プロローグ|「正しき者の午下」
「また一人、消えたよ」
彼がそう言ったとき、彼女は静かにコーヒーを淹れていた。
深水市中央区中瀬。レトロ商店街、カルチャー系施設、個人店と雑踏の混在した独特の情緒を持つ、観光とサブカルで賑わうこの街である事件が立て続けに起こっていた。
深水市連続失踪事件。
この一年という短い期間で老若男女無差別に人が消え、一向にその手掛かりがつかめない事件が深水市中央区、特にこの中瀬を中心に頻発しており今や中瀬は“人が消える街”という都市伝説となりその噂は口コミとネットで急速に広まっていた。
だが、失踪被害に遭った者たちを知る者たちは口々に自業自得だと、そのことを誰も口にしないまま、誰もがそれを知っていた。
プロローグ|「正しき者の午下」
=①=
「また一人、消えたよ」
彼がそう言ったとき、彼女は静かにコーヒーを淹れていた。
深水市中央区中瀬。レトロ商店街、カルチャー系施設、個人店と雑踏の混在した独特の情緒を持つ、観光とサブカルで賑わうこの街である事件が立て続けに起こっていた。
深水市連続失踪事件。
この一年という短い期間で老若男女無差別に人が消え、一向にその手掛かりがつかめない事件が深水市中央区、特にこの中瀬を中心に頻発しており今や中瀬は“人が消える街”という都市伝説となりその噂は口コミとネットで急速に広まっていた。
だが、失踪被害に遭った者たちを知る者たちは口々に自業自得だと、そのことを誰も口にしないまま、誰もがそれを知っていた。
喫茶店「Terminal」。中瀬北二丁目屋久通りに面した中瀬北バス停前にある小さな喫茶店。五席のカウンターと四人掛けのテーブル席が一つ。本当に狭く小さな店だ。そんな店内には耳心地の良いジャズ音楽が流れ、一人ゆっくりと静かな時間を楽しむにはとても良い場所だとそこそこの評判を得ているのだが、いかんせんこの狭さだ。入店時間によっては店の扉を開け、満席であることを確認し、女店主のごめんなさいと言葉を投げかけているかのような苦笑いを見るとともに、入店するのを諦めざるを得ない客も大勢いる。
七月三十一日午前八時五分。夏のよく晴れた朝。連日最高気温を更新する日々が続いていたのだが、今朝のこの時間は珍しく比較的涼しい。通勤時間半ばということもあり、屋久通りの人の往来は激しく、喫茶ターミナルの前、中瀬北バス停に止まるバス車内も比較的涼しいながらも暑い中それはまたなかなかの混雑模様だ。
そんな特別感も何もない平日の朝、通勤ラッシュ時間中盤の中瀬は、立て続けに起こる失踪事件の中心地というにはその印象が薄すぎる、一般的に“何と言うことのない朝”がサラサラと、そして淡々と流れているようにも見えた。
=②=
「今日で六人目だ。」
彼がそう言ったとき、彼女は静かにコーヒーを白いマグカップに注いだ。
七月三十一日午前八時五分。中瀬北二丁目屋久通りに面した中瀬北バス停前にある小さな喫茶店「Terminal」。今日も心地の良いジャズ音楽と、香ばしくも柔らかなコーヒーの香りが漂う店内には、常連客がひとり腰かけていた。
沢登修吾。この無造作な寝癖混じりの髪にしわくちゃなワイシャツとブラウンのスラックス。白髪交じりの無精髭、そして無表情に近い顔つきをしたこの男は、五宇都県警深水市署所属の捜査課刑事。年齢は40代半ばの見た目からだらしなさしか伝わってこないこの男。だがそんな彼は見かけによらず、署内での評価は高い。いわく「一見ぼんやりして見えるが、話し方の節々に見える鋭い観察眼と論理性がそれを隠しきれず滲み出ている男」らしい。
五席あるカウンターの一角、入り口から見て左から二番目の席に座った彼はこの店の女店主が淹れたコーヒーに口を付けながら、ほっと一つ息をつく。いつものごとく無造作な寝癖を隠しもせず、けだるい眼差しでカウンターの先を見つめていた。
「蓮見克則。株式会社ネオムレクス人事部長。会社のルールの化身みたいな男だったらしい。失踪届は出ているのだが……まあ、誰も本気で探しちゃいないようだ。」
「ルールの化身?沢登さん、その人はとても律儀な人だったの?」
自然な煌めきを持つ長い黒髪の女店主は、いつもと変わらずぼそぼそと呟くように話す沢登に聞く。沢登は美しい黒髪の女店主の質問に少しだけ肩をすくめた。
「律儀って言うより、融通の利かないマニュアルの神様って感じだったらしい。何でもまあ『法律ですので』『規則ですので』が口癖で、それを盾にしてたくさんの従業員の言葉をばっさばっさと切ってきたって話だ。中には止む無く規則を超えた判断をした従業員もいたらしいが、それもお構いなしだ。だが、そんな蓮見は社内じゃ高評価。それがまた“善人”って評価だ。従業員の誰も蓮見が正しいだの善人だのとは言っていないな。」
長い黒髪の女店主は沢登に淹れたてのコーヒーを差し出す。それは深く、香ばしい香りを店内に上書きするように染み込ませる。沢登はそれを受け取りながら、続けてぼそりと呟いた。
「なぁ、馬場さん。善人って、何だろうな。」
「さあ。それは人に寄りけりではないですか?」
馬場さんと呼ばれた彼女“長い黒髪の女店主”はそう言って小さく笑った。だがその表情、それは冷たくもなく、温かくもない。ただ、そこにいるというだけの作られた笑顔のようだった。
=③=
その前日の午後。喫茶店「Terminal」にその男は“ひとりだけ”いた。今日も心地の良いジャズ音楽と、香ばしくも柔らかなコーヒーの香りが漂う店内。長い黒髪の女店主“馬場”は、いつものようにカウンターにそっと白いマグカップを置く。その音が、コツン、ではなくコッ、といつもより短い音を立てた。カウンターの中央に座った彼は、見るからに仕立ての良い黒のサマースーツ姿のまま、どこか硬直した困惑を浮かべていた。
男の名は“蓮見克則”。深水市中央区に本社を置く株式会社ネオムレクスの人事部長。社内ではルールの化身、マニュアルの神と高い評価をされているのだが、見る側が変われば彼は“軽蔑と畏怖の念”を持たれている存在だった。だがこの日の彼はいつもとどこか違った。ルールの化身、マニュアルの神と畏怖される常に自信満々な彼の表情に、夏の激しい夕立の前とも言えそうな曇りがあったのだ。
数時間前の出来事だった。蓮見はここで初めて認めたくない恐怖を味わった。日常業務のひとつ「就業規則違反をした一般従業員への訓告通知」それは規則に則った、機械的で無機質な処理で終わるはずだった。彼にとって「規則」は盾であり、秩序の番人であり、自分自身を守る正当性そのものだった。だが、この日、その信念は音を立てて崩れた。規則は彼を守らなかったのだ。
それどころではない。規則が元で彼は激しく責められることになった。誰もが「規則ですから」と言えば引き下がると、規則はいつも自分を守ってくれると信じていた蓮見にとって想定外であり予想外の出来事だった。「就業規則に記載されています」と言ったところで彼は気付く。怒気を孕んだ従業員の瞳が蓮見を捉えていることに。
その瞬間ネクタイを掴まれ、体が強引に引き寄せられる。距離は一瞬でゼロに近づき、鼻先が触れるほど顔が近づいた。従業員の息遣いが、蓮見の皮膚を這うように伝わる。
「ひ!」
「蓮見!お前はいつも規則規則って言っているけどさ…規則が、お前を守ってくれると思っているのか?」
低く、冷たく、しかし底に狂気の熱を孕んだ声。
「今から俺はお前を殴る。蓮見、規則が本当にお前を守ってくれるなら俺の拳は逸れて当たらないだろ?」
一瞬、蓮見の脳内で警鐘が鳴った。
「やめろ、処分が重くなるぞ…!」
だが返ってきたのは、冷笑混じりの宣言だった。
「やめるかよ。さあ、守ってもらえ。お前の“大好きな”法律やら規則やらにな!」
その言葉から間を置くことなく従業員の拳が振り上げられる。蓮見は目をぎゅっと閉じ、全身をこわばらせて、激痛の到来を待った。だが、その瞬間は訪れなかった。数秒後、痛みの代わりに静寂が広がっていた。
恐る恐る目を開けると、その拳は蓮見の顔すれすれで止まっていた。そしてその後ろには、満面の愉快そうな笑顔を浮かべる従業員がいた。
彼は何も言わずにネクタイを離し、蓮見は糸の切れた人形のように椅子に座り込む。蓮見の目には、脱力と羞恥、そして何よりも「規則が自分を守ってくれる」という幻想が崩れた残骸が見えていた。従業員はそんな蓮見の情けない姿を満足げに見下し、何も言わずゆっくりと部屋を出て行った。蓮見にはその姿を言葉無くただ茫然と見送ることしかできなかった。
=④=
ジャズが静かに流れる喫茶店「Terminal」。 柔らかな音色は店内の空気に溶け込み、ひとつひとつの音が、まるで店内の雰囲気をやさしく包み込んでいるようだった。 香ばしいコーヒーの香りが店内を満たすそこは、まるで外の喧騒から隔てられた小さな避難所のようだった。
カウンターでは、この店の女店主が、手際よくランチタイムの名残を片づけている。 食器が重なるかすかな音、水が流れるひそやかな響き。それらは、誰かに聞かせるでもなく、店の静けさを壊すことなく、まるで店そのものの呼吸のようだった。
そんな店内カウンターの中央に座った蓮見は、どこか硬直した困惑をその表情に浮かべていた。彼の表情には、言いようのない硬直と、うっすらとした困惑の影が差していた。頬が強張り、目は一点を見つめながら焦点が定まらず、まるで記憶の中に迷い込んでいるようだった。ぼそ…、ぼそ…。 口元から漏れ出した小さな心の呟き。
「私は、間違っていない。規則が全てだ。私には会社の評価もあるし、何か問題が起きても、きちんと規則通りに処理してきた。誰よりも正しい行動を私はしている・・・」
断片的な言葉が、店内の穏やかな空気にわずかな濁りを落とす。蓮見の言葉に触れるたびに、店内に流れるジャズは淡々とリズムを刻みながらも、不思議とその音色を曇らせているようだ。
彼の思考は、数時間前の出来事。怒りの拳が自らの頬を掠める寸前まで迫った瞬間に何度も引き戻されていた。恐怖は既に過ぎたはずなのに、思い出すたび胸の奥が軋む。そしてその度に彼は、同じ言葉を心の底から必死に繰り返す。「私は間違っていない。規則がすべてだ・・・」と。
“それが彼、株式会社ネオムレクス人事部長蓮見克則の最後の言葉だった”
ランチの名残が静かに片付き、カウンターの向こうで店主はそっと手を止めた。 ひと息つきながら、喫茶店「Terminal」の女主人“馬場カーミラル(まばかーみらる)”は自分自身へのご褒美のように、一杯のコーヒーを淹れる。 湯気がふわりと立ち昇り、ほのかに香る豆の匂いが空気と溶け合ったその瞬間だった。蓮見の抑揚の消えた声が蒸気に紛れて空気の奥深くへ忍び込み、店内をひやりと満たした。まるで見えない何かが呼吸を奪うように、音の気配が肌を這っていくように。急に空気が変化した店内の違和感に気付いた蓮見は思わず店内を見回そうとしたが、その間もなく彼は確かに聞いた。それは深い闇の底から絞り出されたような美しくも禍々しさを内包した言い知れない虚無を纏ったような甘美な声だった。
“規則、規則、規則、規則!耳障りだな!善人ぶるなよ、善人。規則だけが“善”か?世の中には、そんなもんじゃ測れないものがあるんだよ。…アンタみたいなのは、むしろ悪人に見えるぜ、アタシにはさ…”
突然、どこからともなく響いたその声に、カウンターの中央に座っていた蓮見は反射的に口元を押さえた。店内には誰も話していない。だが確かにその声は、空気を裂くように蓮見を貫いた。声が出ない!いや、違う。喉が震えているのに、音が出ない。目を見開いたまま蓮見は、自分の顔に何かがおかしいことを悟る。指先の感触が口の形を捉えない。皮膚が平らだ。口が、ない!?
「む…むぅ…むううう…ううぅぅぅ!!?」
言葉にならない音が漏れようとする。だが空気に触れたそれは、ただの震えた息音にしかならない。混乱に取り憑かれた蓮見は、何が起きたのかも理解できず、ただ椅子にしがみつきながら右往左往する事しかできなかった。
口が……ない?そんなはずが……いや、そんなこと、あり得るか……?蓮見の思考は収拾を失った。否定、混乱、恐怖が混濁し、理性は跡形もなく霧散していた。冷静さなどとうに失われ、ただパニックの衝動だけが彼の意識を占拠する。
だが、そんな非常事態など一切関知していないように、カウンターの奥では女店主が穏やかな表情でコーヒーに口をつけていた。まるで時間が止まったかのような落ち着き。湯気の向こうで、彼女は確かに“ランチタイム終わりの静かな息抜き”を楽しんでいた。
しかし、ふと蓮見はその目に違和感を覚える。さっきまでと違う。そこに宿っていたのは、人のものではない、異質な光。 金色だった。鈍く、硬質で、見る者の思考をざわめかせるような禍々しくも美しい金色だった。その瞬間、再びその声が響く。
“さあ、助けてもらいなよ。アンタの大好きな“規則”にさ。 あ、そうだった。 この国には、殺人を“裁く”法律はあっても、殺人を“してはいけない”という法律は存在しないからね。 つまり……アンタは大好きな”法律“や“規則”にも守ってもらえないよ。ニシシシシシ”
その声は、空間を滑るように降りてきた。虚無を纏い、甘く冷ややかな響きは耳に届くより先に皮膚に触れ、神経を震わせる。そしてこの時、蓮見は確かに気づいた。この声は、どこからともなく流れてきているのではない。この声の主は、この虚無をまとう声の主
はあの女店主だ。
だが、カウンターの中で彼女はただ静かにコーヒーを飲み、 湯気の向こうでホッと息を吐いているだけだ。口は閉じられたまま。そして喉が動いている様子もない。
それなのに声は、確かに彼女から響いていた。
お前は、何者だ!?蓮見の意識が最後に結んだその問いは、声にならない声となって虚空へ溶けていく。
次の瞬間、彼の身体に異変が起きた。 頬の輪郭が静かにほどけ、紙吹雪のような断片になって空間に溶けていく。それはまるで存在そのものが、剥がされていくかのようだった。椅子は微かにきしんだが、その音さえも店内の空気に吸われていく。そして蓮見は、カップの底に残った最後の一滴のように、 影も痕跡も残さず静かにそこから消えていた。
残されたのは、ほのかに揺れるコーヒーの香りと、ぽつんと置かれた無人の椅子。 女店主・馬場カーミラルは一度その椅子に視線を送り、 ホッと息をついた。背を向ける彼女の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「私のくつろぎ時間の空気を、鬱混じりの独り言で汚さないでもらいたいものね。」
=⑤=
沢登はまだカウンターに腰掛けていた。時計の針は八時三十分を指している。 彼がコーヒーを受け取ったのは八時五分。その頃には、ボックス席でビジネスマン風の四人が打ち合わせをしていた。イントネーションからして、どうやら地元の人間ではなかったようだ。そんな彼らも店を出て、今店内には沢登ひとりしかいない。時刻からしても不思議はない。そろそろ周辺の会社が朝の業務を始める頃合いだ。それは喫茶店「Terminal」の朝の繁忙がひと段落し、空気が緩やかに落ち着きを取り戻す時間帯でもあった。
馬場も手元の作業をひと通り終え、カウンターの向こうでひと息入れる。この静けさの中では、客と交わすささやかな言葉すら、柔らかく染みわたりそうだ。沢登は、そんな“いつも通りの朝”を、変わらぬ日課のようにコーヒーとともに静かに味わっていた。
「今日も、中瀬で聞き込み?」
馬場は自分のための一杯をカップに淹れ、カウンター越しに沢登に問いかけた。 沢登は「うむ」と軽く頷く。
「今日はそうだな。蓮見の件で、中瀬で足取りが消えてるらしいからな。馬場さん、また昼に来るよ。いつもの時間に、いつものを頼めるかい?」
馬場は「またいつもの?」と口にしながらも、どこか嬉しげな苦笑いを浮かべた。
「はいはい。十一時三十分に焼きラーメンね。了解です。フフッ…今日も頑張ってね、沢登さん。」
「ありがとう、馬場さん。それじゃあ、いってくるよ。」
「いってらっしゃい。チケット、切っておくね。」
そんな何気ないやりとりを交わし、沢登はスッと立ち上がると、喫茶店「Terminal」から静かに街へと消えていった。 店内にひとり残った馬場は、しばしの休息のなかで、ゆっくりとコーヒーを啜っていた。
深水市中央区中洲北二丁目、屋久通りの朝。 “人が消える街”とささやかれる都市伝説をよそに、この街の朝はどこか粛々とした表情で始まる。変わらぬ風景のなか、時間は急ぐでも緩むでもなく、さらさらと流れてゆく。
誰もその流れの異質さに気づくことはない。 その“気づかなさ”がまた、都市伝説を静かに育てているかのように——。