【第4話】仏の日吉と、鬼平と下町
火曜三限。大学の名物講義、「日吉の倫理」の時間だ。
この講義、倫理学なのに“満員御礼”で、キャンパス掲示板には「神講義」「単位ボーナス確定」なんて書かれるほど。
理由は簡単。めちゃくちゃ面白いからだ。
そして俺──GPUと引き換えに栄養を削って生きる大学生──も、この神講義に参戦する一人である。
講義室に入ると、ざっと見渡す限りの学生、学生、学生。
最前列すら埋まっているのに、奇跡的に教室の中央あたりにぽっかり空席がひとつ。
しかもその隣に──
「……三千花?」
見覚えのある後ろ姿が座っていた。牛丼屋バイトで知り合って、昨日お弁当までくれた“からあげの恩人”。
気がつくと、俺の足は自然とその空席に向かっていた。
「よっ、隣いい?」
「……あ、涼也くん。うん、どうぞ!」
自然に名を呼ばれて、ちょっと胸がくすぐったくなる。
「昨日のからあげと玉子焼き、ほんとありがとな」
「えへへ、よかった! 玉子焼き甘くしすぎちゃったかなって思ってたんだけど」
そんなやりとりをしていると、日吉教授が登壇。教室がざわっと静まる。
「さてさて、今日のテーマは、“悪事をしても、後で善いことをすれば許されるのか?”です」
出たよ、日吉節。倫理学なのに、まるで漫談。
だが、話が抜群にうまくて、思わず引き込まれてしまう。
教授は例のごとく話を飛ばしまくりつつ、要点はきっちり押さえてくれる。
まさに“学べるバラエティ”。
隣の三千花はというと──肩を震わせ、口を押えて笑いを堪えていた。
……いや、完全にツボってる。
「……ッぷは……やば、日吉先生ほんと好き……!」
そんな彼女の無邪気な笑顔に、思わず頬がゆるむ。
この授業、来てよかったかもな。
と、そこへ──
前方から出席表の束が回ってくる。
一人一枚、記名式で。
最近の授業は大抵、学生証をタッチして出席を取る“ピッ”方式なのだが、「日吉の倫理」ではなぜかこのアナログ式が残っている。
理由は明快。“ピー逃げ”の抑止ではなく、タッチミスやカード忘れの学生を救済するためだ。
さすが「仏の日吉」。噂は本当だった。
三千花が先に1枚取り、さらさらと記入を始める。
隣で控えめにチラ見すると──
「野中 三千花」
……なんて名前だ。野に咲く、三千の花。
思わず聞いてしまった。
「……北海道出身?」
「ふふ、よく言われる。でも、栃木なの」
うーん、イメージじゃない。
俺も、出席表に名前を書き始める。
──忍野 涼也
と、そのとき。
「忍野……涼也? 山梨生まれ?」
「お、地名から当ててくるタイプ? 惜しい。東京だよ。下町、本所ってとこ」
「えっ……うそ、すご……!」
三千花が目を輝かせる。なぜそこまで反応を?
「え、えーと……確か、“鬼平犯科帳”に出てきたような……本所さ……ええと……うん……出てた!」
突然ぶつぶつと語り始めた。
「……もしや、歴女?」
「ちょ、ちょっとだけね? 池波正太郎とか……いや、ガチ勢ってわけじゃないけど」
照れ隠しの笑顔が、なんか……いい。
「じゃあ今度、“鬼平”のおすすめ教えてよ」
「……ほんと? 読むの? 涼也くんが?」
「うん、読む読む」
なんだかんだで、楽しい時間だった。
出席表を提出ボックスに入れるとき、ちらっと三千花の方を見ると──
まだ口元がにやけてる。
倫理の講義だったはずなのに。
なんか今日は、心がほっこりする日だった。
でもその後。研究室に戻ると、陽花がなぜか無言だった。
いつものように「おかえり」とは言ってくれなかった。
(……気のせいか?)
何かが、静かに変わり始めていた。