第8話 消失①
透明人間になった桜木宮佳((さくらぎみやか)が、僕の家に来てから三日が経った。
最初は悲鳴ばかり上げていた妹も、今ではすっかり慣れてしまった。
「こう君、それホントに桜木先輩いるの……?」
リビングのソファに座る妹が、不安そうに宙を見つめる。
「いるよ」
そう答えた瞬間、机の上に置いてあったみかんがふわっと浮いた。
「ひぃっ!?」
絢香が僕の背中に隠れる。
「だから怖がらせるなって」
「だって反応が面白いんだもの」
姿の見えない声が笑う。
最初は異様だった。服だけが歩き、食器だけが浮き、誰もいない場所から声が聞こえる生活。
でも、人間は慣れる生き物らしい。
問題は――慣れてしまうほど、彼女が普通に笑うようになっていたことだ。
○ ○ ○
昼過ぎ。
僕は桜木さんを連れて、近所の商店街を歩いていた。
彼女はパーカーを深く被っている。透明だから顔は見えないが、服だけ浮いて歩いているよりはマシだった。
「……ねぇ、本当に大丈夫なの?」
「何が?」
「私と一緒に歩いて。変な噂とか立たない?」
「今さら」
「今さらって何よ」
少し怒った声。
でも、その口調には前より力が戻っていた。
願いが叶った人間は、願いに飲まれていく。
姉で知ったことだ。
だから僕は、彼女が“消えたい”以外のことを考えられるように、なるべく普通に接していた。
笑って、怒って、呆れて。
普通の日常を思い出させるように。
パン屋の前を通ると、彼女が足を止める。
「……メロンパン」
「また?」
「女子高生は甘いものから逃げられないの」
「聞いたことない理論だな」
店に入る。
すると、奥で高校生くらいの男子数人が騒いでいた。
「あ、あれ船橋じゃね?」
「マジだ」
僕に気づいたらしい。
その瞬間。
「そういや桜木宮佳って、マジで消えたらしいな」
その名前に、隣の桜木さんの肩がぴくりと揺れた。
「自殺とかじゃね?」
「いや、男と逃げたって聞いた」
「てか、あのコラ画像見た? エグかったよな」
笑い声。
スマホを覗き込みながら、ニヤニヤしている。
僕は奥歯を噛んだ。
桜木宮佳が“消えたい”と願った理由。
水着のグラビア写真を加工され、下品ないかがわしい画像としてばら撒かれた。
最初は匿名掲示板だけだった。
でも、それはSNSに流れ、学校にも広がった。
男子達は面白半分で保存し、女子達は距離を取った。
本人の前では何も言わないくせに、裏では笑う。
“モデルだから仕方ない”。
そんな言葉で片付けられた。
そして彼女は、学校へ来なくなった。
「……行こ」
隣から、小さな声がした。
僕は無言で店を出る。
背後ではまだ笑い声が続いていた。
○ ○ ○
帰り道。
桜木さんは、ずっと黙っていた。
ミサンガ越しに伝わる手も、少し冷たい。
「……怒らないの?」
不意に、彼女が言った。
「何に?」
「さっきの人達」
「怒ってるよ」
「じゃあなんで何も言わなかったの」
「言ったところで消えないから」
コラ画像も、噂も、悪意も。
一度ネットに流れたものは、簡単には消えない。
それを、彼女自身が一番理解している。
「……私ね」
彼女がぽつりと呟く。
「最初は平気なフリしてたの」
風が吹く。
見えない彼女の声だけが夜道に響く。
「モデルやってれば、多少は仕方ないって。そう思おうとしてた」
でも、と続ける。
「学校の男子が笑ってるの見ちゃったの。私の写真見ながら」
その声は震えていた。
「知らない人じゃない。同じクラスの人。普通に話してた人。……それが、一番キツかった」
僕は何も言えなかった。
きっと、どんな慰めも薄っぺらい。
「だから思ったの。このまま全部消えればいいって。私も、写真も、記憶も」
その願いが、電車に拾われた。
○ ○ ○
夕方。
駅前の交差点で、突然彼女が立ち止まった。
ミサンガがぴん、と張る。
「……どうした?」
返事がない。
前方から、一人の女性が歩いてくる。
黒いスーツ姿。
長い髪。
そして、桜木さんが小さく呟いた。
「……お母さん」
彼女の母親。
同時に、マネージャーでもある人だった。
桜木さんは咄嗟に物陰へ隠れる。
母親はスマホで誰かと通話していた。
『はい……まだ見つかってません』
冷静な声。
『来週の撮影は厳しいかもしれませんね』
桜木さんの手が、小さく震える。
『スポンサーへの説明もしないと……本当に困ったわ』
困った。
その言葉だけがやけに重かった。
『今このタイミングでいなくなられるなんて』
娘が消えたことより。
モデル活動への影響。
撮影。
契約。
スケジュール。
そんな言葉ばかりが続く。
『せっかくここまで人気が出てきたのに』
その瞬間。
ミサンガが、僕の指から抜け落ちた。
「っ、桜木さん!?」
返事はない。
ただ、裸足で駆けていく足音だけが遠ざかっていく。
僕は慌てて追いかけた。
住宅街を抜ける。
夜道を走る。
「待って!!」
叫んでも、返事はない。
見えない彼女を追うのは、想像以上に難しかった。
曲がり角を抜けた瞬間。
足音が消える。
「……は?」
僕は立ち止まる。
静かだった。
風の音しか聞こえない。
いるはずなんだ。
すぐ近くに。
でも――気配がない。
まるで、最初から誰も存在していなかったみたいに。
嫌な汗が背中を流れる。
願いが強くなっている。
“消えたい”。
その願いが、彼女自身の存在を削っている。
「桜木さん!!」
叫ぶ。
返事はない。
もう一度叫ぶ。
それでも、何も返ってこない。
遠くで、踏切の警報音が鳴った。
ガタン、ゴトン――と。
あの電車が走る音が、夜の街に響いていた。




