【第23話】三千花と前期試験と、ちょっぴり揺れる心
「ねえ、勉強教えて」
研究室のドアが開いた瞬間、三千花の第一声はそれだった。
唐突なお願い。しかし、今がどういう時期かを考えれば納得がいく。
――そう、7月。大学生にとっての試練の時期、前期試験である。
「えっと……俺、情報系なんだけど……三千花、心理学科だったよね?」
「実はね、統計学が全然わかんなくて……」
ああ、確かに。心理学って実験データの解析に統計ががっつり絡んでくるんだよな。
「統計だったら、教えられなくもない……かな。わかんないところは悠二に聞けばいいし」
とか言いつつ、悠二は今「メディア学」なる選択科目の講義中。
相変わらず、好奇心の赴くままにあちこち飛び回ってるやつだ。
「良かった。悠二くんだと、レベルが違いすぎて教わりづらいと思って」
ん? ちょっと待って。
今、軽くディスられなかったか俺?
まあ、分かる。悠二の説明って専門書2冊分くらいを3行で済ませるタイプだから、初心者からしたら宇宙語だ。
「で、どこが分からないの?」
「えーっと、ここから!」
と指さされたのは……教科書の冒頭近く。
おいおい、ほんとに最初からじゃないか。
***
「だから、ここは、標本の場合はn-1で割って……」
「標本って何? なんで1引くの?」
「えーっと、標本ってのは、母集団の中から一部だけを抽出することで、全体の分散より偏りが少なくなるので、そのままnで割るより、n-1で割ったほうが全体の分散に近くなって……」
「どうして? そんなにいっぺんに言われても分かんない! 涼也のいじわる!」
ついに呼び捨てになった。これは長丁場になりそうだ……
「例えば100人全員のデータを計算するときは100で割るけど、その中から10人を抜き出して計算すると――」
「1を引いた9で割った方が正確な値に近づくんですよ、抜き出していたら1人引くと覚えてください」
と、陽花がAIらしからぬ暗記法で助け舟を出してくれる。
「そうなの? 分かった。抜き出してたら1人引くのね。ありがとう!」
けっこう、態度がちがうな……というか、その教え方で良いんだ……
最近こんな理不尽な扱いばっかりな気がする。
まあ、姉貴で慣れてるからアレに比べたら全然かわいいもんだが……
ふと、「孫」の話を思い出した。
そ、そういえば料理も美味しいし、世話も焼いてくれて、見た目も、まあ、かわいいと思う。
それに、こんなに近くで同じ教科書をのぞき込んでいると変に意識してしまう。
それもこれも姉貴のせいだ!あー、いなくても迷惑!
「どうしたの? ごめん、教わってるのに態度がよくなかったわ。ちゃんと覚えるから、お願い、見捨てないで……」
三千花がしおらしい声で俺を見上げてくる。
さっきとのギャップもあって、ズルい。ずるすぎる。
「だ、大丈夫だよ。……続きをやろうか」
「うん、ありがと。涼也、やさしい」
呼び捨ては直らないんだ、と思いつつ――まあ、俺も心の中では「三千花」呼びだし、いいか。
「えっと、じゃあ次はここをやろうか?」
「はい、涼也先生、よろしくお願いします!」
――先生に格上げされた!?
「頑張ってください! 涼也先生!」
陽花がちょいちょい茶化してくる。
まあ、こんな時間も何か楽しいかも……
こうして、テストまでの時間が短くなるにつれて、 お互いの距離は少しずつ近づいていくのだった。