【第46話】優等生と素朴な味と、ちょっとした核心
「ここと、ここが分からなくって……」
そう言って、ノートの一部を指差して説明してくるのは、バイト先の後輩・天音ちゃんだった。
ようやくテスト期間が明けて、今日から始まった新しいアルバイト――それは、彼女の家庭教師だった。
「この問題は、その前に教わった部分を使うから、まずはそこを理解するところから始めようか」
「そうなんですね。ここは教えられた通りにしたら解けたんですが、あまりよく分かってなくて……」
数学あるあるだな。いきなり出てきた公式や解法が、実は先で使うための“布石”だったと分かることは多い。
分からないまま進むと、結局あとで困る。だからこそ、つながりを意識して教えることが大切だ。
「なるほど、こういう繋がりがあったんですね。夏期講習では順番通りに教わりはしたんですが、ぜんぜん気づきませんでした」
こんなふうに素直に学びを受け取ってくれると、こっちも教え甲斐があるというものだ。
「昨日教わったのはこのためだったんですね。つながりが分かると、両方理解できますね」
バイト先でレジのコツを教えたときも、覚えるのが早かった。こういう子は一度理解すれば忘れない。
うん、なんて優秀な生徒なんだ。
そんな時、コンコンと軽くノックする音がして、天音ちゃんのお母さん――佳乃さんが部屋に入ってきた。
「少し休憩にしてくださいね」
そう言って、テーブルの上に白い乳酸菌飲料と、クッキーが載った皿をそっと置いてくれる。
「ありがとうございます。ちょうど一つ解けたところで」
「全然分からなかったところが、分かるようになったんだよ!」
天音ちゃんが嬉しそうにお母さんにアピールしている姿が、なんとも微笑ましい。
こういう素のやりとりを見ると、家庭的な温かさを感じる。
「どうぞ、召し上がってください」
そう勧められて、クッキーを一つ手に取り口に入れる。
甘さは控えめで、どこか懐かしさを感じる素朴な味――思わず口に出た。
「おいしいですね。こういう味、好きです」
すると、天音ちゃんが一瞬、目を丸くして、そのまま顔を真っ赤に染めてしまった。
あれ……? 何か変なこと言ったか俺……?
「まあ、良かったわね、天音」
佳乃さんが娘にやさしく微笑む。
「実はこのクッキー、天音が焼いたんですよ。本を見ながら初めて一人で作ったんです。だから、ちょっと心配してたみたいで」
ああ、なるほど。そういうことか。
「初めて作ったんだ。頑張ったんだね。すごく美味しいよ」
そう伝えると、照れながらも小さく「ありがとうございます」と言ってくれる天音ちゃん。
「気に入っていただけて良かったです。たくさん作っちゃったんで、お土産にもどうぞ」
そういえば最初に数学を教えたとき、密かに“お礼クッキー”を期待してた自分を思い出す。まさか、それが今、叶うとは。
「お邪魔みたいなので、これで失礼しますね」
佳乃さんがそそくさと部屋を出ていこうとする。
「ありがとうございました」
ドアが閉まる直前に、しっかりとお礼を伝えた。
「そ、そういえば……陽花さんって、今はアンドロイドなんですよね? 普段はどこにいるんですか?」
唐突な話題に少し驚く。そういえば、ちゃんと説明したことはなかったかもしれない。
『普段は、神栄テクノロジーの実験室にいますよ』
スマホ越しに、陽花の声が返ってくる。
「えっ……スマホの中に? じゃあ、この前見たのは……仮の姿だったんですか?」
陽花の声に軽く混乱している天音ちゃん。無理もない。
「いや、本体はこの前見たっていう筐体の中にいる。でも、スマホを通して会話ができるようになってるんだ」
「じゃあ、文化祭のときもスマホ越しに話してただけなんですか?」
「うん、あのときは大学の研究室にある本体と通信してたんだ」
『そうなんです。スマホで外の世界を見聞きしていないと、学習が滞りますので……』
「すごい……そうなんですね。AIって、常に学習してるんですね」
「まあ、実際には昼間は記録だけしておいて、夜に学習するみたいだけど」
「なるほど……。それでこの前は、どうして朝から一緒にいたんですか?」
うっ……きたな。鋭いところを突いてくる。
「ああ、あれはね、外部からでも実験室と通信して夜間学習が可能かどうかのテストだったんだ」
「そ、そうなんですね。……じゃあ、あのときだけ?」
「うん、あのときだけだよ」
うーん、たぶん一緒に住んでると思われてた感じかも……完全に誤解されてたな。
「今度、また機会があればお会いしたいです」
そう言ってくるあたり、天音ちゃんは案外、懐が深いというか――うん、ありがたい。
「じゃあ、今度来るときに連絡するね」
「はいっ! お願いします!」
その笑顔を見て、ようやくいつもの天音ちゃんが戻ってきた気がした。
「じゃあ、残りの勉強しよっか」
「はい!……えーっと、他に分からなかったところは、ここですね」
家庭教師なんてちゃんと務まるのか不安だったけど、意外と役に立ってるのかもしれない。
こうして、俺の新しいアルバイトは順調にスタートしたのだった。