表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ババ!!  作者: 井越歩夢
2/2

エピソード1「善人の仮面」①

喫茶店「Terminalターミナル」。


深水市中央区(ふかみしちゅうおうく)中瀬(なかせ)北二丁目屋久通(やひさどお)り沿い。中瀬北バス停のすぐ前に構える、小さな喫茶店。店内には五席のカウンターと、四人掛けのテーブル席が一つだけのまさに“こぢんまり”という言葉が似合う店だ。

今日も店内ではいつものように耳に心地よいジャズの旋律がふわりと流れ、 コーヒーの香ばしい香りと音の粒が空気に溶け合う。ひとりの時間を大切に過ごしたい人には理想的な空間を演出する。


Terminalは、「静かに過ごせる場所」としてそこそこの評判を得ていた。 コーヒー片手に思索に耽る人もいれば、誰にも邪魔されず持ち込んだ物語のページを開く者もいる。


ただ、いかんせん席数が少ない。時間帯によっては、扉を開けた瞬間すでに満席の光景が広がっていることもあり、この店の女店主“馬場カーミラル”の「ごめんなさい」と目で語るような苦笑いを浮かべているのを見るて、そのまま引き返すしかない客も少なくない。

しかし、そんな“入れない空間”であることすら、この店の魅力の一部とも言われているようだ。

=①=


喫茶店「Terminalターミナル」。


深水市中央区(ふかみしちゅうおうく)中瀬(なかせ)北二丁目屋久通(やひさどお)り沿い。中瀬北バス停のすぐ前に構える、小さな喫茶店。店内には五席のカウンターと、四人掛けのテーブル席が一つだけのまさに“こぢんまり”という言葉が似合う店だ。

今日も店内ではいつものように耳に心地よいジャズの旋律がふわりと流れ、 コーヒーの香ばしい香りと音の粒が空気に溶け合う。ひとりの時間を大切に過ごしたい人には理想的な空間を演出する。


Terminalは、「静かに過ごせる場所」としてそこそこの評判を得ていた。 コーヒー片手に思索に耽る人もいれば、誰にも邪魔されず持ち込んだ物語のページを開く者もいる。


ただ、いかんせん席数が少ない。時間帯によっては、扉を開けた瞬間すでに満席の光景が広がっていることもあり、この店の女店主“馬場カーミラル”の「ごめんなさい」と目で語るような苦笑いを浮かべているのを見るて、そのまま引き返すしかない客も少なくない。

しかし、そんな“入れない空間”であることすら、この店の魅力の一部とも言われているようだ。


八月八日、午前八時三分を告げる時計。まだ朝早めの時間にもかかわらず深水市はすでに真夏の陽射しに包まれていた。街がまだ完全に“仕事モード”になる前の時間だというのに、太陽は一足早く「今日もがんばっていこう!」とやる気を出している。空からの刺すような光は肌に触れれば即座に針のような刺激となり、どこか追い立てるような熱を帯びていた。


中瀬のアーケード街を抜けると、屋久通りに差しかかる。 日陰を選んで歩いたところで、逃れられるのは焼ける直射。纏わりつく湿気からはどうにも逃れられない。夏特有の、ぬめるような湿気を含んだ空気は、道行く人々にじっとりとまとわりつき、“無料配布”の名のもとに押し付けられるこの蒸し暑さは、有難迷惑の極みだ。


空を見上げれば、太陽は実に満足げな表情を浮かべているようで、ひときわニコニコと笑っているようにすら見える。


その歩道を、一人の男が通り抜けようとしていた。 避けられぬ暑さを、どうにかして避ける方法はないものかと、自らの工夫を信じてはみるものの、結果は毎度無駄な抵抗だと彼は知っている。それでもなお、彼はまるで暑さと頭脳戦を繰り広げるかのように屋久通の歩道をやや速足で進んでいた。


沢登修吾(さわのぼりしゅうご)。五宇都県警深水市署所属の捜査課刑事で年齢は四十代半ば。無造作な寝癖混じりの髪にしわくちゃなワイシャツとブラウンのスラックス。白髪交じりの無精髭、そして無表情に近い顔つきをしたこの男は、見た目からだらしなさしか伝わってこない。そんな彼なのだが実はその見かけによらず、署内での評価は高い。いわく「一見ぼんやりして見えるが、話し方の節々に見える鋭い観察眼と論理性がそれを隠しきれず滲み出ている男」らしい。そんな彼の向かう先は、この通りにある中瀬北バス停前の喫茶店「Terminal」。その小さな店のカウンター席は、朝早いこの時間帯であれば比較的確保しやすいのだ。


風鈴が喫茶店「Terminal」の軒先で僅かな風に吹かれ細く震えている。チリチリ…と揺れる音にまとわりつくように、生ぬるい空気が屋久通りを這う。アスファルトの照り返しにじわじわと熱された空気は追い打ちをかけるように暑さと粘り気を帯びて通りを満たしていた。あと七歩でその木製の扉に辿り着く。暑さを避ける術などないと知りながら、額に滲む汗を意識し、沢登は少しだけ歩調を早めた。それが無駄な抵抗でも、その扉の向こうにはジャズと涼と長い黒髪の美人店主が待っている。

木製のドアノブに手をかけそれを引いた瞬間、カランカランカランカラン…。ドアベルが、小さな音楽のように“お客様の来訪”を告げる。沢登はちらりと店内に目を走らせ、カウンターが空いていることを確認すると、扉の縁からふわりと漏れる冷気に吸い込まれるように、静かに一歩を踏み入れた。


喫茶店「Terminal」の扉をくぐると、まず目に入るのはカウンター奥に静かに佇む店主の姿だ。長い黒髪が肩にかかり、どこか異国の血を感じさせるはっきりとした端正な顔立ち。白いシャツに茶色の薄手のエプロンを纏う彼女の動作は、一つひとつが流れるように静かで美しい。その踊るようなしぐさの端々に、年齢以上の洗練が滲んでいた。

この店の店主「馬場カーミラル(まばかーみらる)」。その苗字からプロレスラー、“ジャイアント馬場(ばば)”を連想し、彼女は「ばば」さん、と呼ばれがち。だが、彼女のそれは「ばば」ではなく「まば」と読む。二十代半ばの日系ハーフで、日系アメリカ人の父と日本人の母を持つという。


彼女が営む喫茶店「Terminal」は、深水市中央区・中瀬北二丁目、屋久通り沿いに佇んでいる。中瀬北バス停のすぐ前。通りを行き交う人々の目に自然と留まる小さな店だ。開店したのは、今からおよそ一年前。店内には五席のカウンターと、四人掛けのテーブルがひとつだけ。 “こぢんまり”という言葉が、これほどしっくりくる場所はないかもしれない。 そして店名の「Terminal」は、バス停の目の前であるこの立地から取ったものだという。


「おはようございます、沢登さん。」

店の扉が開きドアベルの音がカランカランと鳴ると、ちょうど朝八時を少し過ぎた頃合いにいつものように現れる常連客、沢登の姿がカウンター奥の馬場の目に映る。彼女は、朝から強い日差しを燦々と注ぐ盛夏の太陽にも負けない輝きを纏った笑顔で、静かに沢登を迎え入れた。沢登は、入り口から見て左から二番目の席へ迷いなく歩みを進める。いつも通りの所作だ。沢登は普段の無表情な男だが、この時ばかりはその頬が少しだけ緩んでいた。


「おはよう、馬場さん。いつものを頼むよ。」

「はい、いつものですね。」

その“いつもの”とは、彼のためだけに用意された一杯。馬場が趣味で焙煎した深煎りインドモンスーンのブラック。それを口にすれば眉間にしわが寄るほど苦目に淹れる。それが沢登の好みだった。

そのことを知った頃から彼女は誰にも出さない彼専用の“特別な一杯”を淹れるようになった。もっとも、“特別”とは聞こえが良いが、実のところ「苦すぎて他の客には出せない」と言うのが本音だ。馬場はその一杯を、丁寧に、無言の信頼に応えるように仕上げていた。


「はい、どうぞ。修吾さん。今日も中瀬でお仕事?」

淹れたてのコーヒーを手渡しながら、馬場は穏やかな口調で言葉を投げかける。 沢登はマグカップを受け取り、一呼吸分の間を置いてから、軽く頷いた。

「ん、ああ。今日も蓮見の件でね。」

この馬場という若い美女が時折口にする“修吾さん”という名前。沢登にとってそれはまだどこか落ち着かず、慣れない響きだ。いや、というより彼には名前で呼ばれることそのものがあまりない。そう呼ばれる日常を持ち合わせていない男なのだ。それは時に、自分の名前が“修吾”であることすら忘れてしまうほどに。

馬場は沢登の間のある返事に何かを察したように、その口元に、そっとやわらかな微笑みを浮かべた。


「それじゃあ、今日もお昼は、いつものを用意しておけばいい?」

馬場がそう尋ねながら、彼を覗き込む。 沢登は眉尻を僅かに下げて申し訳なさそうな苦笑を浮かべた。

「悪いな。今日は香蘭亭(こうらんてい)に行くつもりなんだ。」

彼の言葉に肩をすくめて小さく笑う馬場。

「そうなんだ、残念。」

彼女の小さな笑みには、冗談めいた甘さがちらりと混ざっていた。沢登は無言で頷いたまま、マグカップに口をつける。口内に広がるいつもの強い苦味。まだどこか浅く眠っていた頭が、コーヒーの渋さに突き上げられるようにカッと覚醒するようだ。

「まだしばらくは中瀬に通うことになりそうだ。次の昼はまた頼むよ。」

そう言いチラリと彼女に視線を送る沢登。

「はい。待ってますね。」

彼女の笑顔はいつも通りなのに、今日はどこか距離が近い。 いつもと少し違う絡み方に、沢登は微かな戸惑いを覚える。 だが、その違和感は極端に空気を乱すほどのものではなく、朝の時間は相変わらず静かに流れていった。

何気ない言葉と、眠気を洗い流す一杯の苦味。 沢登の胸に沁みていくのは、そんな小さな日常の手触りだった。


◇◆◇


夏という季節が、一年のうちで最も暑い時期だということは、誰しも知っている。 そして、その暑さが年々「耐え難いもの」へと変化してきているのも、誰もがよくよく分かっている。分かっている。それでも、愚痴のひとつやふたつくらい、口にしたくなる日もあるものだ。


中瀬の商店街は通りのほとんどに屋根が張り巡らされていて、強烈な日差しをある程度遮ってくれる。ただ、それで救われるのは“肌”だけで、“空気”は違う。熱と湿気がこもった風が、ぬるりと体に纏わりついてくる。やる気と体力を同時に奪っていく、夏特有の厄介な情景だ。


沢登は額に浮いた汗を腕でぬぐい、「これが、夏だな」と呟きかけた言葉を、喉の奥にそっと押し込める。右手に持っていたスポーツドリンクをゴクッと一口含むと、口内に染み渡る心地よい酸味と優しい甘さが、思いのほか身体に沁みるのを感じた。


そういえば若手が言っていたな。 「スポーツドリンクがうまく感じるときは、身体が本当に水分を欲してる証拠ですよ」って。

なるほど。つまり今の俺は、水分不足ってことか。喉に沁みる味を確かめながら、沢登はそんな“分かりやすいサイン”に、静かに納得していた。


左腕の腕時計、チープカシオに視線を向けると時刻は、午前十時。ここまで、失踪した蓮見が足を運んでいたとされる場所を二件回ったが、あいかわらず何も得るものはなかった。他の五人の失踪者と同じように、あまりに静かすぎる手応え。ため息が出そうになる現実だが、それでも希望の糸は細く続いていた。

この連続失踪が始まったのは昨年十月。すべての事件は、深水市中央区。そして、彼らの足跡が消える直前にいたとされているのがこの中瀬。それは奇妙なくらい集中していると言っていいほどだ。これだけ痕跡がない事件の中で、唯一と言える輪郭。発生地が見えただけでも、十分な進歩だと思わなければならないのかもしれない。


沢登は、夏の熱が染み込んだ呼気を吐き出すように、ゆるやかな溜め息をついた。 再び時計を見る。針は、まぎれもなく十時を指している。まだ昼食には早い。香蘭亭の開店は十一時半。それまでに、もう一件。だがその前に、少しだけ涼を取りたい。


沢登は周囲を見回した。深水市は、全国でも有数の喫茶店が多い土地柄で知られている。誇張はあるにしても、少し目線を巡らせれば数軒の店が視界に入ってくる。

沢登はその中の一軒、まるで木陰を思わせるかのような落ち着いた店に視線を止めた。 猛暑からの一時避難だ。そんな言葉がぴたりと来るような小さな扉へ向かって、彼は静かに歩を進めた。


木陰のように落ち着きのある涼やかな外観の店。沢登行きつけの喫茶店terminalとはまた違う風情のあるこちらもこじんまりとした喫茶店。沢登の目にそう映ったその店で、彼は三十分ほどの休憩を取った。汗ばむ空気から逃れ、冷たい飲み物をひと口飲むたび、喉の奥が潤い、暑さに疲れた体もゆっくりと回復していく。

ふと沢登が手に取った店内の雑誌。その表紙には、大きな文字でこう書かれていた。


「深水市の神隠し!?――新進の妖怪の仕業か?」


タイトルに目を留めた沢登は、思わず眉を寄せた。この街で相次ぐ失踪事件が、都市伝説のような扱いを受けていることは、彼も承知している。やれ「宇宙人の仕業だ」やれ「妖怪が出た」「幽霊に連れて行かれた」。そんな話に尾ひれをつけて騒ぎ立てる者もいる。


馬鹿げた話だ。だが、馬鹿げているといって、無視できないのも今の現場の重さだ。沢登自身、こうした怪奇現象を信じているわけではない。それでも、ここまで痕跡ひとつ見つからない現実を前にすると、“まさかな”という思いも彼の心の隅に芽生え始めてもいる。


この信憑性の薄い記事。その中に、この連続失踪事件の解決につながる真実が埋もれている可能性はゼロとは言えない。四十歳を過ぎて、まさか自分がオカルト雑誌の記事から事件の手掛かりを探そうと考えることになるとは。自嘲気味に小さく笑みを浮かべながら、沢登は静かにページを開いた。


「人々の理不尽な思いが生み出した新進の妖怪たち」


「…新進の妖怪って何だよ。」

思わず口に出たその言葉は、エアコンの効いた店内の少し冷えすぎな空気に溶けてゆく。

ページの活字は軽薄で胡散臭い。だが、それでも沢登のまなざしは、そこから“何か”を探しているようだった。


「新進の妖怪」。 記事によれば、その定義や解釈にはいくつかの説があるようだ。その中で沢登の目を引いたのは、この記事のある一文だった。

“現代人の心理や都市の雑音が生み出した新種の妖怪”。そのページには、こんな説明が記されていた。


新進の妖怪(しんしんのようかい)とは、現代の感情・技術・社会の揺らぎから姿を現す、新世代の妖怪である。彼らは古来の伝承には存在せず、都市の隙間、人々の孤独と共感の境界線に潜む。その姿は伝統的な妖怪の形を借りながらも、まったく異なる意味を帯びて現れ、見る者の感性によってその姿を変えるという。新進の妖怪は、現代人の心に巣食うノイズを鏡として映し、こう問いかける。“あなたは、あなた自身を理解していますか?”』


沢登は、眉の間に疑念を寄せながら記事を追い続けた。冷えた飲み物を口に運ぶと、レモンの酸味が口に広がり、キンキンに冷えた水分が夏の熱気に晒された体の隅々まで染み渡るようだった。彼は妖怪という言葉に対して軽い距離を感じてはいたが、それでもこの説明にはどこか引き込まれる感覚があった。


技術が目覚ましい勢いで進歩し、社会はとても便利で豊かになった。だがその代償に、人々の感情は複雑な編み目の意図模様のように絡み合い、本来は自由なはずのこの国の空気はいつしか窮屈になっているように感じる。沢登がまだ若かった頃と比べ、今の時代はあまりにも“小難しい”。


人の心の内に潜む影をゆらりと浮かび上がらせ人の目に見せる創作された存在。それが“新進の妖怪”という言葉の意味するところなのだろう。

人間の想像力とは、つくづく凄いものだ。そう苦笑めいて心で呟きながら、沢登はその雑誌「月刊ヌー!?」をそっとテーブルの上に戻した。


◇◆◇


喫茶店の扉を押し開けると、遅かったなと待っていたかのように、熱を帯びた夏の空気が再び彼にまとわりついた。先ほどまで過ごしていた“木陰のような静かな店”が、街の熱の中にぽつりと浮かぶオアシスのようだったと改めて感じる。


この暑さを感じながら沢登は一瞬だけ目を細め、次の聞き込み先へと足を向けようと歩を進めかけたその瞬間、ポケットの奥からブルブルと振動が伝わる。一瞬オッとポケットに触れる。間違いない、スマートフォンの着信だ。 沢登の経験上、外回り中にかかって来た電話での“良い知らせ”はほとんどない。それはもはや、彼自身が何年もかけて体に染み込ませた嫌な感覚だった。


とはいえ、鳴ったものには出なければならない。これは仕事だ。沢登は小さく顔をしかめながらポケットに手を入れ、画面を確認した。そこに表示された部下の名前。 沢登は無言のまま通話マークを押す。

「もしもし。どうした。」

短く、簡潔な応答。 その直後、スマートフォンの向こう側から聞こえてきたのは、 予想通り、いや、想像以上に“ろくでもない報せ”だった。


白川誠一郎(しらかわせいいちろう)、七十一歳、深水市中央区選出の市議会議員。当選六回、四十七歳から二十四年のキャリアを誇る議会の重鎮が、忽然と姿を消した。新たな失踪届が提出されたのだ。 届け出たのは、「市議の妻」を名乗る人物だという。

「市議は昨日、後援会長宅に向かった後から足取りが途絶えているそうです。沢登さん、今まだ中瀬にいますか?」

若手の刑事からの連絡。蓮見の件で中瀬に行くことは捜査本部を出るときに伝えていた。この流れは…嫌な予感がする。沢登の頭を想定していた次の言葉が瞬時に駆け抜けた。

「市議の最後の目撃地点が中瀬なんです。中瀬にある後援会長宅を出た後、行方がわからなくなっています。」

ほらな、電話が鳴るときは決まってろくな話じゃない。そして俺の直感は、いつだって悪い方で当たる。沢登は皮肉まじりの笑みを浮かべて、短く息をついた。

「了解した。蓮見の件をもう一件済ませたら署に戻る。」

「お願いします。」

通話を終えた沢登はスマートフォンをポケットにしまいながら、フゥーっと大きな溜め息をひとつ、そして深くついた。その息には新たな失踪者が出たという気の重苦しさと、昼の楽しみにしていた香蘭亭のラーメンチャーハンセットがお預けになった哀しさとが、静かに混じっていた。


八月八日、午後二時を少し回った頃。署で新たに行方不明となった人物“白川誠一郎”についての概要を聞き終えた沢登の姿は、再び中瀬の街にあった。

夏の陽射しが最も鋭く街を照り付けるこの時間。平日とはいえ、小中高校生は夏休みの真っただ中。人の往来は少なめのようで、なかなか意外と賑やかだ。観光とサブカルチャーが共存する中瀬は、レトロな商店街やカルチャー系施設、個性豊かな個人店が軒を連ね、独特の情緒を醸している街。観光客らしき姿もちらほらと見え、商店はそれぞれ相応の賑わいを見せていた。


この中瀬で、蓮見と白川、二人の人物が足取りを消した。 蓮見は七月末、白川は八月初旬。失踪の間隔はこれまでになく短く、妙な符合を感じさせる。最初の事件は、去年の十月。あれから十か月で七人。事件はすべて深水市中央区で発生した。そのうちの四件は、行方不明者の最後の足取りがこの中瀬。確か最初に姿を消した女子高生もまた、中瀬の街で足取りを絶っていた。


…間違いなく何かが、この街、“中瀬”で起きている。


そう感じるには十分すぎる奇妙な一致。だが、この十か月間の捜査で、確かな手がかりは一つも浮かび上がっていない。行方を暗ました者たちは、まるで中瀬の街に身を隠す闇そのものに吸われたように、痕跡すら残さず消えた。


強い日差しにじりじりと焼かれた熱の滲む空気のなかで足を止めた沢登の心の声が、ぼそりと思わず口から洩れていた。

「…本当に、妖怪の仕業だったりしてな。」

彼のその言葉は冗談でも本気でもない。消えた者たちの数と、現実の手触りの薄さ。それは沢登を思考の迷路へとゆっくりと手招きしているかのようだった。


それにしても暑い。白川の件で後援会長宅で聞き込みを終えた後、夏の暑さが猛威を振るう中瀬商店街は十五時を知らせていた。あまりの暑さに、先ほど口にしたスポーツドリンクが午前と同じくまたも妙に美味しく感じられた。これは良くない、熱中症注意だな。自分の感覚でそう判断した沢登は、足を止めて周囲を見回し、すぐに喫茶店「Terminal」と書かれている見慣れた立て看板を見つけた。当然迷うことなく、やや足早に店へ向かう。そして沢登は、中瀬北バス停前の小さなオアシス、喫茶店「Terminal」の扉を押した。


「あら、お帰りなさい、沢登さん。」

開店直後の朝八時頃と、閉店前の夕方十七時三十分頃に顔を出すことが多い沢登が思わぬ時間に顔を出したことに僅かに驚きを浮かべた馬場。それでも声のトーンはいつもと変わりないまま沢登を迎え入れる。


店内はテーブル席に三人、カウンターには二人。カウンターは残り三席か。運がいい。

「はは、ただいま。」

汗もさることながら、失踪者がまた一人増えたことに、沢登は身体だけでなく精神も消耗していた。彼はカウンターの中央、空いている席へ静かに腰を下ろした。

「いつもの冷たいのを頼むよ。」

“いつもの冷たいもの”。それは、沢登と馬場の間で交わされている暗黙の共通認識。 彼の“いつものコーヒー“がホットからアイスへと変わる、それだけの合図。

馬場は笑みを浮かべ、コクリと頷いて手を動かそうとしたが、ふと手を止めて問いかけた。

「でも…いいんですか?コーヒーじゃ水分補給になりませんよ?」

気を利かすようにそう尋ねる馬場の言葉に、言われてみればその通りだと沢登は苦笑しながら頷いた。

「じゃあ…レスカで。」

「はい、レモンスカッシュですね。少々お待ちください。」

馬場はまた静かに微笑みながら、慣れた手つきで冷たい飲み物を準備しはじめた。 扉の外にいる暑い夏の空気を忘れたような心地よいジャズのBGMが、いつものように店内にふわりと広がり、暑さと諸々に疲れた沢登を優しく包み込む。本当にここは小さなオアシスなのかもしれないと、彼はホッと息を吐いた。



②へつづく



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ