エピソード1「善人の仮面」②
「ババ!!」
ある街で起きる連続失踪事件。
真相を追う刑事、沢登修吾と
街で喫茶店を営む女店主、馬場カーミラルの物語。
「善人ぶるなよ、善人。悪人に見えるぜ…」
=②=
エアコンの効いた店内の涼しさが、じりじりと夏の熱気に晒され続けた沢登の身体を、そっと包み込むように優しく癒していく。 喫茶店「Terminal」に入ってから、何度目か分からない深い息が、またひとつ彼の口から漏れた。
目の前のグラスに注がれた冷たいレモンスカッシュ。ひと口飲むと、酸味と炭酸が喉を駆け抜け、爽快な刺激が身体の奥にまで染み渡る。その瞬間、またひとつ、ホッと息が漏れた。
仕事とはいえ、この暑さの中を歩き回るのは容易ではない。アーケード街の屋根が日差しを遮ってくれるとはいえ、空気の熱は容赦なく体力を奪っていく。四十代半ば。いい歳の沢登にとっては、なかなか無理の利かない季節だ。
普段は無表情な彼の顔にも、さすがに疲れの色が滲んだ表情が、グラスの水滴のように浮かんでいた。
「お疲れみたいですね。」
沢登の様子を見て、馬場は微笑みと苦笑いを六対四ほどに混ぜた表情を浮かべる。ランチタイムに使われた食器の片付けを終え、ひと息つこうと冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを取り出す。グラスに注がれる透明な液体が、シュワワワっと静かな音と共に泡を立てた。
「そうだね。さすがにこの暑さの中を歩き回るのは、俺みたいな“おじさん”にはちょっと堪えるよ。」
沢登がそう言うと、馬場は「またそれですか」とでも言いたげに、今度は純度一〇〇%の苦笑いを浮かべて肩をすくめる。
「沢登さんって、よく自分のこと“おじさん”って言いますけど、まだ四十五でしょう? 全然若いと思いますけどね。」
そう言って、炭酸水のグラスに口をつける馬場。沢登もそれに応えるように、レモンスカッシュで喉を潤す。ふたりのグラスがそれぞれの手元で静かに揺れる。
数秒の沈黙。店内に流れるBGMが、空気に溶け込むように響く。冷房の涼しさと炭酸の刺激が、ささやかな休息の時間をそっと包み込んでいた。
「まーちゃん、ごちそうさまー!」
そんなくつろぎの空気を止めたのは、テーブル席から馬場に向けて飛んできた、明るい声だった。 沢登が振り返ると、六十代ほどの“お姉さん”たち四人が席を立ち、笑顔で馬場に手を振っている。
「ありがとうございましたー。チケット、四枚切っておきますね。」
馬場がそう応じると、「はーい、ありがとうねー」と返す声が重なり、お互いの笑顔の投げ合いが店内に暖かな雰囲気が広がる。そのやりとりは、まるで長年の知り合い同士のような親しみと軽やかさに満ちていた。
四人の“お姉さん”たちは、年齢を感じさせないほど元気で、朗らかで、 その姿が沢登の目には、なんとも心地よい情景のように映っていた。
そのタイミングを見計らったかのように、カウンター席の二人も会計を済ませて店を後にする。店内には再び静けさが戻り、沢登と馬場の二人だけが残された。
喫茶店Terminalの店内には、冷房の音とBGMだけが、空間の隅々に優しく染み渡っていた。
◇◆◇
「お昼の香蘭亭は、どうでした?」
店内に二人きりになった空気の中、先に口火を切ったのは馬場だった。 時計は十五時十五分。そろそろ長居も気になる時間帯だ。沢登は、レモンスカッシュのグラスに付いた水滴をそっと指先でなぞりながら答えた。
「ああ、呼び出しがあってね。香蘭亭は……お預けだよ。」
沢登は、いつもの調子で静かに呟くように言う。
「あら…残念でしたね。でも呼び出しって、何かあったんですか?」
馬場の瞳が、ぱちりと丸くなる。彼女の察しの良さはいつも通りなのだが、その目の奥には、言葉とはどこかちぐはぐな言い知れない静けさがあった。
そんな様子に沢登は、ふーっと深い溜息を吐いた。
「まあ、明日の新聞には載るだろうし、隠すことでもないか。…また一人、消えた。」
「え?また…?」
沢登の言葉に、驚きの声を漏らす馬場。しかしその表情はどこか冷静で、静かに何かを見つめているようだった。
「ああ。その連絡で一度署に戻った。 結局、昼はコンビニのおにぎり一個。あわただしくて味も覚えてないよ。」
沢登は、この会話が深くなりすぎないようにと、苦笑いを添えて言葉を落とす。だが、馬場の様子はどこか違っていた。その瞳は、この話の奥へと入り込もうとしているようにも見える。その様子に気づいた沢登。今度は彼が純度一〇〇%の苦笑いを浮かべた。
「消えたのは白川誠一郎。市議会議員だ。深水市議会議員の重鎮、当選回数六回の大ベテランだな。昨日後援会長宅に行くと自宅を出てから行方がわからなくなって、家族親族総出で探していたらしいのだが結局見つからず、今日の昼前に捜索願が出た。」
このくらいまでなら話してもいいだろうという所まで、沢登はいつものようにぼそぼそと静かな口調で呟くように話す。それを馬場はそうなんだと目を細め、小さく頷きながら聞いていた。
「それじゃあ、この間の人も合わせてこれで七人目?」
「そうだな。七人だ。それも今回はこの前の蓮見の件からそれほど日も経っていない。それとこの二件、どちら中瀬で足取りが消えている。」
右手指でグラスをなぞり話す沢登は、そう言いながらも左腕のチープカシオに目配りしていた。ちょっと長く休憩し過ぎでいるのでは?と言われそうな時間が経過していた。
レモンスカッシュと言う酸味と炭酸の爽快な刺激が染み渡る水分を補給し、長居しすぎるほどの休憩をとったことで、沢登の肌を濡らしていた汗もすっかり乾いていた。蓮見と白川。数日の間にこの地で消えた二人の手がかりを追う鋭気も、十分に回復したことを感じる。
「じゃあ、そろそろ行くよ。」
沢登が席から腰を上げようとすると、馬場は「もう行っちゃうの?」と口には出さずとも、そんな表情を浮かべる。 その顔に、沢登は苦笑いを返す。
「はい。じゃあ、四百九十円です。」
そう言った馬場は、サッとその白く奇麗な手のひらを沢登に差し出した。
仕事中とはいえ暑さで倒れてしまえば本末転倒。だが、休みすぎてもそれはそれで本末転倒だ。沢登は、長年使い込んだグレゴリーの黒いアウトドア財布を取り出し、五百円玉を一枚、馬場の白く整った手のひらにそっと置いた。
馬場はそれを受け取り、レジを打つ。 そして、レシートと十円のお釣りを、沢登の年相応感を刻んだ手のひらに、同じようにそっと返した。
「はい。十円のお釣りです。ありがとうございました、沢登さん。」
馬場の声は、そこで終わるはずの挨拶に、どこか余白を残していた。それはこの後に続く言葉を示唆するような、区切りのない響きだった。
「もしよかったら…夕飯、ご一緒しませんか?香蘭亭で。」
その続きを聞いた沢登は、思わず「ん?」と声を漏らし、一歩引くように首を傾けた。予想外の誘いに、沢登の思考は一瞬止まったかのようだった。
「今日はお昼、残念でしたし。私も久しぶりに行きたいなって思って。よかったら、ですけど。」
馬場はにこやかに言いながらも、その視線はしっかりと沢登を捉えていた。その真っ直ぐさに、沢登は少し照れたように、そして自嘲気味に笑みを浮かべる。
「馬場さん、こんな“冴えないおじさん”をからかわないでくれよ。俺なんか、君みたいな若くて奇麗な女性に誘われるほどのもんじゃない。」
その言葉には、軽い冗談のようでいて、どこか本気の照れと僅かな自己防衛が滲んでいた。そんな様子の沢登に、馬場はふっと微笑み、柔らかく言う。
「“冴えないおじさん”だからですよ。修吾さん。」
名前を呼ばれた瞬間、沢登の胸にスンっと小さな波紋が広がった。沈黙が二秒ほど流れる。馬場の今日の様子。朝から妙に距離感を詰めてくるような空気に、沢登は少しの違和感を覚えながらも、苦笑いを浮かべながら降参の意を込めて答えた。
「ははは…参ったな。わかったよ。」
その返事に、馬場の表情がパッと明るくなる。その笑顔が、言葉よりも雄弁に喜びを伝えていた。
「じゃあ、お仕事終わったら連絡ください。連絡は…」
そう言いながら、馬場はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、手早く画面を操作して自分の番号を表示させる。沢登もズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、番号を入力して馬場に一度コールする。彼女の画面に沢登の電話番号が表示され、それを新規連絡先として登録した。
「それじゃあ、また後で。お仕事、頑張ってくださいね。修吾さん。」
「あ、ああ。ありがとう。」
また、名前で呼ばれた。 今日何度目か耳にする慣れない響きがじわりと胸に残る。 沢登は席を立ち、再び熱気渦巻く中瀬の街への扉を開けた。
その背中を、馬場は意味深な笑みを浮かべながら、そっと静かに見送っていた。
◇◆◇
成果の出ない日というのは、じわじわと無力感を呼び寄せる。 何かをしているはずなのに、何も掴めない。そんな気分に、心が少しずつ沈んでいく。
今日の中瀬での聞き込みも、ここ数日と変わらず。 新たな手がかりは、何ひとつ見つからなかった。
深水市連続失踪事件。 昨年十月から始まったこの不可解な連続失踪。被害者は今のところ七人。そのうち四人が、中瀬で足取りを絶っている。深水市中央区の中でも、この街に集中しているという事実。それだけが、この事件で分かっている唯一の輪郭だった。
だが、それ以外の手掛かりは、まるで霧の中にスッと消えたかのように、何の痕跡も残されていない。今日もまた、何も掴めないまま終わろうとしていた。
それでも、沢登の表情に焦りはなかった。元々、感情の起伏を表に、表情に出さない男ではあるが、こうした“成果のない日”にも、彼は“何か意味がある”と、それを見出そうとする。
何も分からなかったことにも、何か意味がある。そう考え、淡々と仕事をこなす。それが、沢登の姿勢だった。
だが今、沢登の表情には、いつにない微かな困惑が滲んでいた。十八時三十分。夕暮れの中瀬商店街。アーケードの下には、まだ多くの人々が行き交っている。仕事帰りのサラリーマン、スマートフォンを構えて写真を撮る外国人観光客、夏休み中の少年少女たち。それぞれの時間が、街のざわめきの中に溶け込んでいた。
その喧騒の中を、沢登は一人の女性と並んで歩いていた。長い黒髪が目を引く、整った顔立ちの美女。その並びは、あまりにも不釣り合いに見える。
片や、寝癖の残る髪に、しわの寄ったワイシャツ。くたびれたブラウンのスラックスに、白髪混じりの無精髭。年季の入った中年刑事の風貌そのものの沢登修吾。
一方の隣を歩く、奇麗な長い黒髪に、きちんとした白いシャツ。ピチッとしたネイビーのデニムパンツ。アイロンの効いたシャツの布地が、彼女の魅力的でしなやかな体のラインを際立たせている。街の喧騒の中でもひときわ目を引く若い美女、馬場カーミラル。
なぜ、彼女は自分を誘ったのか。沢登の胸に浮かんだ小さな疑問は、カツッ、カツッと子気味良いリズムを奏でる馬場の歩調にかき消される。彼女は沢登の疑問などまるで何事でもないかのように、隣を歩いている。彼女の様子に、沢登はどこか言葉にできない戸惑いを覚えていた。
喫茶店「Terminal」での馬場は、人当たりの良さと、どこか達観した雰囲気を併せ持った不思議な女性だ。何気ない雑談もこなすが、ふとした言葉の端々に、どこか冷静でクールな印象が滲む。沢登は、そんな彼女に“距離を保つ知性”のようなものを感じていた。
だが、今日の彼女は少し違う。時折感じていた“馬場の距離感が妙に近い日”。その感覚が、今日ははっきりとしていた。
こんな美女から食事に誘われるなど、沢登の人生の中でも記憶にない。しかも、場所は香蘭亭。昼に沢登が行こうとしていた、町中華の店だ。
それがまた、彼の持つ馬場への印象と少し違っていた。彼女の雰囲気なら、もっと洒落た店や落ち着いた空間を選びそうなものだ。白いシャツにデニムが似合う美女が、町中華の店、香蘭亭の赤い暖簾をくぐる姿は、どこか意外に思える。
沢登は、歩きながらそんな思考を頭の奥で転がしていた。馬場カーミラルの今日の様子。それを沢登は、彼女が何かを語りかけようとしているようにも感じていた。
「沢登さん、香蘭亭にはよく行くんですか?」
馬場は沢登の左斜め後ろを歩きながら、軽やかに問いかけた。 いつもはカウンター越しに会話を交わすのだが、今の二人の会話は並んで歩く普段よりも近い距離の中で響いている。
「Terminalができるまでは、中瀬での昼飯はいつも香蘭亭だったよ。若い頃から、よく通ってる。」
「そうなんですね。」
馬場の返事は、どこか弾むような足取りとともに軽やかだった。
「私も、時々行ってるんですよ。」
「馬場さんが?」
沢登は思わず聞き返した。その言葉は、彼にとって意外だった。いや、まるで先ほど自分が心の中で思っていたこと“彼女の雰囲気なら、もっと洒落た店を選びそうだ”が読まれていたような気さえした。
その驚きが顔に出ていたのか、馬場は沢登の顔を見上げ、ふっと小さく微笑んだ。
「香蘭亭の女将さん、休みの日によくうちに来てくれるんです。だいたい十五時くらいかな。 それがきっかけでお話しするようになって、私も時々香蘭亭にお邪魔してるんですよ。」
「意外だったな。まさか馬場さんが町中華に通っているなんて、ちょっと想像してなかった。」
「そんなことないですよ。私、今どきのおしゃれなお店より、歴史のある老舗のお店の方が好きなんです。」
その言葉に、沢登の目が思わず丸くなる。彼女からそんな言葉を聞くとは思ってもいなかったからだ。そんな様子の沢登に馬場は、いつもにないニヤリとした表情を浮かべた。 それは“してやったり”とでも言いたげな、どこか茶目っ気のある、しかし加えてどこか意味深にも感じる、そんな笑みだった。
「ふふ。そんなに意外でした?でも、誰にでもあるじゃないですか。意外な一面って。」
そう言って、今度はいつもの柔らかな微笑みに戻る馬場。
「意外な一面、か…」
その言葉は何故か、思考に奇妙な一石を投げられたように沢登は感じていた。
そんな会話がひと段落した頃、二人は中瀬北一丁目と二丁目の境、紅門通付近に店を構える町中華「香蘭亭」の前に到着していた。
香蘭亭。深水市中央区中瀬北二丁目。紅門通の北一丁目との境目、アーケード街の入り口から数えて二軒目。二十年以上前から営業を続ける、地元に根ざした町中華の店だ。
店構えは、喫茶店「Terminal」と同じく“こぢんまり”としていて、店内には七つのテーブル。壁には所狭しと貼られたメニューの短冊。少し色褪せた紙と丁寧に書かれた手書きの文字が、長い歴史を静かに語っている。
暖簾をくぐると、自動ドアがザザザッと右側横にスライドする。その瞬間、厨房の奥から響く声が店内を突き抜けた。
「いらっしゃいまーせー!」
独特な抑揚のある、どこかクセになる大将の声。 それに続いて、男女どちらも惚れてしまいそうな男前美女のハスキーな声が重なる。
「いらっしゃいませー!」
沢登と馬場は、その声に迎えられながら店内へと足を踏み入れた。ふたりが並んで入ってくるその姿。無造作な髪にくたびれたワイシャツの中年刑事、沢登修吾と、白シャツにデニム、長く奇麗な黒髪が映える若く美しい女性、馬場カーミラル。
その“並び”に女将は目を丸くして、まるで信じられないものを見たかのようだった。
「あら、沢登くん、いらっしゃい。まーちゃんも。ちょっとちょっと、沢登くん、これってどういうこと…?」
二人が並んで入ってきたその繪面に、女将は目を丸くして、何やら意味ありげな笑みを浮かべた。沢登に向ける視線には、女将の長年の勘と茶目っ気が混ざっているようだ。ニヤリと口角を上げ、眼力を効かせるその仕草に、沢登は「やっぱりな」と肩をすくめ、小さく苦笑いを返す。そのやりとりを横で見ていた馬場は、悪戯気にクスッと笑った。
「こんばんは、裕美さん。私が夕食に誘っちゃったんです。」
さらりと告げる馬場の言葉に、女将、立花裕美は再び目を丸くする。そして、再び視線を沢登へ戻すと、彼は仏頂面のまま、無言でコクコクと頷いている。
その様子に、立花の笑みはさらに深くなる。ニヤリの奥に、何かを察したような愉しさが滲んでいた。
厨房から最も近い四人掛けのテーブル席に案内された沢登と馬場は、ラーメンを二つ注文し、席に着いた。香ばしい匂いが漂う店内には、学生らしき若い男性が一人でチャーハンを。そして、職人風の男性が三人は仕事帰りの一杯を楽しんでいる。彼らも皆、女将と短い言葉を交わしながら、馴染みのような空気を楽しんでいるようだ。
そんな中で、やはり馬場の存在はひときわ目を引いていた。整った顔立ちと落ち着いた佇まい。そして服の上からでもはっきりとわかるスタイルの良さ。沢登は、店内の四人の客が時折、彼女の方へ視線をチラリ、チラリと送っていることに気づいていた。
だが、馬場自身はそれに気づいているのかいないのか。まるで意に介さず、沢登に向けて雑談を振ってくる。その口調はいつも通り穏やかであり、いつもと違いどこか楽しげでもあった。
沢登は、そんな彼女の様子に少しだけ目を細めながら、静かに耳を傾けていた。
「はい、沢登くん。ラーメン、お待たせ。まーちゃんのもすぐ持ってくるね。」
立花の声とともに、湯気を立てた一杯が沢登の前に置かれた。昼の呼び出しで食べ損ねた香蘭亭のラーメン。楽しみにしていたそれがようやく、目の前に届いた。
立花はすぐに厨房へ戻り、もう一杯のラーメンを手にして馬場の前にそっと置く。「ありがとう」と笑顔を浮かべる馬場の声が、店内に溶けていく。
二杯のラーメンが並び、ふたりは顔を合わせて、言葉少なに箸を手に取った。早速とばかりに麺を啜る。
細いストレート麺が、あっさりしながらも芯のあるスープと絡み合う。ラーメンというより“中華そば”。そう思いながら通い続けてもう二十年。 変わらぬ味が、沢登の舌に静かに沁みていった。その味は、真夏に加熱された空気の中、何の手掛かりも得られず歩き回った今日という一日をそっと慰めているかのようだった。
「そういえば、沢登くん。もう知ってると思うけど…白川さんの話、聞いた?」
二人がラーメンを食べ終えたタイミングを見計らったように、香蘭亭の女将・立花が声をかけてきた。隣のテーブル席の椅子を一つ引き出し、腰を下ろす立花。彼女の言葉が指すのは、間違いなく白川誠一郎の失踪の件だろう。沢登はコクリと静かに頷き、「聞いているよ」と短く返す。
「昨日の閉店間際にね、店に来た人が血相変えて“白川さん、来てませんか?”って。たぶん、後援会の人だったんじゃないかな。うちには来てなかったから、そう伝えたんだけど… 夕方までには帰るはずだったのに戻ってこない。電話も繋がらないって話でね。 ほら、最近物騒じゃない。だいぶ心配してるみたいだった。まあ、地元選出の議員さんだし、私も心配といえば心配なのだけど、ねぇ。」
立花は、ハスキーな声で一気にまくしたてる。その語り口を初めて聞く者は、きっと圧倒されるだろう。だが、沢登も馬場もそれには慣れたもの。若手時代からの付き合いな沢登は、十歳年上の姉御的存在である彼女の“高速ラップ”のような話しぶりにも、耳が自然と順応していた。
署では家族や親族が総出で捜索していると聞いていたが、後援会も動いていたとは。 立花の話から、小さくとも確かな新情報が得られた。沢登はそれを忘れないよう、静かに記憶に刻む。そしてもう一つ。立花の語尾に、何か含みのようなものを感じた沢登は、彼女に目を向けて、問いかけた。
「立花さん、心配は心配なんだけど…何か、あるのか?」
沢登の問いに、立花は「ん?」と小さく声を漏らし、先ほどまでの勢いある語り口をふと止めた。その沈黙は、言葉を選ぶためのものか、それとも何かを思い出すためか。沢登は、その一瞬の間にどこか手応えを感じていた。彼自身の知る白川誠一郎という人物の“人柄”に触れる何かを、立花のから聞き出せる。そう確信していた。
そして、それは読み通りだった。立花は腕組みをしながらその視線を少し遠く見つめるようにして、次の言葉を探している様子。沢登は、静かにその続きを待つ。そしてそれは彼の読み通りだった。
立花の話を一言でまとめるなら「白川誠一郎は、外面は良いが、裏では何をしているかわからないという噂が絶えない人物」。それは、沢登が署で耳にした話と、立花が語る地元の評判が一致していることを示していた。
香蘭亭は中瀬商店街の老舗。立花のもとには、日々訪れる客から、良くも悪くも様々な話が集まってくる。その中には、ただの噂話にとどまらず、時には事件の手がかりとなるような貴重な情報も含まれている。
沢登は、側にいる馬場の存在を忘れているかのように立花の言葉に耳を傾け、意識を集中させていた。
「まあね、若い頃はフットワークも軽くて、地元のために一所懸命な議員さんって評判だったのよ。でも、六十を過ぎたあたりからかしらね…“選挙の時だけお願いしますと頭を下げていて、当選すれば後援会や利権絡みのところばかりに忖度してる”って話がちらほら聞こえてくるようになって。 外面はいいのよ、ほんとに。でも、裏では何してるかわからないって噂は、最近よく耳にするわね。何だか前回の選挙のときなんて、立候補に意欲を持ってた若い人を、いろいろ根回しして出馬させなかったって話もあったし。まあ、私も聞いた話だから“へぇ〜”って流してるけど、火のないところに煙は立たないって言うじゃない? そういう話が湧いて出てくるってことは、何かしらあるんじゃないかって、やっぱり思っちゃうのよね。」
立花はいつものように、ハスキーな早口で言葉を畳みかける。沢登はその一つひとつを丁寧に拾い上げ、静かに記憶の奥へと刻んでいった。
だが、立花の語る白川の評判も、結局のところ特別なものではないのかもしれない。どれほど「いい人」と言われる人物であっても、陰で何かしら揚げ足を取られたり悪口を囁かれるのは世の常だ。人の評価や評判は、見る位置、見る角度によっていくらでも形を変える。それは、世の中にありふれた風景のひとつにすぎない。
複数の噂が存在するという可能性。それだけでも、白川誠一郎という人物が何らかの恨みを持たれている可能性は何ら不思議ではないと理解できる。 沢登は、立花の話を聞きながら、その現実味を静かに受け止めていた。
「ほら、修吾さん。さっきの話みたいに“人は見かけによらない”ってこと、ありますよね。」
馬場がふいに言葉を挟んだ。その声には、どこか含み笑いのような柔らかさが混じっていた。 沢登と立花の間で交わされていた話に、そっと楔を打つような一言。それは、白川の話に一区切りをつける合図のようでもあり、このテーブルに流れていた空気を、静かに別の方向へと導いていくかのようだった。
十九時三十分を少し過ぎた頃。気づけば三人は、香蘭亭の店内で一時間近く話し込んでいた。沢登は、まさかここで白川の話が出ると思っていなかった。だが、立花の方から話を振られ、彼自身が署で聞いていた白川の印象と、街の噂が一致していることを知れたのは、小さな収穫と言えるだろう。
その後は、他愛もない雑談。その中に、立花の“沢登と馬場の関係の詮索”が、さりげなく、だがしかし確実にねじ込まれていた。馬場はそれを涼しい顔で受け流し、笑顔を絶やさない。一方の沢登は、話を振られるたびに言葉を詰まらせ、無表情のまま固まっていた。そんな様子を、立花は満面の笑みで楽しんでいた。
やがて、そんな時間も終わりを迎える。
「ありがとうーございましたぁー」
「また寄ってねー、沢登くん、まーちゃん!」
店を出る二人を、大将と女将が明るく見送る。 沢登は軽く頭を下げ、馬場はニッコリ笑顔で手を振りながら店を後にした。
香蘭亭を出ると、エアコンの効いた店内とは打って変わり、夏の熱気がまだ抜けきっていないぬるい空気が纏わりつく。昼間の灼熱と思えばかなり良いのだが、夜もその暑さから夏を感じることから逃れることは儘ならずと言ったところだろう。
「美味しかったですね。」
「あ、ああ。」
聞き役に徹することには慣れているつもりの沢登だったが、今日はさすがに少し疲れていた。立花と馬場の会話のテンポに飲まれ、言葉を探すだけで神経を使った。そんな彼の様子に、馬場はクスリと笑う。
「本当に駅まで送ってくれるんですか?」
香蘭亭を出る前、立花から「沢登くん、まーちゃんをちゃんと駅まで送ってあげてね。最近物騒だから、女の子ひとりにしたらダメだよ!」と念を押されていた。
「…立花さんの指示だからな。」
沢登は馬場の方を見ず、ぼそりと呟くように言う。その言葉に、馬場はまたクスリと笑い、沢登の少しゆっくりとした歩調に合わせて、静かに隣を歩いていった。
アーケード街を抜けた突き当たり。中瀬通へ出ると、そこには地下鉄八番入り口がある。 時刻は八時に近づき、夏の空もようやく夜の顔を見せはじめていた。道を行く車のヘッドライトとテールライトが、軽く混み合った通りをゆっくりと流れていく。その光の帯が、街の輪郭を少しずつ夜へと染めていくようだった。だがそれだけではない。そんな中、突如として夏の夜の空気が、快音、または怪音と共に震える。
『ブォォォ…ズバババン!ドゥルルルルン…バチコン!バラバラ…ブォン!…バラララ…ドゥルン…ドゥルン…ドゥルルルル…バババババン!シュワァァァ…ブンブンブン…ブォォン…バチバチバチィ!ギュルルル…バン!…ギュルルル…バン! ……ブォォォォン……』
通りの向こうに、派手な装飾を施された四台のバイクが現れた。そのエンジン音は、聞く者によってはただの騒音。だが、都市の静寂を突き破る“反逆の音色”として心に響く者もいるかもしれない。ゆらり、ゆらりと進むその姿も、どこか夏の夜の風物詩のようでもあった。
騒がしいエンジン音がゆっくりと遠ざかる中、沢登は苦笑いを浮かべた。隣に立つ馬場は、目を細めて、どこか楽しげな笑みを浮かべている。 その表情に、もしかして彼女はああいうのが好きなのか?と、沢登は、そんな馬場の“意外な一面”を疑いながらも、ふうっとひとつ息を吐いた。
「…あれくらいの悪さなら、可愛いもんだな。」
ぽつりと漏れた言葉は、刑事としての経験からくる実感だった。日々、もっと過激で惨い現場を見てきた彼にとっては、あの程度の騒ぎなど、街の小さなざわめきに過ぎない。
馬場はその言葉に、静かに頷いた。
「そうね。」
短く返す声には、どこか含みがある。そしてその顔には、やはり目を細めた笑顔が浮かんでいた。その笑みは何を見ているのか。沢登にはまだ、読み切れないままだった。
地下鉄八番入口。改札口から最も遠いその階段を降りると、人影もほとんどない静かな通路に出る。改札口付近まで行けば人も増え賑わいもあるが、ここはまるで静寂の回廊のようだった。この通路は、時間帯に関係なく人通りが少ないのだ。
周囲を見渡せば、仕事帰りらしい若い女性が一人。 構内を移動する駅員が一人。 そして、沢登と馬場――四人分の足音が、コツン、コツンと静かに構内に響き、反響する。並んで歩く沢登と馬場は、どちらともなく自然に歩調を合わせていた。ふたりの間に会話はない。沈黙は気まずさではなく、むしろ自然で心地よい余白のようだった。やがて二人は、西改札口への角を左に曲がる。
視界が開けると、そこには先ほどまでの静けさとは打って変わって、たくさんの人の流れがあった。改札口へと向かう人々が、穏やかな波のようにそこへと吸い込まれていく。 その光景はまるで、夜はこれからと語りかけるかのように、街が再び動き出すのを暗示しているようでもあった。
改札口が視界に入ったところで、馬場は足早に五歩ほど前に出て、沢登の前で立ち止まり、振り返った。沢登も足を止め、ふたりは向かい合う。
「ありがとう、沢登さん。今日は夕食に付き合ってもらっちゃって。」
沢登を見上げるようにして、にこりと笑顔を向ける馬場。妙に距離感を詰めてくる、今日の馬場のそんな様子にも少し慣れたのか、沢登はいつもの無表情に見える顔に、ほんのわずかに笑みを浮かべる。
「いや、いいんだよ。俺も香蘭亭に行けたし。それじゃあ、これで。」
「明日も中瀬でお仕事?」
「ああ、そうだね。」
沢登は頭をくしゃくしゃと掻きながら、ため息混じりに答える。 馬場はその仕草に微笑みを返す。
「それじゃあ、またお店で待っていますね。」
短いやりとりのあと、馬場は軽く手を振り、改札口へと向かう。さっきまでの歩みよりも少しだけ速く、しかし急ぎすぎることなく。
沢登はその背中を見送りながら、静かに手を振る。馬場が改札を抜けるのを見届けると、沢登はゆっくりと踵を返し、再び中瀬へとつながる人影の少ない通路へと歩き出した。 その足取りを、人間沢登から刑事沢登の歩調へと変えながら。
◇◆◇
中瀬への通路へと姿を消していく沢登の背中を、馬場は静かに、凝視するように見送っていた。その顔には微笑みが浮かんでいる。だがそれはどこか違う。その笑みは、いつもの柔らかさとは異なるとても冷たい温度を帯びているようだった。
「…気づいてないみたい。ほんと、鈍い男ね。フフフ。」
ぽつりと漏れた言葉に、唇の端がゆっくりと吊り上がる。その笑顔には、底知れぬ“何か”が潜んでいた。それは優しさとも、悪意ともつかない、曖昧で不穏なもの。
馬場はパッと表情を切り替え、いつもの穏やかな顔に戻る。そして、地下鉄へと続く階段へ、軽やかに足を向けた。地下鉄へと向かい階段を降りて行く。その歩みの中で、彼女は声には出さず、ただ心の中で静かに呟いた。
“見つからないよ。沢登修吾。だって、私が「消した」のだから。”