欲しがりな妹と、奪われ続けた私 ~トゥール家の大罪~
「離してください! 離して!!」
両の手首を捩じ上げる強い力に、悲鳴のような声を上げました。
冴え冴えとした夜気に、青白い月の光を宿した刀身が舞ったかと思うと、カラカランと乾いた音を立てて地面に転がったのです。
「ああっ!?」
手からナイフを取り落とした拍子に、私自身も地べたにしゃがみ込みました。ふわりとスカートが広がっても、汚れを気にする心の余裕まではありません。
正面に立つ男性が、肩で息をしているのを呆然と見ます。
「バカなことを」
わかっています。忌々しいのでしょう。こんな夜に、自刃を果たそうとする女を見つけて止めに入ったのですから……。
「あの妹にして、この姉ありか」
気まずくなって目を逸らしているところ、男性は膝を落として私へと手を差し伸べてくださいました。
「立てますか」
「…………」
「黙っていたらわかりません。どうなんです」
どの道、応えなければご迷惑でしょう。わたくしが差し出された手にそっと自分の手を乗せると、雲間から抜け出た月がそのお顔を照らし出してくれます。
「その頬……!!」
「かすり傷です。こんなの、怪我のうちに入らない」
衣服の袖を使って、頬に付いた切り傷を乱雑に拭う。剣の鍛錬のために日に焼けた精悍なお顔を、見間違うはずがありません。レイモン・リューテル。オルニール王国の武の頭領と呼ばれるリューテル子爵家の嫡男にして、わたくしの妹ルイーズの婚約者。
いえ、元婚約者と申した方が正しいでしょうか。
「レイモン様、だったのですか……」
「助けたのが俺で、不満そうですね。マティアス王子が良かったですか」
「……いえ」
言葉を失くしていると、レイモン様がわたくしの手を握って引き上げてくださいました。同年代の殿方を前にして、汚れた夜着のことが気がかりとなり、躍起になって汚れを払います。
「お気になさらずとも結構」
「あの……失礼ですが、レイモン様はどうしてここに」
今は深夜で、周囲に人気はありません。当家の家臣もとっくに寝静まっています。このような時間に、どのような意図があって外を出歩かれていたのでしょう。
「もしや、お部屋がわからなくなりましたの?」
「俺は方向音痴じゃありません。それに、トゥール家の執事なら仕事を果たした」
「では、何故?」
問うと、レイモン様は少し離れた地面に置かれていたワインの酒瓶を手に取られると、わたくしに見せつけるように顔の横で振られました。
「1杯やりにですよ。俺の運命共同体様とね」
「どういった意味でしょうか」
「簡単なことです。明日、同じく婚約破棄を受ける身として、あなたと酒を酌み交わしたくなった」
たしかに、同じ境遇ではあります。けれど、改めて言葉にされるとショックを受けてしまう。オルニール王国第一王子マティアス・オルニールは、わたくしの妹ルイーズ・トゥールと恋人関係にある。それも、公的な婚約者であるわたくしエミリー・トゥールを差し置いて。
「……レイモン様は、妹と相性がよろしいかと思っていました」
「笑えない冗談です。俺など、歯牙にもかけなかった」
「想像ですが、家格でしょうか」
「でしょうね。所詮は子爵家と下に見られていた」
レイモン様の足元からやや離れた箇所に、輝くものを見つけました。発見される前にと腰を屈め手を伸ばして飛びつきますが、わたくしの動きを先読みしたレイモン様が、ブーツの爪先でナイフを遠くへ蹴り飛ばします。
「あ……」
「申し訳ないが、俺の足は行儀が良くありません。それより、それは短慮です」
そうおっしゃって、レイモン様がつんのめって地面に手をついたわたくしに、再び手を差し伸べられます。
「婚約破棄は一時の恥です。それにあなたより、俺の方が立場が悪い。マティアス王子は婚約者の妹を選んだだけですが、俺は明確にルイーズに捨てられている。郷里に帰れば一族の笑いものとなるでしょう」
私を引き上げたところで、逆の手でワインの酒瓶を突きつけられます。
「飲んで紛らわせてください。今宵ならいくらだって付き合います」
わたくしを思いやってのお言葉だったのだと思います。自刃を選ぼうとした女に対して、自らも同じ境遇だと、こちらの立場にまで降りてきてくださっている。しかしその申し出を飲むわけには参りません。わたくしは首を振って申しました。
「お願いです。見なかったことにして、どうか死なせてくださいませんか」
「一時の気の迷いです。明日さえ凌げば、そのような必要はなくなる」
「いいえ」
わたくしは顔を上げて、レイモン様のお顔を見て断言しました。
「この気持ちは決して変わりません。これは弱さが原因ではないのです」
首を捻るレイモン様へと、続けざまに言葉をつがえます。
「妹は、ルイーズは王妃教育を受けておりません。マティアス殿下も知っておいでですが、その上で妃に迎えたいとおっしゃっている。しかし、姉であるわたくしにはこの先に待ち受ける顛末がわかります。妹はこの先も王妃教育に励むことはないでしょう。そして、妹を溺愛しているマティアス殿下もそれをお許しになる。その代償を支払わされるのはオルニール王国とその民草に他なりません」
現王の病態は芳しくない、それはレイモン様もご存知であったと思います。不謹慎ながら回復の目途が立たずお隠れになるようなことがあれば、執政を執るのは第一王子であるマティアス殿下を除いて他におられません。
「未熟な王妃が表に出ると?」
「一時の恥では済みません。マティアス殿下の熱の上げようをご存知でしょう」
他でもない、婚約者を奪われた張本人であるレイモン様ならば――。
お酒を飲んでも崩れない鉄面皮が、一瞬だけ歪んで見えました。
「このままでは妹の奢侈のせいで、多くの人死にが出ます」
「かもしれませんね」
共通認識をお持ちだったことに驚きはありませんでした。しかしかぶりを振って続ける次のお言葉はレイモン様らしくなかった。
「民草がいくら死のうが、あなたが死を選ぶ理由にはならない」
「いいえ、なるのです……これは抗議のための死なのですから」
わたくしとレイモン様の間に夜風が吹きました。質問がないところを見るに、わたくしの口から語ってみせろということなのでしょう。
「妹は、もうわたくしの言うことを聞きません。言って聞かないのならば、別の方法で思い知らせるよりないでしょう。しかし……恥ずかしながら、父も母も妹の味方なのです。助力を乞うても結果は同じ。ならば、わたくし自身の全存在でもって、ルイーズの考え方を変えるより他に道はありません」
ワインの酒瓶を傍らに置き、レイモン様は腕を組んでこちらを見ておられます。わたくしの覚悟を値踏みされているのだという心象は、次の一言で裏付けられることになりました。
「証明できるものは?」
「わたくしの部屋に、遺書を準備してございます。内容を検分されたければ、ご案内いたしますが」
深夜に婚約者でもない殿方を自室に招くなど、平時ならば不埒者のそしりは免れないでしょう。しかし事態は切迫しております。
「見せていただきましょう。それよりエミリー殿、自刃の意味はおわかりですか?」
言葉の意味を訊ねられているのではありません。わたくしの身上を慮ってのお気遣いです。
「わたくしの身は、祖先の墓所へ入ることはないでしょう」
「それだけじゃない。あなたは、聖女の血を引いておられる」
トゥール家はかつて聖女を輩出した由緒のある血筋です。紋章には、一角獣に祈りを捧げる聖女の絵柄が描かれております。
女神信仰の聖所すら領内に持つことを許されたトゥール家は、敬虔な女神教信者の家系として貴族間でも有名なのです。
「魂は地獄に堕ち、永劫の責め苦を受け続ける。聖典に定められた、自刃の贖いを信じていないわけではありません」
女神教にとって、自殺とはタブー。幼少のみぎりより、わたくしは毎朝の祈祷を欠かしたことはありません。むしろ、誰よりも強く女神様の存在を信じていると言っていいでしょう。
「それほどの危険を犯してまで、ルイーズの性根を変えようと」
「姉としての務めをここで持ち出すつもりはありません。それには既に失敗しておりますから」
諦めたような口調で同情を誘っても、軍人貴族で鳴らしたこの御方の意志は揺らぐことはないのでしょう。
そう諦めていたのですが、レイモン様は少し考える時間を取られました。
「……俺が、なにを考えているかわかりますか」
「マティアス殿下、それにわたくしのお父様とお母様への報告を考えておられる」
リューテル子爵家は武の棟梁として王家に絶対の忠誠を誓っています。レイモン様も己の屈辱を差し置いて、婚約破棄ひいては婚約締結の場を血に染めるわけには参りません。忠実な臣下として当然の行いでしょう。
「正しい。どうもあなたは、妹とは少し違うらしい」
ふっと相好を崩されて、胸元から薬瓶のようなものを取り出されます。
「あの、それは……」
「劇毒ですよ。これ1本で、象をも殺す」
歩み寄ると、その劇毒の入った薬瓶をわたくしの手へと委ねられました。
「エミリー殿、これは先出しです。あなたが地獄で過ごす苦痛の時間を、少し前へとずらすだけ。抗議の自殺に必要なもの。それは安楽な死でも美しい死体でもない。堕落しきった心に改心を促すための、鮮烈なショックに他ならないんです」
わたくしの手が薬瓶をしっかりと握り締めたのをたしかめると、もう自分の意志は介在しないとでも言いたげに、レイモン様は一歩後方へ距離を取られました。
「もしその気がおありなら、婚約破棄の場でその毒をお飲みなさい。おこりのような震えの後、全身の穴という穴から血液を噴き出し、確実に絶命に至ります。無論のこと楽には死ねません。この地上で味わうありとあらゆる苦痛より手ひどい苦痛が、死の瞬間まであなたの身を痛めつけることになる」
薬瓶を見つめながら、ぶるりと震えます。ナイフで咽喉を掻き切るのとはわけが違う、凄惨な死が手中にある。
「しかしその光景は、見る者の価値観を根底から揺るがすものになる。特に、あなたの妹であるルイーズにとっては」
軽やかな口調とは裏腹の、あまりに恐ろしいお言葉です。しかしわたくしはこの御方に、どうしても訊ねるべきことがありました。
「……それ以外の方法での、自殺は」
「俺が許しません。その場で試みても確実に止めてみせましょう。なにせ、死のうとしていることがわかってるんですから」
怖がらせぬようにと務めて笑まれますが、瞳の奥は笑っておられません。却ってそれが、わたくしの心に不安感を呼び起こします。
レイモン様は傍らに置いたワインの酒瓶を腕に抱えると、その場を離れる準備を整えられました。
「もちろん、推奨するのは酒でも飲んで素直に諦めることです。現状を受け入れれば憂いなどなくなる。平常心を保つことは戦場でも特に重要ですから。実を言うと俺は、訓練にもこっそりと酒を隠し持っていくタイプの人間です……それでは、伺いましょうか。遺書の中身を拝見しに」
連れ立って歩き始めたレイモン様は、まるでわたくしの行動を逐一監視されているかのようでした。
それが気のせいでないと知ったのは、この夜、レイモン様がわたくしの部屋のドアの前で寝ずの番を張られていたことからも明らかでした。
◇◇◇
とても元気に泣き声を上げる、珠のような赤ん坊だったと聞きます。
母体を何時間も苦しませたわたくしと違って、ルイーズのお産はとてもスムーズでした。稀に見る安産で、女神様に祝福されて生まれてきたのだと、後に乳母からも語り草のように聞かされました。
かわいいルイーズは、生まれたときから恵みを受けておりました。わたくしに倍するほどの重量で生まれて、あっという間に家族の中心に躍り出たのです。
「おねえさま、おねえさま」
言葉を覚えると、たどたどしい滑舌ながらわたくしのことを呼んで、四六時中一緒にいようとしました。その姿はまるで天使のよう。わたくしの心に、よき姉であろうという自覚が芽生えるのに、時間はかかりませんでした。しかし――。
「おねえさまのかみかざり、とてもすてきだわ。わたしにくださらない?」
ルイーズはいつしか、わたくしのものをなんでも欲しがるようになりました。きっと年長の子の真似事をしたいのでしょう。そう思った当時のわたくしは、可能な範囲でそれに応えようとしました。
「構わないわ。この髪飾りは、ルイーズへのプレゼント」
「やったあ! おねえさまだいすき!」
本当に嬉しそうに笑うものだから、わたくしも嬉しくなって、あげたもの以上のお返しをもらった気持ちになりました。幼い妹の笑顔は、他の何物にも増して、わたくしの日常を幸福に彩ってくれていたのです。
ですが、いつしかその幸福にも翳りが見え始めます。
「明日のダンスパーティーに着ていく服だけど、お姉様のを借りるわね」
ルイーズの要求がエスカレートを始めたのは、いつ頃からだったでしょうか。わたくしのものを欲しがる妹は、いつしかわたくしのものを自分のものと同様に扱い始めていたのです。
「ルイーズ、ダメよ。そのドレスは、わたくしが明日着るのだから」
「代わりに私のを着ればいいでしょ。いいから交換してよ」
んっ、と片手で差し出したルイーズのドレスは、派手な色合いで露出の多いもの。妹の年齢にはまだ早いと諫めたわたくしを無視して、お父様にねだって買ってもらったものだったのです。
「せっかくお父様が買ってくださったのだから、あなたが着なさい」
「よく見たらダサいし、私には似合わないよ。お姉様が着て」
「……このこと、お父様にご相談に上がりますから」
妹の道理が間違っているのは明らかでした。わたくしの口で言って聞かないのでしたら、お父様直々にお説教をしてもらうよりありません。ですが。
「替えてあげればいいではないか」
執務机からほんのわずかに頭を上げて、申してくださったのはそれだけでした。
聞き間違いかと思い、わたくしは矢継ぎ早に説明を加えます。
「あのドレスは、ルイーズが自分で選んだものです。せっかくお父様に買っていただいたものを、その日の気分で身に着けたくないだなんて……責任は選択したあの子自身に取らせるべきではありませんか」
書類から目を上げたお父様は、少し気分を害されたご様子でした。
インク瓶にペン先を浸すと、縁で余剰を落としながら応えられます。
「ルイーズはなんと言っていた?」
「ダサくて、自分には似合わないと」
「そうか。ならエミリーには似合うかもしれない」
一瞬、頭の中が真っ白になったことを覚えています。そしてこれ以上、お父様はなにも語ってくださいませんでした。話は終わったと思っておいでだったのです。
「あの、お父様……!!」
「エミリー」
わたくしの名を呼んだのは、お父様ではありませんでした。声の方向を振り返ると、執務室の前にお母様のお姿がありました。
「お仕事の邪魔です。お父様を煩わせないで」
「だけど、お母様……」
「しっかりしなさい。あなたは誉れ高きトゥール家の長女なのですよ。妹のことでわがままを言うのも大概にしなさい」
違います。わたくしは姉だから、妹のためを思って間違いを正そうとしているのです。
わがままを言っているのはわたくしではなく、ルイーズの方なのです……。
「さっきから聞いていれば、ドレスがなんですか!! ルイーズが着たくないと言うなら、あなたの分を貸すのが姉の務めでしょう!! その労を怠っておきながらお父様に告げ口をするなど、貴族令嬢として言語道断の卑劣な振る舞いです!! 自室に戻って深く反省しておきなさい!!」
沙汰は、それがすべてでした。
おそらく、このときから既におかしかったのだと思います。お父様とお母様は愛に濃淡を付けている。長女のわたくしよりも、妹のルイーズに深い愛を注がれている。そしてそれは、この先ずっと変わらないかもしれない……。
嫌な予感というものは当たってしまうものです。ダンスパーティーの当日、大きく開いたドレスの胸元が恥ずかしくて、隅でじっとしていたわたくしを尻目に、ルイーズは級友たちと楽しそうにはしゃいでいました。
その光景と同じように、家の中でもいつもあの子が中心にいて、わたくしはいつの間にか片隅に追いやられていたのです。
この一件以降、ルイーズは歯止めが効かなくなりました。わたくしのものを平然と借用し、事後承諾で譲り受け、あるいは盗用するようになったのです。
当然、お父様やお母様には相談に上がりました。しかしその度に、あなたは姉なのだから我慢しなさいとの一点張りで、わたくしは家族全員から妹への果てなき献身を求められました。
それでも、妹はかわいかった。愚かかもしませんが、わたくし自身がただ尽くすだけで済むのならば、このような手段に手を染めなかったでしょう。だけど妹は一線を超えてしまった。わたくしの婚約者であるマティアス殿下を欲しがり、あろうことか誘惑するようなかたちで手に入れてしまったのです。
「ルイーズ、あなたがマティアス殿下の御心を変えてしまったのなら、わたくしはもうなにも言いません。あなたの婚約者であるレイモン様も忠実なる王家の臣下です。あなたを失った今は傷ついておられても、いつかきっと許してくださる。でも、王妃教育だけは受けなくてはダメよ。それはオルニール王国の未来に関わることなのですから」
わたくしの忠告は、きっと譲歩しすぎているのでしょう。姉の婚約者を奪った妹など、本来なら悪罵の対象です。わたくしにだって罰する権利がある。
しかしわたくしに味方はいません。お父様もお母様も既に妹の言い分を承諾されている。トゥール家の血筋の女が王家に輿入れするのであれば、花嫁が誰であれ当家の目的は達成されたも同然なのですから。
ルイーズは階段の途中から、見下ろすようにわたくしを振り返りました。
「来週、親族で集まりを持ちましょう。トゥール家とマティアス殿下、それにレイモン様も呼んで。夜食の後、私とマティアス殿下の口から言うべきことがあるの。今からとても楽しみだわ。あなただってそうでしょう、姉さん?」
勝ち誇った表情を見て、わたくしは微塵も動けなくなりました。手摺りを伝い降りてゆくルイーズの姿も見れず、数分もの間立ち尽くしていたのです。
妹の意図は明白でした。これは結果の見えている茶番。おそらくわたくしは、両親が見守る前でマティアス殿下から婚約破棄を宣告されることになる。もはや実行する意味すら失った婚約破棄によって、女として恥を掻かされることになる。
でも、今のわたくしならばそれすらも飲み込むことができる。最たる問題は、妹がわたくしの要求を一切受け付けないこと。擦れ違ったルイーズの胸元には、煌びやかな宝石の付いた金のネックレスがありました。大方、マティアス殿下にねだって買ってもらったものだと推測はつきます。
もし王妃の座に就けば、ルイーズはきっと今以上の贅を求めるようになる。民草の苦しみを省みず、自らの欲求のみを満たそうと暴走を始める。その前に、どうしてもわたくしは妹の心根を変えねばなりませんでした。
自室で、決意を秘めて手にしたナイフに、わたくし自身の顔が映り込みます。
オルニール王国の民草を救うためであれば、わたくしは――。
◇◇◇
夜会は、宴もたけなわでした。
トゥール家の別邸に集まった来賓は食事を終え、ワイングラスを片手に談笑に花を咲かせている。しかし、目敏い人ならきっと気づいたことでしょう。笑顔を絶やさず積極的に語らっているのは一部の人物だけだと。
わたくしは自分の手元を見つめます。食欲など湧くはずもなく、テーブルの上には一切手を付けていない料理皿が並んでいる。この場は、そもそもの席組からしておかしかった。立場上、婚約者であるわたくしの隣にいるべきマティアス殿下が、平然とルイーズと隣に並んで腰かけていらしゃるのですから。
「トゥール家の料理はいかがでしたかな?」
マティアス殿下へ語りかけられたのはお父様でした。隣席に腰を降ろしているお母様も、満足げにされています。
「最高でした。やはりこの地の作物には恵みがある」
「さすがマティアス殿下。ここには聖女の賜物という言葉があるくらいですのよ」
得意げなお母様に、満足げな笑みを返すマティアス殿下。
わたくしは、本来ならマティアス殿下がお座りになっている右隣の席に目をやりました。そこには今レイモン様がお座りになっている。酒瓶からグラスにワインを注いでは、一息に飲み干すのを繰り返しておられました。きっと目の前の光景にさほどの興味も持たれていないのでしょう。
しかしこの位置関係では、たとえお酒に酔われていても、わたくしを止めることなど容易いはず……。
手元を見つめてまんじりと動けないでいるうちに、目の前の茶番劇が着々と進行していきます。
「我が領は富んでおります。しかし恵みはそれだけではありますまい」
「そうでしょうとも。トゥールの地は美姫の産地としても有名です。伯爵の奥方がそうであられるように」
「おお! これは一本取られましたな! しかし我が奥も寄る年波には勝てぬもの」
「私などよりもっと、マティアス殿下のお目を喜ばせる花があるのではなくて?」
とここで、マティアス殿下が隣に座るルイーズをちらと見ます。
ルイーズもまた、満足げな笑みでそれに応えていました。
「その通りですマダム。そして私は、その花のことを心から愛してしまっている」
感極まったルイーズがマティアス殿下の肩に触れると、わたくしとレイモン様を除く一同の視線がそこに集中します。
その隙に首に下げた薬瓶を取り出し、わたくしは劇毒を中身の残るワイングラスに注ぎました。
「しかし告白せねばなりません。これは不義なる恋であると!!」
「不義!? そのようなことが果たしてありましょうか!!」
「あるのです!! 何故なら私、マティアス・オルニールは、定められた婚約者以外の女性を愛してしまったのですから!!」
くぅっと片手で胸元を掴み、心痛極まる表情をされるマティアス殿下。
「……大根役者め」
ワインを飲む合間に、レイモン様の低い声音が聞こえます。
「いったい誰ですの!? その余りある栄誉を賜った幸福な淑女は!?」
「あなたも良くご存じの女性です、マダム……」
「早く教えてくだされ!! 私たちの心臓が張り裂けてしまわぬうちに!!」
お母様が訊ね、お父様がせっつかれます。マティアス殿下は苦悩のあまり俯かれた姿勢から、瞼を開いて憂いを帯びた瞳でとある女性を見つめます。
「それは……他ならぬあなた方の愛娘であり、聖女の血を引くトゥール家の御息女であり、私がこの命を捧げると誓った美姫、ルイーズ・トゥールその人なのです!!」
「なんですって!?」
「こりゃたまげた!!」
諸手を挙げて、盛大に驚きを示すお父様とお母様。2人が固まっている間に、隣席に座るルイーズが胸の前で両手を結びます。
「マティアス殿下、よろしいのですか? 本当に私で……」
「あなたが良いのです。いいえ、あなた以外にいないのですよ。ルイーズ嬢」
「……うれしい……」
差し出されたマティアス殿下の手を、ルイーズが両手できゅっと包み込みます。
そして、そこでやっと仕込みが終わったということなのでしょう。ルイーズとマティアス殿下は示し合わせて、努めて静かに事態を観察していたわたくしへと視線を向けたのです。
「真実の愛の前に、誤ちによって結ばれた婚約が問題となるでしょうか」
「そのようなもの、私たちの愛を妨げる障害にはなりませんわ」
ひしと手を取り合う2人を、お父様とお母様が涙を流して見つめています。
「もちろんですわルイーズ!! 私の愛し子!!」
「このような婚約は無効だ!! マティアス殿下、どうか早計を犯した私の過ちを正してくだされ!!」
2人の懇願に応えるかたちで、マティアス殿下がわたくしへと不敵な薄笑みを湛えられました。その手を握る妹もまた、同じ笑みをわたくしへと向けている。
「では皆々様のご期待に応えさせていただきたい。この場をお借りして、オルニール王国の夜明けのために宣言させていただこう。私こと、オルニール王国第一王子マティアス・オルニールは、トゥール伯爵家令嬢エミリー・トゥールとの婚約を……」
「承りました」
一同の表情が、妙なかたちに歪んで見えました。気のせいではありません。わたくしが椅子から立ち上がり、ここに集った全員の前で、マティアス殿下に突きつけられた婚約破棄を承諾したのです。
「ま……まだ全部言ってないぞ!!」
歯噛みされ、今にも地団太を踏みそうなマティアス殿下に寄り添いながら、ルイーズが刺すような視線をわたくしに向けています。
「認めるのね、間違いだったって」
「ええ……でも、間違いはわたくしが結んでいた婚約ではありません」
「どういう意味よ?」
猫のような瞳をさらに眇める妹へと、わたくしは顔を上げて対峙します。
「わたくしは、トゥール家の長女として生まれ、長らくこの地で生きてきました。お父様とお母様のことを愛していた。ご期待に応えたいと思っていた。けれど、求められたのは姉としての役割と、妹への果てなき献身。わたくしは、そのようなもののためにずっと生きてきた……」
レイモン様からの妨害はありません。わたくしは、なおもらしくない声を張ります。
「間違いは、この家に生まれたこと。トゥール家の長女として育ってしまったことだと知ったのです。ですからもう、わたくしはあなたたちの娘などではありません!!」
精一杯に睨みつけると、これまでわたくしに反抗的態度を取られたことのないお父様とお母様が怯えた表情を浮かべられます。
「私たちはなにも……」
「そ、そんなことをお前に要求した覚えなどない!!」
お互いに手を取り合って震え始めるお父様とお母様を差し置いて、薄笑みを湛えたルイーズがわたくしへと語りかけました。
「姉さん、体裁を取り繕うのはやめて」
「わたくしがどう取り繕っているというのです」
妹の目は笑っていません。毅然と見つめ返すと、気圧されたように表情を変えますが、口元の笑みを濃くしてそれに耐えました。
「だってそうでしょう? 姉さんの婚約者だったマティアス殿下は、今や私のもの。愛してるって、結婚するって言ってくださったんだもの。元婚約者として、姉さんだって嫉妬の心を味わってるはずだわ。ううん、そうでないとおかしい!!」
少し思い詰めて見えるのは気のせいでしょうか。
ともあれ、妹の内面は読めません。
そもそも今のわたくしには読んでいる暇もないのです。だから、手短に。
「どうしてわたくしがあなたに嫉妬しなければなりませんの」
「どうしてって……だって羨ましいでしょう!! 私のことが!!」
口角泡を飛ばす妹に、傍らのマティアス殿下がぎょっとして距離を取られます。ずっと猫を被って付き合ってきたのであろうことは、想像に難くありません。
「マティアス殿下は姉さんの手持ちで最高のものよ!! それが実の妹である私に奪われてしまったの!! 女として、人として私が上だって証明されたようなものじゃない!! なのにどうして、そんな平然としていられるの!!」
激高し、肩で息をする妹の言葉を真っ向から受けきってわたくしは思い直しました。
……もう、嘘を吐く必要はないのだと。
「上とか下とか、あなたをそんな風に思ったことは一度もないわ」
「そんなの強がりよ!! 本当は悔しいって思ってる癖に!!」
「いいえルイーズ、これは本当のことなのよ」
そう、これだけは本当に本当。
わたくしには、それを証明する手段だってある。
言い合っている間にも、わたくしの指先はずっと震えていた。右手の指は劇毒の入ったワイングラスの持ち手にずっと触れていて、時が来るのを今か今かと待ちわびていた。そしてとうとう、その瞬間が訪れたということなのです。
「わたくしのかわいい妹。あなたを愛しているわ」
「姉さん、あなたいったいなにを……!?」
返答に代えてワイングラスを持ち上げ、わたくしはその中身を一息に飲み干しました。
「わたくしエミリー・トゥールは、妹ルイーズ・トゥールと、元婚約者マティアス・オルニール殿下との婚約を、祝福します!!」
言い放った瞬間、頭に猛烈な痛みが走りました。目の裏側へと一気に血液が集中し、視界が出鱈目に歪みます。
力の抜けた指からワイングラスが落ち、かしゃんと音を立てて床で砕けます。立ち眩みに似た感覚に耐えられず身体を折ると、目の前の光景が真っ赤に染まっているのが見えました。まるで手を付けられていない料理が、わたくしの顔から迸った大量の血液で赤く染まったのです。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
絹を引くような悲鳴は、お母様のものでしょう。血を失ったことで暗転する視界をどうにか留めて、わたくしは震えながら妹を見つめました。
「わたくしの部屋を調べて、ルイーズ……」
「姉さん!! あなたなにをしたのよ!!」
そこでわたくしの全身を操る糸が切れました。テーブルに顔を打ち付け、椅子に背を滑らせると、床の上に倒れてしまったのです。
不思議と、レイモン様のおっしゃっていた苦痛は感じませんでした。ただ猛烈な眠気が全身を支配している。
耳朶を打つのは、人の声のざわめき。無理もありません。ルイーズとマティアス殿下の婚約成立の場が一転、わたくしのせいで血の惨劇の現場となってしまったのですから。
「このような当てつけ……誰か、医者を呼びにやりなさい!!」
「エミリー!! で、殿下に婚約を破棄されたからなのか!?」
「わ、私のせいにされては困る!! この女が勝手にやったのだ!!」
「こんなところで死ぬの? 姉さん……」
声が、遠ざかってゆく。
でも、これでいい。
わたくしは最後に、人としての務めを果たすことができたのですから。
「……いいえ、それはまだです」
耳のすぐ傍で聞こえた太く優しい声音が、何故かわたくしの心に深い安堵をもたらしてくれました。
そして自分でも驚くほど穏やかな心地のまま、わたくしの意識はこの地上から離れていったのです。
◇◇◇
目覚めは、不思議な場所で訪れました。
トゥール家の別邸でもなければ、わたくしの部屋でもない。施療院の一室という割には薬品棚もなく、閉じ込めておく牢獄の様相でもない。
端的に言ってしまえば、他人のお邸ということになりましょうか。わたくしの生家よりはややこぢんまりとした印象を与える寝所で、わたくしの身はベッドに寝かされていたのです。
「……そろそろ、起きられる頃と思っていましたよ」
薄目を開けて、枕の上で首を傾ける。天蓋の柱のすぐ外側で、見知ったお顔の男性が椅子に腰かけられている。そのお顔に浮かぶ微笑の意味を詮索する間もなく、矢継ぎ早に言葉を続けられます。
「混乱されると困るので、先に言っておきます。ここはリューテル家の邸で、あなたの身柄は今、当家の保護下にある」
瞼を何度もしばたたかせて、なにも言えずに困っていると、椅子に腰かけた男性――レイモン様の方から話題を振ってこられました。
「教えたおまじない、やってくださったんですね。でも少し甘かった。ルイーズに対しては本音を語ってしまわれていた。ですが、最後の最後で非情に徹せないのは、実にあなたらしいと俺は思いました」
話題の内容について、語れることはありました。
けれど優先順位の高いものじゃない。
目下のところ一番気になる部分を、わたくしの口から訊ねます。
「……わたくしは、死ななかったのですか?」
「簡潔に答えますと、そうなります。俺も死んではいません」
笑っていいものかどうか、10秒近く逡巡してしまいました。場に無音が漂った後、レイモン様が困ったように頭を掻かれます。
「申し訳ない。剣を振ってばかりで、言葉遊びの類はどうも苦手で」
「お父様とお母様は? マティアス殿下、それに妹はどうなったのですか?」
お腹に力を込めて上半身を持ち上げながらレイモン様に訊ねると、困ったような笑顔を浮かべて、しかし誤魔化すことなくおっしゃられました。
「生きてはいます。この場所とは別のどこかで、今はまだ」
「今は……どういうことなのですか!?」
半身を起こして勢い込むと、こほこほと噎せてしまいました。仔細はよくわかりませんが、長らく病床にいた後遺症で身体が弱っているのだと思います。
「あなたにはまだ、真相を知る準備がない。今はゆっくりと身体を休めてください。時がきたら、俺の口から必ずお話しすると誓います」
武芸一徹のレイモン様がそうまでおっしゃるのですから、きっとわたくしがどんなに懇願しても、その口から真相を聞くことはできないでしょう。
それからのわたくしは、自らの身体の回復に務めました。リューテル邸の快適な空間で滋養のある食事を摂り、傍付きのメイドの案内で身体を元通りに動かす訓練に従事します。
午後にはティータイム。温かな紅茶は、状況が許せばレイモン様が直々に淹れてくださりました。
「エミリー殿」
「レイモン様……今日は来られないものかと」
その日も庭園の椅子に座るわたくしの前に、ティーセットをお持ちになったレイモン様が姿を見せられました。一式をガーデンテーブルの上に置かれると、わたくしの対面の席に腰を落ち着けられます。
「仕事に目途が立ちましてね。午後はあなたとお茶を喫したいと」
「お気遣いをいただいて、とても嬉しく思いますわ」
「お加減は、だいぶ良くなられましたね?」
顔色を読んでそうおっしゃったレイモン様に、わたくしは深々と頷きを返します。
「ここに来てから本当にお世話になり通しで、感謝の言葉も見つかりません」
心からそう申したのですが、皮肉に聞こえてしまったのでしょうか。レイモン様は片眉を少し動かして、申し訳なさそうなお顔をされていました。
「見つからないなら、ずっと探さないでください。それより、今日はあなたのお覚悟をお聞かせ願いたいのです」
口元に運ぶ途中のティーカップを止め、わたくしはレイモン様のお顔を見ます。殿方が決闘の際に見せられるような、そんな真剣な表情でした。
「この日がくるのを、ずっと待ちわびておりました」
「どのような真実でも受け入れる、その気持ちに嘘はありませんか」
「はい」
視線の圧に負けぬように見つめ返すと、レイモン様はティーカップをソーサーへと戻され、テーブルに肘を立てて手を組まれました。
「そもそもの始まりから申しましょう。トゥール伯爵グレゴリー、その妻であるメリッサ、同じく娘であるルイーズ、そしてなによりオルニール王国第一王子マティアス――彼らには、とある大罪を犯した疑いが掛けられていました」
お父様、お母様、ルイーズ……そしてマティアス殿下。その名を、まさかこのような恐ろしいお話の当事者として聞くことになろうとは、夢にも思っておりませんでした。
衝撃は、顔にも出ていたと思います。レイモン様が苦々しそうな表情を浮かべるのがありありと見てとれましたから。
「噛み砕くのにお時間が必要なら、言ってください」
「わたくしならば平気です。それより詳細を」
促すと、レイモン様は間を置かずに語り始められました。この日のために、ずっと以前から準備されていたのでしょう。
「この事件は、多角的に見ることのできる立体構造物です。どの角度から見るかで、少なからず様相が変わってしまう。我がリューテル家の見立てはこのようなものでした。これはマティアス殿下による現王からの王位簒奪と、その協力者による暗殺の企てだと」
暗殺? しかし、陛下はご病気で……。
わたくしの考えを読み切ったように、レイモン様が続けられます。
「病ではなかったのです。王の食事には毒が盛られていた。症状に違和感を覚えた主治医の指摘で発覚しました。毒素も、その性質までも早い段階で突きとめていた。どうやって精製されたのかまで判明していたのです」
わたくしは怪訝に思います。であるなら、対処も易かったのでは……。
「毒見役を複数置きました。普通ならこれで弾ける。しかしどういった奇術を用いたのか、食事の度に王の口には毒が入ったのです。症状は悪化し、王は死の淵を彷徨われることになった」
「そんな……」
王宮内に内通者がいたということでしょうか。いいえ、レイモン様がその線を疑わないはずがない。
「あなたもお察しの通りです。人の手を通じて王の口に毒が入るなら、携わる人間ごと交換すればいい。しかしその対策も功をなさなかった。やがて王は食事を摂られることをやめ、わずかな水のみで命を繋がれた。しかしその水にさえも、経路不明の毒が混入するようになったのです」
レイモン様は語られました。当時の王の深刻な御容態を。
毒によりお身体を蝕まれながら、食事による満足な栄養も摂れない。日に日にやせ細っていくそのお身体は、まるで枯れ木のように水気を失い、見るものの目を背けさせたのだと。
「俺たちには、時間がありませんでした。毒の種類を特定し、大まかな下手人にも当てがついている。けれどそれを裏付ける証拠がなく、毒素が混入する経路も依然として不明。王の体力が尽きるのも時間の問題でした」
当時の心痛を思い出されたのでしょう。レイモン様のお顔にも苦悶の相が浮かびます。
「……下手人に当てがついたのはどうしてですか?」
レイモン様の目がはっと開かれます。
「済みません。俺としたことがつい失念して……トゥール家に疑いがかかったのは、他でもありません。王に盛られた毒は、トゥール領でしか摂れないとある希少な草花から抽出、精製されたものだったからです」
それはわたくしも聞いたことのある名の花でした。ただでさえ数が少ない上、一花からわずかしか摂れないその毒を集めるには、その領を治める領主でもないと不可能だったのです。
「だがその効果は絶大。主治医が過去にその毒を扱った経験のある者で良かった。でなければ毒の種類すら判明することなく王は毒殺されていたでしょう」
乾いた口内を湿すために紅茶を口元に運ばれるレイモン様に、わたくしはなおもせっつくように言葉を投げかけました。
「わたくしのことは、疑われなかったのですか?」
「ああ……そうか。そういう風に考えることもできましたか」
ふうっと大きく吐息を吐かれると、わたくしの目を見ておっしゃいます。
「正直に申しますが、あなたの存在は真っ先に捜査線上から外れました。何故なら犯行に携わるメリットがない。婚約者であるマティアス王子は妹のルイーズへと走り、あなたには王が崩御されても王妃になる目はありません。逆に、ルイーズにならそれがあった。そしてルイーズのためであれば、彼女を溺愛しているトゥール伯爵夫妻は協力を惜しまなかったでしょう」
なんて残酷なお話なのでしょうか。ですが、その仮説はわたくしの胸の内にすっと沁み入ります。たしかにルイーズのためならば、お父様もお母様も自らの手を汚すことを厭わなかったでしょう。
「王のお身体に毒が入る経路は不明で防ぐことができず、下手人を逮捕するだけの証拠も揃っていない。八方手詰まりとなった状況を打開するため、リューテル家は俺にとある密命をくだしました」
密命? いったいどのような任を与えられたのでしょうか。
妹は婚約者であるレイモン様を退け、マティアス殿下と恋仲にありました。ですから、当件はレイモン様とも深い関係がありますが……。
「簡単なことですよ。証拠がなければ、作ればいい」
「失礼ですが、どのような方法かわかりかねるのですが……」
「でしょうね。少々過激なやり方でした」
はあっと溜息を吐かれたのは、当時のことを思い返されたのかもしれません。
「トゥール家別邸でのあの夜会は、実を言うと最後の晩餐だったのです。誰にとっての最後の晩餐になるかは、最後の最後まで決まっていませんでしたが。しかし大方のところ、俺にとっての最後の晩餐となるはずだったんです」
そうおっしゃって、レイモン様は胸元から小さな瓶を取り出されました。
見覚えのある形状に、フラッシュバックした記憶が意味を添えます。
「まさか、あの劇毒はレイモン様が飲むおつもりで……!!」
「俺に死ぬ理由があるのはご存知でしたでしょう? マティアス王子とルイーズにとって、俺は目の上のたんこぶだ」
あの夜会での婚約破棄は、わたくしにとっては茶番でした。
以前よりマティアス殿下とルイーズとの仲を知りながら、許容するように振る舞っていたからです。しかしレイモン様はずっと態度を保留されていた。知っていて、見て見ぬ振りをされていただけに過ぎません。
マティアス殿下もルイーズも、わたくしに対する婚約破棄のみならば上首尾に終わると思っていたはずです。なにせトゥール家がまるまるバックについている。
しかしことレイモン様へ婚約破棄を突きつけた場合、リューテル家との間に一悶着が起きることは必定でした。王家の忠臣たるリューテル家のお力添えを失うことは、新たに王位に就くマティアス殿下にとっても望むべきところではありません。
しかしそれ以上に、レイモン様がこたびの婚約破棄に異議を申し立てた場合、マティアス殿下とルイーズの婚約自体がご破算になる可能性がありました。
今回の婚約破棄において、わたくしにはデモンストレーションの役割が振られていた。わたくしがマティアス殿下とルイーズの申し出を鵜呑みにする姿を直に見せつけて、レイモン様の御心をそちらに向けさせる狙いがあった。わたくしに引き続き行われるレイモン様への婚約破棄で、首を縦に振らせるつもりだったのです。
「俺が婚約破棄を撥ね付ければ、リューテル家は王家と袂を別ちます。マティアス王子とルイーズは新たな婚約関係を結べない。こう表現すれば、エミリー殿にも真意が伝わることでしょう」
レイモン様が語ってくださったのは、恐ろしい陰謀のお話でした。
それを防ぐために、この御方はさらに恐ろしい手段に手を染めようとなさったのです。
「夜会の席でレイモン様が毒殺されれば、疑いの目はトゥール家に向けられる……」
「そしてワイングラスからは王の身体から検出されたものと同様の劇毒が見つかる。この二つの出来事を関連付けて考えない人間はいない」
つまり王陛下に盛られたものと同じ劇毒を飲んで絶命することで、レイモン様は強引に事件解決の糸口を作ろうとなさったのです。
なんと恐ろしい、無慈悲な手法なのでしょうか。王家に忠誠を誓うには、ここまで大きな責任を背負ねばならないのでしょうか。
言うべき言葉を失っていると、レイモン様がじっとわたくしの顔を見つめていることに気づきます。
「でもそうはならなかった。あの夜は、あなたにとっての最後の晩餐になったからです」
「でもわたくしは……こうして生きておりますわ」
胸に手を当てます。心臓の鼓動はたしかに、広げた掌に伝わってくる。それにレイモン様ともこうしてお話ができている。そのように都合のいい亡霊など、この世に存在するはずがありません。
レイモン様は、懐からもうひとつ同じ薬瓶を取り出されました。
「母が持たせてくれたものです。これには先に見せた劇毒を希釈したものが入っている。万が一俺が死を恐れた場合、こちらの毒を飲んで昏睡するようにと仰せつかっていました」
その場合、トゥール家の手の者に解毒を施されて痕跡が残らない恐れがあったそうなのです。賭けはさらに線の細いものとなるはずでした。
「エミリー殿が飲まれたのは、こちらの毒です。弱い鼻の粘膜が破れて幾分か血が噴き出ましたが、命に関わるほどではありませんでした」
「そしてわたくしはずっと昏睡していた……」
ですが、昏睡したのが他ならぬわたくしであるのなら、トゥール家の大罪を暴露する決定打にはなり得ません。死を選ぶ理由ならばわたくしにもありました。しかしそれは、マティアス殿下をルイーズに奪われた傷心のため……。
唇の端を噛んで、レイモン様は苦々しい表情を浮かべておいでです。意を決したように胸元に手を入れると、とある物品を取り出されました。
テーブル上に置かれたものには見覚えがあります。
それは、あの夜レイモン様がわたくしの手から取り上げたナイフでした。
わたくしの視線が見咎めたことを確認すると、レイモン様は重たい口を開かれました。
「お察しの通り、夜会の席で昏睡されたのがあなたであれば、トゥール家の大罪を暴く決定打とはなり得ない。しかしあなたは俺に言ってくださいましたね。自室に遺書があると」
「まさか」
両手を口の前にやって驚くと、レイモン様が覚悟を決めたお顔で頷かれます。
「俺が遺書を偽造しました。エミリー殿、今のあなたはトゥール家の一員でありながら、一族の大罪を命懸けで告発した救国の聖女となられている」
ですから、と呟いて、レイモン様は置かれたナイフの刃にご自分の手を添えられます。
「けじめを付けねばなりません。あなたの得た不名誉に対し、俺は死をもって贖う準備がある。無論のことあなたの手は汚させない。あなたが望むのであれば、俺自身の手で始末をつけるとお約束いたしましょう」
そしてわたくしの目を、燃える炎のような瞳で見られたのです。
「……ご決断を」
果たして、逡巡する理由があったでしょうか。
オルニール王国の民草のため、わたくしが命をもってルイーズの心を変えようとしたように、この御方もまた同じもののためににわたくしの遺書を偽造した。わたくしに服毒自殺するよう仕向け、今こうしてその罪を清算されようとなさっている……。
答えなど最初から決まっています。
わたくしは首を振って、その必要がないことを示しました。
「トゥール家は、自らが招いた罪禍を贖ったに過ぎません。わたくしがレイモン様に抱く気持ちは、深い感謝の念以外になにもございませんわ」
目を伏せて深々と頭を下げると、レイモン様が虚を突かれた表情をされました。
「レイモン様?」
「ああ、いや、予想外のお言葉でしたので、少し驚いてしまって……」
気まずげというよりも肩透かしといった感じで少しの間ドギマギされてから、こほんという咳払いとともに威厳を取り戻されました。
「では、俺の口からあなたに伝えるべきことを伝えます。トゥール伯爵夫妻ならびにその娘ルイーズ、そしてマティアス王子の身柄は今、王都内のとある監獄の中にある。一般的に表現するなら幽閉された状態です。おそらく、俺もあなたももう一生目通りが叶うことはないでしょう」
遺書に記載された告発を皮切りに、捜査は進展を見せたそうです。
トゥール家が保有する建物からは事件への関与を裏付ける物品が発見され、主犯であるマティアス殿下とルイーズに家ぐるみで協力していたことが確定的となりました。
囚われたお父様とお母様は一生を牢獄の中で過ごすこととなり、二度と外の日の光を浴びることはないのでしょう。
「謀反人の末路としては、当然なのでしょうね……」
世の無情を感じるわたくしへと、レイモン様が首を振られました。
「ですが、まだ間に合う」
「そんなはずが……」
「エミリー殿のご両親の話ではありません。ルイーズです」
レイモン様はテーブルの上に沿えた手を動かし、対面に座るわたくしの手に触れておっしゃいました。
「あなたは、俺に命を返してくださった。あなたの死を利用し、大罪人とはいえ家族を陥れるような真似をした俺を、許してくださった。だから俺もあなたのためになにかがしたい。この命の重みに見合うだけの、なにかを……」
感極まった風に勢い込まれた後、わたくしの目をじっと見て十分に言葉を吟味されて続けられたのです。
「あの夜のおまじないを真実にしましょう。俺はあなたが夜会でおっしゃったことを覚えている。あなたの心に残った呪縛を解く、これが最後の機会です。決して逃せない」
わたくしもまた、レイモン様の瞳から視線を逸らすことができません。
最後に声の主は、力強くこうおっしゃったのです。
「俺とともに来てください……王都に!!」
◇◇◇
ひどく不快な感覚を、腰の下方から受けている。
頭上は板に塞がれていて、四方は格子。ガタンガタンと揺れる馬車の振動を和らげるものはない。身に着けた衣類すら守ってはくれない。古くくたびれた奴隷装束を無理矢理着せられ、みすぼらしい姿を衆目に晒している。
「どうしてこんな目に……」
私を閉じ込める動物用のケージの外側には、下賤な連中のギラついた目。固く石を握りしめて震える手。きっと許可さえあれば投げつけたいと思っている。でもお生憎様ね。そんなことは許されていないのよ。私に危害を加えることは何人だろうと許さない。
年老いて痩せた馬が、ケージを乗せた荷車を引く。人の歩みほどの緩やかなペースで、私の身が王都の下層民の間を念入りに晒されてゆく。見世物なのだ、これは。王家に弓を引いた貴族がどのような目に遭うのか、それを人々に喧伝するためのくだらないパフォーマンス。とどのつまり、私たちは失敗した。
――誰のせいで?
マティアスは愚かな王子だった。私にぞっこんだった。私の願いならなんでも聞いたし、なんであれ叶えようとした。そのせいで国庫の金にまで手を付けて、危ない橋を何度も渡ってきた。
バレたら王位継承権が消える? だったら最初からそんな真似しなければ良かったのよ。君を王妃にするためなんだ? その覚悟があるならあんたひとりでやんなさいよ。でも無理だった。マティアスにだけ任せていたら恋人の私ごと破滅する。だからお父様とお母様に頼むしかなかった。今の王様のことを、さっさと消してしまわないといけなかったから。
この責任を、誰に求めればいいというの? 見世物として市中を引き回され、恨みを持った連中に不当な敵意を向けられる屈辱の代償は?
バカ王子のマティアス? 下手を打ったお父様とお母様? 私たち全員を王家に売った元婚約者のレイモン?
……いいえ、違う。
私が今味わっているすべての苦痛の原因は、あの女だ。
エミリー・トゥール――血の繋がった、私の姉。
その顔を思い浮かべるだけで、咽喉の奥に苦いものが込み上げる。己が身の、悲惨な現状が思い起こされる。
もう何週間も、お風呂に入ってない。私の身体から漏れ出る臭気に、浮浪者然とした連中にすら鼻を摘む者がいる。本来なら、私と同じ空気を吸うことすらおこがましい連中だというのに。
姉と私は、仲が悪くなかった。子どもの頃はいつも姉の後ろを追いかけ回して、ずっと離れたくないと思っていた。姉のようになりたくて、姉の持ち物ならなんでもねだった。なんて子どもらしい憧れ。それが崩れたのはどうしてなのだろう。
きっと、気づいてしまったからだ。
姉は私が欲しがるものはなんだって譲ってくれた。時に渋い顔をすることはあっても、最終的に私の手の内に収まった。その理由に気づいたからだ。
いらないのだ。私がねだった時点で、姉は自分の所有物に興味を失くす。
いらないものだから、もうゴミになってしまったから、あんなにも簡単に私にくれていたのだ。
私の憧れは、エミリー・トゥールのゴミ。
私はあの女のゴミでできている。
……ふざけるな。
あるとき、私は試すことにした。ダンスパーティーに着ていくドレスを、似合っていないという理由で、姉のものと交換するように持ちかけたのだ。
結果は予想した通り。姉は難色を示して、らしくなくお父様にまで相談しようとした。その頃にはもう、お父様は私の味方だったから、姉のドレスは無事に私のものとなったのだけれど。
ダンスパーティでの気まずげな姉の姿を覚えている。会場の隅っこで、居場所を失くして、パーティーが終わるのを今か今かと待ちわびている。
その滑稽な姿を見て溜飲が下がった。この女にも欲というものがあったのだ。私が欲しいと口にさえしなければ、それは姉にとって必要なものなのだと。
だから私は、姉にねだるのをやめた。
姉の物を勝手に借用し、あるいは奪って自分のものにした。
姉は勝手だと説教を垂れてきた。その言葉に強制力はない。もはやトゥール家の中心は私であり、お父様もお母様も私の思い通りとなる。
そして、成長に伴って私は気づき始めた。
自分は、姉よりずっと上等な女なのだと。
年を重ねて、私の背はすくすくと伸びた。姉の身長を追い越し、かつて見上げていたその身を今は見下ろすことができる。プラチナブロンドの髪は優雅なウェーブを描いた。姉のくすんでバラけた金髪とは違う。痩せぎすな姉とは違い、健やかに女らしく育った肉体。男ならば誰だって虜にならずにいられない。
あのマティアスだって私に夢中になった。少し迫るだけで、姉という婚約者がいるのに喜び勇んで向こうから口説いてきた。逢瀬を重ねると、金品で釣ってまで私を手に入れようとしてきた。
悪い気はしなかった。ものの価値はその値で決まる。
そして、当人がそれをどれだけ大事に思っているかで、決まる。
マティアスは、姉にとってもっとも大切なものだ。もはやなにひとつ私に敵うところのなくなった姉にとって、唯一私に勝っている部分。第一王太子であるマティアスと結婚すれば、姉はオルニール王国の王妃となる。この国の女の頂点を極めることになる。そんなこと、この私がさせやしない。
マティアスが私の気を引くために起こしたやらかしの後始末を思えば、彼に婚約破棄を決意させるなんて造作もなかった。トゥール家に連なる姉は、婚約破棄を受けざるを得ないだろう。問題はリューテル家に属するレイモンだが、王家の忠臣として鳴らした家系だけに強くは言えないはずだ。
私とマティアスが結婚すれば、あの女に思い知らせることができる。
ずっと昔から犯し続けてきた間違いを、正してやることができる。
だってもう、あの頃とは立場が違っているのよ。かつて私が姉さんの背中を追っていたように、今度は姉さんが私の背中を追うべきじゃない。私を見て、私に懇願して、私のものならなんだって欲しがるようにならなくちゃダメじゃない。
だって私の方が全部全部、なにもかも姉さんより上なんだから!!
家族を集めた夜会で、マティアスが姉さんに婚約破棄を突きつける。姉さんは涙を流して、慈悲を乞い、醜態を晒して私に泣きついてくる。お願いだからマティアス殿下を取らないでと心の底から懇願する。その無様な姿をせせら笑って、私はこう言ってやるつもりだったのよ。
「そんなに私のお下がりを求めていたなんて、姉さんたらとんだ欲しがりね」
……でも、そうはならなかった。
あの夜、姉さんは婚約破棄を受け入れた。お父様とお母様に反省を促し、絶縁をちらつかせてはいたけれど、私に対しては綺麗ごとで押し通した。
そして毒杯を呷っての自殺……露見するはずのないあの劇毒を、姉さんはいったいどこで手に入れたというの?
でも、それはまだ問題じゃない。問題は姉さんが言い残したあの遺言。姉さんの部屋から見つかった遺書による告発だった。
今思えば、手際が良すぎたのを疑うべきだった。血塗れの姉さんの処置を侍従たちに任せ、私たちは姉さんの部屋へと急いだ。移動の最中に、あの忌々しいレイモンが窓から合図を送ったのだ。
遺書を見て、その内容を知った私たちが真っ先に行うべきは、居合わせた第三者の抹殺だった。現にマティアスとお父様は読了してすぐ、腰の剣に手を伸ばしていた。
しかしそれよりレイモンの動きの早さが勝った。即座に抜剣すると、いくさの場で敵兵を見るようなあの冷酷極まる目で、私たち全員に「動くな」と命じたのだ。
程なく、レイモンの手下どもがやってきた。私たち全員の身柄は拘束され、邸の外に用意された馬車へと押し込められた。抵抗しなかったのは、する意味が既に潰えていたからだ。私たちの前にあった輝かしい未来へと繋がる扉は、固く閉じられて二度と開くことはなかった。
揺れる馬車の中、私だけは胸の内に密かな満足感を覚えていた。
結局のところ、夜会の席で姉さんが打ったのは猿芝居だった。私のことを愛している? 私とマティアスの婚約を祝福する? とんだ大嘘じゃない!! あの遺書で私たちを一網打尽にするつもりだったから、そんな心にも思っていないことを言えただけでしょ!!
でも、これでわかった。姉さんはやっぱり、マティアスを取られたくなかったんだって。だから自分の死と引き換えに、全部をご破算にしようとした。格上の私との、相討ちを選んだ。
それが姉さんの本音。
私の見立ては、最初から間違っていなかった。
いなかった……はずなのに。
それは数週間前のこと。きしっと音がして、私はそちらを見た。地上から地下牢へ続く階段に灯りが見える。ランタンを持って現れたのは、忌々しい私の元婚約者だった。
「レイモン……笑いにきたっていうの!?」
夜食の席から連れ出され、着の身着のままで牢に押し込められて10日は経つ。暗くて見えないが、私の身なりはさぞや不潔極まる状態なのだろう。
「今は多忙でな。そんな悪趣味な暇潰しの余裕はない」
「じゃあなにしにきたのよ!! 破滅した女をせせら笑う以外に!!」
レイモンは無言のまま牢へ寄ると、しゃがんで格子の隙間から書簡のようなものを差し入れた。
「……なにこれ、手紙?」
「トゥール家の大罪は俺がそそいだ。これはルイーズ個人の罪だ」
「あんたなにを言ってるの?」
「ランタンはここに置いておく。灯りが生きているうちに目を通せ」
立ち上がると踵を返し、私の返答を待たずに階段の方へと足を進める。その足が一瞬だけ立ち止まり、首のみが私を振り返った。
「あの夜に見た遺書は、俺の偽造だ。お前たちを追い落とすためにやった。それはエミリー殿がしたためた本物の遺書だ。ルイーズ、お前に宛てた内容が書かれている……こんなことになって本当に残念だ。さようなら」
レイモンが去った後、私は無我夢中でそれを読んだ。
それは紛れもなく姉さんの筆跡で書かれている。言葉の綾も姉さんのものだ。文字と文字の間に、時折水滴が垂れたような痕がある。そんなはずがないのに、私にはひとつしか理由が見いだせない。姉さんは泣きながらこれを書いたのだ。
自分の命と同じだけの重みを持つ遺書は、紛れもなく私のしあわせを願っていた……。
『わたくしのかわいい妹。あなたを愛しているわ』
まさか、本当だったとでもいうの?
あの夜会での言葉も、この遺書も。
姉さんは私を見下したりなんてしていない。ずっと愛してくれていた。欲しいものをなんでも譲ってくれたのは、私のためを思っていてくれたから……?
「……違う!!」
群衆に対して、吠え立てるように私は唸った。手には牢でレイモンに渡された姉さんの遺書がある。それをぐしゃっと握り潰して、格子に向かって自分の頭を打ち付けた。
違う、騙されている。あの女は私を愛してなんていなかった。ずっと私のことを見下していて、いらなくなったものを押し付けていただけ。ううん、そうでないとおかしい。だって今の私は姉さんより全部上なのよ。姉さんより美しくて、姉さんより愛されている!! 姉さんよりもっとずっと持っている!! そんな女を、たとえ妹だからって愛せるはずがない!! 妬みと嫉みの感情に打ち勝てるはずがない!!
「でも、姉さんは私を愛してるって……」
違う!! ともかくそれは違うの!!
だってそうでなかったら、私のしたことは……。
逆方向に走る二つの思考が引き合って、頭がどうにかなりそうだった。
もしこの場が静かな自室なら、私はとっくに失神していただろう。しかし群衆が大声で放つ罵声がそれを許さなかった。割れんばかりの頭の痛みを抱えながら、私はこの狭苦しいケージ内の中で耐えるしかない。
もう誰でもいい。
誰でもいいから、私をここから……。
両目から涙がこぼれる。弱気の虫を見せる気はなかった。それは群衆と、王の周辺にいる連中を喜ばせるだけだからだ。だけどもう耐えられない。おうちに帰りたい。見せしめが終わったら私はまた、あの光ひとつ差さない暗がりに連れ戻されてしまう。そんなのは絶対に嫌……。
両膝の間に頭を落とす三角座りの状態から、顔を上げた瞬間だった。怒り狂った群衆の中に、私はその人の姿を見た。
気づくと自分でも驚くほどの、俊敏な動きをしていた。ケージの床に両膝を突き、私は上体ごとそちらに向けて傾く。そして身体の許す限り精一杯に手を伸ばして、残った力を振り絞って叫ぼうとした。
「お願い助けて!! 姉さ――!!」
かしゃんと音を立てて、顔が格子にぶつかる。
格子の隙間からケージの外へ伸ばした手が虚空を掻く。
それはなにも掴めないまま枯れ花のようにしおれてしまう。
助けを求めていたはずのその声を、私は最後まで言いきることができなかった。既に私の目はあの人の姿を見失っている。他人の空似だったのか。いや、そもそもいるはずがないのだ。このような場所に。私の目の前なんかに。だってあの人は……。
――姉さんは、私が殺した。
「あっ、あぁっ、ああああああああああああああああっ!!!!」
涙を流して宙を見上げた。ケージの天井で四角く覆われた空。どんなに目を細めても、目の奥に力を込めたとしても、その先に存在するはずの太陽の姿を透かして見ることはできない。
もう、一生見ることはないのだと、やっと私は思い知った。
◇◇◇
「……ここにおられたのですか」
王都の中央を流れるティーベ川。流れる水面を見つめる私の背に、声をかける御方がいました。振り返ると、おられたのはレイモン様です。
「王都での用向きは、もう終えられましたの?」
「ええ、あなたと同様に」
私たちのいる橋のたもとから、レイモン様が大通りを見られます。
今でこそ人の姿はまばらですが、ルイーズを乗せた馬車が通る際には、割って入る隙間もないほどの人波がありました。
「妹の姿は、わずかに見えただけでした」
「しかし、ルイーズからはあなたが見えていたはずだ」
そうであればいいと思いました。何故ならそれは、この世にたった2人きりしかいない姉妹の、今生の別れだったのですから。
レイモン様は無言でわたくしの傍に歩み寄られ、隣に並んで同じくティーベのせせらぎを見られます。
「おまじないは、今度こそ真実になりましたか」
「わかりません。ただ、これで本当に終わりなのだという実感はあります」
わたくしは胸に手を当てました。正直に言えば、もっと心が波打つものと思っていた。ルイーズとはこれでもう二度と会えない。同じ家に生まれて、長い時間をともにした妹との別離が、こんなあっさりしたもので本当にいいのでしょうか?
「気に病む必要はありません。そのためのおまじないでした」
「わたくしに勇気を湧き上がらせるための?」
「いいえ、あなたの心にかけられた呪縛を解くための」
そうおっしゃって、レイモン様がわたくしの顔を見られます。
やさしい眼差し。きっとあの夜も、部屋の扉越しにこのような目をされていたに違いありません。
『あなたがどうしても訴えを通したくて、その勇気を持てないというのなら、俺の口からひとつおまじないをお教えいたします。夜会の席で、家族と絶縁なさい。ことを起こせば、あなたの名前は家系図から抹消される。ならばあなたから先に切ってしまって構わないはずだ。その行為はきっと、あなたに目的達成のための勇気を与えてくれるはずです』
自殺未遂を起こした夜会前夜。わたくしの動向を監視するため、自室の扉の向こうで寝ずの番を張られたレイモン様は、そのような言葉をわたくしにくださいました。
当然のことながら、凄惨な服毒自殺への恐怖ならばわたくしにもあった。しかしこれはどれほどの犠牲を払ってでもなさねばならぬことでした。
妹を、ルイーズを民草を虐げる悪虐王妃にしないために、死をもって変化を促そうとする決意に変わりはなかったのです。揺れる心を抑えきれなかったわたくしは、最後の最後でレイモン様のおまじないに頼っていました。
笑みを納めて、神妙な表情でレイモン様が続けられました。
「ルイーズのことを、愛していらっしゃったのですね」
「そう信じていました。けれど今は、これを愛と呼んでよいものかどうか……」
「いいえ、愛です。そうでなければ、あなたがルイーズに嘘を吐けなかった理由が説明できない」
レイモン様が力強く断じてくださったお蔭で、わたくしの胸の内に残るわだかまりも少し解けたような気がします。
「これからどうなさるおつもりですか」
「トゥール家の道行きと同じです。未来のことはわかりません」
「ならばやはり、聖女の道へは進まれないのですね」
「家族を陥れた女に、聖女たる資格はないと思いますので」
あれから、王陛下は一命を取り留められました。勇気ある告発でもってトゥール家の大罪を暴いたわたくしを、風聞による称号ではなく本物の救国の聖女としてとりなそうとする女神教会の動きがあったのです。
リューテル家にて、レイモン様がご不在の間に派遣された使者に、既に断りの連絡ならば入れております。
「トゥール家を陥れたのはあなたではなく、この俺のはずだ」
「聖女を名乗ってしまえば、わたくしがわたくしを許せなくなる。これは、わたくしなりのけじめのつけ方なんです」
レイモン様は残念そうにしておられましたが、わたくしの意志が変わらないのを見ると、浅く溜息をこぼして諦められたようです。
「あなたは無欲だ。だからつけ込まれた」
「そのように、レイモン様には見えておいでだったのですか」
「誰にだってわかります。あの家で、あなたがどんな扱いを受けていたかなんて」
ルイーズの婚約者としての顔見せのため、レイモン様は幾度か当家に訪れたことがありました。
戦場で鍛えられた鋭い観察眼に、わたくしの姿は虐げられたものとして見えていたのかもしれません。
「しかし、あなたはもう自由だ。もうなににも縛られることはない」
「自由?」
「そうです。無意識下できっと、あなたは家族への献身を受け入れていた。奪われることを当然のこととして認識しておられたんです。その呪縛はもう存在しない。あなたはどこへだって行けるし、なんだってやっていい」
真剣な眼差しが、わたくしの顔に注がれます。
「なにか、してみたいことはないのですか。俺に助力できることは」
面と向かってそう訊ねられて、はたと気づきました。わたくしは今まで自らの手で選択するということをしたことがなかった。いつだって家族の意向が先にあって、それに沿うように自分を捻じ曲げてきたのです。
黙考して、わたくしの心から出てきたものは――。
「旅へ出ようと思います。諸国を巡り、孤児院へ訪れたいと」
「出発の期日は」
「今、ここからです。帰るべき家も、今はもうありませんので」
新たなる出発の門出。きっとレイモン様も喜んでくださる。そう思っていたのですが、何故か沈痛な面持ちを浮かべておいででした。
「もう、会うことはないのでしょうか」
「そのような顔をなさらないでください。きっといつか、またお会いする機会を持つことができますわ」
「…………」
口を結びなさるその姿は、レイモン様らしくなくおいででした。この御方をして、まるでなにかを我慢するかのような、発露されるのを迷われているような、心の中の鬩ぎ合いを感じさせます。
「レイモン様?」
「最後に、少しばかり俺からお話させていただいて構いませんか」
様々な意味での恩人に、断りを入れようはずもありません。
深く首肯すると、レイモン様が再び前を向かれました。
「ことが起きて、あなたの身柄はリューテル家の預かりとなりました。あなたは10日以上もの間深い眠りにつかれていて、起きる兆しを見せられなかった。毒の調合には万全を期していました。しかしずっと不安だったのです。もしこのまま、ずっとあなたが目覚めることがなかったらと」
レイモン様の真剣な眼差しが、わたくしの顔に注がれています。
「あなたの寝顔を見て、幼い頃に読み聞かされた童話を思い出しました。眠りに落ちた姫は、王子の口づけで目を覚ます。脳裏に邪念が過ぎったことを告白しないといけません。しかし所詮、俺では力が及ばない」
くっとレイモン様が拳を握りしめられます。その姿にわたくしは驚きを隠せません。まさかこんなにもわたくしの容態を案じておられたなんて……。
「あの夜あなたが見せてくださった高潔なお心に、俺は打たれました。本来ならば死ぬはずだった俺を、あなたの行動が救ってくれた。けれど、もうそれだけじゃないんです。あなたが目覚めるのを待っていました。そして今日このとき、あなたが自由を取り戻される瞬間を待ち望んでいた。ですから、俺は……」
多弁になられていたレイモン様がそこで俯かれました。
唇を噛みしめられて、続くお言葉を失ったようにも見えます。
「済みません、上手く言葉が出てこなくて。このような気持ちになるのは初めてなのです。ルイーズにだって感じたことはない、この感情の正体は……剣の道にばかり注心し、詩情を解する心を学んでこなかった怠慢をどうかお許しください。言いたいことはとてもシンプルなはずなのです。つまり俺は……俺と……俺と結婚してくれませんかっ!!」
さぁーっとわたくしとレイモン様の間に寒風が吹き、赤ら顔になられたレイモン様の表情が絶望に凝り固まりました。
「あ……いや、違うのです!! どうか今のは聞かなかったことに、無しにしてくださいっ!! あなたはせっかく自由を手に入れたというのに、これでは……」
「承りました」
深々と頭を垂れて、上げたとき、レイモン様のお顔は驚きの色に満ち満ちておられました。
陶然とされていたのも束の間、ハッと自分を取り戻されます。
「ま、待ってください!! 今のは俺の自己満足であって!!」
「では、現実にしてほしくない。思ってもおられない願いだったのですか」
「いえ、そんなことは……当然、俺の心は満たされておりますが……」
再び頬を朱に染められたレイモン様ですが、なにかを断ち切るようにおっしゃいました。
「自由に、なってもらいたいのです。エミリー殿はトゥール家の呪縛を逃れ、やっと解放されました。それを得た矢先に、わざわざリューテル家などという新たな枷を負う必要などありません。それに俺は、あなたに献身を求めたいわけじゃない。ただ、しあわせであって欲しいと願っているだけなのです……」
レイモン様のお言葉は、わたくしのことを案じてくださるものでした。でも、だからこそ抜け落ちてしまっている視点がある。
「それがわたくしの願いでもあったら、どうでしょうか?」
「どうって……」
「あなたとともにあることが、わたくしのしあわせだとしたら」
驚かれるレイモン様を見つめる、こんどはわたくしの番でした。
「リューテルの家で過ごす穏やかな日々の中、ずっと疑問に思っていました。あなたはどうしてわたくしの元を訪れてくださるのだろうと。最初、あなたのお顔には罪悪感があった。わたくしに対する秘めたる思いがあった。今ならわかります。それはトゥール家が没落したからなのだと。けれどわたくしはなにも知らぬまま、いつしかあなたが来てくださるのを待ちわびるようになった」
毒の後遺症でままならぬ身体を回復させながら、わたくしは庭園でのティータイムをずっと楽しみにしておりました。
レイモン様が直々に淹れてくださる紅茶はとても美味しくて、心の中までポカポカと温かな気持ちになって、そして気づけばいつもこの方の姿を探している自分がいたのです。
「あなたが今、わたくしを愛してくださっているように、わたくしもまたあなたのことを愛してしまっている。ですからこれは、ずっとあなたの傍にいたいという自由を、わたくしが選びたいというだけのことなのです」
断言して、わたくしはレイモン様のブラウンの瞳を覗き込みます。
そこから、わたくし自身の姿が消えてしまわぬよう、強く強く。
「エミリー殿、しかし……構わないのですか、こんな俺の隣で?」
「もちろんです。それにレイモン様は少し勘違いもされておられます」
「勘違いですか?」
疑問に眉を曲げられるレイモン様に、はい、と頷いて。
「献身は、いけないことではありません。無理強いや、一方的な搾取でさえなければ、それはとても尊いことです。そして、互いに慈しみ合い、献身し合う関係を、人はきっと愛情と呼ぶのではないでしょうか。レイモン様、あなたがわたくしのためを思ってここまで連れ出してくださったように、今度はわたくしがあなたのためになにかをして差し上げたいのです」
そう告げて、わたくしは両手でレイモン様の手を取ります。1日たりと鍛錬を絶やすことのない手の皮は、固くごつごつしておいででした。
急なわたくしの行動に呆気に取られていたレイモン様ですが、わたくしの手をやさしく握り返してこうおっしゃってくださいました。
「さっきから驚かされてばかりいる。どうもあなたは、俺が思っていたような女性ではないらしい」
「少し、はしたないでしょうか?」
「いいえ、とても魅力的です。心から愛おしいと思う」
レイモン様の手がわたくしの頬に触れ、肩に触れ、抱き寄せて口づけを交わしました。
「もっと見せてください。俺の知らない、あなたのことを」
「うふふ……どんなわたくしを知っても、嫌いにならないでくださいね?」
少しいたずらっぽく笑います。このようなわたくしは、わたくし自身も知りません。トゥールの家から解放されて、きっと心境にも変化が訪れているのでしょう。
「それでは、帰りましょうか。俺たちの家へ」
「はい」
レイモン様が差し出した腕を取り、2人で王都の街を後にします。
暗くつらかった、過去の思い出のみをそこに残して――。
◇◇◇
それから程なくして、エミリー・トゥール――いや、ただのエミリーはレイモン・リューテルと結婚を果たす。貴族社会には珍しい、恋愛結婚だった。
エミリーは献身的に夫を支え、レイモンもまた妻の期待に応えた。王家の忠臣として、王家のよき友として身を粉にして働き、2人の築いた円満な家庭は社交界でも目指すべき理想として有名となった。
第一王子マティアス並びにトゥール家の野望を挫いた勲功として、夫レイモンは王より新たな領土を賜る。リューテル家の所領と併せて、伯爵を名乗ることを許された。くしくも、旧トゥール家の家格に並び立ったのである。
6人の子宝にも恵まれた。妻エミリーは聖女そのもののようなやさしさで我が子に分け隔てなく接し、母の深い愛情を受けて育った子どもたちは病気やケガとも無縁ですくすくと育った。反抗期もなく、子どもたちは終生母のことが大好きだったという。
長男フランシスについて語らねばならない。廃嫡された第一王子マティアスに代わり次代の執政を執ることになる第二王子アルベールと、彼は年の離れた兄弟のように育った。
理想的な父と母の姿を見て育ったフランシスには、夢があった。トゥール家の再興である。故郷を失った母を帰郷させたいという一念から始めたその試みは、時の王アルベールの理解を得ることで結実する。
人生の黄昏に、母エミリーは故郷の地へ戻った。美しい自然に満たされたふるさとで、伯爵位を後進に譲ったレイモンと、静かで幸福な余生を過ごしたという。
最後までお読みくださりどうもありがとうございました(長いので本当にお疲れさまでした…)。
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