エピソード4「深水市中央区中瀬」③
「ババ!!」
ある街で起きる連続失踪事件。
真相を追う刑事、沢登修吾と
街で喫茶店を営む女店主、馬場カーミラルの物語。
「深水市中瀬連続失踪事件とは何だったのか」
=③=
「マスター、ご馳走様。」
沢登が席を立つと、店主は静かに頷き、コーヒーチケットを一枚切って彼の背を見送った。流れるようなそのやり取りは、それがいつものことだと一目でわかるほど自然で、沢登がこの店に毎朝通い詰めていることが誰の目からも分かることだろう。
風待庵の扉を開けると、そこにはいつも通りの見慣れた景色が広がっている。平日のまだ早い時間。人通りのまばらな中で、深水市中央区中瀬のアーケード街、中瀬商店街はどの店も開店時間に向けてゆっくりと目を覚まし始めているところだろう。
シャッターの降りた店先の奥で、きっとそれぞれの店の店主や女将、店員たちが開店準備に追われていることを感じられる。湯気の立つ厨房、棚を整える手、暖簾を掲げる気配。街の今日は、こうして静かに始まっていくのだ。
沢登は、そんな街の空気を深く胸に吸い込みながら、ゆっくりと歩き出した。向かう先は、自身の事務所。深水市営地下鉄深鉄線、津ノ上駅の九番出口からほど近い場所。深水市中央区中瀬北二丁目。かつて「喫茶店Terminal」があった場所だ。
今、その店はもうない。だが、内外装はほとんど変わらず、看板だけが新しく掲げられている。
「探偵事務所Terminal」 そこが、探偵、沢登修吾の新たな仕事場だった。
事務所の扉は、喫茶店だった頃のまま。鍵を回し、扉を引くと、今でもあの頃のように心地よいジャズが流れ、微かに残るコーヒーの香りが鼻をくすぐり、そしてカウンターの奥から、馬場カーミラルの笑顔と共に「いらっしゃいませ、修吾さん」そんな声が聞こえてきそうな気がする。
沢登は、毎朝この扉を開けるたびに、そんなことを思っていた。だが、そこに彼女の姿はない。誰もいない、かつて喫茶店だったこの空間が、今は沢登の探偵事務所として、静かに彼を迎えている。
その静けさに、いつも沢登は少しの寂しさを感じていた。しかし、それだけではない。 この場所には、彼女が残してくれた思い出がある。言葉にならない時間の重なりと、 彼女が彼に託した、たったひとつの“もの”がある。
アクセサリーなど一切興味のなかった沢登の首元には、銀色の球体がひとつ付いたペンダントが、静かに揺れていた。
それは彼女の残した理不尽を可視化したオブジェ、その名残。彼が今、探偵として、人間社会の理不尽と向き合い続けるための、彼女から託された願いを象徴するものだった。
そして沢登目を閉じ、ここで迎えた馬場カーミラルとの別れを思い出していた。
◇◆◇
そっと沢登の肩に身を預けた馬場。そんな彼女を沢登は、何も言わずに受け止め、彼女の髪にそっと手を伸ばし、“今はこのままいてもいい”という静かな肯定を込めて優しく撫でた。馬場は、昨夜彼女を優しく抱いていた彼の手の感触に、これが最後という思いを抱きながらそっと目を閉じる。
理不尽な行いに傷つけられた人々の思いが、ひとつの思念となって生まれた存在。善悪の境界を持たぬ精神の集合体。それが、理不尽を可視化した球体のオブジェ《ババ》から生まれた怪異、“ミラ”。
彼女は、理不尽を見つけ、それを正当化する言葉を聞き逃さず、その言葉を発した者の“存在”を、この世から消してきた。それは、怒りでも復讐でもない。ただ、彼女を作り出した思い、理不尽に傷ついた者たちの“思い”に応えるための行為だった。
だが、沢登は違った。 彼は、自らの過去の過ちを言い訳せず、 誰にも語らず、ただ静かに受け入れて生きていた。 その姿に、ミラは“癒し”を感じた。 彼女が求めていたもの。理不尽を包み込む優しさ。それを、沢登は持っていた。
だからこそ、彼女は怪異としての自分の真実を沢登に語った。それは、彼女の“望み”が叶えられた証だった。
「望みを叶えた怪異は、この世から消えるというのは本当のことよ。」
そう告げた馬場カーミラルは、どこか寂しげな笑顔を浮かべていた。その表情を、沢登修吾は黙って受け止めた。覚悟はしていた。捜査にオカルトを持ち込むことは、警察の世界では禁忌だ。だが、沢登はその禁忌を越えた視点を持ち込むことで、 彼女の正体と、連続失踪事件の真相にたどり着いた。そして今、彼女の言葉が意味する結末も、どこかで予感していた。
馬場は、自分の首にかけていたペンダントを外し、沢登に手渡した。銀色に輝く、小さな球体がひとつ。それが、彼女の言う“理不尽を可視化したオブジェ”そのものなのだろうと、 沢登は言葉にされることなく、静かに理解した。
ペンダントを受け取った沢登は、真剣な眼差しで彼女を見つめた。馬場の瞳は、変わらずどこか寂しげで、 その奥にある決意が、沢登に“これが最後”だと告げていた。
「ありがとう。修吾。」
それが、馬場カーミラルの最後の言葉だった。
その瞬間、彼女の姿は白い靄のようにふわりと立ちのぼり、 ゆっくりと、そして静かに空気の中へ溶けていった。 音もなく、痕跡もなく。 まるで、最初からそこに存在していなかったかのように。
沢登は、何も言えなかった。ただ、カウンターに残されたコーヒーの香りと、手の中にある銀色の球体がついたペンダント、そして彼女が残した最後の言葉を胸に、言葉もなく、その場に静かに佇んでいた。
馬場カーミラルの消滅。それは、理不尽から解放された怪異の静かな終焉であり、深水市中瀬を中心に続いていた連続失踪事件の、静かな幕引きでもあった。
その朝、Terminalの空気は、 どこか少しだけ、軽くなっていた。
そして沢登は、彼女の残した思い、「理不尽に傷ついた者への思い」を胸に、新たな一歩を踏み出すことを、誰に告げるでもなく静かに決めていた。
◇◆◇
探偵事務所Terminal。その外観は、探偵事務所とは到底思えない。そして扉を開けた先に広がる内装もまた、探偵の仕事場とは程遠い印象を与える。
それもそのはずだ。この場所は、かつて若い女性店主が切り盛りしていた喫茶店Terminalの面影を、そのまま残しているのだから。
木製のカウンター、柔らかな照明、耳に心地よいジャズの音色。静かな時間を過ごすための快適な空間は、今も変わらずここにある。
表の看板に「探偵事務所」と明記されていなければ、誰もが喫茶店だと思い込み、扉を開けてしまうだろう。それほどまでに、この場所には“かつて喫茶店Terminalだった頃の日常”が強く残っている。だがそこに、喫茶店Terminalの女店主、馬場カーミラルの姿は無い。
その奥には、理不尽を可視化したオブジェを首にかけ、街に巣食う様々な理不尽の残響を拾い上げる者、私立探偵、沢登修吾が静かに佇んでいる。
銀色の球体が揺れるペンダント。それは、馬場がこの世に残した、唯一の“形ある記憶”。沢登は、彼女との別れからずっとそれを首にかけ、街の理不尽と向き合い続けている。それは、彼にとって、彼女が、馬場カーミラルが確かに存在していた証でもあった。
ここにいるとき、いつも沢登は思う。「修吾さん」そんな声が、今もどこかで聞こえてくるような気がすると。それは彼の記憶の残響か、あるいは彼の胸に今も宿る彼女が聞かせる幻聴か。しかし、その声はいつも、時に悩み時に迷う彼の背をそっと押してくれている。
そして沢登は、今日もまた、 理不尽の残響に耳を澄ませながら、この場所で静かに探偵としての一日を始めるのだった。
語られない痛みと、癒されていない思いに、そっと寄り添い手を伸ばしながら。
④につづく




