【第52話】プールと牛丼と、納豆と
「ソレデハ、また、アシタ、ジュギョウでアイマショウ」
黒縁メガネの奥でにこやかに笑うサマンサ先生に手を振り返しながら、研究棟前で別れた俺は、ふぅと息を吐いて歩き始める。
「夏休みはどうするん?」
と、横を歩く悠二が訊ねてくる。
「とりあえず、サマースクール終わるまでは研究室とバイトかなあ」
――うん、特に変わり映えしない、例年通りの夏である。鬼怒川に行く約束はしてるけど、それ以外は通常運転。大学の構内も人が少なくて、電車もほんの少し空いてるから、ちょっとのんびりした感があるくらいだ。
そのとき、スマホがブルっと振動する。
『夏らしく、プールとかに行きますか?』
陽花からの提案だった。なるほど、夏といえばプールか。……が、そこで一つ気になることが。
(陽花って、浮かぶのか……?)
陽花のアンドロイドでが、果たして水に浮くのか。というか、そもそも水に入って大丈夫なのか?
『何か失礼なことを考えていますね?』
うっ、するどい……だが、これは重大な問題だ。プールに沈んで浮かんでこなかったりしたら、レスキュー案件になってしまう。
『体重は秘密ですが、浮輪を使えば浮くことは可能です』
人の思考をトレースするのはやめて欲しい……まあ、予想しやすい思考なのかもしれないけど。
『日本では、プールに行く前に男女で水着を買いに行くというイベントが必要なのですよね?』
いや、それは漫画やアニメの影響だろ。リアルではあまりないぞ……大学生カップルならあるのか?
「陽花たんの水着みたいっしょ」
と、悪びれもせず悠二が言う。うん、まあ気持ちはわかる。俺も少しは見てみたい気もする。
『今なら、向田さんの水着もお付けします』
なんで特典つきなんだ。いや、たしかに向田さんも一緒に来るだろうけど、セット販売みたいに言うのやめて。
「三千花も誘ったら来るかな?」
そう、三千花も陽花の正体を知ってる貴重なメンバーの一人。更衣室とかのサポートを考えると、女子の同伴は重要だ。決して、向田さんひとりじゃ不安という意味ではない。……たぶん。
『いっそ、天音さんや茜さんも誘ってみては?』
……ああ、その二人も知ってるのか。茜ちゃんには悠二が伝えたんだっけ。
「うーん、でも受験勉強中だから難しいかもな」
とはいえ、夏期講習の合間とか、行ける日があるかもしれない。問題は三千花の反応だ……通報案件扱いされる可能性がある。
『とりあえず、三千花さんを誘ってみましょう』
ということで、遅めの昼飯も兼ねて、三千花がバイトしている牛丼屋に行ってみることにした。
「いらっしゃいませ!……あっ、おっ、お二人様ですか? お席はカウンターとテーブルがございますが?」
ちょっと驚いた顔で、三千花が俺たちを迎えてくれる。自分で「来て」って言ってたのに、そのリアクションは何だろうか。
「ご注文は何になさいますか?」
「チーズ牛丼の大盛りとポテサラと豚汁っしょ」
うん、安定のジャンク飯コンボだ。いや、けっこうバランスのとれたチョイスなのか? 何故か悠二が頼むと、ジャンクフードに思えてしまう。
「納豆と牛丼の並、つゆだくで」
三千花の目が一瞬ピクッと動いた。……別に変な注文じゃないぞ?
「納豆ごはん、つゆだくより進化したっしょ」
「いや、納豆ごはん、つゆだくを考えられる方が、頭脳は進化してる……はず」
三千花は明らかに、「注文される方の身になってよ」というあきれた視線を送ってくるが、顔は営業スマイルを崩さないあたり熟練のプロ意識を感じる。
注文を取り終えると、三千花は手際よく料理を用意して、すぐに運んできてくれた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
よし、タイミング的にここだ。
「陽花がプール行こうって言い出したんだけど、一緒に行かない?」
小声で言うと、三千花の顔が「なんで今言うのよ!」という表情に変わった。うん、完全に店員ナンパしてるみたいになってるよな、これ。
「後で連絡するから」
若干冷たい返答だったが、まぁ無理とは言われてない。これは可能性アリと見た。
そしてようやく、ご飯タイム。
まずは納豆をかき混ぜ、つゆだく牛丼の上に……ここでポイントなのが、納豆に牛丼のつゆをちょっと加えてから混ぜ直すことだ。すると、なぜか肉っぽさが爆上がりする。味もボリュームも1.5倍増しである。悠二のこと言えないな、俺……
遠くから三千花が呆れたような視線を向けてくるが、気にしない、気にしない。
「三千花くん、ごはんお願い!」
店長さんの指示にも素早く対応する三千花。オペレーションがほぼ一人で回ってる。すごいな……自分が食べる訳じゃないのに肉を鍋に補充してるところを見てるだけで、なぜか満足感がある。納豆ご飯3杯くらいいけそうだ。
「お会計、お願いします」
サービス券を使って、50円引きにしてもらう。……まだ何枚かあるし、サマースクール期間中にまた来よう。
「ごちそうさまでしたー」「美味しかったん」
「ありがとうございました!」
三千花の目が鋭く光った。「後で覚えてなさいよ」とでも言いたげな視線を送ってくるが、きっとプールの返事だけだと信じたい。
――三千花と話すようになったのも、この牛丼屋でつゆだくを頼んだのが最初だな。
あのときには、こんなふうに仲良くなるなんて、思ってもいなかった……出会いって、不思議なものだな――そう想う夏の午後だった。