エピソード3「語るか、黙るか」③
「ババ!!」
ある街で起きる連続失踪事件。
真相を追う刑事、沢登修吾と
街で喫茶店を営む女店主、馬場カーミラルの物語。
「どうする?あなたを語る?それとも黙る?」
=③=
喫茶店Terminal、午前九時。店内に流れる柔らかなJazz音楽が、空気を整えるように静かに響き、漂うコーヒーの香りが心を落ち着かせる。カウンター五席、テーブル席一つ。こじんまりとした空間は、いつもと変わらぬ風景を保っていた。
だが、沢登はそこに、微かな違和感を覚えていた。
Terminalは、八時三十分を過ぎる頃から常連客が席を埋め始める。静かにくつろげるこの店の雰囲気を求めて、客たちは早めに足を運ぶ。九時ともなれば、満席の店内を見て入店を諦める者も出てくる。それが、いつもの光景だった。
しかし今日、十月九日。午前九時のTerminalには、客の姿が一人もなかった。
いつもであれば満員の店内に、沢登と馬場。二人だけが、静かな店内に存在していた。
いつもと同じ空間。いつもと同じ音楽。だが、そこに“いつも通り”ではない空気が、確かに漂っていた。沢登は、その違和感を胸の奥で静かに受け止めながら、いつもの席に腰を掛けた。
「修吾さん、いつものでいい?」
「あ、ああ。頼むよ。それにしても珍しいな。この時間に誰もいないなんて。」
「ええ。でも、ほんとに時々ですけど、あるんですよ。こういう静かな朝も。」
短いやり取りの中に、いつも通りの空気が流れる。そして馬場は、沢登の“いつもの”を準備し始めた。深煎りのインドモンスーン。彼のためだけに焙煎された深煎りの、苦味の強いブラック。一口飲めば、眉間にしわが寄るほどの深い味わい。それが、沢登専用の“特別な一杯”だった。
馬場は、無言のまま丁寧にドリップを進める。その手つきには、言葉にしない彼の信頼への応答が込められていた。
店内に流れるJazzが、コーヒーの香りと共に空気にさらりと溶けていく。沢登は、その一杯が淹れられる音に、いつもと変わらぬ装いで耳を澄ませていた。
「はい。いつものコーヒー。お待たせしました。」
「ありがとう、馬場さん。」
カウンター越しに差し出されたマグカップを、沢登は静かに受け取った。深煎りの香りが立ちのぼり、指先にカップの熱が伝わる。いつもの八時台ではなく今日の九時台。時間は違えど、このやり取りはいつもと変わらない。その“変わらなさ”に、沢登はどこか安堵していた。だが、普段分かりにくい沢登の表情にその安堵が滲んでいたのか、馬場は怪訝な顔をして身を乗り出す。顔を近づけ彼の目を、じっと覗き込む馬場。
「近いよ、馬場さん。」
「修吾さん。何かあった?…ううん、何か“あったでしょ”。 顔に思いっきり書いてある。“なあ、ミラちゃん。聞いてくれよ”って。」
「ミラちゃん…?」
「カー“ミラ”ル。」
「えっと、…ミラさん。」
「うん。何?修吾さん。」
沢登は、完全に馬場のペースに乗せられていた。だが、それが不快には感じなかった。 むしろ、言葉にしづらい“何か”を引き出してくれるような、柔らかな、しかし何気にどこか強さも含んだ圧力だった。
言葉が、喉元で留まる。 遠回しに。できるだけ穏やかに。 だが、聞かなければならない。この店の前で拾った“あの欠片”。その意味を、彼女が知っているのかどうか。
沢登は、マグカップをそっと置き、目を伏せたまま、最も適当な言葉を思考の中から探していた。
◇◆◇
「失踪事件の捜査に、少し進展があってね。」
沢登は、いつもの調子を意識するように、ゆっくりと口を開いた。その“意識”が、かえって不自然さを生んでしまうことを、彼自身よく分かっていた。だが、安心できる情報を引き出すまでは、どこか無意識のうちに意識してしまう。
そんな沢登の様子に、馬場は気づいているのか、いないのか。または、気づかないふりをしているのか。 短く「うんうん」と頷きながら、静かに彼の言葉を受け止めている。
「進展があったなら、良かったじゃないですか。」
「ああ。ある意味では、そうなんだけど…馬場さん。」
「ミラ。」
その瞬間、馬場の目がじっと沢登を捉える。柔らかくも、確かな圧力がそこにあった。 “ちゃんと名前を呼んで”と、暗にそう語るような視線。
それは、沢登が“いつもの調子”を意識して話そうとするその隙間に“意識しなくても、いつもの調子でいてほしい”と語りかけるようでもあった。
沢登は、少しだけ息を整え、言い直す。
「…ミラさん。」
「うん。何?修吾さん。」
馬場の声は、変わらず穏やかだった。だが、その穏やかさの奥に、何かを見透かすような静けさがあった。沢登は、言葉の続きを探しながら、その目の奥にある“何か”を見極めようとしていた。
「…事件の手がかりになるかもしれない物を拾ったんだ。最初は、それを手に取った時、正直、何だこれくらいにしか思わなかった。でも、どうにも気になってね。鑑識官に調べてもらったら、その結果が信じられない話だった。」
「うん、それで?」
沢登は、言葉を選びながら続ける。
「拾ったのは、何かの破片。鱗のようにも見えた。踏んでしまって砕けていたけど、大きさは…きっとコインほどだったと思う。 そんな硬い破片の鑑識結果が…」
「人の皮膚だったのね。修吾さん。」
馬場の声は、静かに、しかしはっきりと二人の間に響いた。その瞬間、沢登の思考は一瞬にして凍りついた。彼女の目の奥にある“何か”を見極めようとしていた矢先、不意に放たれた言葉が、弾丸のように彼の頭を銃声よりも先に打ち抜いた。
この鑑定結果を知る者は、深水市中瀬連続失踪事件の捜査に関わる中でも、今の所、沢登、笠原、武澤のわずか三人だけ。捜査はあくまで現実目線で進めるもの。非現実やオカルトを持ち込むことは、原則としてあり得ない。
だが、鑑識の結果は結果。沢登は、あえて“非現実の目線”でもこの事件を見てみようとしていた。それにもかかわらず、捜査とは無関係なはずの馬場の口から、その言葉が出てきた。
「馬場さん……」
「ほら、また戻ってる。ミ・ラ。」
その時、沢登は目の前にいる彼女の黒い瞳が、スッと金色に輝いたのを目にした。いやそれだけではない。馬場の長い黒髪が、毛先からゆっくりと銀色に変わり、色白に見える肌は色白という表現では言い表せないほど白くなっていく。
その金色に輝く目に見据えられ、そして彼女のニヤリと口角を上げ優しく、その優しさが不気味さを際立たせるかのような微笑みを浮かべている。
言葉は出なかった。ただ、その眼光が、静かに沢登の常識を焼き崩していくのを感じていた。
「君は……何者なんだ……?」
沢登の声は、言葉にならない声を喉の奥から絞り出すかのようだった。目の前で微笑む“馬場だった者”に向けて放たれたその言葉は、言葉というより、混乱した思考の歪みが音声になったもののようだった。
その問いに、彼女はゆっくりと首を傾け、唇を弧に歪ませる。
「私はミラ。沢登修吾。あなたの知っている言葉で言うなら、そうね… “理不尽を可視化した怪異”ということにしておこうかしら。」
そして、笑う。喉の奥で転がるように。
「ニシシシシシシ……」
その笑いは、店内に流れるJazzの音をかき消すほど静かで、それでいて、沢登の背筋を確かに凍らせた。
◇◆◇
心地よく流れていたJazzのBGMはいつの間にか消えて、漂っていたはずのコーヒーの香りも今はもう感じられない。喫茶店Terminalの店内には、いつの間にか黒い霧がゆらり、ゆら、ゆらゆらりと静かに立ち込めていた。
異質な静けさ。それは、ただ不気味なだけではない。薄気味の悪さの中にどこか美的な輪郭を持つ、まるで黒で飾られた洋館の一室かのように現実から切り離された“隔離空間”を演出していた。
カウンター席に座る沢登は、身動きができなかった。 いや、動こうとしても、動けなかった。それは、ただの恐怖ではない。目の前にいる銀髪の女、“ミラ”と名乗ったその存在が、 彼の“馬場カーミラルは事件に無関係であってほしい”という願いを、容赦なく打ち砕いていた。
だが、この女は、馬場なのか? それとも、ミラなのか?
沢登の思考は、凍りついたまま揺れていた。目の前の“満面の笑顔”が、あまりに鮮やかで、あまりに異質で、美しかったから。
そしてその空気の中で、彼は静かに問いを抱え続けていた。この事件は、いつから“現実”ではなくなったっていたのか、と。
銀髪の女。ミラと名乗ったその存在は、驚きで固まる沢登修吾の心を見透かすように、 優しげでありながら、どこか挑発的な笑みを浮かべてカウンターに頬杖をついた。
「ねえ、修吾さん…そんなに固まらないでよ。」
「いや、この状況で固まらない人間がいたら、そっちの方が怪異だろ。」
「ニシ。それもそうね。じゃあ、固まったまま聞いてもらおうかな?」
「…いや、20秒だけ待ってくれ。できるだけ落ち着く。」
「20秒ね。OK。それじゃあコーヒー飲んで、深呼吸して。ニシシシシ。」
ミラは、どこか楽しげだった。吊り上がった目元と口角の上がった笑み。違いはあれど、そこには確かに馬場カーミラルの面影が残っていた。それは“誰かに似ている”というレベルではない。 “馬場そのもの”でありながら、だがしかし“馬場そのものではない”。
知られているはずのない鑑識結果を先に口にし、目の前で姿を変えたという事実。それらが、沢登に一つの確信を与えていた。
この銀髪の女ミラは、馬場カーミラルと同一人物。だが、彼が知っていた“馬場”とは、何かが決定的に違う。
20秒。沢登はその間にマグカップをそっと持ち直し、呼吸を、思考を落ち着ける。今起きているこの状況の中で、その“違い”の正体を、気付かれないよう静かに見極めようとしていた。
「20秒、経ったけど……どう?落ち着いた?もう、どこも固まってない?」
頬杖をついたミラの微笑は、闇を含みながらも柔らかく沢登に向けられていた。その目は、彼の内心を見透かすように、ふわりふわりと揺れている。
沢登は、コーヒーを一口飲み、深く息を吐く。スッと目を閉じ覚悟の準備の20秒。この20秒で彼女と目を合わせる程度の落ち着きを取り戻していた。
「ああ。ありがとう、まあまあ落ち着いたよ。馬場さん。」
「もう…。まあ、長い付き合いだから癖が抜けないのは仕方ないってことにしておいてあげる。」
ミラは闇を含んだ呆れ顔を浮かべながらも、どこかそれを許すような笑みを見せた。その笑みには、いつも優しい笑みを投げかけてくれる馬場カーミラルの面影が確かに残っているようにも感じる。そしてミラは、沢登が“知りたい”と思っていることを、また先回りするように問いかけた。
「修吾さん。私がどうして鑑識の結果を知っているのか、知りたい?」
完全に彼女のペースに飲まれていることを、沢登は自覚していた。だが、あの20秒は、彼の思考を“非現実目線”へと切り替えるには十分だった。
現実離れした話。突拍子もない展開。それらすべてを、非現実の視点で見れば“現実”として受け止められる。その覚悟が、今の彼にはあった。
沢登は、言葉を使わず、静かにコクリと頷いた。それが、彼の“準備完了”の合図だった。
ミラの目が、わずかに細められた。その奥には、語られるべき“真実”が、静かに映し出されていた。
「私が鑑識結果を知っていたのは…私は、理不尽だからよ。」
◇◆◇
「……理不尽?」
沢登は、ミラの言葉をそのまま繰り返した。短い一言。だがその中には、彼女の言葉を問い直すような含みが滲んでいた。“理不尽”という言葉の意味。それをもう一度彼女に確かめたくなるような、そんな含み。そんな様子がミラにはよほど愉快だったのだろう。彼女はニヤリと口角を上げ、金色の瞳を細めた。
「そう、“理不尽”。 その言葉の意味は“筋道が通っていないこと”“道理に合わないこと” 私はそういう存在なの。筋道を通すことなく、道理に逆らい物事を操る。そうね…最近流行りの漫画で例えるなら、私の“能力”は“理不尽”ってところかしら。ニシシ。」
その言葉に、沢登の思考が静かに動き始めた。道理に合わないことを、現実にできる存在。それはつまり“知らないはずの道理”を“知っている現実”に変えてしまうということか。ミラの言葉は、沢登に一つの仮説を導かせていた。この女は、現実の構造そのものを“ねじる”ことができる。それが彼女の持つ、“理不尽”という力なのだろう。
沢登は、マグカップの縁に指を添えながら、これが“ねじれた現実の中にある真実“であることを理解しようとしていた。
「俺と香蘭亭に行った日より前に…君は白川と顔を合わせていたのか?」
沢登の問いは、言葉を選びながらも核心に触れようとするものだった。だがミラはその回りくどさを見透かすように、金色の瞳を細めて微笑む。
「ねえ、修吾さん。回りくどくしないで。“君が白川を消したのか?”って、そう言いたいんでしょ?」
頬杖をつきジッと彼を見つめるその瞳は、まるですべてを見通しているかのようだった。 沢登の喉が、ゴクリと鳴る。その音さえも、ミラには愉快なものに映るのか、ニヤリと口角を上げたまま問いかけてくる。
「…そうなのか?」
沢登は、無意識に抵抗するような気持ちを押し込めながら、その問いを口にした。ミラはその言葉を受け止め、挑発的だった笑みを少しだけ緩める。そこには、どこか馬場カーミラルを思わせる柔らかな表情が浮かんでいた。まるで、“よく言えました”と褒めるかのように。そして、ミラは静かに頷いた。
「そう。白川誠一郎をこの世から消したのは私。あの欠片は、私がアイツから剥ぎ取った体の一部。もとは人間の皮膚だったもの。“鱗”よ。」
その言葉は、静かで、確かだった。そして彼女の、ミラの理不尽は今、現実として語られはじめた。
◇◆◇
「こういう時って、動機を話すのがいいのかしら?沢登、修吾刑事。ニシシシシシ。」
カウンターを挟んで向かい合う沢登と、銀髪の女。馬場カーミラルだった彼女は、今は“ミラ”と名乗る存在。彼女は頬杖をついたまま、金色に輝く瞳で沢登をじっと見つめていた。 その視線は一切逸れることなく、まるで獲物を捉えた捕食者のようにも見える。
沢登は、これではまるで自分は蛇に睨まれた蛙のようだと、内心で皮肉めいた笑いを浮かべていた。だが、それすらもミラに見透かされている気がする。余計な想像は危険だ。そして彼女の放った言葉、“動機”。その言葉が、沢登の中で妙に重く響く。それは、ただの説明ではなく、“非現実的事件の真相”を語るための鍵のようにも思えた。
沢登は、ミラの視線を受け止めながらコクリと頷き、次に語られる言葉がどのように現実を歪めてくるのかを静かに待っていた。
「そうね……あの“紳士ぶった”白川。 アイツ、何をしようとしていたと思う?」
ミラは、金色の瞳を細めながら、楽しげに語り始めた。
「白川誠一郎は、中瀬の街の発展を掲げて支持を集めていた。でも裏では、街の再開発計画をこっそり進めていたの。支持者には知らせず、自分の利益のためにね。私はね、そういう“善人の皮をかぶった情けない人間”が、大嫌いなの。」
ミラの声は、冷たかった。それは感情をどこかに置いてきたのではないかと思うほどの、氷のような響きだった。
「だから、私の目線で見たアイツの姿“トカゲ人間”に変えてやったのよ。皮膚の下に隠していた本性を、外に引きずり出すようにしてね。」
沢登は、言葉を挟めずにいた。ミラは続ける。
「その後、どうしたか知りたい? いくら聞いても本当のことを言わないから、鱗を一枚ずつ剥いであげたの。でもね、三枚目で飽きちゃった。だから、いっぺんに全部剥がして、この世から存在を消した。」
ミラは、頬杖をついたまま、微笑む。
「この世に残ったあの男の痕跡は、先に剥いだ三枚の鱗。そのうちの一枚を拾ったのが、修吾さん、あなたよ。」
静かに冷たく、そして心がここにあるようで、それでいてもここにないような語りを続けるミラの姿を言葉無く見ていた沢登の思考は現実を、もう一段深くの“非現実”へと沈められたような気がしていた。
「それにしても、修吾さん。」
ミラは、じっと沢登を見つめながら言葉を続ける。そのニヤリとした笑みは、さらに深くどこか狂気の光を帯びていた。それはまるで愉悦と冷笑を混ぜ合わせたような闇笑。
「あの鱗。あれを完全に処分していなかったのは、私の見落とし。でも、あれを鑑識にかけて“人間の皮膚”だと突き止め、さらにそれを白川に結びつけるなんて…」
言葉の艶やかな余韻とともに、ミラの左手がゆっくりと伸びる。黒く長い爪を持つ彼女の美しい指先が、非現実の中で言葉の無い沢登の右頬をそおっと撫でた。
沢登は動けなかった。いや、動こうとしても動けなかった。目の前にいる彼女の狂気を湛えた笑みから、視線を逸らすことができなかった。
ミラの手の感触は、まるで冷たい金属に触れられているようだった。捜査に行き詰まり疲れをみせていた沢登に、微笑みを投げかけ優しく触れた馬場の、あの温かく柔らかな手とはまるで別物の感触。
「警察組織は、非現実目線で事件を捜査しない。幽霊も、怪異も、その存在を証明できないから。でも、修吾さんは違った。あれを拾った後、あえて非現実目線で事件を見ることを選んだ。」
ミラの声は、沢登をどこか讃えるようでいて、それでいてその言葉は冷たい響きを持っていた。
「その発想の転換は、さすが深水署の敏腕刑事。一見ぼんやりして見えるけど、話し方の節々に滲む鋭い観察眼と論理性。隠しきれないのよね、それ。ニシシシシシシ…」
その笑いは、静かに、確かに、確実に、 沢登の背筋をスーッと冷たく撫でて行くようだった。
④につづく




