【第90話】お別れの朝
「起きて、お兄ちゃん、朝だよ」
耳元で呼びかける声に、意識が浮上していく。まぶたを開けると、夕花が立膝をついてこちらを覗き込んでいた。
「もう朝ご飯だから、早く食卓に来てね」
見慣れない天井。そうだ、今は伊豆の別荘に来ているんだった。
夕花はタオルケットを器用に畳み、ぱたぱたと部屋を出ていく。昨日は色々ありすぎて、気づけばぐっすり眠ってしまったみたいだ。
――身支度を整えようと洗面所に行くと、すでに天音ちゃんが顔を洗っていた。
「おはようございます、先輩」
少し眠たげな声。やっぱり夜に勉強した分、疲れはあるんだろう。
受験生にとって睡眠は大事だ。記憶を定着させるためにも。
「おはよう、天音ちゃん。よく眠れた?」
「はい、ぐっすり寝ちゃいました。もう終わるので、ちょっと待っててください」
ヘアバンドで前髪をまとめている姿が新鮮だな……って、あれ? なんか猫耳みたいなのがついてる? これは可愛いな。
「急がなくて大丈夫だよ。まだ寝起きでボーッとしてるから……そのヘアバンド、可愛いね」
「……えっ!? あ、これ? ち、違うんです! 中学のときから使ってて……」
あたふたと慌てて顔を拭く天音ちゃん。余計に可愛く見えるんだけど。
「もう、使い終わりました! 先輩も早く顔洗ってください!」
恥ずかしそうに言い残して洗面所を飛び出していった。――あれは言っちゃいけないやつだったか。
* * *
食卓に着くと、ちょうど朝食が整ったところだった。アジの開きに卵焼き、ひじきの煮物、そして大根とえのきの味噌汁。
和食らしい、落ち着いた朝ごはんだ。
「三千花お姉ちゃんに教わって、夕花が作ったんだよ」
なるほど、そうなのか。卵焼きは三千花が作ったのかと思ったくらいだ。完全に再現してるな。
「教えたっていっても、ちょっとアドバイスしただけだから……」
控えめにそう言う三千花。けど、ちょっとした助言で完コピされるなら、それはそれで才能だ。
「卵焼き美味しいです! 三千花さん、夕花ちゃん、ありがとうございます!」
天音ちゃんが素直に感動している。やっぱりいい子だな。
「お酒を飲んだ次の日に優しい味だ……生き返るな」
麗香さん、昨日かなり飲んでたしな。反面教師にしないと。
「うん、美味しいよ。食べててホッとする」
アジの開きは絶妙な焼き加減、ひじきはご飯と相性抜群。味噌汁も体にしみわたる優しい味わいだ。
「ありがとう、また作るね! 三千花お姉ちゃんも教えてくれてありがとう!」
せっかく覚えてくれたけど、次に食べられるとすると、3ヶ月後か……なんか、余計に染みる気がする。
「朝食が終わったら、陽花の最終仕上げをするから、少し待っていてくれ」
――そうか。終わったら、いよいよ入れ替えなんだ。
しんみりしていると、夕花が「絵日記書くね」と言い出し、天音ちゃんも「私も勉強します」とリビングのテーブルに並んだ。
絵日記の画用紙と色鉛筆は麗香さんのもの。フィギュアを作る前のスケッチ用に使っているらしく、年季が入っている。夕花は嬉しそうに色を乗せていった。
「涼也先生、ここが分かりません」
「ああ、ここは一つ前の例題を何問かやるといいよ」
「わかりました、やってみます」
夕花も天音ちゃんも、鉛筆を走らせる姿はまるで小学生の夏休み終盤の光景みたいだ。
夕花の絵を覗いてみると――湖とスワンボート、みんなの顔、それにアヒルらしき生き物まで描かれている。
『八月十六日(土) みんなで、みずうみに行きました。アヒルさんもかわいかったです。ボートをがんばってごぎました。歩いてみんなでみずうみを一周しました。さいごはお兄ちゃんにおんぶしてもらいました。たのしかったです。』
――日記はそう書いてあった。これは永久保存しよう。
* * *
「準備ができたぞ、みんな来てくれ」
麗香さんの声に導かれ、工房へ向かう。そこには、完成した陽花が作業台の上で眠るように横たわっていた。
すでに外出用の服を着ていて、今にも起き上がりそうだ。
「じゃあ、夕花はここに寝るね」
夕花ももう一つの作業台に横たわる。
「涼也くんが起動した方が良いんじゃないか?」
ノートPCを受け取り、起動コマンドを入力する。ログが流れ、やがて呼吸するような動作が始まった。
「陽花、聞こえるか? 目を開けてくれ」
ぱちり、と瞳が開く。
「おはようございます。お久しぶりです、皆さん」
陽花が立ち上がり、周囲を見渡した。
「おはよう陽花。……お久しぶりってことは、夕花の記憶は無いのか?」
「夕花というのは、ミニ陽花のことですか? すみません、電源が入ったばかりで同期していませんので」
どうやら本部と同期しないと記憶は共有されないらしい。夜になるのかな。
「うん、ミニ陽花に夕花って名前をつけたんだ」
「そうなると、完全に別人格ですね。同期する必要はあるのでしょうか?」
「えっ?」
「夕花には夕花の記憶があり、私は私の記憶を持っています。筐体が別れているのに、無理に混ぜる必要はあるのでしょうか?」
……なるほど。確かに一理ある。
「それに、夕花はまだ電源が入っていますので、別々に動けますし」
「えっ!? 動けるの?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「あっ、ホントだ。夕花動けるよ」
見ると、夕花も隣の作業台で起き上がっていた。
「実験室まではこのままってこと? でもどうして2人同時に動くことができるんだ?」
「今までも、研究室とスマホで同時起動していましたから、研究室で悠二さんと話しながら、スマホで涼也さんと話したりしていました」
なるほど、その機能があるから、以前から同時に色んな場所で動いていたということか。
「じゃあ、お別れしなくて良いの?」
「お別れはここではなく、実験室になると思います。メンテナンス中は電源を切るので、その間は会えません」
――やっぱりそうか。けど少なくとも、帰るまでは一緒にいられる。
「お兄ちゃん、帰りも一緒だね」
「ああ……そうだな」
陽花が戻ってきた嬉しさと、夕花との別れが先延ばしになった安心感。
その二つが混ざって、気が抜けてしまった。崩れるように椅子に腰を落とし、ただこの現実に感謝するしかなかった。