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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

真っ白なあなたに囚われる。

作者: 水島悠林

 思わず息を呑んだ。

 扉を開いた途端現れたずぶ濡れの男のひと。

 頭には三角の耳があって、少し視線を下げれば、足の間からふさふさの毛が覗く。

 

 人間とは到底思えない。


「獣、人……?」


 限りなく人間に近い獣、獣人。

 人伝にしか聞いたことのない存在だ。

 

 ぽかんと口を開けていると、寒々しい深緑の瞳と視線が交わった。


「どうか、少しの間休ませてもらえないだろうか?」


 丁寧に頭を下げられ、思わずたじろぐ。情報過多すぎて頭が追いつかない。

 なんでこんな辺境の町に獣人が? どうして私の家に?

 ぐるぐると回る思考に気が遠くなる。

 

 でも、その混乱はすぐにおさまった。

 彼から流れ落ちた雫が、地面を真っ赤に染め始めたのである。


「ち、血が、背中から! ってすごい傷!!」


 彼の背中を覗き込むと、服はざっくりと斜めに切り裂かれていた。そこからじゅくじゅくと血が滲みでている。


「休んでいってください!」

 

 怪我人、それも重症者を前に獣人なんて情報はすぐに吹き飛んだ。

 彼の返事も聞かず、家の中に押し込む。


 あの時のような思いだけはしたくない。

 家中を駆けずり回り、手当の準備をする。

 二度と目の前でひとに死んでほしくなかった。

 

***


 手当は紆余曲折を経たのち、なんとか終わった。途中包帯がとれたり、新たな傷が見つかったりとてんやわんやだったが、最低限のことはできた、と思う。

 

 ひとまずティータイムだ。傷に動転してしまいすっかり忘れていたが、聞きたいことが山のようにある。

 

 ゲストルームへ、と言いたいころだが、この田舎町で一番小さい我が家にそんな部屋を用意するスペースは皆無。三歩歩いたら到着するダイニングへ移動し、獣人さんに椅子を勧める。

 

「お待たせしました」


 獣人さんの前にカップを置く。我が家特製の即席ミルクティーと貰い物のクッキー。獣人さんは繁々と私の顔を見つめたかと思うと、小さく頭を下げた。

 

 ぶっきらぼうなようで、意外と礼儀正しいひとだ。

 なんて失礼なことを思いつつ、自分の席にも置いてまずはミルクティーを。あれ? お茶の味がしない。

 ちらりと獣人さんの表情を窺ってみる。頭を下げた時と寸分違わない。不評でなければいいか。

 

「ええっと、今更ですけれど、お互い自己紹介しませんか?」


 しばし無言の時間が続いた後。獣人さんの表情が僅かに緩んだのを見計らって声をかけてみる。


「私はノラ。普段は町役場の近くにある食堂で働いています」


 ミートパイがおすすめです、と一応宣伝も入れておく。


「アランだ。ノラ、手を煩わせてしまって申し訳ない」


 獣人さん──アランはそう言うと深々とお辞儀した。真っ白な耳がぺたんと倒れ、真っ白な髪に埋もれている。遠慮がちにこちらを見つめる切れ長の瞳は僅かに揺れていた。

 なんだか、罪悪感が湧く。

 

「いえいえ。困った時はお互い様なので」


 お気になさらず、と微笑んでみるがアランの表情はさらに暗くなってしまった。まるで涙を堪えているような悲痛な表情だ。


「ええっと、アランは何の獣人なんですか? イヌの獣人さんとか、ですかね」


 このまま話を進めても良いものか、と思いつつも気になっていたことを尋ねる。

 私は獣人についてほとんど知らない。誰かが話しているのを聞いたり、新聞で見たことがある程度だ。その中で唯一知っている獣人は、同盟関係にあるイヌの獣人と敵対関係にあるオオカミの獣人だけ。


「……その通りだ。イヌの獣人で、元は北の方に住んでいた」

「そうなんですね。イヌの獣人さんは真っ黒なイメージがあったけれど、アランは白いんだ」


 じっとアランの真っ白な髪の毛を見つめる。朧げな記憶にあるイヌの獣人さんは、白黒写真でもわかる程真っ黒な髪と尻尾だった。けれどアランは髪も耳も尻尾も真っ白。雪景色に溶け込んでしまいそうだ。


「イヌは容姿の幅が広いから。北の方のやつは白いのが多い」

「なるほど」


 同じ種族でも住んでいる場所で色が変わるのか。感心して、つい雪みたいに真っ白なアランの髪と耳をじっと見つめてしまう。


「……この怪我は、川に落ちたことで負ったんだ。溺れないようもがいたり、岩に叩きつけられた時に」


 包帯を見られていると思ったのか、アランは負傷した経緯を語り始めた。


「気がついた時には流れは随分穏やかになっていた。なんとか岸に上がって、フラフラ歩いている時にここを見つけたんだ」

 

 確かに、家にやってきた時アランはずぶ濡れだった。雨は降っていたなかったから不思議だったが、そうか、川に落ちていたのか。

 

 なるほど、と頷きながらカップを持ち上げる。謎が大分解けてきて少しすっきりした。あとはアランの表情が気がかり。踏み込むべきか、静観するか……。

 

「ノラ、君の家に住まわせもらえないだろうか」

「……え?」


 紅茶の水面が大きく揺れる。今、アランはなんと言ったのだろう?

 

「手当をして貰った挙句、こんな図々しい頼みをしてすまない。極力邪魔にならないよう努める。もちろん、対価も支払う。と、言っても、金を持ち合わせていなから代わりにこれを」


 トン、と質量を持った音が響く。思わず視線を下げれば、キラキラと光を放つ透明な石。ガラス、というには無理があるほど輝いていて気が遠くなる。


「今は身一つで、自分の身分を証明するものを持ち合わせていない。宿に泊まることができないんだ」


 なるほど。だから泊めてほしいというわけか。納得はしたけれど、ここで首を縦に振るわけにはいかない。

 

「あの、私、一人暮らしなんです。だから、異性を泊めるのは無理、です……」


 正直、目の前の金目の物には惹かれるし、怪我人の頼みを断るのも心苦しい。でも、見知らぬ人、それも異性と一つ屋根の下で暮らすことへの抵抗は大きい。


「家族の人に連絡をとることはできませんか?」


 不可能なのはわかってはいるが、万が一の可能性に縋ってみる。

 

「……家族とは、別れてしまって」


 アランの言葉に思わず息を呑む。私と、同じだ。

 アランの瞳は揺れている。そして、耳は後ろへ倒れ、尾はだらりと下がっている。

 

 つい、私はアランから目を逸らした。種は違うはずなのに、アランの気持ちが手に取るようにわかる。そして、その気持ちに共感する自分がいる。


「無理を言ってすまない。だが、どうかこの怪我が治るまで置かせてくれないだろうか」


 アランが縋るように私を見つめる。懇願と不安、そしてその奥にある身を引き裂くような孤独感。その瞳と視線に、酷く見覚えがあった。


「……見ての通り狭い家だけど、それでもよければ」


 頷く以外の選択肢はもう無かった。頭を下げ、「すまない」と繰り返すアラン。


「たぶん、私とアランは似たもの同士です。私も、アランと同じように家族と別れてしまいました。……だから」


 気にしないで、と言おうとして口を閉じる。そんなことが不可能なのは知っていた。


「しばらくの間、家族ということで。今からよろしくね」


 少しでもアランの気持ちが楽になるように。そう願ってにこりと微笑む。

 アランは驚いたように目をパチリと瞬かせた。そして、微かに赤くなった目を細め、笑ってくれた。


 ***


「ノラ、ジャム使うか?」

「ふああ。んー、今日はチーズにする」


 大きなあくびをしながらアレンに注文をつける。けれど、アランは特に気に留める様子なくパンにチーズを乗せてくれた。

 

 アランとの生活は思いの外順調だった。というのも、アランは「極力邪魔にならないよう努める」の言葉を実行しつつ、プラスで家事を率先してやってくれるのだ。

 怪我の方も、一番深い背中の傷以外はひと月もしない内に大部分が癒えた。

 歩行にぎこちなさを感じるのが不安点ではあるけれど、本人曰く「問題ない」そうで。

 

 面倒くさがりなせいもあり、すっかりアランに頼ってしまっている。

 

「美味しい。やっぱりアランは料理上手だね」

 

 アレンお手製のチーズパンを頬張ると口いっぱいに幸せが広がる。にこりと微笑むとアランは照れくさそうに目を逸らした。んふふ、とつい笑い声が漏れてしまう。すると、アランは平常を装うかのように黙々とパンを食べ始めた。でも、その背後では尻尾が控えめに揺れている。また吹き出してしまいそうだ。

 

 ……つい最近までは袋から取り出しただけのパンを口に詰め込んで仕事に向かっていたのに。今では温かいパンとスープを囲って、笑いながら二人で一緒に食べている。誰かと一緒に食べる朝食なんていつぶりだろうか。


「そろそろ行くね」

 

 朝食の片付けを済ませた後はのんびりしたいところだけれど、残念ながら今日も仕事だ。玄関へ向かい靴に足を通す。すると、アランもやって来て私と同じ様に靴を履き始めた。どうやら、今日も一緒に行ってくれるようだ。

 チリン、と鈴の音を鳴らしながら扉が開く。

 こうやって、アランと一緒に仕事へ行くのが日課となりつつあった。

 

 


 私は町の食堂で働いている。ボリュームのある料理とお財布に優しい値段が売りの小さな店だ。


「ミートパイ五、チキン四お願い」

「あ、俺たちも同じの〜」

「こっちもよろしく!」

「そういうのは先に言って!」


 キッチンに注文を伝えていると背後からさらに注文が入る。振り向いて小言を言えば、どっと店内に笑いがおこった。店は満席。太陽はもう空の真上だろう。


「こいつは絶対イヌだ!」

「いや、俺はオオカミに銅貨10枚!」

 

 食堂という場所は定期的に賭け事の場にもなる、といっても動くお金は合わせてもランチ一人分だ。


「くっそ! オオカミかよ」

「こいつら似ててマジでわからねえ」


 どうやらイヌの獣人とオオカミの獣人を当てるゲームをしているようだ。ついアランの姿が脳裏をよぎる。


「おうおう、ノラちゃんもやるか?」

「ノラちゃんならわかるだろ! 恋人がイヌの獣人なんだから」


 うっかり見つめすぎてしまったようだ。いつの間にかお客さんたちに囲まれ、目の前には2枚の写真。逃げ道がない。


「恋人じゃないって。というか、どっちもイヌの獣人じゃないの?」


 ここ最近急激に広まり始めた私がアランと付き合っているという噂。原因は今朝のようにアランが店まで送り迎えをしてくれるようになったこと。「単独行動は危険」とアランは心配してくれているだけなのだが、同じ家に住んでいることもあって、否定しても全く取り合ってもらえない。

 今のようにヒューヒューと囃し立てられ、「照れちゃって〜」と揶揄われる。

 

 小さくため息をつきつつ、差し出され得た写真に首を傾げる。

 片方は前に見たことのあるイヌの獣人の写真。もう片方もアランに似ている。どちらもイヌの獣人にしか見えない。

 

「残念! 左の方がオオカミだ」

「まあこいつらマジで似てるからわからないよなあ」


 よく頑張った、と肩を叩かれた。

 

「そもそも、なんでこんなことしてるの?」

「オオカミをとっ捕まえてイヌの獣人とこ連れてけば、金が貰えるらしいんだよ」

「まあ大抵はイヌの獣人持ってって追い返されるらしいけどな」


 お金目当てのようだ。アランが連れて行かれなくて良かったなあ。

 

「ノラちゃんが負けたことだし、俺らの飯代まけてくれよ」

「ダメです」


 間髪入れずに禁止する。一斉にブーイングが起こるがキッチンへ逃げればこちらのもの。そそくさと空になったお皿を持ち上げ避難する。

 

 仕事は大変だけれど、こうやってお客さんと軽口を交わすのは楽しくて、大好きな時間だ。

 

 ***


「今日は用事があるから、一緒に帰ることができない」


 いつものように一緒に仕事へ向かった朝。アランが申し訳なさそうにこう言った。アランと一緒に行き帰りを共にするようになってから早二ヶ月。初めてのことだった。驚きはしたけれど、「周りの様子に警戒」「危険だと感じたらすぐに逃げること」と口酸っぱく言われ、いつも通りのちょっと心配性なアランだった。

 結局「気をつけてねー」とだけ言って用事について尋ねることなく別れてしまった。


 現在、それを悔いている。

 

「……遅い」


 日が沈んでからもう随分と経った。夕暮れには帰ってくる。そう言っていたはずのアランは帰ってこないのだ。

 湯気の立っていた鍋はもうすっかり冷えきってしまい、シチューの表面には薄い膜が張り付いている。


 新聞を机に置き、そっとカーテンを開く。かすかにくもった窓をなぞるとひらりと舞う白。雪だ。

 どうやら、アランが帰ってこない間にもう冬が来てしまったらしい。


 体が冷えきってしまう前に窓から離れる。明日からは靴も上着もを替えなくてはいけない。そういえば、コートのボタン、とれたままだったような。心配になってきた。


「……アラン、寒くないかな」


 でも、一番の心配はアランだ。まさか、森に迷い込んではいないか、また川で溺れているのではないか、と嫌な想像が脳裏をよぎる。この時期の川は冷たい。雪が降り始めたなら、一部のところでは凍り始めているかもしれない。


 今からでも探しに行くべきだろうか。


 いや、私がいっても遭難者を増やすだけだ。はやる気持ちを抑えるように、新聞を再び開く。不景気、政治家のスキャンダル、イヌの獣人とオオカミの獣人で衝突、軍の派遣……。つい目が滑ってしまい読みにくい。右から左へと抜けていく。


 チリン、と小さな鈴の音が響いた。部屋の空気が僅かに揺れる。


「……アラン!」


 新聞を放り投げ、玄関へ走る。勢いよく扉を開いた先には真っ白なひとが立っていた。

 アランだ。アランが帰ってきた。


「おかえり」


 アランの肩に腕をまわした。コートは雪に覆われていて、触れたそばから体が冷えていく。でも、アランがここにいる、そう思うだけで体は熱を取り戻していく。


「……ただいま」

 

 背中が心地よい圧迫感に包まれる。アランが私を抱きしめてくれた。一歩、二歩。自然と足がアランに近づいていく。

 

「ごめんね、ずっと立たせっぱなしにしちゃった。ここは冷えるし、そろそろ部屋に入ろう」


 どれくらい抱きしめあっていただろうか。アランのコートの雪はすっかり溶けてしまっていた。名残惜しいと思いながらも、アランからそっと手を離す。

 

 今日はシチューを作ったよ、バゲットも買ったばかりで新しいよ。そんな取り留めのない話を口にする。

  

「……アラン、どうしたの?」

 

 微動だにしないアランに首を傾げる。アランは私にぎゅっと抱きついたまま離れない。寝ちゃったのかな? それとも疲れて動けないのかもしれない。手持ち無沙汰になった手で、ゆるゆると雪みたいなアランの髪を撫でてみる。

 

 不意に左肩が冷たくなった。


 ハッとしてアランを見つめる。アランは肩に顔を埋めたままで、表情を窺うことはできない。けれど、アランの大きな肩が小さく震えていることはすぐにわかった。

 胸が締め付けられる。


 アランはずっと静かだった。何も言わず、ただ私を抱きしめる。それに応えたくて、私もアランの背中に腕を回す。先ほどよりも力を込めて抱きしめた。


 


 夜が明けた。いつものように、アランと一緒に朝食を摂る。


「……実は、背中の傷が治ったんだ」


 一瞬、心臓がきゅっと縮んだ。けれど、アランの心配そうな、でもちょっとだけ期待のこもった表情に、思わず頬が緩む。

 

「良かった。それじゃあ、今日から雪かき手伝ってもらっちゃおうかな」


 目を細めながら微笑むと、アランは顔をほころばせた。伏せっていた耳はピンと立ち、後ろでは真っ白な尻尾がぶんぶんと大きく揺れている。

 私も尻尾が欲しいなあ。そう思いながら私もアランに負けないくらいにこりと微笑んでみた。

 

***


 閉店時間が近づいて、お客さんの数は大分まばらになってきた。最近は町の人だけでなく、国境防衛とかなんとかでやって来た軍人さんも来店されるので大忙しだ。

 ようやく一息つけるとホッとしていると、トンと肩を叩かれた。


「ノラちやん、追加でパイ二つ」


 肩を叩いたのは最近よく来店される軍人さんだ。右目から左頬にかけて刻まれた古傷がトレードマーク。いかめしい印象を受けるが、実際はフレンドリーな人だ。

 

「はい、パイね。さっきと同じでミート? それともカボチャにする?」

「カボチャを頼むよ。この時期になると無性に食いたくなるからな。……ところでノラちゃん。ちょっと聞きたいことあんだけどよお」


 いったん言葉を区切った軍人さんは、ひょいひょいと手招きをした。首を傾げつつ近づくと、耳に顔を寄せられる。

 

「あんたのイヌ、イヌじゃあねえよな?」

「え?」

 

 内緒話をするかのように告げられた驚きの言葉。おそらくアランについてのことだとは思うが、全く意味がわからない。アランがイヌじゃない、つまりアランはイヌの獣人ではない……?

 

(ウチ)にイヌが何匹もいるがな、あんなに怖え顔つきの奴は見たこともねえ」

「あら、顔は軍人さんの方がおっかないわ」

「確かにな! オレも鏡見るたび腰を抜かしそうになるよ。……だがな、ノラちゃん。アイツは本当にイヌの顔じゃねえ」

 

 軍人さんの表情はいつになく真剣だ。

 

「それじゃあキツネの獣人?」


 キツネの獣人を見たことがないが、北部の方で暮らしているとアランから聞いたことがある。北部は少し離れてはいるが、可能性としてはあり得る範囲だ。

 

「だといいな」


 軍人さんの表情は浮かない。一応同意はしてくれているが、本心ではキツネの獣人だと全く思っていないのだろう。となると、残るイヌの獣人とそっくりな獣人……。

 

 ──イヌの獣人の写真と、アランに似たオオカミの獣人だという写真。

 

 以前、お客さんに見せられた二枚の写真が脳内に鮮明に浮かび上がった。


「まさか、オ──」

「そういやあ、そろそろこの町にもイヌの奴らが来るみたいだぞ」


 遮るようにして言葉を被せられる。軍人さんがちらりと周囲を一瞥したのをみて、はっと口をつぐんだ。いくら他のお客さんと距離があるとはいえ、あまりにも危険。真実であれ虚偽であれ、アランを窮地に追い込むところだった。


「オレらにとっちゃあイヌもオオカミ(アイツら)も大差ないけどな、本人たちはすぐにわかるらしいぜ」


 軍人さんの言葉に静かに頷く。もし、万が一アランがオオカミだったら。私はアランを逃さなければならない。

 

「そうそう、イヌの話は明後日までは伏せといてくれ。オレが怒られちまう」


 まさかの情報漏洩。でも、私に大分責任があるので、きちんと伏せなくては。




「お疲れ様」


 店長に挨拶をして裏口から店を出ると、いつもの場所にアランが立っていた。「ありがとう」と告げている間にするりと鞄を奪われる。あ、と間抜けな声を漏らすとクスリとアランに笑われた。


 月に照らされた楓の葉がほんのりと赤い。アランに会ったのは去年の夏の終わり。もうすぐ一年が経とうとしているのか。


 ずっとこのままでいたい。


 いつの日からか繋ぐようになった手をぼんやりと見つめる。「オオカミなの?」とはどうしても聞けなかった。

 

***


 ── アイツは本当にイヌの顔じゃねえ


 ちらりと隣で皿洗いをしているアランの顔を覗き込む。

 凛々しい顔立ちだとは思うけれど、イヌかオオカミかなんて全くわからない。


 帰り道で、私はアランにオオカミかどうか聞くことはできなかった。それは夕食の時も、つい一秒前も同じ。

 この関係が終わってしまうかもしれない。

 ただただ怖いのだ。

 

 ……でも、もしアランが本当にオオカミの獣人だとして、それがバレてしまったら。アランはどうなるのだろうか。


 ふと、以前読んだ新聞の記事を思い出した。詳細は覚えていないけれど、酷く記憶に残っている一文がある。


──乱闘の末、オオカミ獣人一家その場で射殺


 ぶるりと体震えた。

 家にイヌや人間の軍人や保安官が乗り込んで来て、逃げようとするアランを銃で打つ。アランの真っ白な髪が真っ赤に染まって……。

 地獄のような光景が鮮明に浮かぶ。

 

「そういえば、今日お客さんが言ってたんだけどね」


 口は知らず知らずのうちに動いていた。


「あなたはイヌの獣人じゃないって」


 まずはアランの様子を伺ってみよう。大分踏み込みすぎたような気はするが、駆け引きは苦手なので、悪くない選択だと思いたい。

 皿洗いを継続しつつ、アランを観察する。

 

「そうか」

 

 冷静な返答。でも、ピクリと真っ白な耳が動いたのを見逃さなかった。ちらりと尻尾に視線をやるがこちらは毛先一つ動いていない。

 まだ、アランの気持ちは読み取れない。


「イヌの獣人じゃないなら、何の獣人だって?」


 しばらくの間沈黙が続いていると、アランが先に口を開いた。

 

「さあ。そこまでは言ってなかったけど。……オオカミの獣人って思っていたのかもね」


 オオカミ、と言ってみたが、アランは尻尾だけじゃなくて今度は耳も動かさない。

 これは、オオカミの獣人ではない、ということだろうか。

 

「もし、オオカミの獣人ならどうする?」

「……それは困るわね」

 

 イヌの獣人たちが来たらバレてしまうから、という言葉は飲み込んだ。約束は守らなくてはならない。

 

 お皿をちょうど洗い終えた。そういえばタオルを持ってきていない。

 取りに行かないと、と思い後ろを振り返ろうとする。

 でも、体はピクリとも動かなかった。

 

「……アラン?」

 

 後ろから腕を回され、身動きが取れない。心なしか、尻尾まで体に巻き付いているような。

 

「困ったら、どうする?」

 

 ゾクリ、と背筋に悪寒が走った。アランの声が今までにないほど低く冷たい。

 そろりと足を伸ばし距離を取ろうと試みる。でも、尻尾に足を絡め取られ、距離を取るどころかさらに縮められた。答えるまで離してくれないのだろうか。

 

「……お別れね」


 虚勢を張って答えたが、実際は「お別れ」なんて到底耐えられない。でも、アランが安全に生きるためには、これが一番の最適解のはずだ。イヌの獣人と手を結んでいる以上、私たちが一緒に暮らすことは叶わない。


「アラン、動けないからどいて」


 語気を強めて言えば、アランは僅かに力を緩めた。その隙をついてアランの腕から抜け出す。


「おやすみ」


 挨拶だけして寝室へ逃げる。アランの顔を見ることはできなかった。


「……もう、会えないのかな」


 真っ暗な部屋の中。枕に顔を埋め、ぽつりと呟く。アランの反応からして、アランがイヌの獣人ではないどころか、オオカミの獣人であることを確信してしまった。


 これからどうしよう。そういえば、明後日にイヌの軍人が来ると言っていた。明日、決断しないといけない。でも、決断するって言っても……。


 考えがまとまらないし、まとめたくない。現実から逃げるように、歪む視界を無理やり閉じた。



 

「ノラ、おはよう」

「……おはよう、アラン」


 夜はあっという間だった。アランは何も無かったかのように挨拶してくれる。夢だったのかなあ、なんて淡い期待が脳裏をよぎった。でも、アランの顔はいつになく固い。その表情に現実を突きつけられる。


 席につくと、いつものように温かな朝食が用意してあった。「ありがとう」と自分でも聞き落としてしまいそうなくらいの声量で告げ、紅茶で喉を潤す。


 苦い。感情が反映されているのかいつもの数倍。砂糖が欲しいなあと思いつつ、口直しにトーストを頬張る。こちらはいつも通り。


 食事の間、無言だった。アランの視線をずっと感じているが、私がずっと俯いていたためアランがどんな顔をしているのかわからない。


 会話がなかったからか、普段より早く朝食が終わった。お皿を片付けようと立ち上がる。


「……え?」


 いつの間にか、手が床についていた。

 え、どうして? なんで床に座っているの?

 立ち上がれない……?


 頭に疑問符ばかりが浮かぶ。でも、だんだん頭の中に霞がかかって思考が朧げになっていく。

 遠のく意識の中、深緑の瞳が弧を描いたのを見た。


***


 暖かい。柔らかくて、ふわふわで、ずっとここにいたい。


「……ベッド?」

 

 ギョッとして体を起こす。ここは一体どこだろう。

 くるりと部屋を見回してみる。まず、全体として薄暗く、随分と広い。本棚、机、棚、クローゼット。家具は一通り揃っている、けれど、異様に感じるほど整然としているからか生活感を感じない。

 

 これがゲストルームというものだろうか。

 感心しかけたけれど、今はそれどころではない。

 なぜ、私はここにいるのだろう。

 

 確か、アランと一緒にご飯を食べて、それから立ちあがろうとして……。


 記憶を手繰り寄せるけれど、転んだ後からの記憶がない。

 

 ……とりあえず、状況を確認しよう。

 そっとベッドから降り、よろけながらも窓のある場所へ向かう。恐る恐るカーテンに手を伸ばすと、ヒヤリとして冷たい。ゆっくり横へ引く。


「え、雪?」


 あたり一面真っ白だった。紅葉はおろか落ち葉の一つもない。つい先日、家の前の木が紅に染まったばかりだというのに。

 そっと手を伸ばし窓に触れてみる。冷たい。そして指に水が纏わりつく。


「その窓は開かない、諦めろ」


 聞き慣れた声。でも、何故ここで。

 

「アラン、どうして……」


 薄暗い空間にぼんやりとひとの姿が浮かんでいる。いつの間にか背後にアランが立っていた。


 記憶にある中で、私が最後に見たのは深緑。

 アランの瞳の色だ。

 

 ──私をここへ連れて来たのは、アランだ。

 

 確信すると同時に、ぞくりと全身に恐怖が走る。

 思わず後ずさる。けれど、すぐに窓枠にぶつかってしまった。

 逃げ場がない。


「まず、昨日の続きから始めよう。ノラ、君が言っていた通り僕はオオカミの獣人だ。君たち人間とは敵対関係にある。……困るよな?」


 アランは鋭い牙をちらりと覗かせ笑った。その皮肉げな表情に胸が苦しくなる。

 私は、ただアランに安全に、怯えることなく過ごしてほしい。でも、アランにこの気持ちは伝わっていない。


 震える唇を噛み締め、ゆっくりと呼吸する。

 アランの誤解を解かなければならない。

 冷静に、そう言い聞かせて口を開く。

 

「ええ,困るわ。だって人間の私とオオカミのあなたでは一緒にいることは叶わない。今すぐにでも別れて──」


 アランに安心して暮らしてほしい。そう言いたかったのに最後まで言うことはできなかった。

 

 強い力で床に押し付けられる。悲鳴をあげる間もなく絨毯の上に座らされ、身動きが取れない。

 呆然とアランを見上げる。

 

「言っただろう? 諦めろと。この窓は開かないし、部屋へ繋がるドア内側からはも鍵がないと開けられない。仮にこの家から脱出できたとしても、見ての通りここは雪で覆われている。その格好では逃げられない」


 アランが私の顎を持ち上げ、するりと喉を撫でた。力を込められているわけではないのに、声を出すことができない。

 アランはゆるりと目を細めた。深緑の瞳が弧を描く。


「それに、ここには人間もイヌも入ってこられない。いるのはオオカミだけだ。諦めてくれ」


 違う。私はアランから逃げたいわけではない。

 

「アラン、私はあなたに安全に、安心して過ごしてほしいだけなの! 明日にはイヌの軍人たちがやって来ると聞いたから、彼らにアランの正体がバレてしまったらどうしようと思って。私は、あなたに酷い目にあってほしくないの……!」


 アランの腕に縋り付く。アランは少しの間沈黙したのち、パチリと目を瞬かせた。

 

「……ノラは優しいな。僕のことを心配してくれていたのか」


 アランが嬉しそうに顔をほころばせる。

 説得の余地があるかもしれない。そう思い、アランの腕を掴む手に力を込める。

 

「だが、ノラを自由にするわけにはいかない」


 アランが片手で私の両腕を捕まえた。アランの腕を掴んでいたはずの手は逆にアランに捕えられる。腕を引き抜こうと試みるが、びくともしない。それどころか、尻尾で足を絡め取られる。

 

「一年前、外出中にイヌに襲撃された。そこで家族とはバラバラになり、深手を負った上に、川に突き落とされた」


 ……アランが私の家にやってきた時の話だ。

 思わず顔を上げる。

 

「暫くして傷が治った日。僕は襲撃に遭った場所を訪れた。もちろん、誰もいなかったが、家族がもうこの世にいないことを知らせるものはあった」


 家族がこの世にいないことを知らせるもの。それがどんなものなのか正確にはわからないけれど、その時のアランの心境は容易に想像できてしまう。

 きっと、アランの帰りが遅かった日のことだ。あの日、アランがどうして涙を流していたのか、今なら理解できてしまう。酷いことをされているのに、アランへの同情が湧いてくる。


「もう家族を失いたくない。ノラ、僕も同じだ。君に安全に暮らしてほしいんだ」


 同じ。その言葉に言い返すことができない。

 アランと私の願っていることは同じなのだ。

 

「ここは元々、僕が家族と住んでいた家だ。さっきも言った通り、ここ一帯は人間もイヌも足を踏み入れることができない。オオカミだけの安全地帯だ」


 アランの手が私の髪に触れた。いつか私がしたように、ゆっくりと撫で始める。

 

「ノラ、永遠にここで暮らしてくれ。危険な外には出ず、ずっと」 


 腕の圧迫感が消えた。でも、今度は痛くはないけれど、決して逃げ出すことのできない力で抱きしめられる。


 自由になった腕を上下させた。

 少しだけためらって、止まって。

 

 ゆっくりとアランの背中に腕を回した。


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― 新着の感想 ―
 ひ、ひぇぇ……。正体がバレてからのアランさんの行動が早すぎる……。即薬入れて即移動して即監禁……。めちゃくちゃスピード派で有能な感じが好き……。  とても面白かったです。特にアランさんのヤンデレ具合…
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