エピソード4「深水市中央区中瀬」②
「ババ!!」
ある街で起きる連続失踪事件。
真相を追う刑事、沢登修吾と
街で喫茶店を営む女店主、馬場カーミラルの物語。
「深水市中瀬連続失踪事件とは何だったのか」
=②=
深水市中央区中瀬を中心に発生した一連の失踪事件。十名の被害者が姿を消したが、その後の記録は一切残されていない。 残ったのは、“失踪した”という事実のみ。手がかりは何ひとつ掴めないまま、事件は今も未解決のままだ。
現在、この事件は深水署の刑事・武澤春樹が引き継ぎ、捜査が続けられている。前任者の沢登修吾から武澤はその意志を受け継ぐように、事件の記録を読み返し続けている。
公式記録には記載されていないが、七人目の失踪者である深水市議会の重鎮、白川誠一郎市議のDNAが、ある“物体”から検出されたという報告が存在する。
しかし、その“物体”は現実的にあり得ない性質を持っていた。科学的に説明できないそれは、「証拠品として不適切」として処理され、捜査記録から除外されている。
この不適切とされた証拠品が、最もこの事件の犯人に近づいた瞬間であったことは、誰にも語られていない。
それを知るのは前任者、沢登修吾ただ一人だった。
馬場カーミラル。深水市中央区中瀬北の小さな喫茶店「Terminal」の若き店主。彼女は、確かにそこに“存在していた”。だが、その存在は法的にも、科学的にも立証することができない。
彼女が本来この世に存在しないはずの“怪異”であったことを知る者は、沢登ただ一人。彼はその事実を誰にも語らず、報告書にも記さなかった。それは、彼女が語ることができない種類の“存在”だったからだった。
科学的に証明できないものは、立件が難しい。だから警察組織は、捜査にオカルト的な視点を持ち込まない。解りやすい所を例に挙げるとすれば、“呪殺”は存在しない。それが、捜査の前提なのである。
だが、馬場カーミラルは“そこにいた”。人の姿でそこにありながら、実は彼女は人ではない。そんな怪異としての彼女は、確かにこの街に姿かたちとしては存在しながらも、“存在しないはずのもの”が、事件を起こし、十人の人間をこの世から消していた。
それを、どう証明すればいいのか。沢登は、その問いに答えを出すことができなかった。 そして、答えを出すことができないと知った瞬間、この事件は、法の枠では決して“犯人逮捕”に至らないことを悟った。
その後、沢登は馬場、いや、“ミラ”という怪異の正体を知ることになる。彼女がなぜこの世に現れたのか。それを、沢登は彼女、理不尽を可視化した怪異ミラ自身の口から、直接聞くことになった。
◇◆◇
彼女の名はミラ。この世の理不尽に心を痛め、傷ついた者たちの思いがひとつに集まり、 可視化された球体のオブジェとなった思念体「ババ」から生まれた、人間の女性の姿をした怪異。二年前の八月。ババから作り出されたミラは深水市に現れ、馬場カーミラルと名乗り、中瀬の街に静かに溶け込んでいった。
彼女が開いた喫茶店Terminalが、短い期間でこの中瀬の街のそこそこ評判を呼ぶ店になったその理由のひとつは、彼女が持つ“怪異としての力”にある。
ミラは、あらゆる“理不尽”を力として操る怪異。この世にある物事を、自身の思うままに作り替えることができる。それは、まさに“理不尽の極み”とも言える力だった。
その力を用いて、彼女は半ば強引に自身の存在を街に馴染ませたと言っても間違いないだろう。
最初の二ヵ月間、ミラは“人”として静かに過ごしていた。そんな彼女には、触れてはならない“禁句”があった。いや、彼女には“聞かれてはならない言葉”が存在していた。
ミラは、“理不尽に傷ついた者たちの怨み”の集合体。そして、「理不尽を正当化する言葉」は、 彼女を本来の“怪異の姿”へと引き戻す“スイッチ”だった。
蓮見克則は、規則やルールを盾に、自らの理不尽を正当化した。白川誠一郎は街への期待を語りながら、裏では再開発の取引を進めていた。三人の小悪党は、迷惑な落書きに“芸術”という言い訳を添えた。
彼女に消された“十人の失踪者”に共通するもの。それは、すべて「自身の理不尽で、他者を傷つけてきた者たち」ということだった。
馬場カーミラルは、ミラという怪異としての力を彼らにぶつけた。言葉を出せないよう人の口を消し、彼女に見ていた感想通り姿であるトカゲ人間に変え、存在しないはずの鮫の怪物をその場に生み出す。現実ではありえない物事を、あり得る物事にしてしまう力。
そうして彼女は、 「理不尽を正当化する言葉を、自らの口で語った者」の存在を、 この世から静かに、確実に消し去っていった。
◇◆◇
彼女が興味を抱いた人物。それが、喫茶店Terminalにふらりと現れた深水署の刑事、沢登修吾だった。
無造作な寝癖混じりの髪。羽織ったブラウンのジャケットの下には、しわの寄ったワイシャツとジャケットと同色のスラックス。白髪交じりの無精髭に、そして暗い思いを胸に隠したような無表情に近い顔つきをした男。その姿から伝わってくるのは、単純に“だらしなさ”だけだった。
だが、彼がカウンターに腰を下ろし、苦めのコーヒーを注文し、 短い会話を交わして店を後にしたその瞬間、馬場カーミラルは、彼に興味を持つことになる。
彼女がこの冴えない風貌の刑事に興味を持った理由。
それは、彼が“自身を正当化する言葉”を、決して口にしなかったからだ。
Terminalは、五席のカウンターと四人掛けのテーブル席がひとつだけの、本当に小さな喫茶店だ。耳に心地よいジャズが流れ、静かに時間を過ごすには申し分ない空間。その評判はそこそこ良く、時間によっては店の扉を開け、満席であることを確認し、入店を諦めざるを得ない客も少なくなかった。
だが、そんな店にも客の少ない時間は存在する。開店直後の八時から九時の一時間。そして、閉店前の十七時から十八時の一時間。
その時間帯、喫茶店Terminalの静かで心地の良い店内で、店主と客が向かい合うとき。店の雰囲気に気が緩み、ふと“本音”がこぼれる。その本音の中に潜む、彼らの「理不尽を正当化する言葉」。それを、理不尽を可視化したオブジェの作り出した怪異、馬場カーミラル、“ミラ”は決して聞き逃さない。
二年前の十月、朝八時十一分。Terminalに、だらしなさしか伝わらない男が来店した。 馬場は、彼の注文した“苦めのコーヒー”を淹れながら、静かに彼の過去を読み取っていた。“理不尽に過去の記憶をのぞき、その心を読む”。それもまた、怪異としての彼女の力だった。ゆっくりと、この男の過去へと潜っていく彼女。そこで馬場は、この男が過去にひとつの過ちを犯していることを知った。この男の若き日の記憶。善意からの行動が、結果として惨事を招いてしまった出来事。彼の中に残るその記憶は、深い後悔と静かな沈黙のかたちをしていた。
馬場は、店内の空気に彼の気の緩みが生まれたその瞬間、この男が「その過去にどんな言い訳を添えるのか」を、静かに待っていた。だが、彼は何も語らなかった。過去に触れることなく、ただコーヒーを飲み終え、支払いを済ませ、静かに店を後にした。
そんな姿に、馬場は強い興味を持つことになった。
過去の過ちを受け入れながら、言い訳することなく今を生きる男。理不尽に人を不幸にしてしまった過去を語らず、正当化の言葉を口にしない者。彼女にとって、沢登修吾という男は、自身の前に初めて現れた“怪異の力が届かない領域”に立つ存在だった。
そしてその瞬間から、馬場カーミラル、“ミラ”は、 沢登修吾という男に、静かな興味を”好感を”抱き始めたのだった。
それから数日後。沢登が再びTerminalに姿を現したとき、馬場は、彼に対して最初よりも積極的に話しかけていた。この時の馬場はまだ、その言葉の裏にふたつの感情を持っていた。ひとつは、怪異としての彼女に“スイッチ”を入れさせない、稀有な人間への新鮮な興味。もうひとつは、そんな男がいつかふと、過去を言い訳として語る瞬間が訪れるのではないか。その瞬間を待つ、黒く静かな悪意。
だが、その悪意はやがて、興味に飲み込まれていった。彼女の中で、沢登という男への関心は次第に強まり、ふたりが出会って一年が経とうとしていた昨年八月頃には、その関係は、もはや店主と客という枠には収まりきらないほど親密なものになっていた。
ふたりが並んで街を歩く姿が見られたのも、ちょうどその頃。中瀬商店街で長く店を営む店主や女将たちは、この年の離れたふたりの様子を、どこか微笑ましく、そして静かに見守っていた。
そんな中、馬場はひとつ、想定外であり決定的な過ちを犯した。
白川誠一郎を“消した”際、彼女は先に剥いだ三枚の鱗を処分せずに残していたのだ。それは、白川を消す際の儀式の一部であり、彼女にとっては“何の意味のない残滓”だった。
馬場はそれを、警察組織が科学的に証明できないものとして扱うだろうと高を括り、放置した。
“鱗から人間につながる手がかりを探そう”などと考える者はいない。そう、彼女は思っていた。だが、その油断こそが、深水市中瀬連続失踪事件の犯人である自分につながる手がかりを与えることになったのだ。
「鱗から人間につながる手がかりを探そう」。そう考えたのは、沢登だった。
捜査にオカルトを持ち込むことは、警察組織においてはご法度。そして沢登自身も、これまでその一線を越えたことは一度もなかった。だが、風待庵で読んだ雑誌「月刊ヌー!?」の特集記事。“理不尽を可視化した怪異”と題された深水市中瀬連続失踪事件の記事は、 彼の視点に静かな変化をもたらした。
“科学では説明できないもの”を、あえて見てみよう。沢登は、自分が踏んだ“何かわからない破片”の鑑定を鑑識官、笠原に渡す。それは、喫茶店Terminalの前に落ちていたもの。 そして、その破片が失踪者のひとり、白川誠一郎へとつながることになった。
あえてオカルト目線で見てみよう。それは沢登にしてみても正直なところ、自身に半信半疑の思いを投げかけていた。だが、結果は結果だ。そしてこれを拾った場所がTerminalの前であることもゆるぎない事実だ。まさか、馬場が事件の関係者?沢登は、心に黒い靄がゆっくりと降りてくるような気分だった。
その流れを、馬場は“ババ”を通じて密かに見つめていた。 理不尽を可視化する怪異としての彼女は、沢登の思考の変化を、静かに、そして深く覗き込んでいた。
そしてその日、彼女は沢登に告げた。
自分がこの事件の“犯人”であること。そして、自分が“人ならざるもの”理不尽から生まれた怪異であることを。
それは、この世の人間「沢登修吾」と、この世ならざる怪異「馬場カーミラル」の重なり合わないはずの世を、その境界を越えた者同士の、静かな告白だった。
馬場カーミラル。怪異“ミラ”との問答の中で、沢登は、自らの過去の過ちを語ろうとした。だがその言葉は、重ねられた彼女の唇によって強引に遮られた。
唐突な接触。予期せぬ沈黙。そして、言葉の代わりに訪れた、奇妙な静けさ。
「どうして、こうなっている!?」この状況に沢登の思考は追いつかず、どこか混乱した中にあった。だがその一方で、彼は自分の内側に、どこか“とても安心している”ような感覚が芽生えていることに気づいていた。それは、理屈では説明できない感覚だった。
馬場カーミラル。“ミラ”という名の怪異。理不尽を操る力を持ち、狂気の中に生きる存在。だが、その奥には、どこか秘められた悲しみが宿っているように、重ねられた彼女の唇から伝わってくる。
そしてその深奥に、沢登は確かに感じるものがあった。優しさ。ぬくもり。人ならざるものの中に、確かに感じる“悲しみの気配”。
沢登は、目を閉じそれを静かに受け止めていた。言葉ではなく、沈黙の中で。
◇◆◇
しばしの沈黙のあと、沢登は、怪異“ミラ”が、彼のよく知る彼女の、馬場カーミラルの面影に近い姿へと戻ったその瞬間、静かに問いかけた。
それは、怪異と呼ばれる存在にとって、聞かれてはならない問いだったのかもしれない。そして、言葉にしてはならない言葉、彼女の願いそのものだったのかもしれない。
沢登は、あれから一年が経った今も、その問いと彼女の答えを静かに思い返している。
「馬場さん。君の望みは、何だ?」
その言葉に、彼女の金色の瞳がわずかに揺れた。そして、再び数秒の沈黙がふたりの間に降りてくる。
「……私の望みは。」
その声は、怪異“ミラ”のものではなかった。どこか人間的な迷いと、ためらいを含んだ響きが、沢登の耳に届いていた。
「私の望みは……癒されること。修吾さん……あなたに。」
その告白に、沢登は言葉を返さなかった。ただ、彼女の望みを受け止め、その日一日を、その一夜を、彼女の望み通りに過ごした。
そして、翌朝。
喫茶店Terminalの静かな空気の中で、ふたりはカウンター席に並んで座っていた。いつものようにジャズ音楽が心地よく流れる店内。カウンターには、苦味の効いたコーヒーと、泡立ちの柔らかなカフェラテのマグカップが並んでいる。
昨日一日、そして昨夜の出来事。ふたりの間に流れる空気は、明らかにそれまでとは違っていた。
かつては、妙に距離を詰めようとする若い店主に、少し引き気味な中年刑事。そんな関係性が見え隠れしていた。だが今は、歳の差を越え、ふたりの距離は明らかに縮まっていた。
肩が触れ合うほど近くに並ぶ、言葉の少ないふたり。ふと目が合うと、どちらともなく、どこか照れたような笑みがこぼれてしまう。そんな、穏やかで、少しだけ不思議な気分の朝。そのとき、彼女はぽつりと語った。
「私のような怪異でも……癒されたいんです。理不尽に傷ついた人々の思い、怨みが形になった存在だからこそ、癒しを求めているんです。私の望みは、癒し。人々の理不尽に傷ついた思いを、静かに包み込んでくれるような。そんな存在に、私は触れてみたかった。私にとってそれは……修吾さんでした。重い過去を受け入れ、言い訳することなく今を生きているあなたは、きっと私を生み出した人々の思いを、そっと抱きしめてくれる……そう思ったんです。」
その言葉は、沢登の胸に静かに染み込んでいった。怪異の口から紡がれたにもかかわらず、それは人間の祈りにも似た、深く、静かな響きを持っていた。
しばらくの沈黙ののち、馬場はそっと沢登の肩に身を預けた。そんな彼女を沢登は、何も言わずに受け止めた。彼女の髪にそっと手を伸ばし、優しく撫でる。
それは、慰めでも、同情でもない。 ただ、“今はこのままいてもいい”という静かな肯定が込められていた。
③へつづく




