「ババ!!」


ある街で起きる連続失踪事件。

真相を追う刑事、沢登修吾と

街で喫茶店を営む女店主、馬場カーミラルの物語。


「善人ぶるなよ、善人。悪人に見えるぜ…」

=③=


日付は八月七日へと遡る。 陽は西へ大きく傾き、夏の夕暮れの光が窓辺に強くもどこか柔らかく差し込む十七時三十分。深水市中央区、中瀬北二丁目、屋久通り沿いに佇む小さな喫茶店「Terminal」。中瀬北バス停のすぐ前に構えるこの店の閉店時間は十八時。この時間帯になると、店に訪れる客はほとんどいない。

いるとすれば、この時間を定時にしている一人の常連だけ。だがその常連、沢登の姿も、今は店内にない。

静まり返った店内には、女店主ひとり。心地よいジャズが流れ、誰もいない店内の空間にふわりと溶け込んでいる。その音色は、今日という一日の終わりを優しく労うかのように、静かに店内を包んでいた。


喫茶店「Terminal」の女店主、馬場カーミラル(まばかーみらる)は、店内の壁に掛けられた丸い時計に目をやる。その針は十七時三十六分を指していた。この時間なら、もう誰も来ないだろう。今日はこれで終わりね。馬場はそう呟きながら、カウンター内で木製の丸椅子に腰を下ろし読んでいた本を静かに閉じた。両腕を大きく伸ばして「うーん」と声を漏らす。そして、ふっと息をつきながら椅子から立ち上がると、腰に手を当てて「よし!」と小さく笑みを浮かべ、コクリと頷いた。閉店の準備を始めよう。馬場が片づけを始めようとしたその時だった。

カランカランカラン…。木製の扉が開き、ドアベルが小さな音楽のように“お客様の来訪”を告げ、その音が店内に響く。閉店まで残り三十分を切ったこの時間。このタイミングで訪れるとすれば、あの一人(さわのぼり)しかいない。馬場は思わずクスリと口元に笑みを浮かべ、扉の方へと顔を向けた…


そこに立って居たのは、いつものように寝ぐせ頭と無精髭を揺らして現れる常連客、沢登ではなかった。

白髪と白髭はきちんと整えられ、白のポロシャツにベージュのチノパンという小ざっぱりとした清潔感のある装い。だが、足元の革靴と手元の腕時計は、一目で上質なものと分かる。 年齢は沢登よりもはるかに上に見えるが、年相応というより、むしろ年齢を疑いたくなるほどの凛とした立ち姿。彼には“イケおじ”という言葉では収まらない、“イケ爺”と呼ぶ方がしっくりくる風格があった。

老紳士は静かに扉を閉めると、店内を見渡すことなく、流れるような動きでカウンター席に腰を下ろした。


「コーヒーをお願いできるかな?」


堂々とした口調で、はっきりと馬場に声をかける。馬場は、その想定外の来客に、表情には出さないものの、どこか不機嫌な様子だった。


「はい、準備しますね。」


声は丁寧で、いつも通り。しかし、その響きには、どこかいつにない温度の低さが混じっていた。馬場は静かにコーヒーの準備を始める。そして、その背中にも、どこかいつにない冷たい気配が目には見えない揺らぎを湛えるように漂っていた。


「お待たせしました。どうぞ。」


馬場は静かに、そして丁寧に、淹れたてのコーヒーを差し出した。その所作には、いつも通りの落ち着きがある。


「ありがとう。」


老紳士はソーサーにそっと手を添え、受け取ったカップをカウンターの前に静かに置いた。その一連の動きは、無駄がなく洗練されていて、見ている者の目を奪うほどの品があった。だが馬場は、そんな所作にも特別な反応を見せることなく、いつもの視線で彼を見つめていた。


白川誠一郎(しらかわせいいちろう)


その名が、ふと馬場の脳裏に浮かんだ。この店に彼が訪れるのは初めて。だが、深水市議会議員選挙の期間中、街角に貼られていた選挙ポスターの記憶が、馬場の中でこの老紳士の顔と名前を結びつけた。白髪に白髭、整った身なり。ポスターの中で微笑んでいた人物が、今、彼女の目の前でコーヒーを口にしていた。


◇◆◇


「白川誠一郎さんですね。」


馬場は、ぽつりと静かに問いかけた。 その声に、老紳士は「ん?」と一呼吸置いて反応し、数秒間の沈黙の後、表情を緩める。


「こんな若い女性にも覚えていただけるとは、嬉しいものだね。そうです。白川です。」


老紳士、白川誠一郎はそう言って、にこりと笑みを浮かべた。その笑顔は、選挙期間中に街角で見かけたポスターの中で微笑んでいた顔と、寸分違わぬものだった。


「選挙のポスターで拝見しました。どこかで見たことがある気がして。」


「なるほど。」


白川は穏やかに頷く。 馬場は、いつもの落ち着いた雰囲気を保ちながらも、どこか淡々とした口調でそう返すと、カウンター内の木製の丸椅子に静かに腰を下ろした。


「初めて入ったんだが、いい雰囲気の店だね。いつからここで?」


白川がカウンター越しに声をかける。馬場は僅かな微笑を浮かべながら、静かに答えた。


「去年の夏から。ちょうど一年になります。」


「一年か。なるほど、それなら私が知らないのも無理はない。」


ふたりは向かい合いながら、短い言葉を交わす。白川は、会話のペース、馬場の話し方や間の取り方を探るように、短くそして少しずつ質問を重ねていく。


「ここでいつから?」 「失礼ですが、お名前は?」 「以前はどちらに?」


その問いかけは、礼儀正しくも、どこか探りを入れるようにも感じる節があった。馬場はそれに対し、丁寧に、しかし感情を挟まないような淡々とした口調で答えていく。

そのやりとりは、まるで互いの輪郭をなぞるような、静かな駆け引きを見るようでもあった。


十分ほど言葉を交わしたあと、ふと、ふたりの間に沈黙が落ちた。その隙間を、店内に流れるジャズが柔らかく埋めていく。サックスの音がコーヒーカップの縁をなぞるように響き、空気はまだどこか緩やかだった。


「なるほど。うれしく思うよ。こうして若い人がこの街で新しく店を始めて、中瀬商店街を盛り上げてくれる。このご時世、商店街の維持もなかなか難しくなってきていると耳にするが…この街も、まだ捨てたものではないと思えるね。」


白川の言葉には、柔らかな笑みが添えられていた。だがその笑みには、どこか表裏のある気配が漂っていた。彼の言葉の端々には、どこか建前と本音が交錯するような微妙な温度差がある。それは、長年政治の世界に身を置いてきた者のもつ独特な“語り口”に他ならなかった。


「私は、この商店街の未来に期待してるのですよ。商店街の声を市政に反映させたいと、ずっと思っていて。 …まぁ、実現するのは簡単じゃないですけどね。」


会話は、白川の問いかけから、彼自身の語りへと自然に移っていた。それを馬場は、カウンター越しにその言葉を静かに聞いている。その表情に変化はない。ただ、耳を澄ませるように、淡々とその言葉を撫でている。そんな彼女の瞳に“淡い金色の光”が宿っていた。


「へぇ、そうなのですね。」


その言葉への馬場の返しは、相槌というにはあまりに静かで、あまりに冷ややかだった。 その言葉の温度が、店内に漂うジャズの旋律とコーヒーの香りに、わずかな違和感を混ぜ込んでいく。 柔らかな空気が、ゆらり、ゆらりと音もなく、しかし確かに冷たく揺らぎ始めていた。

だが白川は、まだその変化に気づいていない様子だ。音楽のリズムに身を委ねながら、彼は自身の言葉に自信と期待を込めながら続いていく。その裏で、馬場の沈黙が、気付かれることなく静かに店内の温度を下げていた。予兆は、彼に何も告げることなく、ただそっと場を通り過ぎているようだった。


◇◆◇


「……ん?」


商店街の未来と市政について、まるで歌うように語っていた白川だったが、ふとこの場の違和感に気づいた。店内に溶け込んでいたジャズの旋律が、音量を下げたわけでもないのに、遠ざかっていくように感じる。芳醇なコーヒーの香りも、どこか薄れ、空気は静かに冷たさを帯び始めていた。

雰囲気の良い柔らかな空間が、硬質で冷たい何かに侵食されていく。それは音もなく、しかし確かに、場の空気を、音を、温度を確実に変えていた。

何だ!? 何なんだ!!??

異様な変化に気づいた白川は、バッと目の前の女店主、馬場カーミラルへと視線を向けた。


「ギィ…!」


思わず、喉の奥から鳴き声が漏れた。

そこにいたのは、先ほどまでカウンターに立っていた長い黒髪の美しい女性ではなかった。銀糸のように複雑に編み込まれた長い銀髪。蝋細工のように白く滑らかな肌。禍々しさと気品が同居する異形のドレス。そして、金色に輝く瞳が、まるで獲物を睨むかのように、まっすぐに白川を射抜いていた。

その視線は、言葉よりも強く、空気よりも冷たく、白川の心を静かに凍らせていくようだった。


“白川誠一郎。アンタ、ちょっと後ろ向いてみなよ。ニシシシシシ……”


銀髪の女は、まるで舞台の悪役が登場するかのような禍々しくも美しい笑みを浮かべていた。その顔には、恐怖の支配と愉悦が入り混じり合うかのよう。依然と金色の瞳は当惑する白川をジッとまっすぐに射抜いている。顎をクイッとしゃくり上げ、後ろを見ろと促すその仕草は、命令とも挑発とも取れるものだった。

指先が、ゆっくりと白川の背後を指し示す。その動きは、まるで「さっさと見なさい」と言わんばかりの、軽やかで冷たい圧力を帯びている。

そんな彼女の口元には、冷たい感情を含んだ笑み“闇笑”が滲んでいた。


何が……? 何が起きている……?

白川は、突然の異変に思考が追いつかず、ただ困惑していた。目に映る風景は、確かに喫茶店「Terminal」の店内。だが、何かが違う。確かに、何かが違っていた。

店内を柔らかく包んでいたジャズのBGMは、いつの間にか消え、代わりに空気は明らかに冷気を帯びていた。いや、“冷たい”では足りない。それは、肌を刺すような鋭さを持ち、店内に漂っていた優しさの気配を、ぞろり、ぞろりと飲み込んでいるかのようだ。

そしてもう一つ。白川は、自分の身体に走る違和感に気づいた。ほんの僅かな動きで、衣服の感触がざらり、ざらりと肌を撫でる。さっきまで着ていたはずの、肌触りの良い素材の服、その感触ではない。 何だ、この粗さは? 自分の身に何が起きているのか、周囲の様子と自身の感覚が噛み合わず、白川の当惑はより深まっていく。

そして、目の前にいる女。それは、さっきまでカウンターに立っていた、長い黒髪の美しい店主・馬場カーミラルではない。

銀糸のような髪を複雑に編み上げ、金色の瞳を細めてニヤニヤと笑う女。その笑みには、悪意とも戯れともつかない、底知れぬ何かが滲んでいた。

白川は、言葉を失ったまま、その異形の女を見つめていた。


“こっちを見ていなくてもいいからさぁ、後ろを見なよ。ほら、はやく、はやく。”


銀髪の女の瞳は笑っていた。だが、その奥に笑いはなかった。そこにあったのは、ただ彼女の“愉快”。他者の困惑を味わうような、冷ややかで静かな悦びだけだった。


銀髪の女の意図が、白川にはまるで読めなかった。なぜ「後ろを見ろ」と言うのか?何が後ろにあるというのか?後ろを向くと何が見えるのか?

振り返れば、そこには喫茶店Terminalの窓。そして窓の外には、夕暮れの屋久通。通勤ラッシュが始まり、車列は走っては止まりを繰り返し、仕事を終えたサラリーマンたちが足早に家路を急いでいる。そんな見慣れた日常。それだけのはずだった。それだけが、見えるはずだ。


「ギュギニャッギニャニャギュギュギャッ?(何が?何が見えるんだ?)」


何だ? 何の声だ?いや、声ではない。鳴き声だ。自分の言葉に合わせるように、耳に届いたそれは、記憶のどこにも存在しない、異質で気味の悪い響きだった。

何だ?何なんだ?どうなっているんだ?店内に漂う空気は、さっきまでとはまるで違う。 柔らかさは消え、冷たさが粘りつくように広がっている。ニヤけた銀髪の女の顔。耳に残る、奇妙な鳴き声…


“後ろを見ればわかるのだけどねぇ…ニシシシシシ”


まただ。 またこの女が、ねっとりと絡みつくような声で白川を促す。ズル…ズチュ…その声は、まるで耳の奥に指を差し込んでくるような、粘りつくような不快さを伴っていた。

だが白川は、まだ動けなかった。背後の、後ろの、窓の方に、何か“見えてはいけないもの”が潜んでいるような気がして動けずにいた。


“……見ろ”


銀髪の女の声が、低く、鋭く空気を裂いた。一向に後ろを向こうとしない白川に、業を煮やしたのだろう。それまでニヤついていた金色の瞳が、瞬間、氷のように鋭く光る。

その視線が放つ圧は、言葉以上に強く、カウンター席に座っていた白川の身体を、後ろへと二歩、強力に突き飛ばすほどだった。見えない力に背を押されるように、白川は思わず身を引き、その勢いに抗えず、ついに首を後ろへと向けた…


「チチチ!ギョギョッ!?トケェーーーッ!!(何だこりゃー!)」


白川は大きく目を見開き、瞳孔を細め、あまりの驚きに次の瞬間には腰を抜かして椅子からドタドタッと転げ落ちた。後ろを向いた彼の視線の先、喫茶店Terminalの窓には、自身の姿が映っていた。

映っていたのだが、それは自身が知る“白川誠一郎”の姿ではない。

白髪も白髭もなく、頭部は丸く滑らか。左右に大きく張り出した大きな瞳、小さく窪んだ鼻腔。全身は灰褐色の細かな鱗に覆われ、店内照明の光を受けてきらり、きらりと反射する。服装こそ白のポロシャツにベージュのチノパンという清潔感ある装いのままだが、その姿は、“怪物”と呼ぶほかない。言うなれば、“トカゲ人間”。

白川が、それを自分自身の姿であると認識するまでに、ほんの数秒しかかからなかった。 なぜなら、喫茶店Terminalの客は白川ひとりだけ。窓に映るその異形の姿は、椅子の位置も、動きも、すべてが自分と寸分違わぬもの。それは、鏡のように正確で、だからこそ白川は、これを信じられずともは逃れようのない“現実”であると認めるしかなかった。


“アッハハハハハハハ!どーよ、気に入ってくれたぁ?いい格好じゃないか、白川誠一郎。ニーッシッシッシッシ♪”


銀髪の女は、包み隠すことなく大きな声で笑った。それは上機嫌というにはあまりに愉快すぎる笑い声だ。椅子から転げ落ち、シィーシィーと息を荒げる“それ”、白川誠一郎と呼ばれた“トカゲ人間”を見下ろしながら、彼女は目を細め、嫌らしいほどの含み笑いを湛えていた。

女はスゥーっとまるで幽霊が壁をすり抜けるようにカウンターを通り抜け、床に倒れた“それ”の顔へと近づく。黒く長い爪と、細くしなやかな指先が、鱗に覆われた“それ”の頬をなぞる。その仕草は、まるで新しい玩具を撫でるかのように、無邪気で、妖しく、残酷だ。


「ギュッギニャッ!?ギャギャギャ…ギニャニャニャギュギュギュッ!(ひ、ひ、ど、どうなっているんだこれは、どういうことだ!)」


白川はパクパクと必死に口を動かす。それに合わせて赤みを帯び、先端が僅かに二股に分かれた舌が、チロティロと空を舐めるように動く。だが、言葉にはならない。ギュ、ヒュ、ギニャ。爬虫類の未発達な声帯を通ったそれは、到底言葉ではない。

これを十人に聞かせれば、十人が同じように答えるだろう。「鳴き声だ!」と。


“さぁて、白川誠一郎。聞かせてほしいなぁ。アンタの口からさ。中・瀬・再・開・発・計・画♪”


銀髪の女が、楽しく歌うように言葉を紡ぐ。その響きは、甘く、冷たく、冷酷で、そして確信に満ちていた。


「ギャッ!(な……!?)」


白川は表情を変えることもできず、ただ短い鳴き声を漏らした。口をびくりと閉じ、割れた舌を突き出したまま硬直する。その一瞬の反応だけで、驚きが彼の全身を走ったことは明らかだった。なぜだ。なぜその話を知っている? まだ誰にも話していないはずなのに。

トカゲ顔の額に、ダラダラと汗が流れ滲んでいるかのような光沢が走る。それのために彼の顔を覆う鱗は照明を受けて、さらに白く、鋭く輝いていた。

銀髪の女はその様子を見下ろしながら、ますます笑みを深める。その笑顔は、愉快というより、嗜虐的な喜びに近かった。


“私さぁ、選挙ポスターでアンタの顔を見たときに、こんなふうに見えてたんだよね。ああ、こいつって微笑仮面じゃん。“この街の発展を”なんて言ってるけど、裏では再開発で今の街を塗り替えようって魂胆の二枚舌。”善人の仮面をつけた怪物“だねって。で、どうよ?私が見ていたアンタの姿になってみた感想は?”


「ギュギュギニャッ!?ギャギャギャギニャニャニャギュギュギュッ!?(なぜだ!何故それを知っている!)」


白川は必死に鳴き声を上げるが、言葉にはならない。その声は、もはや人のものではなかった。当然だ。彼は姿だけでなくその声帯も爬虫類のそれに置き換わっているのだから。


“…質問に質問で返さないでよ。”


銀髪の女の目が、ニヤリと笑ったまま、急に鋭く細まる。その瞬間、彼女の指先が白川の顔に伸びた。黒く長い爪が、鱗の一枚をゆっくりと摘み、そっと捲り上げる。


「ギャッ!ギニャァァァァ…!(ひぃ!痛てぇー!)」


白川の口が大きく開き、舌が突き出される。大きく見開いた目、その瞳孔は極限まで収縮し、鱗に覆われた顔が苦悶に歪む。その痛みは、人間で言えば「指の爪を、ジワリ、ジワリとゆっくり捲り上げられる」ようなもの。つまり、激痛だった。

銀髪の女の指先に、スッと力が入る。その瞬間、白川の神経はさらに鋭く痛みを拾い上げ、ビクン、ビクンと全身が震える。


“都合に合わせていい顔していてもさぁ、見てるヤツにはわかるんだよ。その“いい顔”が、本性を隠す仮面でしかないってことなんてね。解っていないのはアンタ自身くらい、あああと旨い汁にありつけるやつとか?まあいいや。ニシシシシシシ…さーて、いちまーい♪”


その言葉と同時に、女の指が鱗をグイッと引き剝がす。鱗の下にあった皮膚が、空気に晒される。そこに落ちた痛みは、言葉にならない。叫びにもならず、体を震わせ口をパクつかせる白川の身体を内側から焼くように走っていった。

そんな様子を銀髪の女は、満面の笑みを浮かべたまま、その“剥がれたもの”を、まるで戦利品のように指先で弄んでいた。


“それでさ、さっさと質問に答えてもらえるかなぁ。私の目に映っていた“アンタ”になってみた感想。”


銀髪の女は、指先で弄んでいた鱗、コインほどの大きさのそれを、無造作にポイッと投げ捨てる。そして、何のためらいもなく、再び白川の顔へと指を伸ばした。鱗の一枚を摘まむ。その動作は、とても滑らかで、そして残酷だった。

次に何が起こるかは、あまりにも明白。白川の背筋を冷たい戦慄が走った。目を見開き、喉の奥から悲鳴が漏れる。


「ギャギャギャッ!?ギニャニャニャシィィィ…!(か、勘弁してくれぇ!)」

腰を抜かし、手足をバタバタとさせるトカゲ人間の姿を見下ろす女はニヤニヤと笑う。それはまるで、子どもが遊びに夢中になるときのように、無邪気で、だからこそ恐ろしいものにも見える。


“さあさあ、早く教えてよ。早くしないと~……にぃーまーいっ♪”


今度は、引き剝がすのではない。摘まんだ鱗を、ギュッと捻る。ねじ切るように、骨の奥まで響くような感触とともに「ボリッ。」二枚目の鱗が、音を立てて剥がれ落ちた。


「ギニャァァァァ!!!(痛てぇー!!!)」


白川の叫びは、もはや言葉ではない。それは、白川誠一郎の“善人の仮面”の奥に隠していた“何か”が、暴かれていく痛みかのようだった。


「ギャッギニャッギニャッ!?ギニャニャニャニャ…ギャギャギャッ!?(お、お前……お前は誰だ?何者なんだ!?)」


白川の鳴き声は、銀髪の女への問いかけのつもりだった。彼自身は、まだそれを“言葉”だと思っている。だが、口から漏れているのは、言語とは呼べない異形の音、鳴き声だ。

それが銀髪の女に通じているのかは定かではない。だが、彼女は一度「ん?」と首を傾ける。その仕草はどうやら白川の鳴き声を言葉として理解しているように見えた。ニヤニヤと悪笑を深め、白川の顔へとゆっくりと身を寄せる。


“ほらまた。質問に質問を返すなんて、悪〜いおじさまね。そんなのには、もっとお仕置きが必要ね♪ はい、さぁーん、まいっ♪”


今度は前置きもなく、いきなり目元の鱗へと指が伸びる。黒く長い爪が、鱗の縁を捉え、メリョッ!湿った音を立てて、勢いよく引き剥がされた。


「ギニャァァァァァ!!!(痛てぇぇぇぇ!!!)」


白川の絶叫は、もはや鳴き声と呼ぶ以上のものだった。それは、喉の、体の、魂の奥から絞り出された悲鳴。爪を剥がされるような激痛に、白川の全身がビクビク痙攣する。

上機嫌に、そしてとても愉快そうに笑う銀髪の女。苦悶に歪むトカゲ人間の白川。 その対比は、さながらとても残酷な舞台演劇のように、美しく、残忍で、そして恐ろしかった。

情動では涙を流さないはずのトカゲの大きな目から、ボロボロと、止めどなく涙がこぼれ落ちていた。


◇◆◇


“ニッシッシッシッシッシ……うん、飽きた。もう何も聞けなくてもいいや。アンタは消えろ。”


それが深水市議会議員、白川誠一郎がこの“現実とも幻ともつかぬ状況”の中で耳にする、最後の言葉になるかに思われた。表情の変化がほとんど見えないトカゲ人間白川の顔が、これ以上ないほどの恐怖に染まる。だが、彼の耳はもう一言だけ、確かに拾うことになる。


“白川誠一郎。私が何者か?私は、ただの飾り物さ…なんてな、ニッシッシッシッシッシ”


その言葉が空気に溶けた瞬間、白川の身体を覆っていた鱗が、全身から一枚残らず剥がれ落ちた。それは紙吹雪のように舞い、空間に吸い込まれるように消えていく。それはまるで“蓮見のときと同じように”存在そのものが、影も形も残らぬほどに刻まれ、剥がされていくようだった。


断末魔を上げる暇もなく、白川誠一郎は、静かに、痕跡も残さずその場から消えた。


残されたのは、ほのかに漂うコーヒーの香りと、倒れた無人の椅子。冷たく張り詰めていた店内の空気は、ゆっくりと柔らかさを取り戻していく。ジャズのBGMも、何事もなかったかのように、いつものリズムで空間を満たし始める。

そして、そこに立っていた銀髪の女の姿も、それに合わせるかのようにゆっくりと静かに再構築されていった。喫茶店Terminalの女店主、馬場カーミラルの姿へと。

彼女は、床に残された三枚の鱗を見下ろす。 長い黒髪をふわりとかき上げ、ひとつ息を吐く。 その表情に、わずかな不満の色が浮かべながらそこから背を向けた彼女の口からポツリと言葉が漏れた。


「この時間なのに…なんで、修吾さんじゃないのよ…」


時間は十八時十一分。 馬場は、まるで何事もなかったかのように、帰宅の準備を始める。 床には、コインほどの大きさの三枚の鱗が、店内の照明を受けて静かに光っていた。



④につづく


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