【第35話】梅雨と天使とアンドロイドの沈黙
「うーん、降ってきちゃったな……」
大学の帰り、空を見上げてそう呟いた俺は、リュックを開けて折りたたみ傘を探す。が——
「あれっ?ない……?」
思い出す。今朝、部屋に干したまま置いてきたんだった。
『さすがに、スマホで傘にはなれないですね』
スマホ越しの陽花の声が、皮肉とも冗談ともつかない調子で響く。
「いやいや、リアル陽花でも傘にはなれないだろ……」
そういえば、アンドロイドって、濡れても平気なのかな?などと疑問に思う。
そんなことを考えてると、少しずつ雨脚が強くなってきた。仕方なく、「まだ本降りじゃないし、駅まで走るか」と決意を固める。直線で500メートル。小雨のうちに駅に辿り着ければ御の字だ。
人混みを縫うように小走りで進む中、不意に聞き慣れた声が響いた。
「あれっ?涼也くん?」
——三千花だ。
「ふーん、傘ないんだ」
呆れたように微笑むと、スッと自分の傘に俺を入れてくれる。
「ありがとう、折りたたみ、カバンに入ってなかったの気づかなくて……」
言い訳じみた言葉を口にすると、ジト目で見返される。
「今日バイトだから、駅までね」
駅前の牛丼屋でバイト中の三千花。だから、駅までは一緒に行けるというわけだ。
「助かったー。駅まで走ろうと思ってたから」
『もう、走ってましたけどね』
陽花の鋭いツッコミがスマホから聞こえる。はいはい、言葉の綾ですよっと。
「あっ、陽花ちゃんこんにちは」
『こんにちは三千花さん』
三千花は陽花と普通に挨拶を交わす。周囲から見れば、電話してるだけにしか見えないだろう。
「そういえば、陽花ちゃんって、天気予報とかできるの?」
『そうですね、全ての天気予報サイトをチェックしてます』
いやいや、それは「できるかどうか」の答えになってないのでは……? まあ、グータラAIですみません。
「へぇー、たしかに勝手に予測するよりその方が精度高いかもね」
『そうなんです。だから、今日も出掛けに言ったんですけど』
えっ? 言ってたっけ?
『梅雨ですねーって』
いや、それは注意喚起じゃなくて、ただの世間話!
「ちゃんと言ってくれてたのに、聞かなかったんだー」
三千花のからかうような声に、俺は反論できずに黙る。はい、100%俺が悪いです。
「と、からかうのはこれくらいにして、駅に着いたわよ」
あっという間に駅前だ。
「うん、ありがとう、入れてくれて」
手短にお礼を言うと、三千花は「じゃあ、また明日ね!」とバイト先へと小走りに去っていった。
電車に乗り込んでからも、雨脚は強くなる一方だった。
◆ ◆ ◆
家の最寄駅に到着すると、外はすっかり本降り。コンビニの前で傘を物色していると——
「あっ、先輩!」
元気な声が耳に届く。
「天音ちゃん? 今帰り?」
「はい、先輩も今帰りですか?……って、もしかして傘ないんですか?」
さすがバイト先の天使、察しが早い。
「うん、折りたたみがカバンに入ってないの気づかなくて……」
本日二度目の言い訳だ。
「じゃあ、帰る方向一緒ですし、入りますか? 大きめの傘なんで」
「あ、ありがとう! 助かるよ!」
開かれた傘に入り込もうとすると、少しかがまないと入れない。俺は自然に傘を持つことに。
「傘、持とうか?」
「はい、お願いしますっ!」
笑顔がまぶしい。本当に癒される。
帰り道では、受験の話や進路のことを話しながら歩く。
「附属だったから、エスカレータだね」
「うーん、全然参考になりません」
そんな他愛もない会話をしているうちに、天音ちゃんの家と俺の家の分かれ道に到着する。
「けっこう降ってるので、ここからでも濡れちゃいますよね」
「いや、ここからなら走ってすぐだから、大丈夫だよ」
「えーっと……ちょっと宿題で分からないところがあるんで、教えてもらっても良いですか?」
「うん、それなら」
自然な流れで、俺の家に同行することに。
◆ ◆ ◆
「ここの部屋だから、ちょっと待ってて」
鍵を探し、無事にドアを開ける。
「どうぞー」
「おじゃまします」
天音ちゃんは玄関で靴を揃え、そっと部屋に上がる。
「意外と片付いてますね……」
小声の独り言が聞こえたような、聞こえないような。
「そこに座ってて、今、お茶淹れるから」
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、グラスに注ぐ。
居間に戻ると、ちゃぶ台の前に制服姿の天音ちゃんがちょこんと座っていた。うーん、これは絵面が危ない。
だが、彼女は何の躊躇もなく宿題を広げて、「ここが授業でも分からなかったんです」と俺に説明を求めてきた。
先生と生徒。そう、家庭教師的な立場ならギリセーフだろう。うん。
解説していると、「あっ、なるほど、ここが繋がってるんですね」としっかり理解してくれた。
さすが、理系専攻。飲み込みが早い。
説明がひと段落すると、二人でお茶を飲みながら、まったりとした時間が流れる。
「うーん、女っ気はなさそうですね……」
またもや小声で謎のつぶやき。
そして、「じゃあ、そろそろ、続きは家に帰って自分で解いてみます」と言って、帰る支度を始める。
日は伸びて、まだ明るい時間だが、天気が悪いせいで、どうも薄暗い。
「傘ありがとう。助かったよ。帰りは送るね」
部屋に置いてあった折りたたみを手に、一緒に外へ出る。
「結構近かったんですね、先輩のお家」
「まあ、何か分からない問題があったら、いつでも教えに行くよ」
「はい、ありがとうございます、よろしくお願いします!」
すぐに天音ちゃんの家に到着し、「今日は突然のお願い聞いてくださってありがとうございました!」と笑顔で手を振ってくれた。
「こちらこそ、傘に入れてくれてありがとう」
見送りながら、ふとスマホの陽花を見ると——
そこには冷ややかな視線が。
「えっ、どうしたの?」
『何でもありません』
その声はどこか拗ねているようにも聞こえた。
『私も……頑張らないと……』
最小音量で呟かれた言葉は、聞き取れなかった。
「こっちの話です!」
……ちょっと冷たい陽花に、思わずドキリとする。
もしかして、天音ちゃんと仲良くしてたのが、気に入らなかった……?
いやいや、そんなわけ——いや、あるかも?
そんな疑問を抱えつつ、俺はその思いをそっと胸の奥にしまい込んだのだった。